2012年05月18日

狂った空

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朝起きて窓を開け、
その日が晴れなら「晴れモード」で、
曇りなら「曇りモード」で、
雨なら「雨モード」で一日を生きようと
自分の心身を「セット」する。
それが少し前までの自分の日常だった。

しかし最近の予測不可能な空模様では
それさえままならない。
今日なども「晴れモード」でスタートしたのに、
数時間後には黒雲がにわかに空を覆い、
いきなり滝のような雨。
少ししたらまた何ごともなかったような青空が…。

一日中「リセット」「リセット」の連続で、
それだけで体が参ってしまう。

この狂った空(例年になく強い寒気の影響だというが)は、
一体いつまで続くのだろう?

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2012年04月02日

新年度

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今日から新年度。

昼間の日差しはさすがに春めいて来ましたが、朝晩の冷え込みは真冬とあまり変わりません。
例年なら咲き始めているはずの隣家の桜も、今年はまだほとんどが固いつぼみのまま。
いつにも増して、長く寒く感じられた冬でした。

さて、雑誌『三田評論』(慶應義塾大学出版会)の4月号に「『聴く』ということ」というコラムを書かせていただきました。「映画作家」という呼称は「映画監督」とどう違うのか、といった話を枕に、三田キャンパス時代のある講義の思い出を綴っています。
4年生の最後で2つも単位を落とし、追試を受けてお情けでどうにか卒業させてもらった劣等生が、歴史ある大学の機関誌に、こうして文章を発表する日が来ようとは…(思えば卒業したのは今年と同じ辰年=1988年春のことでした)。

つぼみの桜を見やりつつ、夢のように過ぎ去った20数年間を回顧すると、やはり感慨深いものがあります。
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2012年03月10日

ある再会

昨夜、「凍える鏡」の医事監修をしていただいた精神科医の熊谷一朗さんと久しぶりに新橋で会い、日付けが変わろうとする時間まで、しみじみと楽しく杯を重ねた。

熊谷さんとは10年を超す付き合いだが、お目にかかるのは一昨年の秋以来で、あの大震災以降初めてだ。本当は昨年の春にも東京で会う約束をしており、3月の10日にはメールと電話でやり取りもしている。当時、熊谷さんは福島県いわき市でクリニックの開業準備に追われていて、その時のメールには「ホームページを作りましたのでよかったら見てやって下さい」との一文があった。早速サイトにアクセスしてみると、クリニックは上棟を終え、順調に完成に近づいている様子が見て取れた。
「そうか。約20年にわたって東京や沖縄の病院で勤務医として経験を積んで来た彼が、ついに生まれ故郷で自らの医院を構え、それまでのノウハウを地域のために役立てる時を迎えたのだなあ」
と、同年代(四十代中盤)の友人としては感慨深いものがあったが、素直に祝福の言葉を述べるのが少々照れ臭くもあり、そのあとの電話では、
「サイトのプロフィール写真、思いっ切りカメラ目線ですよねえ」
などと茶化すようなことを言ってしまった。そしてクリニックはゴールデンウイーク明けに開業だと聞いたので、その前に東京に出て来た時、ぜひ一度飲みましょうと約束して電話を切ったのだった。

その翌日、東日本大震災発生。あの揺れがどうにか収まった後、テレビをつけて福島の惨状を知った私は、とっさに熊谷さんのことを思った。だが電話もつながらずメールの返信もなく、安否が確認できないままの数日が過ぎた。
どうやら無事であるという短いメールを受け取ったのが3月の16日。しかし、いわき全体が甚大な被害を受ける中、熊谷さんのクリニックの開業も大幅に延期されてしまう。当時のブログには、一見穏やかだが、瓦礫がいたるところに散らばった海の写真に「言葉は、ない」の一文が添えられ、喪失感が並のものでなかったことが伝わってくる。

それから季節がひと回りし、やっと昨日、念願の再会となった。テレビやネットなどで被災地の爪跡の深さは嫌というほど見せられてきたから、熊谷さんも変わり果てた故郷でかなり落ち込んでいるのではないかと想像していたのだが、予想はいい意味で裏切られた。彼はやつれるどころか、以前よりも元気そうだったのである。聞けば、昨年12月に開業したクリニックは、ほとんど宣伝もなく始めたというのに、連日患者さんがつめかけ、夜の9時過ぎまで診察が続いているという。あの震災で心を病む人は明らかに増えているのに、現地での医師の数が足りていないのだから、当然の結果といえるだろう。まして彼は、ドクターであるにも関わらず、臨床心理士なみに患者との面談を丁寧に行うので、診察時間はどんどん後ろに延びていくのだ。
「患者はありがたいでしょうけど、それじゃあ熊谷さん自身が参ってしまうんじゃないですか」
と私は不安を口にしたが、彼はそんな生活を続けることに躊躇がないようだった。「今はこの道を突き進む以外にない」と、はっきり言葉にしたわけではなかったが、彼の瞳はそう語っているように感じられた。

そんな同世代の医師の姿を見て、生物に備わっているであろう「たくましさ」というものを思った。有史以来、いくつもの天変地災に翻弄されながら、人類がいまだに種を絶やさず生き永らえているのも、そうした「たくましさ」の発露によるものではないのか――。

東日本大震災から、明日でちょうど1年になる。
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2012年02月17日

真冬の秋田にて

※前回からの続きです。表彰式以降の秋田での出来事を書きます。

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7日は、雪ならぬ雨がぱらつく中、秋田市新屋にお住まいの彫刻家・小柳力(つとむ)さんのご自宅とアトリエを訪問。小柳さんは井川町長・齋藤正寧さんの秋田高校の同期生ということで、齋藤町長を通してアポイントを取っていたのでした。電話では何度かお話をしたことがありましたが、お目にかかるのはこの日が初めて。でも、大変気さくな人柄で、作品製作のことや人生の転機になった芸大内地留学時のエピソードなどを、まるで絵物語のように朗々と語って聞かせて下さいました。そして新屋と由利本荘にあるアトリエに置かれた、膨大な作品群! これらこそまさに小柳さんの生涯を何より雄弁に伝えるモニュメントといえるでしょう。

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この丸太からどんな作品が生まれ出るのか…

その創作意欲は70歳を過ぎてもいささかも衰えることなく、
「ずっと同じじゃあ面白くないんで、10年単位で作風を変えてきています」
「いつも、次はどういうものを作ろうかなと考えているんです」
「作りながら遊び、遊びながら作っているんですよ」
「やっぱり作っている時が一番楽しいですね」
と目を輝かせながら微笑むその表情に打たれました。これこそがまさに表現者です。小柳さんに比べると、自分などは常にせせこましく前後の状況をうかがい、何かを計算し、素直に創作に身を遊ばせるということがほとんどありません。クリエイティブな部分に精力を傾注する以前に、関係調整で疲れ果ててしまうことが、特に最近は多いような気がします。映像製作は工程が複雑だからと言ってしまえばそれまでですが、やはりファインアートはいい! と改めて強く感じさせられた1日でした。

それにしても、何故私は唐突に彫刻家の方のところをお訪ねしたのでしょう? そのわけは…、いつか明らかになる日もくるでしょう。

8日は、まず10時に県立図書館を訪問し、この日から始まる「第37回秋田県芸術選奨受賞記念展」の様子を拝見。受賞者の作品や演奏会などのパネルをはじめ、文学資料館に寄託した青江舜二郎関連の資料も、かなりの点数が飾られているので、秋田市周辺の方は是非県立図書館まで足をお運び下さい(27日まで。入場無料です)。

続いて、県庁の文化政策課を訪ね、一昨日の御礼を兼ねて職員の方たちにご挨拶。そこから再度県立図書館に歩いて戻り(この時ものすごい強風に遭遇。山王ブリザードと言われているそうな)、館長、広報班長、そして教育庁の生涯学習課長と歓談。広報班長は2008年の10月に話が決まった資料寄託の件以来、秋田県と私とのいわばパイプライン役で、一昨日の表彰式にも館長とともに出席、壇上の様子も写真に収めてくれました(前回のブログ画像がそれ)。また生涯学習課長は鈴木重子さんのファンで、「火星のわが家」のDVDも持っているということもあり、思いがけず話がはずみました。

昼食後は一旦ホテルに戻り、18時から秋田県演劇団体連盟副理事長と会見。その後も、秋田に来た時には時間が合えば飲んでいる心易い知人と杯を交わすなど、交流の時間は夜更けまで続きました。秋田名物の中でも、いささかマニアックといえる「八ッ目鍋」を初めて食したのもこの夜の収穫と言えるでしょう(かなりクセの強い味でしたが、元気は出そうでした)。

9日はちょっとくたびれたのでオフモード。駅前のフォンテ7階でやっている「油谷これくしょん」展(19日まで)を見たり、4泊したEホテルからVホテルに宿泊の場を移してリフレッシュを計ったり…。それにしても、フォンテ7階の展示場周辺スペースが、すっかりシニアの社交場となっていたのにはびっくりしました。半年ほど前に訪ねた時には、もっと閑散とした感じだったのですが…。同じフロアのファミレスも、グループ&おひとり様のシニアで溢れかえっていて、若い世代はパラパラ、という感じ。昼下がりのこうした情景は、首都圏周辺も地方都市もまったく変わりません。時代というのは、いかんともしがたいのでしょう。

10日は14時に秋田県立秋田明徳館高等学校を訪問。校長の安藤巳智子さんは井川町のご出身で春風社社長の三浦衛さんとは旧知の間柄。その関係で昨年来何度かお目にかかっており、一度学校を見学にうかがいたいと以前からお話していたのですが、それがやっと現実になったというわけです。この学校は定時制と通信制から成り、不登校生のサポートや特別支援教育にも力を入れているとのこと。私は数年前から発達障害当事者をめぐる不登校や就労などの問題について調べていたので、この学校のスタイルや教育方針には教えられるところが多々ありました。

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約2万羽の折鶴で作った「絆」の文字の前で安藤校長と。
3月上旬まで秋田明徳館高校1階で展示された後、福島県立郡山萌世高校に寄贈される予定


実はこの日の夜、噂に高い刈和野の大綱引きを見物するつもりだったのですが、長旅の疲れが徐々に出てきたのと、夕方からの冷え込みに恐れをなし、19時過ぎまで葛藤しつつも、結局断念してしまいました。今回の秋田滞在を11日までと決めたのはこの大綱のためだったのに、と思うといささか自分が不甲斐なくなります(でも、インフルエンザも流行っているし、今回は安全を優先してということで…)。

11日、ついに秋田を離れる日です。朝から、晴れたかと思うと吹雪いたりで、まったく天候が安定しません。そんな中、駅前のホテルから歩いて15分ほどの武塙林太郎さんのお宅に、受賞報告のご挨拶にうかがいました。雪道のため思っていたより時間がかかり、10時の予定が10分ちょっとの遅刻(ご心配かけたようで申し訳ないです)。事前のお電話ではあまりお具合がよくないとうかがっていたのですが、奥様ともども、大変に暖かく迎えて下さいました。
林太郎さんはあの武塙三山のご長男で、秋田大学の名誉教授。秋田蘭画の研究がご専門です。しかし齢(よわい)85歳を超えられた現在は、
「以前は専門でやっていた蘭画を、今は趣味で、楽しんで見ています。趣味で見ていると、仕事でやっていた時には気づかなかった、新たな発見があるんです」
とのこと。実に含蓄に富んだお言葉です。そして先日お会いした小柳さんと同じく、「楽しい」という言葉が出てきたのに驚きました。かの孔子も、
「之を知る者は、之を好む者に如かず。之を好む者は、之を楽しむ者に如かず」(物事を知識として知っているだけの者は、愛好する者におよばない。さらに、愛好する者は、楽しんでやっている者におよばない)
と言っています。ひたむきにおのれの世界を紡いでいけば、いつかは自然とその境地に達するものなのでしょうか。いずれにしても、自分にはまだまだ道は遠いようです。

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武塙邸の客間に飾られた三山直筆の画

ほかにも、林太郎さんと早稲田大学時代に同窓だったという劇作家の野口達二(青江の最初の妻の従姉弟)のことや、福田豊四郎画伯が三山の死に臨んで示した比肩するものなき友情など、話は思いがけず多岐にわたり、このままだと帰りの飛行機に乗り遅れる危険があると判断、あわてて同宅を辞し、空港行きのリムジンバスに飛び乗りました。もっと余裕のあるスケジュールでお訪ねするべきだったと後悔しきりです。

さて、搭乗をうながすアナウンスが流れる秋田空港の出発ロビーには、小柳力さんの大作「蕗(ふき)のヴィーナスU」が飾られていました。
「みんな飛行機に乗ることに気を取られているせいか、なかなか見ていただけないんです」
と奥様が残念そうにおっしゃっていたのが印象に残っていたので、しみじみながめてみました。両手を伸ばし、まるで天を仰ぎ見るような乙女の姿です。彫刻のポーズとしてはかなり珍しいもので、ここからも小柳さんの創意が伝わってきます。そんな乙女の姿に見送られ、ふたたび雪に閉ざされようとしている秋田に別れを告げました。

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こうして6拍7日の旅を振り返ってみますと、2008年の10月まではまったく未知の土地であった秋田と、わずか3年半足らずのうちにずいぶん多くのご縁が生まれたものだと驚きます。自分だけではない、その前の世代からの「つながり」というものの重さを改めて感じさせられた旅でした。これからもこうしたありがたいご縁が続いていくこと、そしてそのご縁がいつかひと巡りして、青江の「ふるさと秋田」に何かしらのご恩返しができる日が来ることを切に願っています。

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2012年02月16日

表彰式のことなど

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秋田県芸術選奨の表彰式のため、2月5日から秋田に行ってきました。以下はそのご報告です。帰京後、旅の疲れがドッと出たため、更新が大幅に遅れましたことをお詫びいたします。

2月5日はいわゆる移動日。今年の日本海側は記録的な大雪なので、万一飛行機が欠航になることも考えて、前日に秋田入りしました。結果的には、この日と次の日は雪もほとんど降らず、気温も高く天候はきわめて安定していたのですが…。13時前に定刻どおり秋田空港に到着し、その後は定宿のEホテルにチェックインして、あとはリラックスタイム。でも、報道されているとおり、雪の量はかなりのものでした。空港からホテルまでのルートを見ても、あちこちで道の両端に寄せた雪が小山や壁のようになっており、あきらかに道幅を狭めています。ここまで積み重なってしまうと、春先になってもなかなか解け切らないんじゃないでしょうか。

翌6日、13時過ぎに県の正庁へ。この正庁というのは、少し離れたところに「第二」庁舎というのがあるので、それに対しての「正」とのこと。控え室に入るとすでに他の受賞者の方の多くは到着されており、神妙にその時を待っておられました。こういう式典はほとんど免疫がないため、どうにも気持ちの落ち着かない小1時間でありました。

14時、表彰式開始。始まってしまえば、知事式辞、選考経過と受賞者紹介…と、タイムテーブルどおりに式は粛々と進みます。一番緊張したのは、やはり佐竹敬久知事から賞状と賞碑を頂戴する時でしょうか。「賞碑は見た目より重たいので、しっかりお持ち下さい」などと担当者の方から注意を受けていたので、それが気にかかってしまったというのもあります。でもどうやら失態をさらすことはなく、無事に授与は終了しました。

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続いて祝賀演奏が行われたのですが、その曲が何とショパンの「英雄ポロネーズ」!
思わず「うわッ!」と声が出そうになりました。というのはこの「英雄ポロネーズ」、私が中学2年生の時に毎週のめりこんで見ていたドラマ「赤い激流」(1977年・TBS系)の、いわばキーになる曲だったからです。ここでその内容について書き始めると止まらなくなりそうなので、詳しくはこちらこちらのページを見ていただくとして、とにかく演奏の間じゅう、ドラマのいろいろなシーンが次々頭に浮かんでくるのには参りました。
「もしかしたらこの会場の中にも、同じような思いで演奏を聴いていらっしゃる方がいるのでは?」などと思い、こっそり客席をながめ回してみたのですが、人の頭の中までは透けて見えないので、残念ながらよくわかりませんでした。もっとも、後からよくよく考えてみれば、秋田県には当時も今もTBS系列のテレビ局がないので、あの番組は放送されていなかったのかも知れません。
演奏をした三浦天道(みうらたかみち)さんは、なんと中学1年生。「赤い激流」を見ていた当時の私より若いというのにも驚きました。それで、あの難しい曲をあれだけ巧みに、情熱的に弾きこなすとは…。さすが県青少年音楽コンクールでグランプリを受賞しただけのことはあります。「赤い激流」の大沢武(宇津井健)がこの演奏を聴いたなら間違いなく、「たかみちくん、次は毎朝音楽コンクールで英雄ポロネーズを弾くんだッ!」とスカウトに来ることでしょう。

□「赤い激流」オープニング(youtube)

話を戻します(どうも赤いシリーズネタは後を引くなあ…)。その後は受賞者それぞれが2〜3分程度のあいさつをしたのですが、どの方も、ほとんど時間をオーバーすることなく、簡潔に、それでいて大変素直に喜びを言葉にしていらしたことが印象的でした。
私は、「青江舜二郎は、評伝のタイトルにもあるように『異端の劇作家』として生き、正当に評価されることなく世を去った人ですが、没後30年になろうという時に故郷の秋田からこのような賞(ふるさと文化賞)をいただき、再検証の機運が生まれてきたことは、作家の家族としては大変喜こばしいことです。それと同時に、私自身も表現活動をしている立場ですので、この賞をいただいたことをきっかけとして、青江が秋田を題材にして描いた戯曲をベースにした映画を作れないものかと日々画策しています。それが実現の際には、県内の皆様のご助力を賜れれば幸いです」と述べさせていただきました。

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最後は会場全体で県民歌を斉唱。秋田県外の人間である私は、最近までこの歌をまったく知りませんでした。しかし2月の初めに県から届いた「式典次第」の最後に「県民歌斉唱」との記載があったため、「それなら、この機会に」と思い、出発前日にネットでダウンロードした音声ファイルをICレコーダーに入れ、行きの飛行機や就寝前のベッドなどで繰り返し聞いた結果、何とか2番まで歌詞を見ずに歌うことができました(別に見ながらでもよかったのですが)。
歌い込むほどに味わいが増す深みのあるメロディーは、「かなりあ」「浜辺の歌」などの作曲で知られる成田為三によるもの。作詞は倉田政嗣で、1番の「山水皆これ詩の国秋田」2番の「黄金と実りて豊けき秋田」など、秋田の風土や風物を見事に「詩」に昇華していると感じました。

表彰式の後は、評伝連載などでお世話になった秋田魁新報の文化部にご挨拶。現部長、元部長、さらに連載時の担当だった現整理部長とも久しぶりにお会いし、受賞のご報告をしました。皆さん賞碑を目にするのは初めてらしく、「ほう、これが…」とそれぞれにユニークな反応を示していらっしゃいました。

これで表彰式関連の出来事はすべて終わったのですが、実は秋田の旅はまだまだ(11日まで)続いたのでした。このあとのことは、また日を改めて。
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2012年01月17日

秋田県芸術選奨

本日(1/17)、秋田魁新報などでも報道されましたが、このたび秋田県芸術選奨の特別賞(ふるさと文化賞)を頂戴することになりました。

■県芸術選奨、小牟禮さんら4人に 特別賞は1人、1団体(秋田魁新報)

ふるさと文化賞というのは、「豊かなふるさと文化をはぐぐむ芸術文化活動を展開した個人・団体に贈られる」賞で、私の場合は「秋田市出身の劇作家・故青江舜二郎に関する資料を秋田県(具体的には県立図書館の分館である「あきた文学資料館」)に寄託し、生涯や業績についての研究を深める契機になった」のが受賞理由とのこと。たしかに2009年以降、亡父である青江の執筆資料や生原稿などを寄託することがきっかけとなって、魁新報に青江の評伝を1年間連載したり、さらにそれを単行本『龍の星霜』にまとめたり、といった顕彰活動が活発化してきました。県立図書館などでの講演や生涯学習センターでの鼎談なども、すべてその延長線上にあるといっていいでしょう。

今回こういう賞をいただいたことは、青江舜二郎という劇作家の業績が、故郷の秋田でひろく認められた証しであると、心から嬉しく、ありがたく思っています。

なお、表彰式は2月6日とのこと。実は秋田には先々週も4日ほど行っていたのですが、ひと月足らずのうちに、またしても真冬の秋田を体感する機会を与えられることになりました。私は大変な寒がりなので、この季節に北東北に何度も出かけるのは正直気が重い…、という話の流れになりそうですが、さにあらず。

この間行った時も、雪がしんしんと降る秋田の冬は、ほとんどまったく身にこたえませんでした。寒冷地にありがちなことですが、ホテルや飲食店などは暖房が行き届いて関東の自分の家なんかよりよっぽど暖かいくらいでしたし、外は外で氷点下とはいえ、澄み切った空気は清々しく、深呼吸をしたくなるような爽快な気分でした。そしてまさにパウダースノーと呼ぶにふさわしい新雪の感触! 街を歩きながら、路上の真っ白いふわふわした雪を両手ですくいあげ、その心地よい手ざわりを何度となく楽しんできました。

何でもこの冬は例年にない豪雪だそうで、現地で生活をしている人たちにとっては、雪寄せの手間ばかり増えてため息の連続かも知れませんが、私のような旅人には、雪に埋もれた北東北の冬は、日常を忘れ、心まで浄化させてくれる貴重な季節に思えます。むしろ寒いばかりで雪も雨も降らない関東地方の冬の方がずっと陰険です。というわけで、来月の秋田行きを、今から密かに楽しみにしているのでした。
そういえば、青江も長編戯曲「干拓」に書いています。「何たって吹雪の国は吹雪の間がいのちだ。いちばん酷烈でいちばん充実している」と。

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2012年01月07日

謹賀新年

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遅ればせながら、明けましておめでとうございます。

元旦の午後、すっかりリラックスモードでいたところ、それはやって来ました。
最初は小さい揺れで、それがだんだん大きくなっていくところは、あの3月11日とまったく同じパターン。揺れが激しくなるにつれて、自分の動悸も早くなっていくのがはっきりわかります。反射的に暖房器具を消し、本棚を押さえ、さらなる事態に備えましたが、2分ほどで収まってくれて心底ほっとしました。同じような恐怖を感じた方も多いのではないでしょうか。
今年はまず、自然災害がこれ以上猛威をふるわないことを祈るばかりです。

とは言いつつ今年は辰年。あまり守りに入らず、天かける龍のごとく、飛躍の年にしたいものだと思っています。

なお、上の写真は近所の枡形山の展望台に設置された十二支の辰。
頭部だけなので、パッと見だと何だかわかりません。

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一方、こちらの写真は去年の干支の卯。
こうやって、全身作ってあるとすぐにわかるんですけどね。
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2011年12月16日

アコタンとのひととき

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このブログでも告知していた映画カメラマン・芦澤明子さんの特集上映「ひみつのアコタン」が13日からオーディトリウム渋谷で始まり、昨日(15日)は「火星のわが家」が上映された。写真は上映後のトークイベントの模様である。

芦澤さんとお目にかかってお話をするというのは、実はかなり久しぶりだったのだが、顔を合わせるや否や、そうしたブランクも一瞬にして吹っ飛び、かつて共有していた時間の延長線上にすっと着地した感覚だった。それはやはり、ひとつの現場で濃密な時を過ごし、一本の作品を生み出したという、得難い体験の故なのだろう。撮影が行われたのは1998年の8月なので、もう13年も昔のことだ。にも関わらずお互い口を開けば、その夏の出来事が昨日のことでも話すようにほとばしり出て来た。

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メインの撮影場所となった横浜のお宅(木口和夫邸)は、実際に木口さんご夫妻が生活しているところをお邪魔して、1日に12時間までという約束で2週間撮影したこと(当然、室内装飾にはほとんど手を加えていない)。
撮影初日、鈴木重子さんが仏壇に手を合わせるシーンで、芦澤さんが私に、「鈴木さんの衣裳のスリット、深すぎませんか?(色っぽすぎるのでは?)」と耳打ちしたこと。
撮影3日め、それまでは本番前のテストの時に、現場スタッフが軍隊調で「本テス!」と大声で連呼していたのを、演技が初体験の出演者陣の緊張を考慮して「はんなり(半成り)テスト」とソフトな名称に変更して、以来、撮影最終日まで「はんなり」「はんテス」という呼び方で通したこと(これは、芦澤さんの長い現場経験の中でも唯一の出来事だそうな)。
鈴木さんと堺雅人くんとのラブシーンは3分以上の長回しで、カメラが俳優に寄ったり離れたりするのだが、その時移動に使ったのは、私が以前町のカメラ屋で購入した安物のドリー(移動車)で、大変使いにくかったにも関わらず、芦澤さんはまったく不平をおっしゃらず、黙々とそれで撮影をこなしたこと。
一家の主人を演じた日下武史さんの奥様と、家を貸してくれた木口さんご夫妻とは鎌倉アカデミア演劇科での同窓であったこと(もちろんまったくの偶然)。そうした奇縁もあって、日下さんのこの作品への思い入れは深く、撮影終了間際にはご自身もカメラを持参されて、現場のスナップを盛んに写していらしたこと。芦澤さんもまた、この現場への愛着はひとしおで、撮影が終わるのを心底残念に思われていたということ。
物語の舞台となった木口邸は、撮影から2年後の2000年に建替えのため取り壊され、木口和夫さん自身も2007年に亡くなったこと。しかしその二人の娘さんたちからは、「父も私たちも、あの家が映像の中に永遠に残ったことをとても嬉しく思っています」というお言葉がいただけたこと…。

汲めども尽きぬ井戸のように、他にも次々にエピソードがあふれ出してくる。トークの進行をしてくれた露木栄司さんともども、一気に時をさかのぼったような、不思議なひとときだった。

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木口邸前での集合写真(1998年8月)

いや〜、それにしてもアコタン元気すぎ! 芦澤さんと私はともに今年の干支である卯年の生まれである。しかし同い年ではなく、彼女はひと回り上で、世間的には赤いチャンチャンコを贈られる「還」のつく年齢なのだが、とてもそれが信じられないくらいパワフルに次々現場をこなしている。一方48歳の私は、ここ数年、やれ男性更年期だ、不定愁訴だと、フーフー言いながら毎日をどうにかやり過ごしているという体たらく。
トーク終了後、近所の居酒屋に移動して、まずはその健康の秘訣をうかがったところ、ご本人いわく「若い監督さんのエキスを吸収しているから」とのこと。たしかに最近、30代の若手監督とタッグを組んでいる作品も多い(どうやら「火星のわが家」を進んで引き受けてくれたのも、そのころの私が30代だったかららしい)。それが40代以降の監督との現場になると、逆に芦澤さんが元気を与えなくてはいけない立場になるそうである。だからなるべく若い監督との仕事を優先しているとか。
これには、同席していた万田邦敏監督と筒井武文監督(ともに50代)も苦笑い。まあこの辺は飲みの席での会話なので、あくまでもアコタン一流のユーモアと解することにしたいが…。
時計の針は12時をかなり回り、露木さんと私は終電を気にして、あわただしく店を出ることに。しかしアコタンと2人の監督は席を立つ気配もない。彼女たちの酒宴はまだまだ続くようだ。芦澤さんの底知れぬパワーに気押されつつ、そのニコニコ顔にこちらも元気をいただいた気分であった。

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ひみつのアコタンは本日が最終日。芦澤さん、これからもどうぞいいお仕事を!

撮影:山本大輔
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2011年12月03日

ひみつのアコタン

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「火星のわが家」の一場面(堺雅人と鈴木重子)

イベントのお知らせです。
女性映画カメラマンの草分け的存在であり、今もなお積極的に作品を世に送り出している芦澤明子(あしざわあきこ)さんの特集上映が開催されます。名づけて「ひみつのアコタン キャメラマン芦澤明子アーリー&レア・ワークス」。「アコタン」は芦澤さんのニックネームです。

開催期間は12月13日(火)から16日(金)までで、場所はオーディトリウム渋谷。15日(木)の20:45からは「火星のわが家」の上映も。この作品が35ミリプリントで映画館のスクリーンに投影されるのはかなり久しぶりのことで、上映後には芦澤さんと私、そして制作を担当した露木栄司さんとのトークも予定されています。

さらにこの日だけのスペシャルプレゼントとして、先着10名様に、非売品オリジナルサントラCD(鈴木重子さんの歌う主題歌など全5曲入り)を進呈。また、現在ほとんど入手不可能と言われているパンフレット(限定30冊・800円)とポスター(限定10枚・500円)の販売も合わせて行います。どうぞこの機会をお見逃しなく! 他にもなかなか目にすることができないレアな作品が連日上映されますので要チェックです。

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イベントの詳細は≫ 「ひみつのアコタン」公式サイト
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2011年12月02日

右手和子さんを見送る

旧知の間柄である劇作家の若林一郎さんは、月に数回、「ねごとのつづき」という日々の記録をメールでお送りして下さるのだが、一昨日送られてきたそれに、右手和子さんについての記述があった。右手さんの父親は戦前の紙芝居の貸元で、私の父の青江舜二郎と松永健哉が1938年に設立した日本教育紙芝居協会にも関わっていた人物である。その父親の影響で、右手さんもその生涯を教育紙芝居普及のために捧げ、そして過日、旅立たれたという。
若林さんの文章には、半世紀におよぶ交遊から、最期の様子までが丁寧に描かれており、ある時代の記録としても貴重なものだと感じられた。それを読んですぐ、「右手和子」の名前でネット検索をしてみたのだが、彼女の素顔に触れた文献も、きちんとした訃報も、ほとんど上がって来ない。そこでこのブログを使って、以下に全文を公開したいと思う(若林さんには転載の許可を得ています)。

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■右手和子さんを見送る

 ぼくは長男だから兄や姉はいない。そんなぼくにとって、ウテちゃんは甘えられる姉のような存在だった。そのウテちゃんが亡くなったという知らせを受け取った。「順番だから仕方ない」と、うかうかと80歳になっている自分に言い聞かせながら、なんともいえない寂しさがこみあげてくる。

 「ウテちゃん」こと右手和子さんが天国へ旅だったのは、11月17日だったという。
 彼女と知り合ったのは、ぼくがまだ二十代のころ、考えれば半世紀を超えるおつきあいだった。
 NHKのテレビ放送が始まってまもなく、『なんでも百科』という子ども向けの番組があった。劇団民芸の庄司永建さんが司会者で、子どもが興味を持ちそうな話題をとりあげる情報番組、いま考えてみるとニュース・ショーの先駆けだった。プロデューサーは細入昭さんで、ぼくはその台本を担当していた。司会者にガー公というアヒルの人形がからんで、いろんな質問をする。ウテちゃんはそのガー公の声をやってくれた。当時は「声優」なんて言葉もまだなかったけど、彼女はそういう仕事の草分けだった。

 まだテレビが手作りだった時代、田村町にあった放送会館のスタジオから放映していた白黒テレビのナマ放送。とりあげる素材がなかなか決まらないもんだから、ガリ版の台本が出来るのはいつも本番ギリギリ。進行がうまくいかない急場を、いつもウテちゃんに助けてもらったものだ。本番が終わればみんなで揃って食事に行ったりして、スタッフも出演者も友だちづきあいだった。

 ウテちゃんには遠藤晴こと「おハルさん」という御神酒徳利(おみきどっくり)の相棒がいた。そういえば、このふたりは劇団四季の草創期にメンバーに名を連ねていたと聞いた覚えがある。揃ってお酒は強かった。
 このふたりに誘われて、貧乏暮らしをしていたぼくもショーチュー以外の高級なお酒の味を教えてもらった。と、いったって、あのころはサントリーのハイボールぐらいだったけど。すっかり酔っぱらって、ウテちゃんとおハルさんに両腕をかかえられるようにして、渋谷の地下にあったバーの階段を登っていった思い出が、若い日の幻のように浮かんでくる。

 ウテちゃんは声優としてなかなかの売れっ子で、虫プロの『悟空の大冒険』では主役の孫悟空をやっていたのを覚えている。沙悟浄役は愛川欽也だった。もっともこのときは、亡き宇野誠一郎作曲の歌が歌えなくて弱ったらしい。「私ゃオンチだから」と、いつもの笑顔でこぼしていたっけ。
 そんなことがあったせいかどうかはよく分からないが、ウテちゃんはいつのまにか声優の仕事からすっぱりと足を洗って、紙芝居の仕事ひと筋に進むようになった。きっと、なによりもお父さんの志を継ぎたかったのだろう。

 いまぼくはおこがましくも「紙芝居の親方」なんて名乗っているけど、ウテちゃんのお父さんは右手悟淨さんといって、正真正銘の紙芝居の親方だった。紙芝居屋さんたちに紙芝居の絵を貸す貸元をやっていたのだ。お宅は当時の玉川電車(現・東急田園都市線)の大橋の駅の近くにあった。
 自転車の荷台に紙芝居の舞台を載せて紙芝居屋さんは町角にやってくる。そして、カッチカッチと拍子木を鳴らして町内をひと周りすると、メンコやベーゴマで遊んでいた子どもたちが集まってくる。
彼らに水飴などを売るのが紙芝居屋さんの収入で、オマケに紙芝居をやってみせるのだ。『黄金バット』などのヒット作は子どもたちを夢中にさせたものだ。テレビのお蔭ではかなく姿を消していくまで、紙芝居屋さんは子どもたちの人気者だった。これをいまは「街頭紙芝居」と呼んでいる。

 そういう紙芝居の絵は一枚ずつ手書きだった。それをワン・セットずつ紙芝居屋さんたちに貸し出すのが貸元。水飴なども卸したようだ。絵がこすれてしまわないように一枚ずつニスを塗っては、天井に張り巡らされた針金にぶら下げて干す。そのニスの匂いをかぎながら幼いウテちゃんは育った。
 当時、街頭紙芝居は俗悪で子どもの情操教育によくないとさんざん批判された。それに応えて、右手悟淨さんは「教育紙芝居」運動の推進者のひとりとなって、さまざまな苦労を重ねられたという。娘のウテちゃんはそんなお父さんの前座として紙芝居をやって「天才少女」と評判されたそうだ。だから声優を捨てるのに未練はなかった。そして、きっぱりと紙芝居の道を歩み始めた。
 そして「子どもの文化研究所」や「日本幼児教育研究会」の講師として、全国を巡回して幼稚園や保育園の先生たちに紙芝居を指導するかたわら、子どもたちに紙芝居の実演をしてみせるようになった。そんなウテちゃんが紙芝居の講習会の参加を呼びかけている文章をネットで見つけた。

「講習会や子ども達の前で演じるとき、椅子ごとひっくり返るほど笑い、同じように心配そうな顔をし、食い入るように画面を見つめるそのまなざしが、子ども達の生き生きした心を伝え、私の心もふくらんでくるのです。こんな幸せを味わってごらんになりませんか」

 こういう子どもたちとの交流は、テレビの世界には求められない。ぼくもテレビの青少年番組の現場にいて、子どもたちの生き生きとした反応のないことをいつもさびしく思っていた。
 彼女の紙芝居のうまさはまさに独壇場で、ひとつの「芸」になっていた。
 その講習会をなんどか見学にいったことがある。最初はウテちゃんがごろごろと引っ張ってくる荷物の大きさに驚いた。旅のバッグを載せたカートに、紙芝居の舞台だの何種類かの紙芝居だのをくくりつけると、大の男でもひるみそうな大荷物になる。それを引きずって彼女はどこへでも紙芝居を教えに出かけていったのだ。
 そういう活動を認められて、ウテちゃんは平成7年(1995年)に高橋五山賞の特別賞を贈られている。一般にはあまり知られていないが、教育紙芝居の世界では最高の賞なのだそうだ。けれども彼女の仕事のすばらしさは、そういう名利を超えたところにあったと思っている。

 そんなウテちゃんの仕事ぶりを知っていたものだから、大月書店から『紙芝居をつくる』という本の執筆を頼まれたときに、一も二もなくウテちゃんを頼りにした。絵の方でぼくのわがままを聞いてくれたのは故・西山三郎こと「さぶちゃん」で、文章は僕が書いて三人の共著という形で出版されている。このときも絵の抜き方、間の取り方など、ずいぶんいろいろなことを改めて彼女に教えられている。しかもこの本のすばらしさは、演じ手のウテちゃんと客席の子どもたちとの写真をふんだんに採り入れたところにあった。文字通り「椅子ごとひっくり返るほど」笑っている子どもたちの姿! 悲しいことに、これが彼女を偲ぶなによりの形見となってしまった。

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右手さんと若林さんの共著『紙芝居をつくる』(1990年・大月書店)

 その後、鎌倉アカデミアの旧友の中野寛次君こと「カンちゃん」と齋藤英司君こと「エイちゃん」のコンビが、紙芝居をやりたいといいだしたときにも、
「それならウテちゃんに習いに行ったらいいよ」
 と、ぼくは勧めたのだった。
 ウテちゃんは目白の「子どもの文化研究所」の中に「ひょうしぎ」というグループを作って指導していた。ふたりともたちまちウテちゃんのファンになって、この道に夢中になっていった。このグループでふたりは「G組」と呼ばれた。すなわち「爺(じい)」組。

 カンちゃんとエイちゃんが芸能紙芝居「にこりん座」の旗揚げ興行をしたときにも、ウテちゃんは宮沢賢治の『なめとこ山の熊』をやってくれた。ああいうきちんとした日本語の語りをやれるひとはもういないなあ。あのときは講談の小金井芦州先生も『寛永三馬術』をやってくださったっけなあ。
「教育紙芝居」がいつのまにか保育園と幼稚園の枠の中に収まってしまったのにあきたりなくて、「にこりん座」は「芸能紙芝居」と称したのだが、そんな行き方もウテちゃんは温かく見守ってくれた。
 そのカンちゃんも亡くなって十年以上になる。彼らの仕事は、声優学校の講師をしていたカンちゃんの教え子たちが組織した「きらく座」というグループに受け継がれている。

 紙芝居のよさは手作りにあると思っている。印刷された教育紙芝居は市販されるという性質上、絵の枚数に制限があってなかなかこちらの思うとおりの台本が書けない。それでも、何本か引き受けているが『竹一本塩一升』という台本だけは、ウテちゃんに褒めてもらえた。それを「きらく座」で上演するときにも、西山三郎さんの絵を何枚か増やして上演している。出版社にはイヤな顔をされそうな、そんなぼくのわがままもウテちゃんという「お姉さん」には許してもらえると信じてきた。

 通夜は11月21日、東急多摩川線の沼部駅に近い密蔵院で行われた。このお寺とはお父さんのころから交流があって、ウテちゃんもなんどかお寺の子ども会で紙芝居をやっていたという。ウテちゃんには家族はいなかった。密葬のやり方は故人が細かく注文していて、親友の磯貝しまさんを喪主として遺志通りに行われた。
 その席で配られた「病状報告」によると、8月ごろから体調を崩していて、ほとんど食事もとれなくなっていたらしい。そういえば「ムーブ町屋の紙芝居劇場」で坂井志満さんからそんな話を聞いたっけ。それでも講習会に出ているというから、まだそれほどのことはないと思っていた。最後の紙芝居の旅は8月22日から一泊の盛岡への旅。このときは「立っているのもたいへんそうだった」ので「ひょうしぎ」のメンバーが入院を勧めたようだ。スケジュールの調整をしたりして、入院したのは10月31日。病院のベッドでぼくがプリント・アウトして送った『ねごとのつづき』を読んでくれていたと聞いて、思わず胸が熱くなった。
 11月2日の早朝、脳梗塞を起こす。膵臓ガンの末期と診断されたのはそのあとで、直接の死因は脳梗塞だったという。入院から18日目で眠るように亡くなった。

 ご戒名は陽童和合信女。太陽のように明るく温かでいつも童心を忘れずに、仲間の面倒をよくみてくれた彼女にふさわしいご戒名だ。享年84歳。ぼくより4歳年上なのを初めて知った。
 亡きお父さんの仕事を継いで、ひたすら紙芝居を愛して、それを演じるのを楽しみながら、ひと筋の道をひたむきにまっすくに生き抜いた人生だった。
 お浄めの席で、久しぶりのエイちゃんやご列席のみなさんと、さまざまな思い出話にふける。
 最後にあったのはいつだっけ、と考えて、ことし4月の『竹下玲子の会』に来てくれたのを思い出す。切符売りの苦手なぼくのために、毎年たくさんの切符の注文してくれたっけ。顔を合わすと、温かな微笑をぼくに向けてくれた。あの笑顔にまた会えないと思うと、またたまらない寂しさがひたひたと胸に迫ってきた。
(若林一郎「ねごとのつづき・その246」より)

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なお、若林さんが主催する芸能紙芝居「きらく座」の公演が12月23日、ムーブ町屋で行われる。
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posted by _ at 13:58| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする