2017年08月12日

密会の映画館

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今月初めに降ってわいた女優S・Y(50歳にして再ブレイク中!)と同世代医師とのW不倫疑惑。「スケバン刑事」世代の自分としては、最近妙にきれいになって往年の輝きを取り戻したかに見えたS・Yに少なからずときめくものを感じ、Eテレの「物理基礎」までチェックするようになっていたのだが、そんな矢先の週刊誌報道である。
「何でだよ〜」というガッカリ感とともに、ああ、ときめく相手がいると、やっぱり女性は美しくなるのね、と妙に納得するものもあった。

S・Yと医師は、果たして一線を越えたのか越えていないのか、みたいなことでワイドショーなどは騒いでいたようだが、実際どこまでの関係になっていたかは、これはもう本人同士にしかわからないことである。ただ、これは私見だが、男女とも五十代ともなると、その辺の行為そのものへの欲求は、若い人たちほど露骨ではなくなるのではないだろうか。私は現在54歳で噂の医師とほぼ同い年なのだが、二十代や三十代のころの性的リビドーの強さと現在のそれとを比較してみると、その低下は圧倒的で、同じ人間でどうしてこうも変わるのかと首を傾げることが多い。生物学的に言っても、生殖年齢を過ぎれば性欲が減退するのは自然の摂理である。異性を求める気持ちは死ぬまで継続すると思うが、加齢とともに、プラトニックなものに回帰していくような気がする。したがって今回の件も、たしかに「恋人つなぎ」はしたかも知れないけれど、それはいわば双方の精神的な結びつき、親愛の情を示すものであり、ただちにドロドロの愛欲行為に直結するものではないように思われるのだ。もちろん、だからといって、既婚者同士がこういう形で密会していいということにはならない。いや実際のところ、瞬発的、火遊び的な激しい一夜の情事よりも、長期間(関係は7年におよぶという報道もあり)の深く静かな精神的結合の方が、双方の夫婦関係に大きなダメージをもたらすものとなるだろう。

S・Yと医師とは、これからどうしていくつもりなのか? それぞれの家庭は今後どうなっていくのか? いろいろと興味は尽きないが、私自身は独身で結婚歴もないため、配偶者以外を好きになる気持ちも、配偶者に裏切られる気持ちもリアルに想像することができない。この問題について論じるのはこの辺にした方がよさそうだ。

さて、この報道で私が興味をそそられたのは、大きく取り沙汰された別宅マンションでの密会ではなく、7月26日夜の「横浜の映画館デート」である。週刊誌によれば「準新作映画を上映する小さな映画館」とのこと。記事には「横浜・伊勢佐木町裏の路地に到着」などと書かれていたため、当初ネットなどでは、この映画館は伊勢佐木町の横浜ニューテアトルではないか、とささやかれていた。しかし、横浜ニューテアトルではその時期、2人が鑑賞したという『光をくれた人』は上映されていない。また、映画を見終わったあと、S・Yが先に劇場の階段を下り、入口でチラシを物色していたと書かれているが、横浜ニューテアトルは劇場が地下にあるので、映画を見終わったあとは、階段を上らなくてはいけない。
以上の2点から、映画館が横浜ニューテアトルでないことは明白である。となるとどこか。その時期に『光をくれた人』を上映していた横浜の映画館はひとつだけだったので、答えはすぐにわかった。それは、『濱マイク』シリーズの舞台になったことでも知られる「横浜日劇」のお隣りで旧「横浜名画座」、すなわち現在のシネマ・ジャック&ベティである。そう当たりをつけた上で例の「恋人つなぎ」写真を見直すと、たしかにチラシ置き場も入口外観も、シネマ・ジャック&ベティ以外の何物でもない。実は、拙作『鎌倉アカデミア 青の時代』が10月にこの劇場で上映されることになっており、最近も何度かここを訪ねて打ち合わせをしているので、チラシ置き場や入り口周辺などは、かなり見慣れた風景なのであった(ちなみに前作『影たちの祭り』は横浜ニューテアトルで上映されている)。

というわけで、私は今、自分の映画が公開される映画館が、時のスキャンダルの舞台となった事実、というより、あのS・Yが、何度となく足を向ける劇場であったという事実に、少なからず胸をときめかせている(チラシを物色するということは、次もまた観に来る意志があるということだ。できるなら『鎌倉アカデミア 青の時代』も観に来て欲しい!)。
最後に宣伝ぽくなってしまい恐縮だが、渦中のS・Yもお忍びで利用する横浜の映画館シネマ・ジャック&ベティにて、『鎌倉アカデミア 青の時代』が10/7〜14に公開となります。横浜近辺の皆様、どうぞお誘い合わせの上ご来場ください。
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2017年07月23日

イベントレポート完成!

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早いもので、『鎌倉アカデミア 青の時代』の東京公開から2ヵ月が過ぎ、大阪シネ・ヌーヴォ神戸アートビレッジセンターでの上映も無事終了しました。上映もひと段落といったところですが、また9月以降、名古屋シネマテーク横浜シネマ・ジャック&ベティなどで公開していきますのでどうぞお楽しみに。また、9/23には小田原映画祭でも上映が予定されています。

さて、大変大変遅くなってしまいましたが、新宿K's cinemaで公開中連日行ったイベントの模様をレポートにまとめましたので、徒然にお読みいただければ幸いです。劇場で回していたビデオを元にして書いていますが、逐語起こしではなく、適宜編集が加わっていることをご了解ください。また、臨場感を出す意味もあり、イベントが行われた日付でアップしてあります。

『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(1)ゲスト:勝田久、加藤茂雄、岩内克己(5/20)
『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(2)ゲスト:川久保潔、若林一郎(5/21)
『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(3)ゲスト:高橋寛人(5/22)
『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(4)ゲスト:山口正介(5/23)
『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(5)ゲスト:澤田晴菜(5/24)
『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(6)ゲスト:田中じゅうこう(5/25)
『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(7)ゲスト:加藤茂雄、若林一郎(5/26)
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2017年07月18日

『現代コミクス版 ウルトラマン』刊行!(2)

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7/15、立派に完成した『現代コミクス版 ウルトラマン』が届いた。実に美しく仕上がっており、私の手元にあった原本の状態を考えると、よくここまで修復してくださったと感慨もひとしおである。

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落書きも最新技術によってきれいに修復

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巻末が欠落していた「バルタン星人」もきっちり最後まで

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そして奥付には、数々のレジェンドな方々の下に「資料協力」として名前が…

この記念すべき復刻版の刊行にあたり、私は上巻では9エピソードほぼすべて、下巻では7エピソード中2エピソード分の原本を提供したことになった。半世紀以上のキャリアを持つウルトラファンとしては少しばかり誇らしい気もするが、その反面、自宅の押入れで人知れず50年も眠っていた漫画本が、いきなりスポットライトを浴びせられたようで、いささかの戸惑いを覚えてもいる。ドドンゴとミイラ人間のエピソードではないが、「発掘なんかしないで、このまま一万年でも三万年でも眠らせてあげればよかったのに…」というフジ隊員の声が聞こえてくるようだ。ファンとかマニアの心理というのは、実に複雑で厄介なものである。

ではいよいよ、この井上英沖版ウルトラマンの「見どころ」を、テレビ版との対比を中心に紹介していこう。まだ刊行前なので、画像は原本のものを使い、あくまで参考程度に…(「ウルトラマン」各エピソードをひととおりご存知の方を対象に書いていますので細かいあらすじは省略しています。ご了承ください)。

まずはネロンガとバルタン星人。ウルトラマン誕生編となるベムラーではなく、この2体がコミカライズの最初になったのは、撮影の順番で台本や怪獣デザインなどの資料が回されてきたためだろう(ともに最初期の撮影で飯島敏宏監督作品)。

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ネロンガのストーリーはほぼテレビ版どおりだが、古井戸から続く洞窟の中で、フジ隊員とホシノ少年が、かつてネロンガを退治した村井強衛門の骸骨と書置きを発見したり(上画像参照)、その後二人がずぶ濡れで海から上がってきたり、といった具体的な場面があるため、テレビ版よりも状況がわかりやすい。

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また、第1話ということもあり、ウルトラマンがピンチになった時のナレーションがほぼフルバージョンで掲載されている(原本ではカラータイマーが「ガラータイマー」と誤記されているが、復刻版ではちゃんと訂正されていた)。

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バルタン星人の方はページ数の関係か、テレビ版をかなりコンパクトにした感じだが、随所に楳図かずお版(「少年マガジン」連載)の影響が見られる(水かきがついたバルタンの足の形状や、バルタンに憑依されるのがアラシではなくイデである点、など)。また、中盤では「二十億三千万人」とされていたバルタン星人の全人口が、終盤には「二十万人」と一気に減らされているのはご愛嬌か。

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ジラースは、テレビ版では戦闘シーンが変にコミカルで、ウルトラマンがジラースの襟巻きをもぎ取って、元のぬいぐるみがゴジラであることをわざわざばらすなど、本編の世界観に水を差すおふざけ演出が気になったが、井上版のコミックは全編シリアスムード。少年グラフの記者がライター型カメラで盗撮していたのを中村博士に気づかれてフィルムを抜かれるくだりも、テレビ版はロングショットのため何度見てもよくわからないが、この井上版ではばっちり理解できるし、後半、釣り人の撒いたカーバイト(毒)のためにジラースが正気を失い、主人であるはずの中村博士を殴打、そのために変装がはがれ二階堂教授の素顔が現れるという流れもテレビ版よりずっとスムーズだ。戦いの後の静謐なラストも哀れを誘う。

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藤尾毅のイラストも迫力満点!

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ギャンゴは、ほぼテレビ版と同じ流れだが、ギャンゴを操る男・鬼田が、テレビ版ではいかにも不審人物的だったのに対し(演じるは鎌倉アカデミア映画科出身の山本廉!)、このコミカライズではなかなかおしゃれな紳士になっているのが新鮮。ギャンゴが「ギャンゴ〜」と鳴くのもおかしい。

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また、ラストのシークエンスでハヤタのあとを追いかけるのは、テレビ版ではフジ隊員だが、こちらはホシノ少年になっている。この方が流れとしては自然だろう(最初の台本ではホシノ少年だったのが、俳優のスケジュールの都合でフジ隊員に変更になったらしい)。

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ドドンゴは、よみがえって暴れるミイラ人間の迫力ある描写に注目。テレビ版では怪奇性を重視した猿人系のビジュアルだったが、こちらはクラシカルな「ミイラ男」のいでたちで、怪力の巨人という位置づけ。こういうアレンジには作家の嗜好を感じて興味深い(一方、楳図かずお版ではテレビ版以上に怪奇性が強調されていた)。さらに、最初はミイラを生け捕りにすることを科特隊に要請していた岩本博士が、惨状を見兼ねて、最後にはみずからスパイダーショットでとどめを刺す描写も秀逸(テレビ版ではスパイダーを撃つのはアラシ)。撃ち殺した後の博士の悲痛な表情も印象に残る。

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ガボラは、暴風雨の中でその凶暴な姿を現わすシーンにはかなりのインパクトがあるものの、テレビと違い、最初から頭部のひれが開いているのが残念。閉じていたひれが開いて、まったく風貌が変わるというあの衝撃的な場面を漫画でも再現して欲しかった。

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ぺスターは、テレビ版ではムラマツのセリフに差し替えられオフになってしまった岩本博士の元セリフがきちんと書かれている点に注目。これがあった方が後のドラム缶投下の流れがしっくり来る。

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燃えさかる製油所の中でのペスターとウルトラマンとの激闘。ほぼ消火活動しかしなかったテレビのウルトラマンより、ずっと見ごたえのあるクライマックスとなっている。ラストのイデとキャップとのやりとりはほぼテレビと同じだが、井上版ではその後に、製油所の責任者から被害が少なかったという報告もなされ、読んでいるこちらもほっとする(テレビ版はどう見ても製油所全壊)。

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新バルタン星人については、以前に大変長い記事を書いたのでこちらを参照して欲しい。やはり井上版は、毛利博士がバルタンのために犠牲になったという事実をきちんと提示している点が高ポイント。重要なキャラを忘れたままで終わりのテレビ版はいささか消化不良な印象を受ける。

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ヒドラに関しても同様で、テレビ版では、ムトウアキラ少年を轢き逃げしたトラックの運転手がヒドラに襲われたり罰を受けたりする描写がなく(「自首して逮捕されましたよ」というハヤタのセリフがあるだけ)、また、楳図かずお版でもヒドラが襲うのは、ムトウ少年ではなく作品冒頭で和子という女の子を轢いたトラックの運転手で、ムトウ少年を死に追いやった直接の犯人をヒドラが襲って復讐を果たそうとする描写があるのは、この井上版だけである。そしてそのトラックを巡って、ヒドラと科特隊、さらにウルトラマンの繰り広げる追跡劇がドラマのクライマックスとなっている(これは一部、楳図版でも類似の描写があるが)。ウルトラマンはヒューマニストなので、相手が人殺しの運転手でも見殺しにはせず助けるのだが、そんなウルトラマンの足元に駆け寄ってくる運転手に対し、ウルトラマンは目を合わるのを拒むかのように、ヒドラの方に視線を移す。その悪人への厳しい態度が、幼少時の私などには大変印象的であった。そしてヒドラは、ウルトラマンの手にかかるまでもなく、ふたたび元の石像に戻っていく。ドラマとしての完成度は、テレビよりもこの井上版の方が高いように思われるのだが…。

テレビの「ウルトラマン」は、もろもろの特撮(飛行、爆破、戦闘など)に尺を使いすぎ、いささか収まりの悪い話が散見されるが、そういったドラマ的な「ほころび」を、この井上版コミカライズがうまく補っているケースが複数あることは注目に価するだろう。さらに言うなら、あまり再放送などなかったあの当時、子供たちはこの『現代コミクス』を再読三読していたので、井上版コミカライズこそが、ある時期までは、子供たちの脳内に刷り込まれた「ウルトラマンのオリジナルストーリー」そのものであった。かくいう私もそうであり、だから、ある程度大人になって再放送を見るようになった時、ペスターとウルトラマンの対決シーンがないことや、毛利博士が生死不明のまま忘れ去られていたこと、ムトウ少年の轢き逃げ犯が劇中でヒドラに襲われていないことなどに納得のいかないものを感じたのである。同様の印象を持たれた方は私以外にもきっといるはずで、井上版ウルトラマンのストーリーテリングの妙を、今回の復刻版で再確認していただければと思う。

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復刻版には収載されなかった「テレビウルトラマンニュース」(クリックで拡大)

※『現代コミクス版ウルトラマン』上巻は7月22日発売です!
posted by taku at 13:21| 特撮 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月17日

『現代コミクス版 ウルトラマン』刊行!(1)

今日は「ウルトラマン」放送開始51年。それにちなんで、久々のウルトラネタを。去年の50年の時には、いささか辛口の文章を書いてしまったので、今回はめでたい話題をご紹介したい。単行本化は不可能と思われていた『現代コミクス版 ウルトラマン』(漫画・井上英沖)の復刊ドットコムからの刊行である。

現代コミクス版 ウルトラマン 上 -
現代コミクス版 ウルトラマン 上

「ウルトラマン」放映の昭和41年から昭和42年当時、現代芸術社から子供向け月刊誌として刊行されていた雑誌『ウルトラマン』。毎号2本のコミカライズ作品を収録していたこの雑誌は、今では希少性も高く、マニア垂涎のシリーズとして知られています。今回は収録作のほとんどを手がける井上英沖による作品を上下2巻に分けて一気に収録!
上巻では、創刊号(昭和41年11月号)から昭和42年3月号までに掲載された「ネロンガ・バルタン星人・ジラース・ギャンゴ・ドドンゴ・ガボラ・ぺスター・新バルタン星人・ヒドラ」の回を収録。各号の巻頭作のカラー頁をかつての色調で再現し、当時の雰囲気を極力生かして再構成した復刻版です。

「ウルトラマン」放送当時のコミカライズといえば、『少年マガジン』(講談社)連載の楳図かずお版と『ぼくら』(同上)連載の一峰大二版、そして『現代コミクス』(現代芸術社)連載の井上英沖版の3つがあるが、最初の2つが何度も単行本化されているのに対し、この井上版は、出版社がつぶれて原稿は行方不明、おまけに掲載誌もあまり古本市場に出回らないという悪条件が重なり、これまでただの一度も単行本化されていない。それだけに、往年の特撮ファンにとって、かなり食指が動くアイテムであることは間違いないだろう。実はこの本の約3分の2は、私の持っていた『現代コミクス』が原本となっている。

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放送当時は、この『現代コミクス』を毎月購読している子供も相当数いたはずだが、その多くは成長過程で手離してしまったのだろう、50年が経った今では所有している人もほとんどなく、思った以上にレアな存在になっているようだ。しかし、断捨離などという今日的な行為とは無縁の私は、この『現代コミクス』を7冊ほど自宅の押入れに保管していたため、ちょっと自慢したい気持ちもあって、以前このブログで2回にわたって取り上げたのであった(こちらこちら)。

そうしたら昨年3月、突如としてこんなメッセージが送られてきた。

はじめまして。私は(株)復刊ドットコムの編集部に所属しております政田美加と申します。
(中略)弊社で、1966〜67年に「現代コミクス」や「TBSコミックス」で連載されていた井上英沖氏の『ウルトラマン』を単行本化できないかと、いま連載当時の雑誌を探しております。(中略)
大嶋様のブログで、いくつかお持ちであるとのことを発見し、何とか一時的に拝借できないかと連絡いたしました。ご興味いただけましたら、ぜひ、直接お目にかかって弊社についてのご説明などさせていただけたらと存じます。
何卒よろしくお願い申し上げます。

大伴昌司編の『怪獣ウルトラ図鑑』をはじめ、かなりマニアックな特撮系書籍を次々復刻している、あの復刊ドットコムさんから直々のご依頼である。かねてから、その業務内容や刊行物には並々ならぬ興味を抱いていたので、早速、担当の政田美加さんと連絡を取り、何冊かの『現代コミクス』を手に、大門にある会社をお訪ねした。

担当の政田さんは、もともとは某大手出版社の写真雑誌の編集部にいらした方で私とほぼ同世代。しばらく前に復刊ドットコムに移り、童話や少女マンガなどの復刻に携わったが、特撮関連の書籍は今回が初めてだという。
「ですから、いろいろ教えていただければと思いまして」
と丁重に頭を下げられ、こちらも思い切り恐縮してしまった。特撮ファンというのは、同性の前ではそれを吹聴することにさほど抵抗はないが、異性には、どこかでそれを隠しておきたいという心理が働くようで、だから、政田さんのような同年代の女性を前にして、ネロンガがどうだとかジラースがどうしたとか、あれこれ話すことに、最初のうちは気恥ずかしさを感じていたのだが、話を進めてみると、政田さん本人も女の子ながら「ウルトラマン」には本放送時にかなりハマっていたということで(特にジャミラの回は鮮烈に印象に残っているとのこと)、そうした気恥ずかしさもいつの間にか消え失せていた。

政田さんによれば、『現代コミクス』の復刊リクエストはそれなりの数寄せられているものの、原本は国会図書館にも収蔵されておらず、滅多に市場にも出ず、出たとしても相当の高額で、目下手をこまねいている状態なのだという。私は、まずは特撮マニアの一人として、今回の企画は興味深々であることを述べたが、同時に、コレクターとしては少なからず不安があることも正直に話した。というのは、私が所有している現代コミクスには、経年劣化がかなり進んでいるものもあり、ただでさえ傷みが激しいこの雑誌を、これ以上悲惨な状態にしたくなかったのである。

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「もしこれを原本として使うとしたら、スキャンするために一度バラバラにしなくちゃいけないんでしょ?」
最近目にすることの多い「自炊」と呼ばれる書籍解体作業のイメージを頭に浮かべながら、おそるおそる聞いてみた。すると政田さんいわく、
「いえ、大変貴重な御本なのは承知していますので、製本したままの状態で、できる限り開いてスキャンする形になります。それでもやはり、開き癖のようなものは残ってしまうと思うんですが、それをご了承いただけるようであれば…」
とのこと。バラさなくていいというのを聞いて少しほっとした。
「そうですか。でも、これは結構デリケートな問題ですので、返答には少しお時間をいただけるとありがたいです」
と、その話題は一旦棚上げにして、もうひとつの懸案事項に触れることにした。
「ブログではそれなりのコレクターのように書いてしまいましたが、実際、私は『現代コミクス』をすべて所有しているわけではありません。巻末が欠落しているものもありますし、だから仮に私が承諾したとしても、私の持っているものだけでは復刻は難しいと思います」
そう正直に現状を伝えたところ、
「もちろん、大嶋さんがお持ちでないものは、ほかのコレクターの方にも声をかけてみるつもりですし、ネットオークションや漫画図書館なども活用して、原本のコンプリートを目指すつもりです」
とのお答え。やはり餅は餅屋、これまでもさまざまな方法を駆使して原本を収集し、多くの復刻本を世に出してきたのだろう。

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「バルタン星人の巻」より。ウルトラマン登場以降のページが欠落している

しかし、まだもうひとつ、気がかりなことがあった。それは、マジックなどで思い切り落書きなどが書き込まれたページが少なからずあることで(当時3〜4歳の子供のやることだから仕方ない)、それがそのまま原本として使えるか、という心配だ。

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上下とも「ネロンガの巻」より。「ナゾーサマ」などと番組を超えた書き込みも…
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しかし、それに対しても政田さんは、
「最近はスキャンやレストア(修復)の技術が進んでいるので、相当コンディションの悪いものであっても、原本として使用することが可能なんです」
と、最近ご自身が担当された復刻書籍のページをめくりながら、丁寧に説明してくれた。それは大変きれいに印刷された少女マンガだったが、実際の原本(週刊誌)は紙が薄いため、裏写り(経年変化でインクが紙の裏側にまで染みてくること)がひどく、セリフなども読み取れない状態だったらしい。それを、専門スタッフが1コマ1コマ修復して、まるで生原稿から起こしたかのような鮮明な画像に仕上げたのだという。

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上は「ジラースの巻」、下は「ヒドラの巻」。下右ページのイラストは梶田達二
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政田さんは私が持参した『現代コミクス』を丁寧に見て、
「月刊誌ということもあって、通常の週刊誌なんかより厚めの紙を使っていますよね。そのおかげで裏写りもほとんどありませんし、これなら、それほど修復に手間をかけなくても、元の風合いを活かした、かなりいい感じ復刻本がでできるのではないかと思います」
とおっしゃる。私も、50年も幻のままだったコミックの復刻本の出来上がりをイメージして、何だかわくわくしてきた。そしてそんな話を聞かせてくれる政田さんの声のなんと甘く心地よいことか。編集者が説明しているというより、物語の中の登場人物がセリフを喋っているようなのだ。そしてその甘い声にはどこかで聞き覚えがあるなあ、と思っていたら、なんとなんと、政田さんは、あの増山江威子さんのお嬢さんだったのである! 増山さんといえば、「ルパン三世」の峰不二子バカボンのママキューティーハニーか、とにかく小中学生時代のわれわれをこぞって胸キュン(死語)させたお色気ボイスの持ち主。政田さんの声は、その増山さんの声とウリ2つなのだ。何しろ、あの山田康雄氏が家に電話をかけてきて政田さんが出ると、疑いもなく増山さんだと思っていきなり用件を話し出す、などということが一度ならずあったほどだという。親子というのは顔だけではなく、声も似るものだというのを初めて知ったが、とにかく、そんな不二子ちゃんボイスの政田さんがこの復刻本の担当者ということもあって、私は数日におよぶ沈思黙考の末、手持ちの原本を、謹んで復刊ドットコムにお預けすることに決めた。「そうすれば出版完了までの間、折に触れて不二子ちゃんボイスの政田さんの声を聞くことができる」という下心があったことは否定できない。実際、それからは大した用事がなくても、
「その後、進捗状況はどうですか」
などと、月に一度くらいは編集部に電話を入れ、時にはバカボンのママを、時には如月ハニーをイメージしつつ、政田さんと話をするのが密かな楽しみになっていた(半分以上は冗談です、すみません)。

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『現代コミクス ウルトラマン』は全部で12冊刊行されているが、そのうち3冊は岸本修や加来あきらの筆によるもので、井上英沖は執筆していない。今回は井上英沖作品のみの復刻ということなので(個人的には現代コミクスすべてを復刻して欲しいという思いもあるが)、井上が執筆した9冊の「現代コミクス」を入手すればコンプリートとなる(上表の黄色のもの)。一方、私が持っている『現代コミクス ウルトラマン』は赤丸で示した7冊だが、そのうち井上執筆本は、1966年11、12月号、1967年2〜4月号の5冊だけで、あと4冊足りない(本当は1月号や5〜7月号も持っていたのだが、中学生くらいの時に処分してしまったのだ!残念!)。

その4冊を探すこと数ヵ月。やがて5月号は、私同様、ご自身のブログに現代コミクスの記事を書いていた「しら」さんからの借用が決まり、そして6、7月号の2冊は、まんだらけで販売されていたものを政田さんが見つけて購入したということだったが、最後の1冊、ドドンゴとガボラが登場する1月号が、どうしても見つからない。原本が9冊すべて揃わなければ、会社から正式なGOサインは出ないのだという(ドラゴンボール的な世界観ですな)。そんな時、たまたまその1月号がヤフオクに出品されていて今日の夜まで、という知らせが政田さんから入り、私も急遽入札に参加、それなりに激しい競り合いの末、想定額より安い金額でめでたくゲットすることができた(金額が低めだったのは巻末の数ページが欠落していたため)。数日後、無事に現物が届いた時には、ついに全冊が揃った充足感で、年甲斐もなく小躍りして喜んだものである。

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ついに手に入れた1月号。これも昔は持っていたもの。数十年ぶりの再会!

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めでたく9冊がコンプリート。1月号を復刊ドットコムに届けた際に撮影

以上が昨年9月のことであり、その後、政田さんは円谷プロや「ウルトラマン」各エピソードの脚本家の方、もしくはその著作権継承者に許諾を取る作業に取りかかる。だが、それが思いのほか難航したようで、ウルトラマン放送開始50年にあたる昨年中の刊行は間に合わなかったが、満51年を数えるこの7月に、めでたく日の目を見ることとなった。周年事業に1年程度の遅れはつきものである。私もこの間「鎌倉アカデミア創立70周年記念」と銘打った映画を公開したが、実は創立70年は去年のことであった。また、かの渡辺宙明先生の卆寿記念コンサートも年をまたいで行われたし、このくらいは許容範囲であろう。政田さん、長丁場本当にお疲れ様でした。

そしてついに一昨日(7/15)、完成した『現代コミクス版 ウルトラマン』が手元に届いたのだが、果たしてその出来栄えは…?

つづく

※『現代コミクス版 ウルトラマン』上巻は7月22日発売です!
posted by taku at 18:31| 特撮 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年06月29日

日下武史さんを偲ぶ会

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昨日(6/28)、「日下武史さんを偲ぶ会」に行ってきた。場所は浜松町から徒歩7〜8分の自由劇場。日下さんが出演する舞台を観に何度も通った場所だ。まさかそこで、最後のお別れをすることになろうとは…。

駅から劇場への道を歩くうちに、明らかにそれとわかる劇団関係の参列者の姿が増えていく。彼ら彼女らが一様にフォーマルな葬儀のいでたちであることに大きな不安を覚えた。会の案内には「平服にてお越しくださいますよう」と書いてあったが、それは建前で、やはりこういう場にはそれにふさわしい格好をしてくるもの、というのが暗黙の了解なのか。案内の言葉を真に受けて、思い切り平服(カジュアルシャツとチノパン)で来てしまった私は、劇場すぐそばの、海岸通りを右に折れる道に進むのをためらい、一度は通りを直進し、そのまま帰ってしまおうとした。
「こんなラフな格好で参列するのは、故人を偲ぶにはふさわしくないのでは? 何より、おごそかな会の調和を乱してしまうのでは?」
通りを行き過ぎたあと、道の片隅で立ち止まって5分弱あれこれ考えたが、やはりせっかく現地まで来たのだからと思い直し、外に出していたカジュアルシャツをチノパンの中に入れ直して劇場に向かった。

すでに一般参列時間の14時を回り、入り口は大勢の参列者でにぎわっている。とは言うものの、一般参列者は少なめで、大半が劇団もしくは芸能界関係者のように見えた。芳名用紙に記入し、それを受付で3ッ折のしおりと引き換えてもらって劇場の中へ。ステージ中央には花で形づくられた劇団四季の竪琴マーク、そしてそれに包み込まれるように、日下さんのご尊影が飾られていた。
参列者は一時客席で待機し、順番が来たら献花するという流れ。会場にはありし日の日下さんの名セリフの数々が流れている。10分弱くらいで順番が来て、白いカーネーションを手渡され、4人1組の列を作って献花。カーネーションを手向け、日下さんに最後のお別れをする。合掌の時間は、1分弱くらいだっただろうか。同じ列の人たちと無言のうちに呼吸を計り、そろって一礼し献花台を離れる(こういう「間合いを読む」という行為は日本人の得意技のように思う)。

こうして、おおやけの場でお別れをすませてしまうと、いよいよ日下さんが遠くに行ってしまったという感じがして、あらためて淋しさがこみあげる。

日下さんの思い出については、先月、こちらに書いたとおりだが、『火星のわが家』に出ていただいた1998年からわずか20年足らずで、劇団四季をめぐる状況も、ずいぶん変わってしまったものだと思う。あの年、四季はJR東日本の広大な敷地に「首都圏初の常設専用劇場」として、四季劇場[春]と[秋](場所は自由劇場の並び)を華々しく開場。同じころ、地方都市にも常設劇場が次々オープンし、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いであった。

それから19年。[春]と[秋]は、竹芝エリア再開発のためという理由で一時休館となり、一方、創立以来劇団のトップを務めた浅利慶太氏は、2014年に経営者の座を離れ新事務所を設立、そして、もうひとりの創立メンバー日下さんは、四季に籍を置いたまま、異国の地でひっそりと旅立った。

世の中に常なるものはないとはよく言われることだが、時の流れは静かで、そして残酷である。

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日下武史さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
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2017年05月27日

『鎌倉アカデミア 青の時代』東京公開終了

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映画『鎌倉アカデミア 青の時代』、新宿K's cinemaでの公開は、昨日(5/26)、盛況のうちに終了しました。

時期はずれの猛暑(1〜3日目)や雨模様(最終日)にも関わらず、ご来場くださいました多くのお客様(鎌倉アカデミアゆかりの方も大勢いらっしゃいました)、ご登壇いただいたゲストの方々、そしてスタッフ不足を細やかな配慮でカバーしてくださったK's cinemaの皆様に、心より御礼申し上げます。

おかげさまで、これまで劇場公開した映画の中で、もっとも「作ってよかった」と感じた作品になりました。これも、『鎌倉アカデミア 青の時代』という作品を取り巻くすべての方々の熱い思いの賜物です。本当にありがとうございました。

新宿での公開は終わりましたが、大阪では6/9まで上映、その後、神戸、名古屋、横浜とまだまだ公開は続きます。これからも、どうぞよろしくお願いいたします。

■『鎌倉アカデミア 青の時代』上映情報
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2017年05月26日

『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(7)

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東京公開最終日は、朝からあいにくの雨。外出には不向きな天候でしたが、それでも、ありがたいことに多くのお客様にご来場いただきました。

この日のゲストは、初日にもいらした演劇科1期生・加藤茂雄さんと、2日めにお越しの同2期生・若林一郎さんです。お二人とも2回めの登壇、そして最終日ということもあって、いつにもましてフリートークの度合いが強くなりました。

加藤さんは改めて映画をご覧になって、
「鎌倉アカデミアが二松學舎と合併するプランがあったという話のところで思い出したんだけど、1949年にアカデミアがやっていた二松學舎での夜間講座に、女優の左幸子さんが通っていたんだよね、後からわかったことなんだけど。つまり、同じ時代に同じ先生から授業を受けていたわけ。僕は左さんとは増村保造監督の『曽根崎心中』(1976)で共演しているんだけど、その時にはそういう話は一切出なかった。お互いそういう経歴だってことを知らなかったからね。もしそれがわかっていたら、いろいろ語り合えただろうに、今思うと残念だったね」
とのこと。実は『曽根崎心中』は、ごく最近DVDで観たのですが、たしかに左幸子(宇崎竜童の母親役)と加藤さん(宇崎竜童の本家の主人役)とはがっつり共演しています(さらに、別の場面で映画科1期の山本廉も出演)。気がつかないうちに、アカデミア出身者同士が同じ現場で仕事をしていた、というのも、少なからずあったことかも知れません。

また、加藤さんは初日の舞台挨拶の時から右手の指に包帯を巻いていたので、それについてお尋ねしたところ、ボタンエビを網からはずす仕事をしている時、爪の間に菌が入って、それがなかなか治らない、とのこと。92歳の「現役漁師」ならではの名誉(?)の負傷といえるでしょう。前の日も網をやってきた、とのことだったので、
「ずばり、その元気の源、健康の秘訣は?」
とお聞きしたところ、
「いや、いろいろ病気はしてるんですよ。大腸がんもやったし、脳梗塞もやったし。その時診てもらったお医者さんがよかったのかね。今でも『オレの薬飲んでたからこの程度ですんだ』とかお医者に言われるけど、実際、10年経ったけどどっちも再発してないからね。余計なものが体から去っていって、身が軽くなったからかな」
と、いろいろと意外なお答え。
「長生きの秘訣はよく笑うこと、と言われますけど、加藤さん、いつも楽しそうにしてらっしゃって、よく笑うじゃないですか。そういうのが体にいい影響を与えるんじゃないでしょうか。私も、加藤さんと会って話すと元気が出ますよ」
私は、思ったままを話しました。実際、人間の一生というのは、いいことと悪いことがだいたい半々で起こるようになっているようですが、それを楽観的に受け取るか、悲観的に受け取るかで、人生そのものが大きく変わってくるように思います。そして、この日のゲスト2人は、いずれも人生を楽観的に、ポジティブに受け取って今日までほがらかに生きてきた方のように見受けられました。

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「若林さんも、加藤さんに負けず劣らず、実際には割と逆境続きだったのかも知れませんが、いつも明るくお元気でいらっしゃいますよね」
と、若林さんに水を向けると、
「最初にアカデミアを受験した時に、『演劇では喰えませんよ』と言われてますからね。最初から逆境は覚悟の上でしたけれど、そう言われて入ったアカデミアのおかげで、はしなくも一生文筆で喰うことができました」
と、人生に希望が持てる嬉しい話が。

日本でテレビ放送が始まったのは1953年ですが、そのころ嘱託として日本テレビの開局に関わっていた青江舜二郎(私の父です)に呼ばれて、試験放送用番組の台本を何本も書いたそうです(ドラマではなく、「パトカーの1日」などというフィルム撮りのルポルタージュ作品だったとのこと)。
また、劇団かかし座がアカデミアの演劇サークル「小熊座」から生まれたというのは前述したとおりですが、NHKのテレビ放送開始直後、連続影絵劇の台本を書いていた前田武彦さんがほかの仕事で忙しくなったため、アカデミアつながりで、若林さんがその後任として台本を書くことになりました(それから60余年、今でもかかし座には台本を提供されています)。
この2つのことから、放送業界にコネクションができ、以来、若林さんは多くのテレビ台本を手がけることになるのですが、さらに、前進座の文芸部長だった津上忠さん(演劇科1期生)の勧めで、青少年劇場(児童劇)の台本にも手を染めるようになります。まさに、アカデミアのご縁で花開いた作家人生と言っていいでしょう。

奇しくも、この日は津上忠さんのご息女も会場にいらしており、加藤さんからは、当時だいぶ年長だった津上さんのことを、当時16歳だったいずみたくさんの母親が、学校の先生だと思って丁重に挨拶したという逸話などが披露されました。

他にも加藤さんからは、在学中に2回、演劇の巡回公演で大日本紡績工場(ユニチカ)の工場を回り、その売り上げが学校の運営資金に充てられたという、映画では語られなかったエピソードなどが披露されました。その公演に加わった学生は、ギャラこそなかったものの、学費免除という特典があったそうで、加藤さんは2、3年生の時には学費を払わなかったとのこと。まさに、既成の大学の枠には収まらない学校であったことがしのばれます。

最後に若林さんが、
「光明寺で私の人生は始まりました。入学の時に見た、光明寺の桜は忘れられません。この映画で、その光景にもう一度出会えたことを本当に嬉しく思います」
としめくくられました。

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2017年05月25日

『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(6)

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公開6日めのゲストは、『ムーランルージュの青春』監督の田中じゅうこうさん。実は、『ムーラン〜』こそ、『鎌倉アカデミア 青の時代』を完成へと導いてくれた大切な里程標(マイルストーン)であり、それを作った田中さんはまさに大恩人、どうしてもトークゲストとしてお呼びしたい人物なのでした。やっとそれが実現するとあってでしょうか、劇場に向かう小田急線の中で、『ムーラン〜』のパンフレットをめくっているうち、今から6年前のことがいろいろ頭をよぎり、自然と涙があふれてとまらなくなってしまいました(これは恥ずかしい!)。

当然、トークの最初は、そのあたりの事情を説明するところからスタート。田中さんとの出会いは、2011年秋、『ムーランルージュの青春』が、この新宿K's cinemaで公開され、私が一観客として観たことから始まりました。普段は映画を観ても、いちいちそれをブログに書くなどほとんどしない私ですが、この作品はいろいろ感じるところがあって ブログに感想をしたためたところ、次の日、私のyoutubeチャンネルに田中さんから書き込みがありました。そこからメールのやりとりが始まって、忘れもしない11月10日、かつてムーランルージュ新宿座があった場所(その時には国際劇場というピンク映画館、現在は建て替え中で、パチンコとドン・キホーテになる予定)の前で初めてお会いし、初対面にも関わらず、喫茶店から飲み屋へと場所を移しつつ、終電時刻まで話に花を咲かせたのでした。

「『ムーランルージュの青春』には、アカデミア演劇科1期生の津上忠さんがインタビュー出演していて、明日待子さんにまつわる印象的なお話をされるんですよね。それで、津上さんは僕もアカデミアのつながりで何度もお会いしたことがあって……というような話を最初に会った時にしましたよね。田中さんは、鎌倉アカデミアのことは以前からご存じでしたか?」
と、私が質問すると、
「名前だけはね。『ムーラン〜』の公開のプロモーションで永六輔さんのラジオ番組にゲストで出たんですけど、その時永さんが『日本のテレビの礎を作ったのはムーラン、アカデミア、トリロー(三木鶏郎)グループだ』っておっしゃったんです。それで、鎌倉アカデミアっていう学校のことを知ったんですけど、ムーランにしても、アカデミアにしても、そこの出身者が全盛期のテレビや映画に実に多く関わっている。そういう作品にわれわれの世代は大変な刺激を受けたわけですよ。たとえば『全員集合』なんかにしても、コントがあって、歌があって、という構成は、まんまムーランの舞台でやってたことですからね。そういう、自分たちが影響を受けた作品のルーツを探るっていうのは面白いですよ」
とのお答え。
「そういうお考えをお持ちだったからでしょうね。田中さんは、僕が、鎌倉アカデミアのドキュメンタリーを作ろうかどうしようか、結構迷ってる、みたいなことを言ったら、『絶対やった方がいい』と。それで、すごく具体的なアドバイスを、精神的なところから実務的なところまで、本当に丁寧にお話ししてくださったんですよ」

私は、その時に田中さんがお話になった内容のメモ(翌日、記憶を頼りに書き起こしたもの)を持参してご本人に見せました。
「こんなこと話したっけ? ほとんど覚えてないなあ」
とのことでしたが、ノンフィクションは初めてだった私が、『影たちの祭り』『鎌倉アカデミア〜』という2本の記録映画を世に出すことができたのは、間違いなく田中さんのアドバイスのおかげです。
その内容の一部を紹介しますと、

●5人くらい会って話を聞けば、だいたいの輪郭というか、それ以降の方向性がおのずと見えてくる(トータル20人に会った)。

●何度か困ったと思った時があったが、そういう時には決まって救いの手が差し伸べられる。「ムーラン」というと、ありがたいことに関係者が手を貸してくれる。

●『ムーラン〜』は家族のつながりの映画。親から子、孫への継承…

●記録映画を撮ることで、生身の人間を観察する。それは、劇映画の演出にも必ず活かされる。ベンダースもトリュフォーも、劇映画の合間にノンフィクションを撮っている。

最初のアドバイスにしたがい、2012年以降、どうにか5人の関係者にインタビューを行ったところ、たしかに、おおよその方向性が見えたような感じがして、そして、最終的には『ムーランルージュの青春』と同じ20人の方のインタビューを行うことになりました。また、舞台の再現映像やゆかりの場所への再訪、というシークエンスを入れたのも、明らかに『ムーランルージュの青春』の影響です。困った時には、「アカデミア」のことなら、と何人もの人が助け船を出してくれましたし(劇団かかし座の方たちがいい例)、ご本人だけでなく、家族の方にも協力をしていただきました。

ちなみに、『鎌倉アカデミア〜』は、創立60周年記念祭をビデオで記録することから始まっており、そのあとのことはかなり漠然としていたのですが、『ムーランルージュの青春』もまた、最初から映画にするつもりはなかったそうです。もともとは『カッパノボル』という劇映画(かつてムーランの芸人だった老人を主役にしたドラマ)を作るための取材で記録映像を回していたところ、美術の中村さんという元ムーランのスタッフが亡くなり、その葬儀の席で関係者から、「若い監督(田中さんのこと)が今、ムーランの映画を作っています」と紹介をされたため、後に引けなくなったのだとか。一方こちらのアカデミアも、伝える会のスタッフから、「いつかは撮影しているものをまとめて発表するんでしょ?」などと粉をかけられ、いつまでもお茶を濁すわけにもいかなくなって奮起したような経緯があります。年長者のアドバイスによって、やらざるを得なくなったところは、この映画と似ているように思いました。

トークの後半では、かなりのシニア世代の方々にインタビューした経験を持つ者同士ならではの苦労話も出ました。
「インタビューでは、基本的にみなさんすごく若々しく喋ってて、80〜90代のおじいちゃんおばあちゃんていう感じがしないんですよね。若いころの話をしているうちに、心もそのころに戻るからなんでしょうけど、その一方で、やっぱり年齢相応というか、話が噛み合わなかったり、ちょっと認知症が入ってて、同じ話が反復しちゃうとか、そういう方はいませんでしたか?」
と私が聞くと、
「ああ、そういうのはどうしてもね。喫茶店に入ると、カメラを回す前からいきなり喋りだすとか。もう話したくて仕方ないんですよね。『あ、ちょっと待ってください』って、そういう時はこっちが慌てちゃうんだけど。あとはそう、若干認知症が入ってて、一定の時間でループしちゃう人はいましたね。でも、そういうのは仕方ないですよ。ループするまでで使える話がひとつでもふたつでもあればいいわけで、あとは、こっちが聴きたい話が出るまではひらすら待つ」
田中さんはどっしり構えた感じの方なので、あまり現場での動揺はなかったのかも知れませんが、せっかちな私は、つい、自分が答えて欲しい方向に話を誘導しようとしたことが一度ならずあった気がして、反省しきりでした。
また、
「テレビのドキュメンタリーなんかは基本的に二段構えなんですよ。最初に、リサーチャーと言われるスタッフが話を聞きにいって、それをもとに構成台本を作って、それから改めてクルーを連れてインタビューを撮りにいく。でも、『ムーラン〜』なんかでは、2回以上インタビューしたこともあるんだけど、すべて最初のインタビューを使っています。やっぱり人間てのは、一番伝えたいことを最初に喋りますからね」
と、大変納得のいくお話もうかがいました。私の場合も、インタビューはすべて「一期一会」の精神で臨み、ナビゲーター的な役割の加藤茂雄さん以外、複数回の収録は行っていません。録音状態が悪かったりして、撮り直したい箇所もいくつかありましたが、「もう一度あの話をしてください」とお願いしたとしても、どうしても鮮度が落ちるように思えたからです。

トークの最後には、今年の2月に亡くなった鈴木清順さんのお話も出ました。最初に新宿で会った時から、「清順さんのインタビューは、多少の困難はあったとしても絶対に撮った方がいい。清順さんが出てるのと出てないのとでは、作品の厚みが全然違うから」と力説していた田中さんにとっては、やはりひときわ印象的な場面だったようです。

「清順さんについては、それほど裏技を使ったわけではなくて、とにかく、ダメもとで交渉して、そしたら、今の奥様が電話で、『このごろは相手がNHKでも朝日新聞でも一切お断りしています』とおっしゃるんで、『それじゃあしょうがないですね』と、あっさり引き下がったんですが、それから数時間後にメールが来て、「短い時間なら受けてもいいと申してます」と書いてあったんですぐにまた電話して、その3日後くらいにご自宅にうかがったんです。どういうご心境の変化だったかは、もはや永遠の謎なんですが」
と、私が2015年当時のことを思い起こすと、田中さんは、
「やはり、通った期間は短くても、清順さんにとってそれだけアカデミアは特別な存在だったんだと思いますよ」
と推測され、続けて、
「アカデミアの箴言に『幾何学を学ばざるもの…』っていうのがあるでしょう。幾何学っていうのは数学ですよ、数学っていうのはすなわちお金。これは僕の解釈ですけど、その幾何学っていうのが、清順さんの場合、奥さんだったんじゃないかな? ずいぶん年上の奥さんで、アカデミアの同級生ですよね。その奥さんが、新宿で『かくれんぼ』っていうバーをやって、清順さんの不遇時代(日活を解雇されてからの約10年)を支えたんですよ。そのころ調布に住んでた清順さんは毎日車で送り迎えをして…。もしも、清順さんがあの奥さんにアカデミアで会っていなければ、『ツィゴイネルワイゼン』も『ピストルオペラ』もなかったかも知れない」
うーん。そこまでは考えつきませんでした。でも、おしどり夫婦として知られた清順さんと最初の奥様との出会いの場所が、鎌倉アカデミアなのは紛れもない事実です。
「奥様のどこに魅かれたのですか?」
という私の質問に、
「まあ、いい女だったんだよね」
とはにかみながら答えていた笑顔が目に浮かびます。
清順さんは、昨年、映画の完成をご報告した時にはお元気だったのに、年末から体調を崩され、公開を待たずに亡くなるという、大変残念な結果となりました。ほかにもインタビューに答えてくださった数人のアカデミア出身者が亡くなっていますし、それはムーラン関係者も同様だそうです。でも、記録された姿と声は、そのありし日を確実に後世に伝えてくれます。映像の持つ大きな力というべきでしょう。

最後に田中さんは、
「最近ムーランについて若い人が興味を持って本を出したり(映画公開後5冊の関連本が出版)、今年の半年だけで3本の芝居が上演されたりしています。記録映画はある意味テキストで、次の世代の人の研究材料になればいいと思っています。これは『ムーラン〜』公開時(2011年)のことですが、海城学園の中学生がムーラン研究をしたいと申し出たので、ムーランの元踊り子さんを紹介して、彼らがインタビューをして、学校の機関紙に特集記事を掲載しました。80歳の元踊り子さんの話を14歳が聞いたわけで、70年後、その子が84歳になった時、『俺はムーランの踊り子の話を聞いたことがある』と人に言える。ムーランは2011年の時点で生誕80年なので、70+80=150年前の話をできる人ができたということです。それは、まるで北斎の晩年(1840年代)に14歳の子どもが話を聞いているとして、その子が80歳代になる大正時代に「俺は北斎に会った」と言える。もし大正生まれの森繁久彌さんや明日待子さんがまたそのおじいさんに会っていると、『私は、北斎に会ったという人に北斎の話を聞いた』と言える。さらに80年。70+80+80=230年後の僕らが森繁さんや明日さんから、北斎の実像を聞くことができるんです。これはすごいことです。こういう風に、若い人に伝えてゆくことが、一つの文化の継承になるということです」
と、大変に含蓄に富んだ言葉でトークをしめくってくださいました。
昔のことを語るのは、一見回顧的なようですが、実は、文化を次世代に伝え、よき未来へとつなげていく、大変建設的な作業なのです。田中さんは、『ムーラン〜』の取材テープは、ゆくゆくは早稲田の演劇博物館に寄贈するつもりで、後世の資料になればいい、とのこと。苦労して集めた資料や取材テープというのは、とかく自分の手元に囲い込みたいものですが、田中さんはもっと視野を広くお持ちで、公共性ということを常に念頭に置かれており、その姿勢には、深く頭を垂れるばかりです。

トーク終了後は、田中さん、そしてそのパートナーであるカメラマンの本吉修さんと恒例の「らんぶる」でロングトーク。本吉さんとは帰りも同じ小田急線だったのですが、清順さんとは何本もテレビの仕事でご一緒したとのことで、ロケ先でのエピソードもいろいろとうかがいました。やはり広いようで狭い業界です。
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2017年05月24日

『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(5)

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今日のトークゲストは劇団かかし座の女優・澤田晴菜さん。映画中の再現映像で「春の目ざめ」のヒロイン・ヴェンドラ役を演じてくれた方です。映画の中でも紹介していますが、劇団かかし座というのは鎌倉アカデミアの演劇サークル「小熊座」から生まれた劇団です。そういうご縁のある劇団と、どうにかコラボできないものかとあれこれ考え、再現映像出演という形でそれが実現したのでした。

ここまでのイベントゲストを振り返ると、初日は90代3人、2日めは80代2人、3、4日めが60代と、全員私より年上でしかも男性です。連日結構緊張してトークに臨んでいました。それが5日めにして一気に若返り、舞台に現れたのは20代の麗しい女性! 砂漠でオアシスを見つけた心境というと大げさですが、ここに来て少し肩の力が抜けた気がしました。
実はこの日は偶然、1948年当時、実際の「春の目ざめ」でヴェンドラを演じた演劇科2期生のMさんが観客席にいらしていて、新旧2人のヴェンドラが同じ場所にいるという、ちょっと不思議なめぐり合わせとなりました。

まずは、この日初めて映画全体を観た感想をうかがいました。澤田さんも2年前までは大学生だったので、当時のアカデミアの学生たちとほぼ同年代です。
「鎌倉アカデミアの名前や概略は知っていたんですが、実際に映像を見て、当事者の方たちのお話をうかがって、ああ、そういうことだったのか、と、初めて全体像がつかめました。楽しい学校だったんだろうなあ、今もしあったら自分も通ってみたかったなあ、などと考えながら観ました」

澤田さんとのトークは、撮影時のことに移ります。2016年1月に再現映像の撮影が正式に決まり、同じ月に劇団内でオーディションが行われたこと。若手俳優約10人に「父帰る」と「春の目ざめ」の抜粋台本が渡され、その時澤田さんは、どちらかといえば「父帰る」のおたね(長女)より「春の目ざめ」のヴェンドラをやりたいと思ったこと、などが語られました。

そしてヴェンドラ役に決まった澤田さんは、最初の稽古の日に、「春の目ざめ」の原作台本を読んでみたい、と私に申し出ました。抜粋台本は数ページですが、原作台本は全部上演すれば3時間近くになる大変長い戯曲です。私自身、かなりしんどい思いをしながら読んだのですが、澤田さんはそれをきっちり読了して稽古に臨みました。

「原作台本をお読みになって、どうでした」
「そうですね。難しい言葉がいっぱいでてきて、時代を感じましたけど、19世紀のドイツの、キリスト教がベースにある物の考え方とか、面白かったですね」

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「春の目ざめ」のワンシーン

たしかに「春の目ざめ」は、キリスト教にもとづく禁欲主義的な倫理観が根底にあり、その大人がふりかざす倫理観を、早熟な青年・メルヒオールが壊していく、ある種の反逆劇であるといえます(そしてヴェンドラは、その犠牲になってしまう)。そして、もう1本の「父帰る」も、家父長的な倫理観に対する長男の反逆を描いたもので、そういった「レジスタンス演劇」を、鎌倉アカデミアの学生が上演したというのは、そのころの時代背景を考え合わせると大変興味深いことに思えます。

「ヴェンドラを演じるに当たって苦心したことってありますか?」
「通常の舞台ではお芝居を通しで(最初から最後まで)演じることが当たり前で、ハイライトシーンだけを、「抜き」で演じるという経験はほとんどなかったので、役作りには苦労しました。演じられていない部分も演じたという前提で、その先を演じなければいけないので、その手助けに、原作を何度も読み返して感情を追いかけたりして…」
メルヒオールを演じた賀來俊一郎さんは劇団の数年先輩で、アドバイスしあうことが多かったとのこと。実際の「春の目ざめ」でも、メルヒオール役はMさんの1年先輩の増見利清さん(俳優座の演出家)でした。
「抜粋台本じゃなくて、オリジナルの台本を読みながら、ここがわからない、ここってどう思うのかな、なんて、全体の稽古が終わった後もスタジオに残って、夜の9時過ぎまで賀來さんと意見交換をしてました。原作台本には、それぞれの親との関係なんかも描かれているので、それをふまえて、うちの親はどうだとか、そういう突っ込んだ話もしましたね」
そんな役の掘り下げまでしていたことは、初めて聞きました。でも、その甲斐あってか、奥行きのあるヒロイン像が出来上がったように思います。もちろん、それは他のキャラクターにも当てはまるでしょう。
この映画における再現映像は、当時演じられた舞台の「本番の様子」を再現したものなので、ある程度芝居がこなれていなくてはなりません。初々しさよりは、ある程度定まった感じ、が必要だと思い、通常の再現映像とは比較にならないくらい時間をかけました。「父帰る」「春の目ざめ」ともに本読み1日、立ち稽古2日、収録(本番)1日という贅沢なスケジュールで、お忙しい中、それだけの時間を捻出してくださった劇団かかし座のみなさんには、この場を借りて、心から御礼を申し上げたいと思います。

「かかし座さんの演目は大半が児童劇なので、当然ラブシーンはありませんよね。ですから澤田さんもそういうシーンは初体験だったはずで、多少ドキドキしたのでは?」
とうかがったところ、
「でも、芝居なので」と、当時の学生さんとまったく同じお答え。
「どうなるんだろう、ちゃんとできるかな、と最初は不安に思ったりしたんですけど、本番の時は冷静に、芝居としてやれましたね」
とのこと。もちろん、メルヒオール役の賀來さんの好リードもあってのことでしょうが…。
「ただ、干草場のシーンでは、藁(わら)が服についてかゆかったですね。動き回ると藁が粉になって舞うから咳込んだりもして…」
「当時を知る方の話によると、実際の公演では、藁は再現映像よりずっと多くて、役者の体が隠れるくらいの量だったそうです」
「それじゃあ、もっと大変だったかも知れませんね」

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撮影終了後にスタッフ・キャストで記念撮影(2016年2月13日)

話題はふたたび、鎌倉アカデミアの校風のことに。
「自由な学校で、毎日楽しかったんだろうと思います。『みんなで作っていく』ということができたのは、時代も環境もよかったからなんでしょうね。私の通っていたのは4年制の女子大の音楽学部で、先生方の指導も親身だったし、実技試験なんかでは男子がいないので、男性役はプロの先生が演じたりして、かなり先生と生徒の関係は親密だったと思うんですけど、やっぱり鎌倉アカデミアとは違いますよね。お寺を間借りした学校、というこじんまりした感じだから可能だったような気がします。規模が大きくなりすぎちゃうと難しいんじゃないでしょうか」

また、ご自身が在籍するかかし座の原点が鎌倉アカデミアの演劇サークル「小熊座」であることに触れ、
「現実には、お客様の要望、観る側の要望で演目が決まってしまうことが多いと思うんですけど、小熊座では学生たちが、自分たちの演じたいものを選んでどんどんお客様の前で演じていた、というお話が印象的でした。でも、そういうのが演劇の原点なのかも知れないですね」
としめくくられました。そういえば、かかし座代表の後藤圭さんも、「まず観る側が楽しんでないとね」とことあるごとにおっしゃっていますが、それはそのまま、鎌倉アカデミアで培われた精神なのかも知れません。

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ロビーで記念写真を撮ると、澤田さんはバタバタと高円寺に移動。これから知人のバレエの公演を観て、その後はすぐ 岐阜県下呂の劇団宿舎に戻るそうです。かかし座は2008年から下呂温泉合掌村の「しらさぎ座」で、影絵劇のレギュラー公演を行っており、澤田さんもこの春からそのメンバーとしてほとんど下呂に駐在しているのですが、今日(水曜)は休演日のため、新宿に来ることができたのです。そして明日から28日まで、また1日3回のステージをこなすとのこと。連日本当にお疲れ様です。また、「しらさぎ座」のほかのメンバーの方々も、お忙しいところご来場ありがとうございました!(今回の写真画像は、井ノ上舜雪さん、 細田多希さんにご提供いただきました)
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2017年05月23日

『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(4)

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今日のゲストは、作家・山口瞳(文学科1期生)の長男でご自身も作家の山口正介さん。山口さんは、ご両親が鎌倉アカデミア出身だっただけでなく、祖父の山口正雄も学校の専務理事(父兄会長)を務めており、先代、先々代がともにアカデミアと深く関わっていらっしゃいます。もちろん、その当時はまだ生まれていないので、詳しいことは知らないとのことでしたが、ファミリーヒストリーともからみあう学校のことだけに、映画も興味深くご覧になったようでした。

祖父・山口正雄については、
「この映画ではずいぶん好人物のように描かれていたけれど、自分の印象では、あのころ学校の理事を引き受けるなんていうのは、『学校経営は儲かる』という計算があってのことだったと思います。若いころから、会社を作ってはつぶし、大儲けしては大損して、という浮き沈みを繰り返していた人のようですから。起業家気質というのかな。だから、自分の子供たちの通う学校だから一肌脱ごうというだけではなく、そろばん勘定も大いにあって引き受けたんだと思いますよ。それが映画では、ずいぶんいい人のように描かれていて、ありがたかったんですが」
とのこと。正雄の破天荒な生き方については、息子の山口瞳が『家族(ファミリー)』『父の晩年』など複数の著書に書き残しています。当時近所だった川端康成から、妻の葬式を理由に借金をして、それを踏み倒したなどという豪快なエピソードも『小説・吉野秀雄先生』の「隣人・川端康成」に出てきますので、ご興味のある方は是非そちらをお読みいただければと思います。

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山口瞳が鎌倉アカデミア時代を綴った『小説・吉野秀雄先生』(1969年・文藝春秋)

そんな山口正雄ですが、正介さんが物心ついたころから中学生くらいまで、同じ家に住んでいたそうです。当時は糖尿病で隠居の身だったそうですが、そのころの思い出をうかがったところ、
「じいさんは映画にも登場した『停電灯』の開発もそうだけど、発明好きでね。ある時、布にスプレーするとその布が燃えなくなる、という薬品を開発したっていうんですよ。それで僕が瓶に入ってた液体をハンカチにつけて、火をつけたら普通に燃えちゃったんで、『おじいちゃんダメだ、これ燃えちゃうよ』って言ったら、何とも不機嫌そうな顔をしてましたね(会場内爆笑)」
停電灯も、アイデアは素晴しかったのに思わぬところで失敗して実用化には至らず、それが災いして山口家は鎌倉の邸宅から去っていくことになります。正雄はどこかツメの甘い性格だったのかも知れません。しかし、戦前の発明では、ドラム缶に車輪をつけて、移動式の簡単なガソリンスタンドを作ったことがあり、これは成功例だったそうです。

正雄のことで思いがけず話がふくらんでしまったので、そろそろ肝心のご両親のお話しも、と水を向けたのですが、正介さんいわく、
「親父は鎌倉アカデミア時代のことを喋るのは嫌みたいでしたね。おふくろと恋愛していたころのことが恥ずかしかったんでしょう。直接話を聞いた記憶はほとんどありません。文章に書くには書くんですがね。一方の母親は、青春の思い出ですから、60周年記念祭や伝える会で鎌倉に行くと、光明寺のそのへんにパパがいたのよ、とか、あそこが最初にデートした場所で、とか、息子としては聞きたくないですよね。もういい加減にしてくれ、って感じで…」
やはり男性は基本的にこういう話題にはシャイなようで、瞳・治子夫妻のなれそめについては、前述の『小説・吉野秀雄先生』や、山口治子さんの『瞳さんと』をひもとくのがいいように思いました。その一方、
「この映画の冒頭に、60周年記念祭のトークの映像が出てきますけど、考えてみると、これがうちの母親の、最後の映像記録なんですよね」
と、2011年に亡くなられた治子さんに思いを馳せるひと幕も。

また、正介さんは最近、『山口瞳電子全集』刊行のため、その全著作にあらためて目を通していた際、生前未発表作品の中に、鎌倉大学における初代学校長解任劇の内情が書かれているものを見つけたということで、その部分のコピーを持参して朗読してくださいました(文中では「湘南大学校」と記述)。

トークではほかにも、瞳・治子夫妻が1949年に結婚した時の仲人は三枝博音校長が務めたこと、引出物はバナナで、それを三枝校長が珍しがった、そのくらい物のない時代であったこと、瞳が一時期、出版社(国土社)に勤めたのも、三枝校長がそこの顧問だったからということ、等々、三枝校長との浅からざる交遊エピソードが披瀝されました。瞳は1948年の秋以降はアカデミアに通っていませんが、その後も吉野秀雄や高見順、三枝校長らとの行き来は続いており、山口瞳にとっても鎌倉アカデミアがまさに、作家としての「原点」であったことがうかがえました。

ここからは余談ですが、正介さんは作家の家の一人息子、私も、知名度はぐんと落ちますが、やはり同じように劇作家の一人息子なので、うまく言えませんが、「作家」という大変やっかいな人種の家族として生きる者に共通の「匂い」のようなものが強く感じられ、お会いするのはまだ2回めなのに、勝手に、大いに親近感を抱いてしまいました。親の個性が強烈だと、次の代はいろいろ苦労するものです。ね、正介さん。
posted by taku at 19:56| 鎌倉アカデミア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする