2012年01月17日

秋田県芸術選奨

本日(1/17)、秋田魁新報などでも報道されましたが、このたび秋田県芸術選奨の特別賞(ふるさと文化賞)を頂戴することになりました。

■県芸術選奨、小牟禮さんら4人に 特別賞は1人、1団体(秋田魁新報)

ふるさと文化賞というのは、「豊かなふるさと文化をはぐぐむ芸術文化活動を展開した個人・団体に贈られる」賞で、私の場合は「秋田市出身の劇作家・故青江舜二郎に関する資料を秋田県(具体的には県立図書館の分館である「あきた文学資料館」)に寄託し、生涯や業績についての研究を深める契機になった」のが受賞理由とのこと。たしかに2009年以降、亡父である青江の執筆資料や生原稿などを寄託することがきっかけとなって、魁新報に青江の評伝を1年間連載したり、さらにそれを単行本『龍の星霜』にまとめたり、といった顕彰活動が活発化してきました。県立図書館などでの講演や生涯学習センターでの鼎談なども、すべてその延長線上にあるといっていいでしょう。

今回こういう賞をいただいたことは、青江舜二郎という劇作家の業績が、故郷の秋田でひろく認められた証しであると、心から嬉しく、ありがたく思っています。

なお、表彰式は2月6日とのこと。実は秋田には先々週も4日ほど行っていたのですが、ひと月足らずのうちに、またしても真冬の秋田を体感する機会を与えられることになりました。私は大変な寒がりなので、この季節に北東北に何度も出かけるのは正直気が重い…、という話の流れになりそうですが、さにあらず。

この間行った時も、雪がしんしんと降る秋田の冬は、ほとんどまったく身にこたえませんでした。寒冷地にありがちなことですが、ホテルや飲食店などは暖房が行き届いて関東の自分の家なんかよりよっぽど暖かいくらいでしたし、外は外で氷点下とはいえ、澄み切った空気は清々しく、深呼吸をしたくなるような爽快な気分でした。そしてまさにパウダースノーと呼ぶにふさわしい新雪の感触! 街を歩きながら、路上の真っ白いふわふわした雪を両手ですくいあげ、その心地よい手ざわりを何度となく楽しんできました。

何でもこの冬は例年にない豪雪だそうで、現地で生活をしている人たちにとっては、雪寄せの手間ばかり増えてため息の連続かも知れませんが、私のような旅人には、雪に埋もれた北東北の冬は、日常を忘れ、心まで浄化させてくれる貴重な季節に思えます。むしろ寒いばかりで雪も雨も降らない関東地方の冬の方がずっと陰険です。というわけで、来月の秋田行きを、今から密かに楽しみにしているのでした。
そういえば、青江も長編戯曲「干拓」に書いています。「何たって吹雪の国は吹雪の間がいのちだ。いちばん酷烈でいちばん充実している」と。

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2012年01月07日

謹賀新年

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遅ればせながら、明けましておめでとうございます。

元旦の午後、すっかりリラックスモードでいたところ、それはやって来ました。
最初は小さい揺れで、それがだんだん大きくなっていくところは、あの3月11日とまったく同じパターン。揺れが激しくなるにつれて、自分の動悸も早くなっていくのがはっきりわかります。反射的に暖房器具を消し、本棚を押さえ、さらなる事態に備えましたが、2分ほどで収まってくれて心底ほっとしました。同じような恐怖を感じた方も多いのではないでしょうか。
今年はまず、自然災害がこれ以上猛威をふるわないことを祈るばかりです。

とは言いつつ今年は辰年。あまり守りに入らず、天かける龍のごとく、飛躍の年にしたいものだと思っています。

なお、上の写真は近所の枡形山の展望台に設置された十二支の辰。
頭部だけなので、パッと見だと何だかわかりません。

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一方、こちらの写真は去年の干支の卯。
こうやって、全身作ってあるとすぐにわかるんですけどね。
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2011年12月16日

アコタンとのひととき

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このブログでも告知していた映画カメラマン・芦澤明子さんの特集上映「ひみつのアコタン」が13日からオーディトリウム渋谷で始まり、昨日(15日)は「火星のわが家」が上映された。写真は上映後のトークイベントの模様である。

芦澤さんとお目にかかってお話をするというのは、実はかなり久しぶりだったのだが、顔を合わせるや否や、そうしたブランクも一瞬にして吹っ飛び、かつて共有していた時間の延長線上にすっと着地した感覚だった。それはやはり、ひとつの現場で濃密な時を過ごし、一本の作品を生み出したという、得難い体験の故なのだろう。撮影が行われたのは1998年の8月なので、もう13年も昔のことだ。にも関わらずお互い口を開けば、その夏の出来事が昨日のことでも話すようにほとばしり出て来た。

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メインの撮影場所となった横浜のお宅(木口和夫邸)は、実際に木口さんご夫妻が生活しているところをお邪魔して、1日に12時間までという約束で2週間撮影したこと(当然、室内装飾にはほとんど手を加えていない)。
撮影初日、鈴木重子さんが仏壇に手を合わせるシーンで、芦澤さんが私に、「鈴木さんの衣裳のスリット、深すぎませんか?(色っぽすぎるのでは?)」と耳打ちしたこと。
撮影3日め、それまでは本番前のテストの時に、現場スタッフが軍隊調で「本テス!」と大声で連呼していたのを、演技が初体験の出演者陣の緊張を考慮して「はんなり(半成り)テスト」とソフトな名称に変更して、以来、撮影最終日まで「はんなり」「はんテス」という呼び方で通したこと(これは、芦澤さんの長い現場経験の中でも唯一の出来事だそうな)。
鈴木さんと堺雅人くんとのラブシーンは3分以上の長回しで、カメラが俳優に寄ったり離れたりするのだが、その時移動に使ったのは、私が以前町のカメラ屋で購入した安物のドリー(移動車)で、大変使いにくかったにも関わらず、芦澤さんはまったく不平をおっしゃらず、黙々とそれで撮影をこなしたこと。
一家の主人を演じた日下武史さんの奥様と、家を貸してくれた木口さんご夫妻とは鎌倉アカデミア演劇科での同窓であったこと(もちろんまったくの偶然)。そうした奇縁もあって、日下さんのこの作品への思い入れは深く、撮影終了間際にはご自身もカメラを持参されて、現場のスナップを盛んに写していらしたこと。芦澤さんもまた、この現場への愛着はひとしおで、撮影が終わるのを心底残念に思われていたということ。
物語の舞台となった木口邸は、撮影から2年後の2000年に建替えのため取り壊され、木口和夫さん自身も2007年に亡くなったこと。しかしその二人の娘さんたちからは、「父も私たちも、あの家が映像の中に永遠に残ったことをとても嬉しく思っています」というお言葉がいただけたこと…。

汲めども尽きぬ井戸のように、他にも次々にエピソードがあふれ出してくる。トークの進行をしてくれた露木栄司さんともども、一気に時をさかのぼったような、不思議なひとときだった。

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木口邸前での集合写真(1998年8月)

いや〜、それにしてもアコタン元気すぎ! 芦澤さんと私はともに今年の干支である卯年の生まれである。しかし同い年ではなく、彼女はひと回り上で、世間的には赤いチャンチャンコを贈られる「還」のつく年齢なのだが、とてもそれが信じられないくらいパワフルに次々現場をこなしている。一方48歳の私は、ここ数年、やれ男性更年期だ、不定愁訴だと、フーフー言いながら毎日をどうにかやり過ごしているという体たらく。
トーク終了後、近所の居酒屋に移動して、まずはその健康の秘訣をうかがったところ、ご本人いわく「若い監督さんのエキスを吸収しているから」とのこと。たしかに最近、30代の若手監督とタッグを組んでいる作品も多い(どうやら「火星のわが家」を進んで引き受けてくれたのも、そのころの私が30代だったかららしい)。それが40代以降の監督との現場になると、逆に芦澤さんが元気を与えなくてはいけない立場になるそうである。だからなるべく若い監督との仕事を優先しているとか。
これには、同席していた万田邦敏監督と筒井武文監督(ともに50代)も苦笑い。まあこの辺は飲みの席での会話なので、あくまでもアコタン一流のユーモアと解することにしたいが…。
時計の針は12時をかなり回り、露木さんと私は終電を気にして、あわただしく店を出ることに。しかしアコタンと2人の監督は席を立つ気配もない。彼女たちの酒宴はまだまだ続くようだ。芦澤さんの底知れぬパワーに気押されつつ、そのニコニコ顔にこちらも元気をいただいた気分であった。

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ひみつのアコタンは本日が最終日。芦澤さん、これからもどうぞいいお仕事を!

撮影:山本大輔
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2011年12月03日

ひみつのアコタン

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「火星のわが家」の一場面(堺雅人と鈴木重子)

イベントのお知らせです。
女性映画カメラマンの草分け的存在であり、今もなお積極的に作品を世に送り出している芦澤明子(あしざわあきこ)さんの特集上映が開催されます。名づけて「ひみつのアコタン キャメラマン芦澤明子アーリー&レア・ワークス」。「アコタン」は芦澤さんのニックネームです。

開催期間は12月13日(火)から16日(金)までで、場所はオーディトリウム渋谷。15日(木)の20:45からは「火星のわが家」の上映も。この作品が35ミリプリントで映画館のスクリーンに投影されるのはかなり久しぶりのことで、上映後には芦澤さんと私、そして制作を担当した露木栄司さんとのトークも予定されています。

さらにこの日だけのスペシャルプレゼントとして、先着10名様に、非売品オリジナルサントラCD(鈴木重子さんの歌う主題歌など全5曲入り)を進呈。また、現在ほとんど入手不可能と言われているパンフレット(限定30冊・800円)とポスター(限定10枚・500円)の販売も合わせて行います。どうぞこの機会をお見逃しなく! 他にもなかなか目にすることができないレアな作品が連日上映されますので要チェックです。

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イベントの詳細は≫ 「ひみつのアコタン」公式サイト
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2011年12月02日

右手和子さんを見送る

旧知の間柄である劇作家の若林一郎さんは、月に数回、「ねごとのつづき」という日々の記録をメールでお送りして下さるのだが、一昨日送られてきたそれに、右手和子さんについての記述があった。右手さんの父親は戦前の紙芝居の貸元で、私の父の青江舜二郎と松永健哉が1938年に設立した日本教育紙芝居協会にも関わっていた人物である。その父親の影響で、右手さんもその生涯を教育紙芝居普及のために捧げ、そして過日、旅立たれたという。
若林さんの文章には、半世紀におよぶ交遊から、最期の様子までが丁寧に描かれており、ある時代の記録としても貴重なものだと感じられた。それを読んですぐ、「右手和子」の名前でネット検索をしてみたのだが、彼女の素顔に触れた文献も、きちんとした訃報も、ほとんど上がって来ない。そこでこのブログを使って、以下に全文を公開したいと思う(若林さんには転載の許可を得ています)。

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■右手和子さんを見送る

 ぼくは長男だから兄や姉はいない。そんなぼくにとって、ウテちゃんは甘えられる姉のような存在だった。そのウテちゃんが亡くなったという知らせを受け取った。「順番だから仕方ない」と、うかうかと80歳になっている自分に言い聞かせながら、なんともいえない寂しさがこみあげてくる。

 「ウテちゃん」こと右手和子さんが天国へ旅だったのは、11月17日だったという。
 彼女と知り合ったのは、ぼくがまだ二十代のころ、考えれば半世紀を超えるおつきあいだった。
 NHKのテレビ放送が始まってまもなく、『なんでも百科』という子ども向けの番組があった。劇団民芸の庄司永建さんが司会者で、子どもが興味を持ちそうな話題をとりあげる情報番組、いま考えてみるとニュース・ショーの先駆けだった。プロデューサーは細入昭さんで、ぼくはその台本を担当していた。司会者にガー公というアヒルの人形がからんで、いろんな質問をする。ウテちゃんはそのガー公の声をやってくれた。当時は「声優」なんて言葉もまだなかったけど、彼女はそういう仕事の草分けだった。

 まだテレビが手作りだった時代、田村町にあった放送会館のスタジオから放映していた白黒テレビのナマ放送。とりあげる素材がなかなか決まらないもんだから、ガリ版の台本が出来るのはいつも本番ギリギリ。進行がうまくいかない急場を、いつもウテちゃんに助けてもらったものだ。本番が終わればみんなで揃って食事に行ったりして、スタッフも出演者も友だちづきあいだった。

 ウテちゃんには遠藤晴こと「おハルさん」という御神酒徳利(おみきどっくり)の相棒がいた。そういえば、このふたりは劇団四季の草創期にメンバーに名を連ねていたと聞いた覚えがある。揃ってお酒は強かった。
 このふたりに誘われて、貧乏暮らしをしていたぼくもショーチュー以外の高級なお酒の味を教えてもらった。と、いったって、あのころはサントリーのハイボールぐらいだったけど。すっかり酔っぱらって、ウテちゃんとおハルさんに両腕をかかえられるようにして、渋谷の地下にあったバーの階段を登っていった思い出が、若い日の幻のように浮かんでくる。

 ウテちゃんは声優としてなかなかの売れっ子で、虫プロの『悟空の大冒険』では主役の孫悟空をやっていたのを覚えている。沙悟浄役は愛川欽也だった。もっともこのときは、亡き宇野誠一郎作曲の歌が歌えなくて弱ったらしい。「私ゃオンチだから」と、いつもの笑顔でこぼしていたっけ。
 そんなことがあったせいかどうかはよく分からないが、ウテちゃんはいつのまにか声優の仕事からすっぱりと足を洗って、紙芝居の仕事ひと筋に進むようになった。きっと、なによりもお父さんの志を継ぎたかったのだろう。

 いまぼくはおこがましくも「紙芝居の親方」なんて名乗っているけど、ウテちゃんのお父さんは右手悟淨さんといって、正真正銘の紙芝居の親方だった。紙芝居屋さんたちに紙芝居の絵を貸す貸元をやっていたのだ。お宅は当時の玉川電車(現・東急田園都市線)の大橋の駅の近くにあった。
 自転車の荷台に紙芝居の舞台を載せて紙芝居屋さんは町角にやってくる。そして、カッチカッチと拍子木を鳴らして町内をひと周りすると、メンコやベーゴマで遊んでいた子どもたちが集まってくる。
彼らに水飴などを売るのが紙芝居屋さんの収入で、オマケに紙芝居をやってみせるのだ。『黄金バット』などのヒット作は子どもたちを夢中にさせたものだ。テレビのお蔭ではかなく姿を消していくまで、紙芝居屋さんは子どもたちの人気者だった。これをいまは「街頭紙芝居」と呼んでいる。

 そういう紙芝居の絵は一枚ずつ手書きだった。それをワン・セットずつ紙芝居屋さんたちに貸し出すのが貸元。水飴なども卸したようだ。絵がこすれてしまわないように一枚ずつニスを塗っては、天井に張り巡らされた針金にぶら下げて干す。そのニスの匂いをかぎながら幼いウテちゃんは育った。
 当時、街頭紙芝居は俗悪で子どもの情操教育によくないとさんざん批判された。それに応えて、右手悟淨さんは「教育紙芝居」運動の推進者のひとりとなって、さまざまな苦労を重ねられたという。娘のウテちゃんはそんなお父さんの前座として紙芝居をやって「天才少女」と評判されたそうだ。だから声優を捨てるのに未練はなかった。そして、きっぱりと紙芝居の道を歩み始めた。
 そして「子どもの文化研究所」や「日本幼児教育研究会」の講師として、全国を巡回して幼稚園や保育園の先生たちに紙芝居を指導するかたわら、子どもたちに紙芝居の実演をしてみせるようになった。そんなウテちゃんが紙芝居の講習会の参加を呼びかけている文章をネットで見つけた。

「講習会や子ども達の前で演じるとき、椅子ごとひっくり返るほど笑い、同じように心配そうな顔をし、食い入るように画面を見つめるそのまなざしが、子ども達の生き生きした心を伝え、私の心もふくらんでくるのです。こんな幸せを味わってごらんになりませんか」

 こういう子どもたちとの交流は、テレビの世界には求められない。ぼくもテレビの青少年番組の現場にいて、子どもたちの生き生きとした反応のないことをいつもさびしく思っていた。
 彼女の紙芝居のうまさはまさに独壇場で、ひとつの「芸」になっていた。
 その講習会をなんどか見学にいったことがある。最初はウテちゃんがごろごろと引っ張ってくる荷物の大きさに驚いた。旅のバッグを載せたカートに、紙芝居の舞台だの何種類かの紙芝居だのをくくりつけると、大の男でもひるみそうな大荷物になる。それを引きずって彼女はどこへでも紙芝居を教えに出かけていったのだ。
 そういう活動を認められて、ウテちゃんは平成7年(1995年)に高橋五山賞の特別賞を贈られている。一般にはあまり知られていないが、教育紙芝居の世界では最高の賞なのだそうだ。けれども彼女の仕事のすばらしさは、そういう名利を超えたところにあったと思っている。

 そんなウテちゃんの仕事ぶりを知っていたものだから、大月書店から『紙芝居をつくる』という本の執筆を頼まれたときに、一も二もなくウテちゃんを頼りにした。絵の方でぼくのわがままを聞いてくれたのは故・西山三郎こと「さぶちゃん」で、文章は僕が書いて三人の共著という形で出版されている。このときも絵の抜き方、間の取り方など、ずいぶんいろいろなことを改めて彼女に教えられている。しかもこの本のすばらしさは、演じ手のウテちゃんと客席の子どもたちとの写真をふんだんに採り入れたところにあった。文字通り「椅子ごとひっくり返るほど」笑っている子どもたちの姿! 悲しいことに、これが彼女を偲ぶなによりの形見となってしまった。

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右手さんと若林さんの共著『紙芝居をつくる』(1990年・大月書店)

 その後、鎌倉アカデミアの旧友の中野寛次君こと「カンちゃん」と齋藤英司君こと「エイちゃん」のコンビが、紙芝居をやりたいといいだしたときにも、
「それならウテちゃんに習いに行ったらいいよ」
 と、ぼくは勧めたのだった。
 ウテちゃんは目白の「子どもの文化研究所」の中に「ひょうしぎ」というグループを作って指導していた。ふたりともたちまちウテちゃんのファンになって、この道に夢中になっていった。このグループでふたりは「G組」と呼ばれた。すなわち「爺(じい)」組。

 カンちゃんとエイちゃんが芸能紙芝居「にこりん座」の旗揚げ興行をしたときにも、ウテちゃんは宮沢賢治の『なめとこ山の熊』をやってくれた。ああいうきちんとした日本語の語りをやれるひとはもういないなあ。あのときは講談の小金井芦州先生も『寛永三馬術』をやってくださったっけなあ。
「教育紙芝居」がいつのまにか保育園と幼稚園の枠の中に収まってしまったのにあきたりなくて、「にこりん座」は「芸能紙芝居」と称したのだが、そんな行き方もウテちゃんは温かく見守ってくれた。
 そのカンちゃんも亡くなって十年以上になる。彼らの仕事は、声優学校の講師をしていたカンちゃんの教え子たちが組織した「きらく座」というグループに受け継がれている。

 紙芝居のよさは手作りにあると思っている。印刷された教育紙芝居は市販されるという性質上、絵の枚数に制限があってなかなかこちらの思うとおりの台本が書けない。それでも、何本か引き受けているが『竹一本塩一升』という台本だけは、ウテちゃんに褒めてもらえた。それを「きらく座」で上演するときにも、西山三郎さんの絵を何枚か増やして上演している。出版社にはイヤな顔をされそうな、そんなぼくのわがままもウテちゃんという「お姉さん」には許してもらえると信じてきた。

 通夜は11月21日、東急多摩川線の沼部駅に近い密蔵院で行われた。このお寺とはお父さんのころから交流があって、ウテちゃんもなんどかお寺の子ども会で紙芝居をやっていたという。ウテちゃんには家族はいなかった。密葬のやり方は故人が細かく注文していて、親友の磯貝しまさんを喪主として遺志通りに行われた。
 その席で配られた「病状報告」によると、8月ごろから体調を崩していて、ほとんど食事もとれなくなっていたらしい。そういえば「ムーブ町屋の紙芝居劇場」で坂井志満さんからそんな話を聞いたっけ。それでも講習会に出ているというから、まだそれほどのことはないと思っていた。最後の紙芝居の旅は8月22日から一泊の盛岡への旅。このときは「立っているのもたいへんそうだった」ので「ひょうしぎ」のメンバーが入院を勧めたようだ。スケジュールの調整をしたりして、入院したのは10月31日。病院のベッドでぼくがプリント・アウトして送った『ねごとのつづき』を読んでくれていたと聞いて、思わず胸が熱くなった。
 11月2日の早朝、脳梗塞を起こす。膵臓ガンの末期と診断されたのはそのあとで、直接の死因は脳梗塞だったという。入院から18日目で眠るように亡くなった。

 ご戒名は陽童和合信女。太陽のように明るく温かでいつも童心を忘れずに、仲間の面倒をよくみてくれた彼女にふさわしいご戒名だ。享年84歳。ぼくより4歳年上なのを初めて知った。
 亡きお父さんの仕事を継いで、ひたすら紙芝居を愛して、それを演じるのを楽しみながら、ひと筋の道をひたむきにまっすくに生き抜いた人生だった。
 お浄めの席で、久しぶりのエイちゃんやご列席のみなさんと、さまざまな思い出話にふける。
 最後にあったのはいつだっけ、と考えて、ことし4月の『竹下玲子の会』に来てくれたのを思い出す。切符売りの苦手なぼくのために、毎年たくさんの切符の注文してくれたっけ。顔を合わすと、温かな微笑をぼくに向けてくれた。あの笑顔にまた会えないと思うと、またたまらない寂しさがひたひたと胸に迫ってきた。
(若林一郎「ねごとのつづき・その246」より)

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なお、若林さんが主催する芸能紙芝居「きらく座」の公演が12月23日、ムーブ町屋で行われる。
詳しくはこちら
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2011年11月29日

もはや骨董品?

先日、ある彫刻家(1977年没)について調べる必要が生じ、そのご遺族から、作品を撮影した写真をお借りすることになった。都内の喫茶店でお目にかかり、ひとしきりお話をうかがった後に手渡されたものは何と…

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マウントに納められた大量のリバーサルフィルム。

これ、今の二十歳以下の人には何だかわからないんじゃないだろうか。21世紀以降、めっきり目にすることの減った記録メディアである。念のために説明すると、リバーサルフィルムはポジフィルムともいい、透かしてみると画像が確認できる、映画のフィルムと同質のものだ。かつては印刷媒体にもよく使われていたが、最近はデジタル化のあおりを受けて急速に過去のものになりつつある。

さて、これをどうするか。ざっと数えたところ300枚近くある。1枚ずつルーペを使ってのぞいて見るのも難儀だなと考えているうち、そういえば、だいぶ前に知人からもらい受けたスライドプロジェクターが実家に眠っていたことを思い出した。しかし、もらったのがもう20年近く前で、その時点ですでにかなりの年代物であったから、多分、1960〜70年代のものだろう。果たしてまともに使えるだろうか。とり急ぎ実家から持ち帰ってマウントをセットしてスイッチを入れたところ、最初のうちこそ動きがガタガタとぎこちなかったものの、本体が暖まるとともに、いい具合にマウントの入れ替えを行い始めた。下の動画は、そのスライドプロジェクターの、これぞアナログという感じの動作の模様である(たまに引っかかるのがご愛嬌)。



最近の精密なデジタル機器と違い、昔のアナログ機器は構造が単純な分壊れにくく、思いのほか長寿命だったりするようだ。もっともこのプロジェクターの製造元(WARDSというアメリカのメーカー)は、ネットで検索してもヒットせず、もはや存在していないようなので、何かトラブルが生じたら、そこで一巻の終わりなのだろうが。せっかく今まで生きながらえて来たのだから、これからも大事に使いたいと思っている。

何はともあれ、このアナログプロジェクターのおかげで、彫刻家の多岐に渡る作品群を無事に確認することが出来た。部屋を暗くして白い壁に画像を投影して見るというのも実に久しぶりで、8ミリ映画を製作していた学生時代を懐かしく思い出したりした。

ちなみにこのスライドプロジェクターだが、私たちが小中学生のころは、授業などでもしばしば使われていたのを覚えている。それがいつか、透明フィルムを使用したOHP(オーバーヘッドプロジェクター)へと変わり、今ではパワーポイントがその後継である。メディアの変化は世の常ということなのかも知れないが、画像も文章も音声も、すべてを「データ」として取り扱う、何ともドライなデジタルワールドには、どうにもなじめないで困っている(といいつつ、このブログも充分デジタルツールなのだが)。
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2011年11月02日

ムーランルージュと中村屋

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新宿K's cinemaで「ムーランルージュの青春」を観る。

芝居とレビューを提供する常設劇場として1931年に開館し、戦後日本のエンターテインメントの礎を築いたムーランルージュ新宿座の実像や歴史に迫るドキュメンタリー。戦争を挟み20年間にわたってオリジナルのドラマを発信し続けた伝説の劇場の全ぼうを、延べ20人に及ぶ劇場出身者や関係者の貴重な証言とともに再構築。(「シネマトゥデイ」解説ページより)

実際に舞台に立っていた俳優やスタッフ、その家族などをコツコツ訪ね歩くインタビューと、当時の舞台の再現で構成されており、場面転換の際にはジオラマによる赤い風車の外観も登場。大変丁寧に作られたドキュメンタリー作品だった。

宣伝文によると「バラエティ」という言葉はこの劇場から始まったそうだが、現在テレビでたれ流されている白痴的なバラエティ番組よりは、はるかに娯楽性と多様性に富んだものが上演されていたようだ。

この作品の最大の見せ場は、何と言っても劇場のトップアイドルとして一世を風靡した明日待子のインタビューだろう。90歳を過ぎてなお矍鑠(かくしゃく)としており、現在も札幌で日舞の師匠を続けているという。お弟子さんの発表会で踊りを披露する場面も収録されていた。女は強し、である(公開初日には1人で札幌から上京し舞台挨拶をされたとのこと。その時に行けばよかった!)。

なお、ムーランルージュ新宿座のあった場所は現在の国際劇場付近(下写真参照)。ピンク映画の常設館で、紳士淑女にとっては、立ち止まったりするのが少々はばかられるところではある。作品中、当時の関係者5人がそこを訪ねてみるのだが、現在の建物の前で一同困惑したような表情を浮かべ、ある元女優は「悲しい…」と、本当に悲しそうな声をあげる。その悲しみは、思い出の場所が成人映画館になっていたからか、それとも、街全体の変貌ぶりによるものなのか…。

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ついでに言うと、この映画が上映されているK's cinemaはその国際劇場からわずか100メートル。まさに「ご当地」でのロードショーなのである。私は新宿高校に通っていたので、毎日のように歩いていた場所なのだが、そんな歴史に名を残す劇場がこの界隈にあったとは知る由もなかった。最近はこういう歴史の発見に胸をときめかすことが多くなった。そういう年代になってきたということなのだろう。

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新宿通りに出てみると、中村屋は建て替えのため休業中。戦後の昭和史とともに生きてきたこの建物も、ついにその役目を終えたということか。
レストランが店を閉めるのは知っていたが、カリーパンやピロシキなどの販売もすべて休止するとは思わなかった(中華まん同様、どこかで作って売るとばかり…)。私は中村屋のカリーパン&ピロシキの隠れ愛好者だっただけに、これは結構「悲しい」出来事であった。
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2011年10月20日

秋田でのイベント

9月30日と10月15日、秋田県内のイベントに参加してきました。

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上の写真は、9月30日に井川町立井川中学校で行われた三浦衛さん(春風社代表取締役)の講演会「ふるさとへの旅 〜郷土の偉人・武塙三山に学ぶ〜」の第2部で演じられた朗読劇「やけどした神様」の一場面です。この作品は、武塙三山の随筆集『離村記』の中の「火傷の御神体」を青江舜二郎が戯曲化したもので、それを今回、息子の私が補綴と演出を行い、ご当地井川での初披露となりました。

あらすじは、戦災のために焼けこげた村の神社のご神体を、そのままお祀りするべきか、新しく作り直すかで村人たちが議論が繰り広げ、その中で日本人独自の宗教観や死生感が、それぞれの立場や生活ともからんで立ち現れてくるというもので、発表から50年が過ぎた今でも内容は古びていないと思います。
出演は三浦さんと私、それに井川中学校の佐藤博英校長先生と4人の先生方。皆さん予想以上のはじけっぷりで、場内は大変な盛り上がりでした。

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最初のうちは通常の朗読劇でしたが…

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物語の進行とともに場は次第に熱を帯び―

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クライマックスではこの大混戦ぶり!

生徒さんたちや町内の方々にも楽しんでいただけたようで、演じたこちらも大変充実したひとときでした。

■武塙三山の功績紹介 井川中で講演会 随筆基に朗読劇も
(秋田魁新報 2011年10月6日)


続いては10月15日の「読書のつどい2011 in 秋田」。こちらは県と県教育委員会の主催で、秋田市内の生涯学習センター講堂で行われました。

午前中には、何と映画「火星のわが家」の特別上映も。大画面で鑑賞するのは私自身もかなり久しぶりで、いろいろと懐かしく撮影当時を回想しました(画面が大きいと細かいところまでよく見えるため、撮影現場の空気感が自然と蘇ってくるのです)。

なお、昨年あたりから世間で何かと話題の電子出版ですが、実は「火星のわが家」にはヒロインの父親が、電子出版で自叙伝を刊行するというエピソードが登場します。この映画が撮影されたのは1998年、今から13年も前ですから、着目するのはかなり早かったと言えるのではないでしょうか。

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電子書籍のサンプルを見つめる登場人物たち(日下武史、堺雅人、鈴木重子)。「火星のわが家」より

撮影に先がけて、その道のパイオニアであるボイジャーの社長・萩野正昭さんのところを訪ね、実際に青江の随想集『引っ越し魔の調書』を電子書籍化してもらったのも忘れられない思い出です(萩野さんご自身も昨年、『電子書籍奮闘記』という本を出されています)。

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そして午後からは「ふるさとと本を語る」と題して、前述の三浦衛さんと、秋田県立大学教授の高橋秀晴さんとのトークショー。高橋さんは近現代文学研究がご専門で、三浦さんは出版社を経営、そして私が映像の製作をやっていることから「文学・出版・映像の響き合い」という、何だかスケールの大きなサブタイトルがついています。でも、一応看板に偽りのない内容になったと思います。

三浦さんと高橋さんはこの日が初対面でしたが、お二人は同じ秋田高等学校の一学年違いですし、私はご両人ともに以前からの顔見知りでしたから、トークはきわめてスムーズに、リラックスした空気の中で進んでいきました。それは、三浦さんもブログに書かれていたように、高橋さんの名司会に負うところが大きかったと私も思います。

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会場でも少し話しましたが、青江の評伝を秋田魁新報に連載し始めたのが2009年の4月、その直前まで同じ欄で新潮社の創業者・佐藤義亮の評伝を執筆していたのが高橋さんでした。連載を引き継ぐに当たり、高橋さんにはずいぶんいろいろとアドバイスをいただき、そのころから、大変心配りをされる方だなあという印象でした。また三浦さんは、その青江の評伝を出版してくれた春風社の社長さんです。いわばお二人は私にとっての恩人で、そのお二人に挟まれながら、自分の著書や映画のことについて、思うまま語らせていただきました。

と同時に、お二人がいかにして若き日に「本」と出合ったかをうかがうことが出来たのも、私にとっては大きな収穫でした。三浦さんは高校時代、夏目漱石の「こゝろ」で人間の暗部を見せつけられ驚愕し、また、高橋さんは思春期にお母様が肺結核を患い、その時期の淋しさを埋める行為が読書であったといいます。実は私も、一番本を読んだのは、青江が病床に伏していた中学高校時代でした。その時期に形成された人生観は、今も私の心に居座っていると感じます。多感な青年期に、心のいわば裏側の部分に触れるような読書体験を持つことが、その後の人生を大きく左右する場合もあるのだと改めて思いました。

他にも、電子出版や雑誌「種蒔く人」90周年、秋田出身作家やその作品のことなど、ここには書き切れないくらい話題は多岐におよびました。会場にいらした方々にとっても、実りの多い数時間だったのではないでしょうか。

■本への熱い思い語る 読書のつどいで本県ゆかりの3人 著作のきっかけなど披露
(秋田魁新報 2011年10月16日)
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2011年09月20日

ふるさとへの旅

またまたお知らせです。10月15日の「読書のつどい」はすでに告知したとおりですが、それより半月早い今月末日にも、秋田で別のイベントに参加します。場所は南秋田郡井川町にある井川中学校。
最近新しい校舎棟が完成した井川中学校では、それを記念し井川町出身の三浦衛氏(春風社代表取締役)を講師に招いて「ふるさとへの旅 〜郷土の偉人・武塙三山に学ぶ〜」と題した講演を催すのですが、何と講演の第二部として、武塙三山の随筆を青江舜二郎が戯曲化した「やけどした神様」が朗読劇として上演されます。私は今回、その朗読劇用台本の補綴と演出を引き受けることになりました。
あらすじは下に記したとおりで、コミカルな展開でありながら、日本人の社会観や宗教観、そして死生観までも浮き彫りにした秀作だと思います。出演するのは三浦氏、私、そして井川中学校の校長先生と諸先生方総勢7名。これを見逃すとおそらくもう永久に見られない、まさに一期一会のステージといっていいでしょう。どなたでも自由に観覧できますので、秋田周辺の方は是非お出かけ下さい。

井川中学校校舎棟完成及び学校祭記念講演会
ふるさとへの旅 〜郷土の偉人・武塙三山に学ぶ〜

井川町出身の武塙三山(1889〜1964 秋田魁新報社社長、秋田市長、秋田放送社長などを歴任)の業績や文章から郷土の姿を学び、同時に「ふるさと」について考える。

講師:三浦衛(春風社代表取締役)

日時:2011年9月30日(金)
13:30〜15:20
場所:井川中学校体育館
(奥羽本線井川さくら駅下車)

内容:
第1部/講演
第2部/朗読劇「やけどした神様」
(原案:武塙三山/脚色:青江舜二郎/補綴・演出:大嶋拓)

あらすじ:戦災のために焼けこげた、村の神社のご神体。このままお祀りするべきか、それとも新しく作り直すべきか。氏子や神主、村会議員、オブザーバーの無神論者などが集まって、議論が百出する。それぞれの意見に固執して譲らない参加者たちを見かねた無心論者は、「本当に神様がいるならば、今すぐ自分に罰を当ててみろ」と、賽銭箱に小便をかけようとするのだが…。

※入場無料。どなたでも観覧できます
問合わせ:井川中学校
電話 018(855)6012
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2011年09月03日

イベントのお知らせ

少し先の話ですが、来月の中旬に秋田で行われるイベントに出演します。
現在県が積極的に行っている読書推進活動の一環としての行事ですが、対談に先がけて、映画「火星のわが家」の上映もあります(秋田でこの作品が上映されるのは、2000年の十文字映画祭以来なので何と11年ぶり!)。以下はその概要です。お近くの方は是非お出かけ下さい。

読書のつどい2011 in 秋田

日時:2011年10月15日(土)
場所:秋田県生涯学習センター講堂(秋田市山王中島町1-1)

※入場無料ですが、事前の申込みが必要です。
問合せ・申込み:秋田県総合政策課 県民読書推進班
        電話:018-862-5200

内容:
●映画「火星のわが家」 特別上映 (10:00〜)

かつて「宇宙博士」として多くの本を世に送り出してきた老作家の元に、アメリカで歌手として活躍する次女が里帰りしてくる。実は彼女はステージに立つと声が出なくなるという深刻なトラブルを抱えていた。ひと夏の家族の交流を静かなタッチで描く。
2000年公開。第12回東京国際映画祭参加作品。
出演:鈴木重子 堺雅人 ちわきまゆみ 日下武史
監督・脚本・編集:大嶋拓

●鼎談 ふるさとと本を語る 〜文学・出版・映像の響き合い〜 (13:45〜)

秋田の生活や文化、先人たちの生涯を書物にしたためた著者3人による鼎談。

話し手:
三浦衛(春風社代表取締役)1957年、秋田県井川町生まれ。東北大学経済学部卒業。1999年、出版社「春風社」を創業。学術書を中心に現在まで約400点を刊行。著書に『出版は風まかせ おとぼけ社長奮闘記』『父のふるさと 秋田往来』がある。

大嶋拓(映画監督)1963年、東京生まれ。秋田市出身の劇作家・青江舜二郎の長男。慶應義塾大学文学部卒業。「カナカナ」「火星のわが家」「凍える鏡」などの映画作品を監督。今春、初めての著書『龍の星霜 異端の劇作家 青江舜二郎』を出版。

高橋秀晴(秋田県立大学教授)1957年、秋田市生まれ。早稲田大学卒業、上越教育大学大学院修了。専門は日本近代文学。著書に『秋田近代小説・そぞろ歩き』『出版の魂 新潮社を作った男・佐藤義亮』など。
posted by _ at 10:03| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする