2021年06月14日

加藤茂雄さん一周忌 『浜の記憶』期間限定無料配信

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本日、6月14日は、俳優・加藤茂雄さんのご命日です。亡くなられて、丸1年が過ぎました。月日の経つのは本当に早いものです。

一周忌に際し、加藤さんが93歳で初主演した映画『浜の記憶』を、東宝撮影所がある「ゆかりの地」世田谷で上映するイベントを企画していたのですが、時節柄実現に至らず、その代案として、同作品を明日(15日)から、期間限定で無料配信することにしました。2019年7月の公開初日の舞台挨拶の模様も合わせて配信します。

※配信は8月31日で終了しました。

【期間限定配信】映画『浜の記憶』
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【期間限定配信】『浜の記憶』初日舞台挨拶
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視聴の詳細についてはこちらのページをご覧ください。

コロナ禍からすでに1年以上が過ぎ、猫も杓子もオンラインという世の中ですが、自分の作品については、あまりそういう発想はありませんでした。しかし、今月初めから『影たちの祭り』がNIPPON CONNECTION(ニッポン・コネクション)で配信される運びとなり、そうか、そういう手もあったか、と、今さらのように気がついた次第です(ある物事が行われているのを知識としては知っていても、それを自分のこととして考えられないというケースは案外多いものです)。

『浜の記憶』はすでに出来上がっている作品なので、データを配信用に軽くするだけですみましたが、舞台挨拶の記録映像の編集は思った以上に時間と手間がかかりました。初日の舞台挨拶は、加藤さんのトークが弾みすぎて30分以上に及んだのですが、ノーカットではいくらなんでも長すぎます。しかし、加藤さんの話はよどみなく続くので、なかなか切りどころが見つかりません。おかげで、何度も何度もトークを聞き直すことになり、久しぶりに加藤さんのあの懐かしい語りに長時間耳を預けることになりました。また、撮影した動画は劇場の後方に設置した固定カメラのものなので、映像にまったく変化がありません。そこで、当日、助監督の内田さんと特撮ライターの友井さんが撮影してくれたスチールを適宜、インサートすることにしました。トークの動画にスチールを入れ込むという編集も、私はこれが初めての経験で、なかなか面白いものでしたが、写真の点数がかなり多く、そのセレクトにも思った以上の時間を要しました。当然、それらの写真はほぼすべて加藤さんがメインで映っているので、この数日間は、実によく加藤さんのお声を拝聴し、同時に、そのお顔をじっくりと拝見しました。これもまた、故人をしのぶ営みのひとつなのでしょう。

※配信は8月31日で終了しました。
posted by taku at 20:50| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月02日

加藤茂雄さんの面影

6月に入りました。早いもので、俳優の加藤茂雄さんが94歳で亡くなって、間もなく1年になろうとしています(6月14日がご命日)。

現在、NHK BSプレミアムでは『ウルトラQ』(1966年)と『ウルトラセブン』(1967〜8年)の4Kリマスター版が放送されています。日本を代表する特撮ドラマといわれるこの両作品には、どちらも2回、加藤さんが出演しています。

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すでに放送が終わってしまいましたが、『ウルトラQ』では第3話と第8話、『ウルトラセブン』では第1話と第5話で、当時40代だった加藤さんの面影をしのぶことができます。

ultraQ_03.jpg 『ウルトラQ』第3話

ultraQ_08.jpg 『ウルトラQ』第8話

放送からすでに50年を過ぎているというのに、映像技術の進化のおかげで、眼前にあるかのような鮮明な映像で、若い時の加藤さんと再会することができるのは幸せです。

ultra7_01_01.jpg 『ウルトラセブン』第1話

ultra7_05.jpg 『ウルトラセブン』第5話
posted by taku at 20:44| 特撮 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年06月01日

『影たちの祭り』、NIPPON CONNECTIONにて無料配信

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本日、6月1日、NIPPON CONNECTION(ニッポン・コネクション)が開幕しました。NIPPON CONNECTIONはドイツのフランクフルト市で毎年初夏に開催されており、海外で行われる日本の映画祭としては最大規模のものです。2021年は新型コロナの影響もあり、6月1日から6日までオンラインで行われます。

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そのNIPPON CONNECTIONにおいて、劇団かかし座のパフォーマンス「Hand Shadows ANIMARE」(全編英語)と影絵ワークショップ(日独語通訳付き)のライブ配信が行われることになり、そのつながりで、「Hand Shadows ANIMARE」の舞台裏を描いたドキュメンタリー映画である『影たちの祭り』(ドイツ語字幕版)も、合わせて配信されることになりました(6月24日まで)。

詳細はこちらのページをご覧ください。視聴ページはドイツ語表記なのでちょっと面倒くさいですが、メールアドレスとお名前、そしてパスワードを2回入力すれば、全編無料で視聴できます。

『凍える鏡』はこれまでGyao! などで何度か無料配信してきましたが、『影たちの祭り』の配信は完全にこれが初めて。しかも、なかなかお目にかかれないドイツ語字幕つき。見初めは字幕が少し邪魔なようにも思いますが、慣れてくると、いかにも「映画祭での上映」という感じがしてきます。
思い起こせば今から26年前、私の初めての劇場用映画『カナカナ』も、ドイツのベルリン国際映画祭においてドイツ語字幕で上映されました。あのころからドイツは日本映画に対する理解が深い国だと感じていましたが、いつの間にかこんな大規模な日本映画のフェスティバルが開催されるようになっていたのです。ちなみにドイツ語字幕での上映はその時以来なので、何だか初心に返ったような気分です。

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ベルリン国際映画祭1995のパンフレット

『カナカナ』でデビューして、すでに26年というのもわれながら驚きますが、この『影たちの祭り』も、2012年の作品ですから、来年で撮影してから10年を数えることになります。月日の経つのは本当に早いものです。しかし嬉しいことに、移り変わりが激しい昨今の情勢にも関わらず、かかし座のメンバーは相変わらず倦まずたゆまず、われわれを楽しい気分にさせてくれるパフォーマンスを送り続けてくれています。「Hand Shadows ANIMARE」を2012年に演じた時のメンバー4人(飯田周一、石井世紀、菊本香代、櫻本なつみ)は全員、今もかかし座に在籍しており、6/5のライブ配信も、最初はこのメンバーで、と、リーダーの飯田さんは考えていたようなのですが、他の公演との兼ね合いで、今回は石井さんの代わりに、松本侑子さんが入ることになったそうです。

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そうそう、現在かかし座では、「影絵女子」という4人の女性ユニット(かよっぺ=菊本香代、さく=櫻本なつみ、ゆーゆ=松本侑子、ちっぴ=梅原千尋)を結成して、かなり意欲的に活動しているのですが、そのうち菊本さんと櫻本さんは、「Hand Shadows ANIMARE」の2012年当時のメンバーでもあるので、『影たちの祭り』には9年前の、今より少しだけ若い「影絵女子」おふたりの姿が記録されています。

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でも、これがびっくりするくらい変わっていない……。いやもちろん、それだけの時間が経っているので、パフォーマンスの方は目覚しい上達を遂げているのですが、屈託のない笑顔と初々しさはまったく失われていません。これは、長年劇団を応援している者としては大変嬉しく感じるところです。

菊本さんと櫻本さんといえば、今でも忘れられないエピソードがあります。『影たちの祭り』は、基本的に影絵のパフォーマンスを記録したドキュメンタリーなので、場面のほとんどは稽古場、しかも大変暗いのです。スクリーンに映った影はとても美しいのですが、対照的に、バックステージは常に光が足りない状態で、「このままだと、いささか彩りに欠けた映画になってしまうのでは?」と撮影中感じるようになりました。

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そんな時、櫻本さんが「動物のリアルな動きを観察するために、ときどき動物園に行きます」と話していたのを聞いて、「よし、それなら」と、菊本さんと櫻本さんが野毛山動物園を訪ね、キリンや亀、白鳥、ペンギンたちの前で、その姿を作ってみる、いわば動物たちとコラボするシーンを入れたのです。結果としてこれは大変いいアクセントになりました。おふたりの表情も生き生きしていて、今でも大好きな場面です。

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なお、映画の中では、これは「休日のひとコマ」ということになっていますが、実際にはこの撮影が正午すぎに終わると、おふたりはすぐ、待機していたほかの劇団員と合流し、地方公演に出発したのでした。今も昔も、かかし座メンバーは大忙しです。

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もちろんそれ以外にも、東京公演初日の前日に新しい演目を急遽作りあげるプロセスや、後半、少しだけ明らかになる個々のメンバーのプライベートライフなど、90分弱という尺の割には、いろいろと見所の多い作品だと自負しています。影絵の魅力に取り付かれ、影絵とともに生きる彼ら彼女たちのひたむきな姿と、その比類なき作品を、是非この機会に、映画と、そしてライブ配信の双方で、ご高覧いただければと思います。

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映画とライブ配信の両方に出演のお三方(左から 櫻本なつみ、菊本香代、飯田周一)。どうぞお楽しみに!

◇ライブ配信パフォーマンス『 Hand Shadows ANIMARE 』
6月5日(土)21:00〜22:15(JST 日本時間) ※配信終了
◇オンライン・ハンドシャドウ・ワークショップ
6月5日(土)23:00〜24:00(JST 日本時間) ※配信終了
◇ドキュメンタリー映画『影たちの祭り』(ドイツ語字幕版)(無料)
6月1日(火)〜6月24日(木) ※配信終了

2021年05月31日

『バイクロッサー』の台本が…

先日、なぜか『兄弟拳バイクロッサー』のことを思い出し、ネット検索をしていたところ、大変にショッキングなものを発見。なんとヤフオクに、潮建磁(潮健児)の使用した『バイクロッサー』の台本が出品されていたのである。しかも、わずか1,500円という信じられない金額で、競り合うこともないままに落札されていたのだ。オークション開始は4月11日で終了は17日。つい先月のことではないか。気づかなかった自分が呪わしい。

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表紙の書き込みから、5月11日にクランクインで20日にアップ、25日にアフレコが行われたらしいこともわかる(もっともこれは決定稿が配布された時点での予定で、変更された可能性もあるが)。

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潮建磁みずからが描いたと思われる似顔絵も。

正直、これにはかなり凹んだ。この27話「善人になったドン」というのは、『バイクロッサー』全34話の中でも屈指の名作であり、そして唯一といっていい、潮建磁の完全主役回なのである。そんな貴重な回の台本が、こんな形で市場に出ていたとは……。

まずはこの「善人になったドン」を、簡単にご紹介していこう。

1985年7月11日放送。脚本:杉村のぼる 監督:奥中惇夫

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秘密結社デスターの首領(ドン)・ドクターQは、携帯縮小式のフライングマシンを発明し、みずからその試験飛行に出発。

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ここでタイトルコール。ドクターQを演じる潮建磁はこの時60歳だが、嬉々としてピアノ線につられている。

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シルクハットにタキシードといういでたちは、かつて『悪魔くん』で演じたメフィスト役へのオマージュか?

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大空の散歩を楽しむドクターQだったが、カラスに纏わりつかれ、バランスを失い、

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あえなく地面に落下。

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救急車で病院にかつぎ込まれるが、頭を打ったショックで記憶喪失になり、自分が誰なのか思い出せない。

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同じ病室には雪子という女の子が入院中。

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雪子は事故で足を痛め、今はもう完治しているのだが、恐怖心が先に立って歩くことができない。

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ドクターQは、タキシードの内ポケットに入っていたフライングマシンを見つけ、雪子に着用を促す。「歩けなくても、これで空を飛べば、行きたいところへ行ける」と(記憶喪失のはずのドクターQが、どうしてフライングマシンの操作を覚えていたかという野暮な突っ込みはなしで)。

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本来、ドクターQは子どもが大嫌いなひねくれた性格なのだが、雪子の境遇が自分の今の境遇と重なったからか、あるいは頭を打ったショックからか、素直に雪子と心を通わせていく。父親がいない雪子も、ドクターQを「おじいちゃん」と呼んでなつく。

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しかし、ドクターQを本部に連れ戻そうとするデスターの面々が襲ってきて、それをバイクロッサーが撃退するなどの騒ぎがあり……(ドクターQの深層意識に、これまでさんざんバイクロッサーにやられてきたという記憶が残っていたようで、バイクロッサーには激しい嫌悪感を示す)

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これ以上雪子を危険な目に遭わせるわけには行かないと、そっと病院から去ろうとするドクターQだったが、雪子も、「おじいちゃんと一緒に行く」と聞かない。

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ドクターQは雪子の母親に、「雪ちゃんは必ずお返しします」という置手紙を残して(悪の首領とは思えぬ紳士的な行為)、ひととき、雪子との道行きを楽しむが……

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またも、ドクターQとフライングマシンの奪還をもくろむデスター一味。今度は、デスターロボがドクターQそっくりに化けて雪子に近づく。

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これがデスターロボが化けたドクターQ。潮建磁の演じ分けに注目。

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この時は本物のドクターQが雪子にそれを知らせ、雪子は駆けつけたバイクロッサーの助けもあって難を逃れる。そして雪子は、乱闘に巻き込まれて倒れているドクターQの身を案じ、ついに自分の足で立って歩く。

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それを見つめるドクターQ。まあ、この辺は「クララが立った」的な王道展開なのだが、潮建磁の演技に思わず見入ってしまう。

雪子が歩けるようになったのを見届けたドクターQはその場に倒れ、その時に頭を打ったショックで、元のドクターQに戻る(ほぼ同時に雪子もつまずいて倒れ意識を失っており、ドクターQの変貌は見ていない)。

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記憶を取り戻したと同時に、雪子と過ごした日々のことをすべて忘れてしまったドクターQ。デスターの首領として戦線に復帰し、バイクロッサーとの戦いが始まる。この後はルーティンワークなので省略するが、ラストは、無事退院することになったユキ子が、病棟の方を振り返り、優しかったおじいちゃん(ドクターQ)はどこに行ってしまったのかしら、と思いを馳せる場面で終わる。

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いかがだったろうか。
60〜80年代のテレビ特撮作品を思い返しても、悪の組織の首領が、一時的とはいえ、完全に善人キャラに変貌するというエピソードは他に思い当たらない。そういう意味では、大変な異色作といえるだろう。
「どんなエゴイスティックな人間でも、その根底には善の心がある」というテーマは、ディケンズの「クリスマス・キャロル」にも通じるものがあり、放送当時に視聴した時にも大いに感心したものである。脚本の杉村のぼるは同時期に『スケバン刑事』のメインライターも務めていたのだが、あちらではかなり陰惨なエピソードを連発していたのに対し、こちらはどこまでもハートウォーミングな作劇で、その書き分けの妙にも舌を巻いたものだ。そしてまた、悪の首領と人のよい初老の男を見事に演じ分けた潮建磁の名演も忘れがたい(彼自身も大層気合いを入れて撮影に臨んだように思われる)。以上の2つの理由により、今でも深く記憶に焼きついている一作なのである。

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そんな作品の台本が、しかも、実質的な主役である潮建磁が使用した台本が、こんな形で売買の対象になってしまう。これもまた時代の流れということであろうか。昭和時代を彩った俳優たちが次々世を去っていく今、「遺品の整理」という名目で、こうした出品は、これからも増えていくことだろう。
posted by taku at 22:04| 特撮 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年05月26日

ルリ子をめぐる冒険(10)メディアミックスとしての「緑はるかに」

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↑オーディション終了後の記念写真か。右から、まだ髪の毛を切る前の浅井信子(浅丘ルリ子)、その隣りが主題歌を歌う安田祥子、その前がマミ子役の渡辺典子、水の江滝子(ターキー)、安田章子(由紀さおり)、左後ろの女性は不詳(1954年11月)

「緑はるかに」に関する出来事を時系列でまとめると、だいたい以下のとおりである。

1954(昭和29)年

4月12日 読売新聞夕刊にて絵物語(作・北條誠、絵・中原淳一)の連載開始。
5月19日 読売新聞夕刊に映画化決定の記事が掲載。
8月2日 ニッポン放送にて連続放送劇として放送開始(提供は森永製菓)。
8月6日 読売新聞夕刊にヒロイン・ルリ子役募集の告知記事が掲載。
11月23日 ルリ子役の最終面接(調布・日活撮影所にて)。
11月30日 ニッポン放送の連続放送劇、放送終了(全87回)。
12月6日 映画脚本審査。読売新聞夕刊に「ルリ子役」決定の第一報掲載。
12月6日 『ジュニアそれいゆ』1955年早春号発売。「ルリコさん決定」の記事が掲載。
12月14日 読売新聞夕刊の絵物語連載終了(全210回)。
12月24日 映画クランクイン。
?月?日 コロムビアレコードより主題歌発売。

1955(昭和30)年

2月12日 映画クランクアップ。
2月19日 映画ダビング終了。
3月15日 映画完成試写。
3月22日 映画審査試写。
4月5日 トモブック社より「映画物語シリーズ1 緑はるかに」刊行(画・わちさんぺい)。
5月1日 豊島公会堂にて一般試写。2,700人を招待。
5月8日 劇場公開。併映は「天城鴉」「ペンギンの国を訪ねて」。
8月5日 ポプラ社より原作単行本刊行(カバー絵・松本昌美、挿絵・花房英樹)。

という感じで、約1年4ヶ月の間に、

1)新聞連載の絵物語
2)ラジオの連続放送劇
3)レコード
4)コミカライズ
5)劇場映画
6)原作単行本

と、6つのメディア展開がなされたことがわかる。当事としてはかなり多角的と言えるのではないか。これが70年代以降であれば、確実にテレビドラマ化も行われただろうが、この当時はまだテレビは始まったばかりでドラマといえばすべてスタジオでの生放送、まだ主要メディアのひとつとは言えない状態であった。

さて、1954年8月1日の読売新聞夕刊には以下のような記事が載っている。

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緑はるかに を連続ドラマに
ニッポン放送

本紙に連載中の北条誠作「緑はるかに」は、日活入りした水の江滝子プロデューサーのプ第1回作品として映画化されるに先だち、ニッポン放送で、2日から11月末まで87回にわたり、土、日を除く毎夕5時50分から10分間、子供と母親向け、耳できく絵物語風の異色連続ドラマとして放送される。

この放送がきまってから電波にのるまでに、二週間近くしかなかったので、原作者の北条誠は放送の打合せやら台本を書くのにてんてこ舞、盲腸の手術後禁酒していたのを、はじめて破り、アルコールの助けをかりた始末。「おかげでまた酒飲みにされた」とは本人の弁。

テーマ・ソングを作るのに西条八十作詞、米山正夫作曲の案がたてられたものの、短期間のうちに引受けてもらえるかどうか不安が持たれた。それを聞いた水の江プロデューサーは西条八十くどきの役≠買ってでて、気分がのらなければ仕事をしない、わがままな叙情詩人に傑作をものさせた。(中略)米山正夫の作・編曲は、童謡と歌謡曲の中間をゆくロマンチックなメロディーで放送のたびに少年少女ファンをわかすコロムビア専属の童謡歌手安田祥子が歌う。

映画で流れる主題歌は、映画用にではなく、まずはこのラジオドラマのために作られたことがわかる(当初からラジオと映画の両方で使うことになっていたのかも知れないが)。しかしこの「緑はるかに」の主題歌のレコードがいつごろ発売されたのか、そしてどんなジャケットデザインだったのかはまったくわからない。ご存知の方がいたらご教示いただきたいところである。

父母を失い、形見のオルゴールの小箱を求めてさまよう不幸な少女ルリ子役に、児童劇団こけし座の小島くるみが登用された。彼女は映画俳優小島洋々の娘で中学1年生、去年母親と死別した哀しみが小さな胸によみがえるのか「録音中あの子がお母さん、お母さんと呼ぶセリフの時など妙に実感がこもっていて…」と係をはじめ大人の出演者の胸をいためさせている。

不幸な主人公をかばって大活躍する浮浪児チビ真を、これもこけし座の磯部正己(中学2年生)が主演するほか、出演者はほとんど同劇団員の競演である。(中略)悪漢田沢役を元NHK放送劇団の真弓田一夫、解説をこれまた元NHK、現在ニッポン放送所属の石原アナが担当(中略)。

こうした悲喜こもごもの話題を呼んだこのプロ(プログラム=番組)が、これほど急いで製作されたのも映画、レコード、放送と立体的に広報するチャンスをのがさないようにと考えられたからで、いよいよ競争の激化した民放プロの最も理想的な企画の一つのテスト・ケースとして注目を集めている。

この記事の最後には、明らかにマルチメディア戦略を匂わす記述があり、そこには誰か音頭を取る人間がいたことは確実である。そして、西条八十くどきの役≠買って出たのが水の江滝子、という一文からも、一連の仕掛け人が往年の大女優・ターキーであったことはほぼ間違いないと思う(戦前のターキー人気は大変なもので、なんと西条八十も私設後援会「水の江会」の会員だったという)。

それにしても、ラジオドラマ化決定から放送まで2週間しか時間がなかったというのもすごい。このころは今より万事のんびりしていたかと思いきや、とんでもない突貫工事である。また、原作の北條誠が、病みあがりの体で新聞連載と平行してラジオドラマのシナリオも書いていたというのも泣かせる。若いころ熱烈なファンだったというターキーの頼みだけに断れなかったのだろうか。

とにかく、水の江滝子という人は、私の想像のはるか上を行く敏腕プロデューサーだったようだ。今回「緑はるかに」にまつわる記事を書くにあたり、本人のインタビューをまとめた『ひまわり婆っちゃま』と本人および日活関係者の証言をまとめた『みんな裕ちゃんが好きだった』の2冊を読んだのだが、彼女の柔軟な発想や行動力、そして人間を見る目(それらはすべて女優時代に培われたものであろう)には何度も舌を巻いた。浅丘ルリ子を筆頭に、岡田眞澄、フランキー堺、石原裕次郎、和泉雅子、吉永小百合と、彼女が発掘した新人は枚挙にいとまがない。撮影所システムが機能していた時代の記録という意味でも大変興味深く、まさに日本映画が一番元気だったころの息吹きに触れた気分であった。お時間のある方には、ぜひご一読をお勧めする。

さて、水の江滝子が女優業に区切りをつけ、プロデューサーに転身したのは1954年3月、「緑はるかに」の連載が始まるひと月前のことであった。ターキーには当時、マネージャー兼恋人のような存在の兼松廉吉という男がいたのだが、その兼松が2月10日、借金問題を苦に自殺。兼松は読売新聞の企画部長だった深見和夫(後に報知新聞社長)に、「滝子のことをよろしく頼む」という遺書を残しており、深見はそれに応える形で、ターキーを日活に紹介し、プロデューサーの座に据えたのだという。

昭和29年(1954年)の3月に初めて日活に行ったのかな。ところが、会社に行ったって何したらいいのかわからない。(中略)自分の机なんかないから、江森さんていう常務の席の隣にあった応接セットにふんぞり返って、新聞とか雑誌とかいっぱい積んであったのを、手当たり次第読んでたの。

『ひまわり婆っちゃま』水の江瀧子(1988年・婦人画報社)

そんな生活が続く中で、4月に読売新聞で「緑はるかに」の連載が始まり、ターキーがそれに目を止めた、というのがオフィシャルなストーリーのようだ。映画化決定を報じる1954年5月19日の読売新聞夕刊には、

女性プロデューサーとして、また多年の舞台生活の経験から、明るい、そしてロマンチックな音楽映画や喜劇をやわらかいタッチで描く作品を製作すべく、その素材をさがしていたターキーがこれこそ≠ニばかりとびついたのがこの「緑はるかに」だった。

との一文がある。だが、この時のターキーはまだ入社2ヶ月、プロデューサー業務の何たるかもわからなかったはずで、この時点ですべての舵取りを一人で行ったとは考えにくい。そこで浮かんでくるのが先ほども書いた、ターキーを日活に入社させた深見和夫の存在である。深見は当事、読売新聞の企画部長。自社の新聞で連載が始まったばかりの絵物語「緑はるかに」を、ターキーに推薦したことは大いに考えられる。実際、この時期に読売新聞夕刊で、「緑はるかに」と同じページに連載されていた小説「女人の館」(原作・白川渥)も、連載終了後間もなく日活で映画化されている(1954年11月23日公開)。監督は春原政久、主演は三國連太郎と北原三枝、そしてこの映画になんとターキーは役者で出演しているのである。本人の発言によれば、小銭稼ぎのためだったようだが、結果として、新聞小説を映画化するプロセスを体得する場になったようにも思われる。

ちなみに、「緑はるかに」の原作者である北條誠は、今では名前を聞いてもあまりピンとこないが、当事は映画化向けの小説を量産する、文字通りの売れっ子作家であった。以下は松竹のプロデューサーだった山内静夫の『松竹大船撮影所覚え書』(2003年・かまくら春秋社)からの引用である。

1950年代、松竹映画で最も活躍した作家の双璧は、中野実と北条誠である。文芸作品とは言い難いが、中野実の小説には明るさとホームドラマ風の暖かさがあり、女優王国の松竹には向いていたし、北条誠はその若さのもつカラッとした恋愛ドラマで、従来のメロドラマ路線にありながら、戦後の世相を捉えた現代性が観客には好感を与えた。(中略)北条誠は昭和24(1949)年から32(1957)年までの9年間に実に13本の原作を提供した。しかも北条の「この世の花」という作品は2年間(1955年3月〜1956年10月)で第1部から第10部まで作られた。短期間にこれだけ連続して作られた例はあまり見ない。これなどは、映画の反響を受けて、逆に原作の内容が出来ていったと言えなくもない。掲載雑誌とも連動して宣伝効果を高めたり、ロケ地なども土地土地の要望を入れる等、立体的に興行性を高めることに成功した。

これから察するに、読売新聞サイドは、北條誠に連載を依頼した時点で、密かに映画化の機会をうかがっていたのではないだろうか。映画のヒットは当然自社の宣伝にもなる。そこで深見和夫を通じ、これを日活入社間もないターキーに委ねたのではないか、などと勝手な想像を働かせてしてしまうのである。

そしていよいよ8月6日、読売新聞夕刊においてヒロイン・ルリ子役の募集告知がなされた。ひまわり婆っちゃま』には以下の一文がある。

その時も役者がいなくて、「主役を募集しようか」って私が言って、それで選ばれたのがルリちゃん(浅丘ルリ子)だったの。このやり方も結構宣伝になったのかな。

このころはもう、ターキーもプロデューサーとしてエンジンがかかっていたようで、ヒロイン募集のアイデアのみならず、ルリ子を最終的に選んだのもターキー自身だったようだ。いくら中原淳一が猛プッシュしたとしても、彼は衣裳デザイナーの立場、最終決定権を持つのはターキーである。そしてプロデューサーと並んで作品に権限があるとされる監督は、このオーディションにはまったくタッチしていなかった。以下は井上梅次監督の回想である。

僕は新東宝育ちなんですね。その頃、江利チエミがテネシーワルツで大ヒットしたのに対抗して、雪村いづみをスターにしようという話があり、「東京シンデレラ娘」という音楽映画を撮った。(中略)それを水の江さんが日活のプロデューサーとして見ていてくださったんですねぇ。その後別のルートから引き抜きがあり、日活へ移ったんですが、水の江さんとは「緑はるかに」が最初ですね。(中略)「緑はるかに」のヒロインを募集したんですが、私は日活に移る前の東宝の仕事が宝塚でありまして、審査会に出られなかったんです。(中略)浅丘ルリ子という名前は私がつけたんですけどね、選んだのは水の江さん。

『みんな裕ちゃんが好きだった』水の江瀧子(1991年・文園社)

このとおりだとすれば、井上梅次を監督に抜擢したのもターキーだったことになる。井上の「東京シンデレラ娘」(1954年4月26日公開)を見て、これはいけると思ったのだろう。なお、井上は日活に移籍する前、雪村いづみ出演の映画を立て続けに5本撮っているが、そのうちの3本にフランキー堺が出ている。ターキーの著書では、フランキー堺について、「数寄屋橋のライブハウスでドラムを叩いているのを見つけて、映画に出ないかとスカウトした」という話になっているが、実際にはターキーが日活に入社する1年以上前からフランキー堺は映画に出ているので、このエピソードは少し事実と違っているように思う。どちらかといえばフランキーは井上梅次人脈という印象が強い。ついでに言うと、「東京シンデレラ娘」につづく「乾杯!女学生」(1954年6月29日公開)では、ターキーは雪村いづみの母親役で出演している。この映画の撮影時はすでに日活に在籍していたはずで、もしかすると井上梅次監督の演出を見聞するために出演を引き受けたのかも知れない。

なお、この「緑はるかに」がターキーの初プロデュース作品と喧伝されることが多いようだが、実際の第1作は、1955年1月8日公開の「初恋カナリヤ娘」(58分)である。ただ、これは田中絹代監督作品「月は上りぬ」(102分) との併映で、SP(Sister Picture=2本立て興行用の中編)として製作されたため、正式な長編作品としては「緑はるかに」ということになるのだろう。このあたりは前回書いた、「日活初の総天然色映画」と位置づけが似ているように感じる(実際の第1作は「白き神々の座」だが、記録映画であったため、劇映画作品としては「緑はるかに」が最初)。ちなみに「初恋カナリヤ娘」には、ターキーが1本釣りしてデビューさせた岡田眞澄と、前述のフランキー堺がメインで出演、このつながりで「緑はるかに」にもカメオ出演をすることになる。

さて、こうして製作され、メディアミックス的な展開も試みられた「緑はるかに」だったが、実際のところ、どれくらいヒットしたのかはよくわからない。ターキーはこの映画について「それがまた偶然あたってね。それからプロデューサーってのがやったら面白くなってきたんです」と書いているから、そこそこの数字をはじき出しはしたのだろう。しかし、私などは生まれていなかったせいもあるかもしれないが、この映画がそれ程の大ヒットを飛ばしたとは考えられないし、「ルリ子カットが巷で大流行」などと言われても、それはごく限られた年齢層の女学生にアピールしただけで、世代を超えた、社会現象的なうねりを生み出すには至らなかったように思われる。
実際、1955年の邦画配給収入トップ10を見ても、日活作品でランクインしているのは「力道山物語 怒濤の男」だけである(第9位)。

しかしこの「緑はるかに」が、浅丘ルリ子のデビュー作であり、水の江滝子のプロデューサー第1作であるのはまぎれもない事実である。この2つの芽が、やがて一連の裕次郎映画という大木に育ち、日活の黄金時代を築くことになるわけで、そういう意味ではまことに眩しい「緑」が茂っていくきっかけとなった忘れがたい作品だと思う。

この作品でヒロインの名を与えられ日活専属となった浅丘ルリ子は、「緑はるかに」公開から4ヵ月後の9月14日に公開された「銀座二十四帖」で、銀座の花売り娘・ルリ子(通称ルリちゃん)を演じる。

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物語に直接からむ役ではなかったが、その分気負いもなくのびのびと演じており、「緑はるかに」よりも明るい表情が多いのが印象的だった。この時のルリ子は戦災孤児という設定。そして1956年1月3日公開の「裏町のお転婆娘」でも、またしても銀座の花売り娘で孤児のルリ子役。しかもこの時彼女がいる孤児院は「光の家」といい、「緑はるかに」に出てくる孤児院とまったく同じ名前。役名が毎度「ルリ子」なのは、浅丘ルリ子の名前を観客に早く覚えてもらうための日活の配慮だと思うが、どうしてこう似たような設定が続くのか(映画「緑はるかに」でもルリ子は物語終盤まで孤児という扱いだった)。やはり古今東西、ヒロインには幸福よりも不幸が似つかわしいということなのだろうか。

さて、「銀座二十四帖」と同じ1955年夏の銀座に、今ひとりの「ルリ子」が降誕しようとしていた。彼女もやはり花売り娘。父親を戦争で亡くし、花を売って暮らしを助けるけなげな少女。その声はカナリアのように美しく、いつか日本一の少女歌手になることを夢見ている。

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彼女こそ、梶原一騎・原作、吉田竜夫・画による絵物語「少年プロレス王 鉄腕リキヤ」(『冒険王』1955年3月号〜1957年12月号)に登場するヒロイン・ルリ子である。

○ルリ子という名前と可憐な容姿
○銀座の花売り娘(「銀座二十四帖」「裏町のお転婆娘」と同じ)
○孤児ではないが母子家庭(父親のみ死亡という設定は原作の「緑はるかに」と同じ)
○歌の才能がある(これも原作の「緑はるかに」と同じ)

これら属性の類似はただの偶然なのか?それとも? ルリ子をめぐる冒険は、次回から新章に突入します!(いつか書くと思うので気長にお待ちください)

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2021年05月08日

ルリ子をめぐる冒険(9)映画「緑はるかに」公開まで

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上は浅丘ルリ子(本名:浅井信子)が「緑はるかに」のルリ子役に応募した時の写真。
読売新聞紙上での募集告知が1954年8月6日、締切は8月31日。この写真も8月に撮影したようで、かなり日焼けしている。

さて、今日、5月8日は、今からちょうど66年前に映画「緑はるかに」がロードショー公開を果たした記念すべき日である。というわけで、いつも以上に画像多めで話を進めていこう。

まずは前回のつづき。『ジュニアそれいゆ』1955年早春号から、中原淳一デザインによるルリ子の衣裳の数々を見ていこう。

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この映画の中の衣裳は、中原淳一先生が受け持たれています。ルリコのお母さまとか、他の大人の方たちのも中原先生のデザインですが、ここではルリコのドレスを御紹介しましょう。
「緑はるかに」は日活初のテクニカラー(天然色)の映画なので、ドレスの色彩にも中原先生はいろいろ心をくばられたようです。連載された物語では、ルリコのお父さまは病気の場面しか出ていませんが、映画では幻想の場面が多くあって、ルリコがお父さまと一しょに暮らしていた頃の愉しい美しいシーンが沢山見られるということです。(※実際はほんの少しです)
浅丘さんは、本当は中学二年生なのですが、映画では小学校六年のルリコです。それでこれらのドレスも子供っぽく見えますが、これはスカートをそのまま膝の下位まで長くするだけで中学から高校までの方たちにも似合うデザインです。(後略)

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「これはずっと旅をしている時に着ているジャンパー・スカート。下にスウェターを着るのです」……中原先生がデザイン画をかかれて、ルリコさんに説明していられます。或る日の撮影所での打合わせの一コマ。

当時、女学生の憧れだった中原淳一デザインの洋服を着られるというのは、大変な栄誉だったに違いない。浅丘ルリ子自身、『徹子の部屋』で、「(ルリ子役に)受かったことよりも、中原先生のお洋服が着られることの方が嬉しくって。すごく可愛いお服なんですよね」と語っている。

なお、「旅をしている時に着ているジャンパー・スカート」の写真は『ジュニアそれいゆ』には掲載されていないが、要するにこれである。

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このキャプチャ画像でわかるように、ジャンパースカートはライトグレー、セーターは薄いピンクなのだが、どういうわけかDVDのジャケット写真では、ジャンパースカートはスカイブルー、セーターはクリーム色になっている。

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白黒写真に後から着色したものだが、どうして映画オリジナルのカラーリングにしなかったのだろう。

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ピンクのウールで作ったこのワンピースは、最初の場面に着る普段着です。衿にそった小さな丸いヨークは、可愛いギャザーを両側にちょっととって、胸のふくらみを出しています。ヨークと身頃の境を共布のループで押え、そのギャザーの上に飾られた二つのボウは、蝶々のようで可愛い。

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「小さな丸いヨーク」とか「可愛いギャザー」とか「共布のループ」とか、何のことだかさっぱりわからないが、映画だとこんな感じ。

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これはまだお父様がお家にいらっしゃった頃、いろいろの花が一杯咲いている春のお庭で遊んでいた時の回想の場面で着る、薄いグレーのジャンパースカートです。胸に飾られた花のアップリケは、ピンク、クリーム、ブルーといった淡い色のものばかりで、ピッタリさせずに、浮き上ったようにつけます。

ということなのだが、この「春のお庭で遊んでいた時の回想の場面」というのは映画本編のどこにも存在しない。撮影したのに尺の関係でカットされたか、それとも撮影さえされなかったのか……。もはや永遠の謎である。

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これもやはり楽しかった頃の回想の場面のクリスマスパーティの時に着るものです。真黒で張りのあるタフタで作った、地味な色合いのこの服は、ふっくらふくらんだスカート、ケープ風の肩を覆う様なカラー、スカート丈までの長いビロードのリボンによって、ジュニアらしい可愛いカクテルドレスとなりました。

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はいはい、このシーンはたしかにあったのだけど、座っている姿が引きで一瞬映っただけで、バストアップのショットは人形やプレゼントを抱えているためドレスはほとんど見えず。素敵なデザインなのに、実にもったいない。もう少し撮り方を考えて欲しかった。井上梅次監督はこれら一連の衣裳が、天下の中原淳一デザインだということを本当にわかっていたのだろうか?

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美しいスミレ色の薄手のウールでつくったこの服は、最後の場面で、お父様が無事にお帰りになって、一家揃って愈々ルリコに幸わせが訪れた時に着るものです。胸に飾ったボウは、濃い紫のグログランリボンです。後も前も浮いてつけられた肩幅一杯の真白いカラーは、取りはずしが出来るようにしてもいいでしょう。

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やっとまともにフルショットで見えるワンピースが……、と言いたいところだが、これも、映ったのはごくごく短い時間(ちなみに、白黒スチールでは胸元の大きなリボンがポイントだが、劇中ではかなり細身なものに変更されている)。

以上が中原淳一デザインによるルリ子衣裳のすべてである。1着1着コンセプチュアルに、丁寧にデザインされているのに、それがあまりうまく映画に活かされていないのはいささか残念に思う。

『ジュニアそれいゆ』には「ルリコ人形」の作り方も載っている。

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中原淳一いわく、

「緑はるかに」のルリコは、苦しさの中にもやさしい美しい気持を失わない、本当に良い少女です。さしえを画く時も、いつもそういう少女をあらわしたいと思っていました。(後略)

たしかに原作のルリ子は、映画の何倍も苦しい目、辛い目に遭ってきた。原作のストーリーを8ヶ月間追いかけてきた中原は、映画のルリ子が迎えた甘すぎるラストをどう感じたのだろう。

さて、日活の記録によると、映画「緑はるかに」は1954年のクリスマスイブ(12月24日)にクランクインし、1955年2月12日にクランクアップしたとのこと。90分という尺の割に撮影が長期間なのは、いかなる理由によるのだろう。撮影終了間際、読売新聞には次のような記事が載った。

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日活 緑はるかに 完成迫る

本紙に連載され好評を得た北条誠作「緑はるかに」は、日活初の色彩作品として最後の追い込みに入っているが、井上梅次監督の配慮から、子供たちに美しい夢を誘うようなみなみならぬ努力がつづけられている。(中略)
中原淳一考証の衣装、木村威夫の美術も国産色彩のコニカラー・フィルムに美しくうつるよう研究された。森の中、ルリ子の家、ショウ乳ドウ(鍾乳洞)内の科学研究所、幻想に出てくる月の世界、サーカスの内部セットなど文字通り目もまばゆい色のシンフォニーで、しかもうやわらかい感じが出るよう原色に白をまぜたハーフ・トーン(中間色の調子)が使われた。父親のとじこめられる科学研究所や幻想の月の世界もすべてこれビニールとナイロン製といったきらびやかなもので、おとぎの国にまよいこませようと努力している。
こうして去年の十二月末撮影に入ってからすでに五ステージ二十四セットを使い、セット数だけでも日活撮影所再開以来の最高記録といわれる。
読売新聞1955年2月10日夕刊

これを読む限り、美術セットの作り込みや組み替えに時間を取られたことが、長丁場の理由のように思われるが、水の江滝子は後年、こんなことを語っている。

小西六(コニカ)で出したカラーフィルムを初めて使うことになったんだけど、それが今のフィルムとは全然違うんですよ。三原色フィルムといって、フィルムを三本使って、それを一緒に回して撮るわけ。だから、カメラもものすごく大きくて、それが三色の色がうまーく重なって出るととってもきれいな色になるんだけど、試作品みたいなものでしたからね、三本のフィルムがしょっちゅうからまるの。そうなると撮影は中止になって、機械を小西六へ持って行って、向こうで全部ばらして直してくれて、「もう大丈夫です」って持って来て、撮影を再開するとまた二、三日でからまっちゃう。そういうことばっかりやってたの。結局あの時は撮影が一ヵ月半ぐらい遅れたのかな。
『ひまわり婆っちゃま』水の江滝子(1988年・婦人画報社)

というわけで、実際には、開発途上中のコニカラー・システム(※)のトラブル多発が最大の原因のようだ。それに加え、メインの出演者5人がすべて義務教育期間中である(基本的に平日昼間は学校に行かなくてはいけない)ことも、少なからず進行に影響したと思われる。

※コニカラー・システム…1台の大型カメラの中に3本のフィルムを入れ、プリズムで赤・緑・青の3色に分光露光し、3色分解ネガを作り、最終的に1本のポジフィルムに焼き付ける方法

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こちらは同時期の「家庭よみうり」の記事。水の江滝子おばさん、という呼び方がおかしい。

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貴重な現場スチール。洞窟で初めてルリ子と三人組(チビ真、デブ、ノッポ)が出会うシーンを演出する井上梅次監督(後姿)。「キネマ旬報」3月上旬号より。

年度が代わり、4月9日の夕刊児童欄には、ついに映画の完成を知らせる記事が。

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美しい色、楽しい物語
えい画になった「緑はるかに」

日活でさつえいしていました、本紙連さいの「緑はるかに」(北条誠作)のえい画ができ上がりました。総天然色で、あらすじは、お父さまの研究のひみつが入っているオルゴールを中心に(中略)、ついに悪ものたちはつかまって、ルリ子は、お父さまとお母さまにめぐりあい、チビ真たちにも、幸福な日がおとずれます。
読売新聞1955年4月9日夕刊

公開1ヶ月前にもかかわらず、ネタバレ全開である。この時代はあまりそういうことは気にしなかったのだろうか。

約1週間後の4月17日には、「子供の日記念・児童映画会」の囲みで、試写会開催の告知記事。

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5月1日(日)午前10時、午後0時半、3時
池袋 豊島公会堂

◇招待方法◇ 小・中学校生徒に限り一校5名以上、20名以下まで招待します。申込み希望者は各校引率教員が往復ハガキに学校名、参加人数記入のうえ京橋局区内読売新聞社企画部あて申込んで下さい。締切(4月)22日までに必着のこと。抽選により各回900名計2,700名を招待します。

対象が小・中学校生のため、生徒個人ではなく、引率する教師が応募するという形になっている。これは言うまでもなくクチコミ宣伝のための一般試写なのだが、それにしても2,700名を招待というのは、結構な太っ腹である。

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5月4日の夕刊広告。左には大映のカラー映画「楊貴妃」が。大女優・京マチ子vs新人女優・浅丘ルリ子という構図。この時点では「緑はるかに」は5月10日からの公開を予定していたようだ。

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5月6日の夕刊広告。スペースの関係か、チビ真がハブられている。

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5月7日、公開前日の夕刊広告。今度はデブがハブられてしまう。メインのルリ子以外に4人も配置するのは難しかったのだろうか。

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よく見ると、ノッポの足元に「漫画本 トモブックス社」の文字が。

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なんと、公開に先立つ4月5日には、トモブック社より「映画物語シリーズ1 緑はるかに」と題したコミカライズも刊行されていたのである(画・わちさんぺい)。

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この漫画版、表紙と裏表紙、そして中扉まで映画版のスチールを使っているため、てっきり映画版のストーリーかと思いきや……

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中原淳一の魅力的な挿絵とは似ても似つかぬ、なんとも牧歌的なタッチの絵にまず軽いめまいを覚え……

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しかもあろうことか、ストーリーは完全に新聞連載の原作版を踏襲しているのだ!
これは、ルリ子とマミ子が「スミレ劇団」で悲惨な巡業生活を送っているところ。

映画版を期待して手に取った多くの少年少女も、これには肩透かしを食らった気分になったのではないだろうか。

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さて、話を映画版に戻そう。今も昔も興行界の慣例は変わらないようで、初日の8日には早速、「満員御礼」「スゴイ爆発的人気で日活系上映中!」の広告(追いパブ)が。個人的にはお隣りの資生堂の香水の広告も気になる。余白の美と呼ぶべきか…(値段が150円から18,000円ていうのも幅がすごいね)。

時を同じくして読売新聞系列の「週刊読売」に映画評が載るが、これが、思ったよりも辛口だった。

緑はるかに 日活作品 児童向きの色彩編

読売新聞に連載された北条誠作、中原淳一画のコドモ向き読物を原作として、女性プロデューサーに再生した水の江滝子がコニ・カラーを使用して製作した天然色作品。だから、あくまで観客の対象を小学校低学年に向けて、井上梅次脚本・監督も、つとめてその線を守ろうと努力している。(中略)
主役に選ばれた浅丘ルリ子も達者な児童劇団のワキ役に助けられ、まずまず、さしたる破たんはみせない。むしろおとなの俳優のまずさ、わざとらしさの方が目ざわりになるくらいである。ただ、前後の貝谷バレー団が出演する夢の場面は、コドモたちの幻想をさそうよりも、音楽にマッチしない動きや、白っぽけた色彩が、かえってブチこわしになりはしまいかと思うのだが、どんなものであろう。コドモたちの目もディズニー・プロ作品で案外こえているのではあるまいか。
コニ・カラーも前作の東映作品「日輪」とくらべたら大進歩のあとを、その技術的な所置にみとめるが、大映のイーストマン・カラーを念頭におくと、まだまだ研究の余地は十分にある。
週刊読売 1955年20号

ひとつ気になったのが、カラー作品としてどうか、という視点が前面に出ていること。しかし、これは当時の状況を考えるとやむを得ないのかも知れない。同年3月上旬の「キネマ旬報」の作品紹介記事にも、

この映画は今日本を風靡しているイーストマンカラーを使用せず、コニカラーシステムを使用して撮影されるが、国産カラーシステムの成果を知る意味で、作品そのものとはちがった大きな興味が持たれる作品である。

という一文があり、この時期、日本映画界は白黒からカラーへと、大きな時代の転換期を迎えていたことがわかる。

ちなみに、日本における映画会社ごとの最初のカラー作品は以下のとおり。

松竹 「カルメン故郷に帰る」(1951.3.21公開 フジカラー)
東宝 「花の中の娘たち」(1953.9.15公開 フジカラー)
大映 「地獄門」(1953.10.31公開 イーストマンカラー)
東映 「日輪」(1953.11.18公開 コニカラー)
新東宝 「ハワイ珍道中」(1954.9.14公開 イーストマンカラー)
日活 「緑はるかに」(1955.5.8公開 コニカラー)

ただ、日活は「緑はるかに」の前年の1954年に「白き神々の座」という山岳記録映画をイーストマンカラーで撮影、11月23日に公開している。だから、厳密に言えば、日活初のカラーは「白き神々の座」ということになるのだが、劇映画というカテゴリにおいては、「緑はるかに」が第一作で間違いはない。

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ここからは「緑はるかに」関連ビジュアル。まずはポスター2種。

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劇場配布用のチラシ。

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プレスシート(報道関係や業界向けの配布資料)。

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このプレスシートには、井上梅次監督の「コニ・カラーについて」という文章が掲載されているが、内容はまさに題名のごとしで、

その色の調子は、イーストマンよりはずっとハーフ・トーン(中間色)が出ます。つまりどぎつい色よりも自然の儘の調子が出るわけです。

などと、映画の内容はそっちのけ、ほぼテクニカルな説明に終始している。カメラマンや照明、美術などの技術スタッフではなく、監督みずからがこういう文章を書いていることからも、当時のカラー映画への関心の高さがうかがわれる。

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「緑はるかに」パンフレット(一般販売用)。

井上監督みずからが、「コニカラーはハーフ・トーン(中間色)が…」「どぎつい色よりも自然の調子が…」と書いているのに、それをまったく顧みない着色センス。特にこのパンフはひどい。ポスターやプレスシートはそれなりだったのに、これはどうしたことだろう。

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このまゆげはもはやギャグの域。

こうして次世代の期待を集めたコニカラーだったが、間もなく、3色を1本のフィルムで感光できる、いわゆるカラーフィルムが開発されたことにより、1950年代終盤には映画の世界から姿を消してしまう。そのため、コニカラー独自の3色分解ネガを処理できる現像所はなくなり、「緑はるかに」も長らくモノクロのプリントしかない状態が続いていたが、1993年に東京国立近代美術館フィルムセンター(現・国立映画アーカイブ)がオリジナルネガからカラー版を復元、そのおかげで現在も、DVDなどで当時の色彩をしのぶことができる。

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長々続いた「緑はるかに」小論も、一応次回で完結としたい。最後は、メディアミックスとしての「緑はるかに」、そして、「ルリ子」のその後などについて書いていく予定。
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2021年04月21日

ルリ子をめぐる冒険(8)創造主・中原淳一

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読売新聞夕刊で絵物語「緑はるかに」(作・北條誠 絵・中原淳一)の連載が始まったのが1954年4月12日。約1ヶ月後の5月19日夕刊には映画化決定の記事が載り、そして8月6日夕刊においてヒロイン・ルリ子役募集の告知がなされる。

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読売新聞1954年8月6日夕刊

「緑はるかに」のルリ子*を一般募集

プロデューサー水の江滝子で映画化される本紙連載「緑はるかに」の主演ルリ子役を一般から募集する。応募要項次の通り。
十三歳から十五歳までの少女で、身長、体重を記入した簡単な履歴書一通、手札型以上の正面、横顔、正面全身の三種の写真(裏に住所氏名明記)を、東京都千代田区有楽町一の一日活株式会社宣伝部あて、八月三十一日までに送ること。

前にも書いたが、事前の宣伝を兼ねてヒロインを募集する、という手法は角川映画の「野性の証明」を完全に先取りしている。少なくとも私の知る範囲では、この作品以前にヒロインを一般公募した日本映画は思い当たらない。そういう意味では、「緑はるかに」は、「日活初の総天然色(コニカラー)映画」とともに、「日本初のヒロイン公募映画」という冠をつけてもいいのではないだろうか。

では、これ以降のヒロイン公募映画にはどんなものがあっただろう。ざっと以下のようなものが思い出される(漏れがあったらごめんなさい)。

1978年「野性の証明」 応募者 1,224人 薬師丸ひろ子
1980年「四季・奈津子」 応募者 9,500人 烏丸せつこ・佳那晃子・影山仁美・太田光子
1982年「伊賀忍法帖」 応募者 57,480人 渡辺典子 特別賞・原田知世
1983年 「アイコ十六歳」 応募者 127,000人 富田靖子

「野性の証明」の応募者が1,000人ちょっとと、知名度の割に少ないのが少々意外で、逆に「アイコ十六歳」は多すぎてよくわからない。「緑はるかに」は新聞報道によると「二千数百名」とのこと。

ちなみに、こうした公募の選考方法だが、今も昔もそれほど変わらず、だいたい以下の流れで進むことが多い。

1次審査(書類審査)
2次審査(面接審査T 何人かまとめてのグループ面接)
3次審査(面接審査U 個別面接)
4次審査(最終審査)

「緑はるかに」の場合も、2,000人以上の応募があったとしても、その全部をオーディションに呼んだとは考えられず、おそらく1次の書類審査で、100〜200人程度に絞り込んだものと思われる。そして東京・日比谷の日活本社でグループ面接と個別面接を(おそらく複数日で)行い、さらなる絞り込みがなされ、日を変えて、東京・調布の日活撮影所で、候補者7人から1人を選ぶ最終審査(カメラテスト)が行われたと推察される。

募集告知からちょうど4ヶ月後の12月6日夕刊には次のような記事が掲載された。

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読売新聞1954年12月6日夕刊

ルリ子*に浅井信子
「緑はるかに」主役当選決る

本紙に連載中の北條誠原作、中原淳一絵「緑はるかに」は日活で水の江滝子プロデューサーの第一回作品として、天然色による映画化の準備がつづけられ、さきほどからその主演の少女ルリ子役を一般から募集審査していたが、応募した二千数百名のなかからこのほど浅井信子(写真)が決定した。彼女は昭和十五年七月生れの十四歳で、千代田区今川中学二年に在学、小さいときから日本舞踊、歌謡曲を習ってきたひとみのきれいな少女で、執筆の作者と画家も交えた審査員は文句なく彼女を主役に迎えることを決定した。
なお、第四次の最終カメラテストまで残った高城瑛子(10)、山東昭子(10 ※正しくは12)、田村まゆみ(12)、斎藤みゆき(12)、久保田紀子(15)、味田洋子(13 ※正しくは12)の六名も本人の事情が許せば主演外の役で出演する。

見出しの「主役当選決る」には違和感を覚えるが(「当選」というと懸賞か何かに当たったような印象を受ける)、とにかくこうして、浅井信子がルリ子役に決まったことが、世間に示されたのであった。

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最終選考に残った方々と浅井信子。その後女優として活躍した方多数。

久保田紀子(15歳)
斎藤みゆき(桑野みゆき・12歳)
田村まゆみ(田村奈巳・12歳)
高城瑛子(滝瑛子・10歳)
山東昭子(12歳)
味田洋子(榊ひろみ・12歳)
---------------------
浅井信子(14歳)

しかし、この写真の浅井信子は、中原淳一の描くルリ子とはずいぶん雰囲気が異なっている。そこで、原作のビジュアルに合わせるべく、肩まであった長髪は大胆にカットされることになるのだが、それにまつわるエピソードがなかなかに興味深い。

浅丘ルリ子本人は、当時のことをこう回想している。

父は4姉妹のうち1人くらいは芸能界に進んで欲しいと願っていた。そこで私はダメ元≠ナオーディションを受けてみることにした。向かったのは会場となった東京・日比谷の日活本社。応募者はなんと二千数百人。のっけから人数の多さに圧倒された。
私には当時、面接で着る上等な服がなかった。そこで学校の友人からセーラー服を借りて受験した。セーラー服など着てくる応募者はいない。それが目立ってかえってよかったのかもしれない。
1次審査、2次審査……。候補者がどんどん絞られていく。最終のカメラテストに残ったのは私を含めて7人。(中略)

最終のカメラテスト会場は日活の調布撮影所。私は4年かけて伸ばした長い髪を三つ編みにして水玉のリボンで結んでいた。すると審査員でプロデューサーだった水の江滝子さんからこう聞かれた。
「あなた、受かったらその髪を切る勇気がありますか」
「はい、大丈夫です」
私はきっぱりと答えた。主人公のルリ子は前髪から耳元まで緩いカーブに切りそろえたショートカットが特徴。髪をバッサリと短く切るのに何のためらいもなかった。
カメラテストの直前。私はなぜか中原先生に呼ばれてメーク室に入った。大きな鏡の前に座った私の目元に先生がサラリと目張りを入れる。するとどうだろう。瞳がみるみる輝き始めたのだ。自分の変貌ぶりに私は息をのんだ。

(2015年7月5日『日本経済新聞』「私の履歴書」より)

ここでは、「受かったら切ります」というやり取りをした、と書かれているが、別な媒体ではいささかニュアンスが異なる。

浅丘「中学2年生のとき、読売新聞の連載小説『緑はるかに』の映画化で、主人公のルリ子役の募集があったんです。(中略)私の家は貧乏だったから、自分のセーラー服はヨレヨレ。裕福な友人に頼んで、きれいなセーラー服を1日だけ借りて、最終オーディションへ行きました。そこで、されるがまま、腰に届くくらいの長い髪を勝手にバッサリ切られて、カメラテストをしたら、『この子しかいない!』って私に決まったの」
中山「勝手に髪の毛を切るなんて、当時は荒っぽいですよね(笑)」

(2015年5月5日『女性自身』「中山秀征の語り合いたい人」より)

https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/1611929/

ここでは「勝手に」髪の毛を切られ、カメラテストをして、その結果自分に決まった、と語っているのだ。また、つい最近の「徹子の部屋」(2021年2月2日放送)でも、以下のように、ほぼ同じ内容を語っている。

「あたし、背中まであったんですね、髪の毛が。それをバサッと、(中原淳一先生が)すごい切り方なさって、びっくりしました。何するの?、と思ったら、……あ、でも、髪を切られるってことは、あたしに決まっていいのかなって思って、それで黙って……、そしたら私に目張りを描いてくださって……見たら、うわー、すごい、こんなに目が大きく、綺麗になるんだ、と思って、それからずっと、(中原先生がやってくださったとおりに)目張りを入れてます」

さて、このエピソードをどうとらえればいいのだろうか。どうやら浅丘ルリ子の記憶の中では、髪は映画スタッフサイドの要望により、「オーディションの最中(カメラテスト直前)」「勝手に」「バサッと」切られた、ということになっているようだ。そしてDVDのライナーノーツも、この本人の記憶を元に、

11月23日の最終選考は、井上梅次、北条誠、中原淳一らの前でのキャメラテストだったが、その前に、中原は信子の前髪を切りショートカットにしたという。

と記述されているのだが、このエピソードが、私にはどうしても納得できなかった。インパクトのある話ではあるが、いくらワイルドな映画界とはいえ、堅気の、それもまだ14歳の女子の髪を、本人のきちんとした同意を得ないでいきなり切り落とすなどということが、果たしてあり得るだろうか。しかも、あれだけ繊細な「美の追求者」であった中原淳一が、4年もかけて伸ばした乙女の黒髪に無造作に鋏を入れるとは……。

人間の記憶というのは時間とともに変容するものである。時間が経つほど、何度も思い返すほどに、変容の度は高くなるという。したがって、本人の体験談といっても、100パーセント現実に起きたこととは断定できない(もちろん、本人は意識して記憶を書き換えているわけではないので、決して責めるべきことではないのだが)。

こういう時は、なるべく当時に近い資料に当たるのが、解決の早道と思い、中原みずからが編集兼発行人を務めていた『ジュニアそれいゆ』の1955年早春号を紐解いてみた。すると、浅丘の証言とはかなり異なる当時の状況が詳述されていた(どういうわけか、この誌面ではすべて「ルリ子」ではなく「ルリコ」と表記されている)。

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『ジュニアそれいゆ』1955年早春号。表紙ももちろん中原淳一

ルリコに決定した浅井信子さんは、浅丘ルリコという名前をつけられました。これからは浅丘ルリコさんと呼ぶことにしましょう。
さて、その浅丘ルリコさんは応募された始めから、長い長いおさげがまず人眼をひきました。中原先生の画かれているルリコは、あのルリコ・カットと最近云われている、前髪から横に続いて短い髪が後に少しカーヴして長くなっているのが第一の特徴なので、水の江さん始め審査員の人たちが「若しルリコにきまったらその髪を切ってしまう勇気がありますか?」と心配して尋ねられたところ、浅丘さんはすぐに「ハイ」とお返事されたということです。
ところで、いよいよ浅丘さんがルリコにきまりました。それから何度も皆が集まって打合わせの度に、浅丘さんの髪が問題になりました。水の江さんも「折角ここまで長くしたのにねェ、長くとかすと何かの精のように綺麗で惜しいわ。長い髪のルリコにしましょうか」ともおっしゃったそうですが、やっぱり新聞のさしえでルリコ・カットに親しんでいる読者の方たちのためにも、短い髪にしようということにきまりました。そこで、ルリコさんの断髪式が始まりました。鋏はルリコ・カットを始められた中原先生が持たれ、水の江さん始め出演するチビ真たちに囲まれて、その長い長いおさげの髪はみるみるこんなに可愛いルリコ・カットに変わりました。
「あんなに長くするまでに、四年もかかったっていうことをふっと思い出したら、耳許にブツッと鋏を入れる時、なんだか少しふるえてしまいましたよ」と中原先生は後で語っていられました。
浅丘さんは、その後人に会う度に「まァ、すっかり変ってしまったのね。でも、まるで中原先生の画にそっくりよ。画が動いているみたい……」と云われています。

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「いよいよ切っちゃうとなると惜しいだろうなア」「ルリコさん、平気かい?」チビ真、デブ、ノッポたちが心配そう。「だって前から切ってみたいと思っていたのよ」

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「本当に綺麗な髪ね。よく見ておきなさい」と水の江さん。「ルリコのような髪になるんだったら、私切りたいのよ」とルリコさん。

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「いよいよ切るとなるとなんだか急にこわくなった……」と、ルリコさんは鋏を入れる瞬間、ギュッと目をつぶってしまいましたが……だんだん髪は切られていきます。

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いかがだろうか。
髪をカットしたのは「オーディションの最中(カメラテスト直前)」ではなくヒロインに決定した後で、「勝手に」ではなく複数回の協議の結果であり、中原は「バサッと」ではなく、「ふるえながら」鋏を入れたということだ。共演者(チビ真、デブ、ノッポ)も立ち会って「断髪式」と称して行い、しかも取材のカメラまで入っているのだから、もはや外部に向けた映画宣伝の一環というべきで、関係者だけで行われたヒロイン選考とは性質を異にするものであることは明白だ。

しかし、こういう記憶の変容は、少なからずあることで、時間とともに、実際の出来事よりも、その時の感情が強く心に刻印される傾向があるように思う。やはり浅丘にとって、あの長い髪を切ることは、表向き納得した(させられた)とはいえ、内心は相当な葛藤、抵抗があったのだろう。それが長い歳月を経て、「自分の気持ちを無視して、勝手に切られた」というエピソードに書き換えられたと考えれば納得がいく。

さて、浅丘の証言には、カメラテストにおいて、中原が目張り(アイライン)を入れた、という印象的なエピソードも登場したが、上で引用した『ジュニアそれいゆ』にはその話は見当たらなかった。しかし、これについては、「緑はるかに」公開から2年後、1957年9月の『ジュニアそれいゆ』第17号において、中原と浅丘の対談が掲載されており、そこで以下のように語られている。

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ルリ子ちゃんと云うと、今から三年前の丁度今頃、「緑はるかに」の映画の主役のルリ子を募集した時のことを思い出す。その時、僕(中原)も審査員の一人だったが、あの時、沢山集った可愛い少女達の中で、一番美しく目立っていた少女がルリ子ちゃんだった。(中略)
「緑はるかに」の審査の時、沢山の少女がいる控室をちょっとのぞいたら、セーラーの制服を着たルリ子ちゃんがチラッと僕の方を向いたのを僕は覚えている。それで、
「審査の時、僕が控室を見たのを知ってた?」と聞くと、
「ええ、覚えています、でも私ね、初め全然知らなかったのよ、先生のこと。あの時先生にお化粧していただいたでしょう?」とルリ子ちゃんは云う。
そうそう、と僕も思い出した。
沢山の少女の中から最後に七人の少女が残り、カメラテストの時だった。はじめてドーラン化粧をする人たちのために撮影所のひとたちが手伝ってあげた時に、僕も手伝ってルリ子ちゃんのお化粧をしたのだった。その時も僕は、カメラテストでもルリ子ちゃんが一番だろうと思った事を又思い出していると、ルリ子ちゃんは、
「私ね、お化粧をして下さったのが中原先生だっていうこと、その時全然知らなかったのよ。この方誰だろうなんて思ってたの。そしたら後で中原淳一先生だったって知って、ウワー、だったらもっと顔を良く見ておくんだった――なんて云ったのよ」
と、例のクルッとした瞳をして云う。
あの時のルリ子ちゃんは、前髪を綺麗にカールして、長い長い髪を二つに分けて三つ編みにしたものを又くるっと輪にして白いリボンで結び、今のルリ子ちゃんよりも、もっと大人っぽい感じだった――と思い出してそのことを云うと、ルリ子ちゃんも大きくうなずいて、
「私がルリ子にきまって、先生が私の髪を切って下さったでしょう? それから急に子供っぽくなったって、自分でも思ったのよ」ということだ。

浅丘の記憶では、カメラテスト直前に、自分だけが特に中原に呼ばれてメイク室に入った、ということになっているが、実際は、7人の少女たちにカメラテスト用のメイクを施すために撮影所のメイクスタッフが駆り出されたが、人手が足りなかったようで、中原もヘルプとしてメイク室に入り、浅丘のメイクを担当した、というのが真相のようだ(そしてこの時点では、浅丘はメイクをしたのが中原だとわからなかったというのも面白い)。ただ、この時すでに中原は浅丘に注目していたようなので、「あ、この子は僕がやるから」という感じで浅丘のそばに陣取り、アイラインを引いたのだろう。もともとは人形製作者だった(すなわち立体造形から始めた)中原は、そのメイク技術も非凡なものがあったのは間違いなく、もし、浅丘以外の6人のメイクもすべて彼が担当していたら、もしかしたら歴史は大きく変わっていたのかも知れない(まあ、カメラテスト以前から、中原は浅丘を気に入っていたようなので、どちらにしろ浅丘が選ばれていたのだろうが)。
ちなみに、上の引用文の最後の2行を読むと、1957年の時点では浅丘本人も、ルリ子役に決まった後で髪を切ったことを認識している。

髪とメイクの話の検証がずいぶん長くなってしまったが、さて、めでたく断髪式を終えた写真がこれ。

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ただ、ひとつ気になるのは、原作のルリ子が右分けなのに対して、映画のルリ子が左分けであること。原作に合わせて右分けにすることも検討されたとは思うが、おそらく、浅丘のもともとの髪の分け方が、カット前の写真を見る限り左分けのようなので、それを尊重したということなのだろう。

ためしに原作の絵を左右反転して、写真と比較してみるとこんな感じ。

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絵を描いた本人がヘアカットをしているだけあって、絵の中のルリ子がそのまま抜け出てきたような印象を受ける。

これは中原も嬉しかったのではないだろうか。自分の描いた紙の上の存在に過ぎなかったルリ子が、こうして肉体を持ったヒロインとなったのだから。言ってみれば、ギリシャ神話のピグマリオン(彫刻の名人。自分の理想とする女性の像を彫り、その像に恋をし、ついにはアフロディーテの力で人間となったその女性と結ばれる)の心境を味わったわけだ。「ルリ子」というヒロイン名は北條誠の創案だが、ルリ子の原作ビジュアルを作り出し、そして映画化に際し、ルリ子に新たな命を吹き込んだ中原淳一こそ、ルリ子の創造主というにふさわしいだろう。

中原は絵物語「緑はるかに」の原作者のひとりとしてオーディションに立ち会い、ヒロインのヘアカットも手がけたわけだが、それだけにとどまらず、衣裳デザイナーとしても、映画「緑はるかに」と関わることになる。これは最初から決まっていたことなのか、あるいは、浅丘ルリ子という素晴らしい「素材」を発見した中原が、自分の「美」の体現者たりうる浅丘とのコラボを望んで、自ら衣裳デザインを買って出たのか……。今となっては定かでないが、『ジュニアそれいゆ』に掲載された一連のグラビアを見ると、中原が相当な思い入れを持ってこの仕事に臨んだことが伝わってくる。

次回は、中原淳一デザインによるルリ子の衣裳の数々、そして映画「緑はるかに」の製作から公開までの軌跡を追っていきたい。

いやあ、なかなか「緑はるかに」から離れませんねえ。「鉄腕リキヤ」や「チャンピオン太」のルリ子の話になるのはいつのことやら……。
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2021年04月17日

ルリ子をめぐる冒険(7)絵物語「緑はるかに」(後)

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大変お待たせしました。絵物語「緑はるかに」完結編でございます。

前回までのカオスなあらすじ

片山ルリ子は、1年前から北海道に出張している父に会うため、父の会社の同僚・田沢とともに旅立つ。その途中、ルリ子は汽車の中で、チビ真という浮浪児と知り合いになる。北海道に着き、病気で衰弱した父と再会するルリ子。父は、「田沢は悪人で私の研究の秘密を盗もうとしている」とルリ子に告げ、秘密を隠したオルゴールをルリ子に託して息を引き取る。ルリ子は逃げ出す間もなく田沢に監禁され、連日、容赦ない責めを受けるが、東京に戻る途中の汽車の中でチビ真の手助けで逃亡する。だが難を逃れたのもつかの間、父の訃報を知り北海道に向かっていたルリ子の母が、青函連絡船の事故で死亡したという新聞記事が。今やみなし児となったルリ子は、東京郊外の防空壕で、チビ真と仲間の浮浪児・デブとノッポと共同生活を始める。しかし、秘密を隠したオルゴールはくず屋に持ち去られ売られてしまい、また、田沢とその手下の執拗な追跡に、ルリ子と三人組は離ればなれに。
やがてルリ子は縁あってとある資産家の養女となり京都に移り住む。マミ子という少女も養女になり、妹のできたルリ子は明るさを取り戻すが、「あなたの歌」という公開番組に出演して歌を歌ったことから所在が田沢一味に知られ、養母、マミ子ともども淡路島に身を隠す。しかし一時京都に帰った養母は田沢の子分に幽閉され、養母が戻らないため宿泊代の払えないルリ子とマミ子は、宿屋のホールの演芸ショーに出て歌を歌う。その様子を見ていた「スミレ劇団」の上野という男にスカウトされるが、その実態は場末の旅回り一座で、上野はとんでもない悪党だった。ルリ子とマミ子はいつ果てるともない流浪の日々を送ることに……。
一方、チビ真たち三人組も、ルリ子の姿を求めて京都に向かっていたが、そこでルリ子の母とめぐり会う。母は事故を起こした青函連絡船に乗っていなかったのだ。また、行方がわからないと思われていたオルゴールも、母が古道具屋で買い求めていたと判明する。

三人組とルリ子の母は、ルリ子にめぐり会えないまま京都を離れるが、その帰途、汽車の中でオルゴールメーカーの社長・三谷と知り合いになる。三谷は、ルリ子の母が持っていたオルゴールに目をつけ、「これはうちの会社の製品だが、少し音程が狂っている」と気になることを言い、自分の名刺を渡す。

東京に戻った三人組は警察に行き、田沢たちの悪事を告げる。警察は田沢のアジトを捜索、しかし大入道とビッコは捕まったものの、田沢はアジトを放棄して逃走する。

さて、「スミレ劇団」で旅回りを続けるルリ子は、楽団のピアノ弾きのじいさんと仲良くなる。
あの鬼畜な上野も、このピアノじいさんだけには、あまり強く物が言えないのだ。

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ルリ子とマミ子には歌の才能があると見抜き、個人レッスンを施すピアノじいさん。「あなたの歌」での歌唱、淡路島の宿屋のホールでの歌唱、そしてこの個人レッスンと、映画版よりもこの原作の方が、ルリ子が歌を歌う場面が多い。この流れで、最後はルリ子とマミ子がプロの歌手をめざすという展開になるのか? と期待したが、そうはならなかった。

じいさんの名前は田沢春吉。若いころは名の知れたピアニストだった(え、田沢??)。しかし、たった一人の息子が不良になってしまったために世の中が嫌になり、旅の一座暮らしにまで身を落としてしまったという。

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長年の不摂生がたたったか、ピアノじいさんはみるみる病気が悪化して危篤状態に。

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じいさんは「生き別れになっている息子に渡して欲しい」と、財布とメダルをルリ子に託して息を引き取る。じいさんは、下足番のばあさんを丸めこむなど、ルリ子が劇団から逃げ出すための段取りをつけてくれており、そのおかげでルリ子とマミ子はどうにか劇団を脱出、東京に向かう汽車に乗り込む(じいさんの遺体は放置)。

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この車内に、またしてもオルゴールメーカーの社長・三谷の姿が。ルリ子は三谷から、三人組やルリ子の母のことを聞き、マミ子とともに三谷の家に厄介になることに(あまりに都合のよすぎる展開)。

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三谷の家にチビ真が訪ねてきて、ルリ子とチビ真、4ヵ月ぶりの再会。

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お母様とも、感動の再会。

三谷は、一同の前でいきなり名探偵みたいな口調になって、オルゴールの謎を解く。

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「この円筒の針を、誰かがいじったのです。あちこち、ほら、抜けているでしょ。短くしてしまったのもある。どうも、聞いていて、あっちこっち、メロディーやテンポが狂ってると思いましたが、そのせいですよ」

そして、「ブラームスの子守唄」の歌詞を書いた紙の、調子の狂っている音に赤い丸をつけると……
ねむれよあこ なをめぐりて うるわしはなさけば ねむれいまはいとやすけく あしたまどにといくるまで」

ねむのした まど

ルリ子は、北海道での記憶をたどり、父が入院していた病室の窓から、ねむの木が見えたことを思い出す。その木の下に、研究の秘密が埋められているのだ。「これでやっとすべてが明らかになる」と奮い立つ面々。しかし、田沢がその話を家の外で盗み聞きしていた。

田沢は、警察から釈放された大入道とビッコをふたたび仲間に引き入れ、ルリ子たちを追うように北海道へと向かう。ルリ子たちと田沢たちは現場で鉢合わせ、田沢はルリ子とチビ真を人質にして秘密を渡すよう迫る。しかし、ルリ子にはある「確信」があった。

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ルリ子が持っていた財布とメダルから、田沢こそピアノじいさんの息子だったことが判明。最初は否定した田沢だが、じいさんの臨終の様子を語るルリ子の言葉に涙を流し、ついに改悛の情を示す。そしてこれまでの償いにと、すでにかなり雪に埋もれている地面を懸命に堀り、凍傷になりながら、ついにルリ子の父が隠した箱を発見する。中には化学方程式が書かれた1枚の紙が入っていた。

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映画の田沢はただの悪党で終わったが、原作では、罪を悔い改め人間性を回復するまでをじっくり描いたのが印象的。

さて、ついに来ました、映画との最大の相違点。ルリ子の父の研究とは、果たしていかなるものだったのか?

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なんという、すばらしい発明でしょう。お父さまの発明した薬品によると、たった1ガロンで、東京から大阪まで、飛行機がとべるのです。それを畑にまけば、いままでの三倍もよけいに、お米がとれるのです。貧乏な日本にとって、これ以上の発明があるでしょうか……

最初にこれを読んだ時は、「いかにも子供だましだなあ。燃料にもなれば肥料にもなるなんて…」と失笑したのだが、念のためネットで調べてみたところ、最新(2020年)の研究として、海藻やミドリムシからバイオ燃料と肥料を生成したというレポートがあったので、あながち荒唐無稽とは言い切れない(ただ、日本の場合、米は畑ではなく田んぼで作るものが大半だと思うが…)。

そして一同は父の墓参りに行き、
「お父さまはいつも、あのきれいな空から、見ててくださるのね……」
とルリ子が空を見上げ、全員で「緑はるかに」の歌(映画の主題歌のことか?)を歌っておしまい。

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以上は新聞連載のラストで、物語の中盤、大入道に監禁された「京都のおばさま」のことは、きれいさっぱり忘れられている。一時はルリ子とマミ子の母代わりとなっていた人物なのに……。

たぶん、作者本人も新聞の担当者も本当に忘れていたのだろうが、さすがに単行本化の際、これはまずい、と気づいたのだろう。1955年8月刊行のポプラ社版では、父の研究が広く世間に知れ渡ったという説明のあと、しれっと以下のような場面が書き足してある。

そんなある日、また一つすばらしいニュースです。
あの、しんせつな京都のおばさまが、
「新聞でよみました」
といって、はるばる訪ねてきてくださったのです。
「おばさま、生きててくださったのね(おいおい)」
ルリ子がうれし涙にくれれば、
「逢いたかったわ……」
マミちゃんも、おばさまにしがみついて……そして、お母さまは、おばさまの前に手をついて、心からお礼をいうのでした。

まあ、大団円という感じで、こういうのはあった方がいいよね。

さて、原作版を超駆け足で追ってきたが、4つの疑問点はどうなっただろう。

1)川に落としたオルゴールが何故か古道具屋の店先に(あまりに唐突)

原作では、川に落とすという場面がそもそもなく、ルリ子→くず屋→古道具屋A→ある客→古道具屋B→ルリ子の母 というルートでめぐっていった。
一応理解できる範囲の移動ではあるが、逆に物語後半、オルゴールの争奪戦がまったくないのが少々物足りない。

2)ルリ子の両親の生死(死んだはずなのに生きていたという理不尽)

原作では、「父のみ冒頭で死亡、母は一時死亡が伝えられるも誤報で、実際は存命」という結果だった。
これも、理解できる範疇といった感じ。

3)オルゴールに秘密を隠した方法(鏡の裏というのは安易すぎる)

原作では、オルゴールの円筒の針に細工をして部分的に音程を狂わせ、その音で暗号文字を作るという、かなり巧妙な方法で秘密を隠していたことが判明(よくこんな方法を思いついたものだと素直に感心してしまう)。

4)研究の秘密とは何だったのか(最後まで明らかにされず書類が燃やされる)

原作では、「燃料にもなれば肥料にもなる薬品」というかなり画期的なもので、実用化も示唆されていた。

以上である。

なお、それ以外にも原作と映画の相違点は思った以上に多く、映画ではマミ子の母は存命で最後には母子再会を果たすが、原作ではマミ子は孤児という設定なので、母親は登場しない。また原作では田沢がサーカス団を経営していたという描写も一切ない。逆に、原作にあった、ルリ子が公開番組や宿屋のステージで歌うという、それこそミュージカル的な要素が映画ではまったく見られないし、ラストにおける田沢の改心もない。はっきり言うと、両者は(特に後半は)ほとんど別個のストーリーで、むしろ共通点を探すのが難しいくらいである。

時間が進むにつれ、映画のストーリーが原作から離れていったのは、前にも書いたように、原作の連載と映画化が並行して進んでおり、映画の脚本が完成した方が、連載の完結よりも早かったためであろう(したがって、原作の途中までしか参照できなかったということ)。荒唐無稽の度合いという点では、どちらも甲乙つけがたいところだが、ルリ子と三人組が力を合わせて悪に立ち向かう、ジュブナイル的な要素は、映画の方が明確だったと思うし、その一方、ドラマとしての収め方は、原作の方が納得のいくものだったように感じる。

いやはや、今年の初めに映画版を観た時には、まさかこんなに長い時間、この作品と関わるとは思わなかった。しかし、どんなものでも関わる時間の長さに比例して愛着が涌くもので、もはや「緑はるかに」に関しては、あまり突き放して語ることができなくなってしまった。ことにこの新聞連載の絵物語は、物語の展開はさておき、毎回の中原淳一の挿絵がとても魅力的で、これをながめているだけで何ともしあわせな気持ちになってくる。当時の読者の多くも、毎日この挿絵を楽しみにしていたのではないだろうか。
前々回にも書いたが、当時の中原は『それいゆ』『ジュニアそれいゆ』の編集兼発行人として多忙を極めていたのに、これだけクオリティの高い挿絵を毎日3点、アシスタントも使わず仕上げていたのだから頭が下がる。しかも大変残念なことに、これらの挿絵は、1955年のポプラ社版単行本にも収載されておらず、その後、印刷物として世に出た形跡もなく、ほぼ幻のイラスト群となっている。幸い、原画は残っているらしいから(2009年、茨城県天心記念五浦美術館で開催の「大正ロマン 昭和モダン 大衆芸術の時代展 〜竹久夢二から中原淳一まで」で展示されたとの情報あり)、ぜひ、いずれかの機会にオリジナルの画質で世に出していただきたいと思う(今回紹介した画像は、それなりに修正を加えてはいるが、何しろ元が70年近く前の新聞で紙も印刷状態も悪く、細部がかなりつぶれており、オリジナルの繊細なタッチを伝えられないのが大変残念である)。

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さて、映画版と原作版の両方のストーリーを把握した上で、次回は今一度映画版に目を向け、中原淳一描くところの絵物語キャラクターだった2次元ルリ子が、いかにして浅丘ルリ子演じる3次元ルリ子に進化を遂げたのかを見ていくことにしたい。
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2021年04月01日

世紀の大発見、その後

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前回紹介できなかったもの(1)。成田亨によるドゴラ。『世界大怪獣カード』用に描き下ろされたもの。

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前回紹介できなかったもの(2)。藤尾毅によるジラースとラゴン。『ウルトラマンカード』のための描き下ろし。

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前回紹介できなかったもの(3)。石原豪人による『パノラマ世界大怪獣』の表紙。メフィラス星人、ヒドラ、ケムラーが描かれている。

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前回紹介できなかったもの(4)。井上英沖による生原稿。『現代コミクス ウルトラマン』1月号「ガボラの巻」より。

初代「ウルトラマン」の放映時期(1966〜67年)に、現代芸術社から刊行されていた『現代コミクス ウルトラマン』関連の原稿や原画が、思わぬところで見つかった! という記事を、かなり気合いを入れて書き、「世紀の大発見!」と題して去年の11、12月に投稿したのだが、アクセス解析などを見る限り、ほとんど反響はなかった。

○世紀の大発見!『現代コミクス ウルトラマン』後日譚(1)
○世紀の大発見!『現代コミクス ウルトラマン』後日譚(2)

「今となっては、成田亨や石原豪人の原画といっても、食いついてくる人はいないのか」と少々淋しい気持ちでいたところ、どういうわけか、今年の3月になってから急にツイッターなどで大々的に拡散されたようで、アクセス数がえらいことになってきた。私のブログは、普段は1日に100人程度の訪問者なのだが、それがいきなり1日10,000人を超えたのだ(2008年のブログ開設以来初めての現象)。

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しかし「バズッた」のは1週間程度で、すぐ平常の数字に戻ったが、特撮愛好家の方々にはそれなりに情報が行き渡ったようで、こちらとしても嬉しい限りである。

さて、これら貴重な原画類の収蔵等について、新たな動きがあったのでこの場を借りて報告したい。このブログの「特撮」カテゴリでも紹介してきたように、かねてより私は、この時代の特撮関連書籍や資料をかなり収集保存してきており、どこかでこれらを一括管理、閲覧などもできる施設を運営することを考えてきたが、今回、こうした発見もあったので、長嶋武彦氏のご遺族とも協議した結果、鎌倉において、これら特撮関連資料の公開施設を立ち上げることで意見の一致を見た。コロナ禍がいまだ収まらないため具体的な開設時期は未定だが、名称は「鎌倉20世紀特撮伝承館(仮)」とし、ここ1、2年のうちにスタッフを揃え資料を整理、遠からず愛好家の方が閲覧できる場を提供したいと考えている。

……というのは全部ウソです。勝手な妄想です。今日はエイプリルフールなので、どうかお許しを。長嶋氏宅において発見されたお宝については、今後のことはまだ何も決まっていませんし、また、特に問い合わせも来ていないとのことです。本日、このブログを書くにあたり、ご子息の長嶋竜弘さんに電話で確認したので間違いありません。ツイッターで、某県立美術館に「すぐに連絡を取った方がいいですよ!」と薦めてくださった方もあったようですが、まあ、年度代わりで忙しい時期ですし、そうすぐには動けないですよね。しかしながら、長嶋武彦氏の遺されたものを、鎌倉市内で保管・公開できたら、という希望をご遺族が持たれているのは事実ですので、散逸などせず、なるべくいい形で、貴重な文化財が次世代に継承されていくのを願うばかりです。
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2021年03月30日

ルリ子をめぐる冒険(6)絵物語「緑はるかに」(中)

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前回までのあらすじ

片山ルリ子は、1年前から北海道に出張している父に会うため、父の会社の同僚・田沢とともに旅立つ。その途中、ルリ子は汽車の中で、チビ真という浮浪児と知り合いになる。北海道に着き、病気で衰弱した父と再会するルリ子。父は、「田沢は悪人で私の研究の秘密を盗もうとしている」とルリ子に告げ、秘密を隠した小箱をルリ子に託して息を引き取る。ルリ子は逃げ出す間もなく田沢に監禁され、連日、容赦ない責めを受けることに……

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ある朝、田沢はルリ子を連れて汽車で東京に向かう(「北海道にいるといろいろうるさいから」とのこと)。

一方、父の急逝を知った母は北海道に向かっていた(ルリ子が電報で知らせたらしいが、ずっと田沢に監視されていたのにどうやって電報を打てたのかは不明)。

ルリ子は駅弁の包み紙で鶴を折って窓から飛ばす。すると、それをたまたま駅の近くにいたチビ真が拾い上げ、汽車の中にいたルリ子に気づき、汽車に飛び乗り、「あ、いつかのお嬢さんだ!」と確認し、「一緒にいるのは悪い奴なんだな」と超速理解し、「火事だ!」と車内で叫び、その騒ぎに乗じてルリ子を連れ、走っている汽車から飛び降りる。こうしてルリ子は田沢の毒牙から逃れたのであった。

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すごい展開でしょ? これに比べると映画版なんて可愛いもんですよ。

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飛び降りたところは畑で、大した怪我もなかったが、ルリ子は足をくじいてしまう。また、飛び降りた拍子に落とした小箱のふたが開き「ブラームスの子守唄」が流れてきて、ルリ子は例の小箱がオルゴールであることを知る(ちなみにオルゴールの色は、映画では「緑はるかに」のタイトルにちなんで緑だが、原作では赤となっている)。

○ブラームスの子守唄(youtube)

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ちなみに、こちらが映画におけるルリ子とチビ真。

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一方、原作におけるルリ子とチビ真がこれ。

チビ真は、その名のとおり「チビ」という設定なのだが、中原淳一の描くチビ真はどうもそうは見えず(ルリ子とほぼ同身長)、しかもかなりの美少年。普通にお似合いの美男美女カップルに見える。このあたりの一連の挿絵を見ていると、もう、あとのガキ2人(チビとノッポ)はなしで、この美男美女の冒険物語にした方がいいんじゃないかという気がしてくる(残念ながら話はそれとは真逆な方向に進んでしまうのだが)。

その晩は「親切なお百姓さんの家」に泊めてもらい、2人はオルゴールをいろいろ調べるが何も発見できない。とにかく東京へ帰ろうと、ヒッチハイクで東京方面に向かうトラックに同乗。するとその中で、トラック助手が読んでいた新聞に「青函連絡線、機雷に触れて沈没!」の大見出し。死亡者欄にはルリ子の母の名前が……。

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まさに怒涛の展開。谷ゆき子の漫画みたいですが、この時代の少女小説って、こういう不幸のオンパレードが常套手段だったんでしょうね。

悲嘆に暮れるルリ子。チビ真はそんなルリ子を励まし、東京郊外の隠れ家(防空壕)に連れていく。待っていたのは仲間のデブとノッポだった。
彼らはすべて孤児だが、映画とは違い、孤児院から脱走したわけではなく、最初から自立生活を営んでいる様子(学校に行っているかどうかは不明)。

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こちらが映画のデブとノッポ。

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原作はこれ。
先ほどのチビ真もそうだったが、中原淳一の描くデブとノッポは、それほど「デブ」でも「ノッポ」でもなく、おまけにかなり整った顔立ちなので、3人ともほとんど見分けがつかない。

一方、田沢は東京のアジトで、2人の手下、「メッカチの大入道」と「松葉杖をついた、小人のように背の低い男=ビッコ」に、ルリ子奪還の指令を出していた。うーん。いろいろと時代を感じさせる表現ですな。

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映画の大入道とビッコはコミカルな風体だったが、

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中原淳一の描く2人の手下は、とにかく不気味で恐ろしい(石原豪人の絵に通じるものを感じる。美少女や美少年以外のキャラはこうなってしまのだろうか)。

大入道とビッコは、紙芝居屋に5万円の賞金をかけてルリ子を探させたり、ピエロの扮装をして町を探索したりする(このあたりの描写は映画にも取り入れられている)。

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ピエロの扮装をした大入道とビッコ。映画だとコミカルなのに、

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中原の描くこの2人は、夢に見そうな凄まじい形相である。

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この不気味な悪人コンビは、一度は三人組と一緒に縄跳びをしていたルリ子を発見するのだが、チビ真は「この子はルリ子じゃなくて『トン子』」だと言ってシラを切る(思いつきにしてもすごい名前)。大入道とビッコはルリ子の顔を正確に知らないため、その場は引き下がるが、チビ真は「もうここは危険だ」と、すぐに隠れ家を変えることを決める。原作のチビ真は大変なリーダーシップの持ち主。

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引越しの準備に取りかかる三人組。ルリ子は三人組の、「ボロは着てても心は錦」的な魂の美しさに感激し涙を流す。

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上は連載30回、5月17日の紙面だが、その翌々日の5月19日、物語のすぐ右横に、「緑はるかに」の映画化を報じる記事が。

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「緑はるかに」映画化
ターキーの初製作で
作者・北條氏も協力申出る


本紙に連載中の北條誠と中原淳一のコンビによる「緑はるかに」は、この種の絵物語として始めての純情ものとして好評を博しているが、近く日活で映画化と決定、プロデューサーに転向したターキー・水の江滝子のプロデュース第一回作品として製作されることになった。(中略)その素材をさがしていたターキーがこれこそ≠ニばかりとびついたのがこの「緑はるかに」だった。たまたま原作者北條氏はSSK時代からのターキー・ファンで、学生時代は容ぼうもそっくりというのでターキーばりのヘアー・スタイルをしたというほど…。それだけに、映画化に際しては脚色協力を申出てターキーを感激させている。


結局この北條のラブコールは実を結ばず、脚本は井上梅次監督が担当することになるのだが。それにしても連載開始わずか1ヶ月にして映画化決定とは、ずいぶん段取りがいいような…。この記事では、映画の素材を探していた水の江滝子がたまたまこの絵物語を見つけた、ということになっているが、もしかしたら初めから映画化ありきの、いわゆる「メディアミックス作品」として企画されたのではないだろうか(同年8月からはニッポン放送でラジオドラマも始まるし、いろいろと手回しがよすぎるのだ)。

彼らの新しい隠れ家は、隅田川にかかる新大橋沿いに並んだ倉庫の影にある、半分壊れた掘っ立て小屋だった。その屋根の修繕のため、小屋にある物を全部外に出していたところ、通りかかったくず屋のじいさんが、そこにあったオルゴールを見つけ、無断で持ち去ってしまう。帰宅したじいさんはそれを孫たちに見せるが、孫たちに「おまんじゅうの方がいい」と言われ、古道具屋に30円で売り払う。

くず屋のじいさんがオルゴールを持ち去ったことに気づいた三人組はじいさんを見つけて詰問、古道具屋に売ったことを聞き出しそこに向かうが、オルゴールは売れたあとだった。その話を立ち聞きしていた大入道がチビ真を拉致してアジトに監禁、田沢はルリ子の居場所を言わせようとリンチを加えるが、チビ真は口を割らない。デブとノッポはチビ真を奪還しようとするが逆に捕まってしまい、ついにルリ子のいる隠れ家まで案内させられることになる。

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大入道たちに引っ立てられた三人組はその途中でくず屋のじいさんと遭遇、事情を察したじいさんは「こないだの罪ほろぼし」にと、あわてて隠れ家にいるルリ子にそのことを知らせ、ルリ子を川岸に停まっている小型船に隠す。ところがその船は出航してしまい羽田に着く。ルリ子は船の船頭さんに事情を話し、その家に2週間ほど厄介になることに。

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ここからルリ子と三人組は完全に離ればなれになる。連載開始が1954年4月で、このあたりの展開は6月。ようやく再会するのは10月下旬。物語は12月に完結なので、原作でのルリ子と三人組は、全体の半分以上一緒に行動していないのだ!

さて、チビ真たち3人は田沢たちのもとから何とか脱出。やがて古道具屋の店先で例のオルゴールを発見する(前の古道具屋で買った人が転売したということか)。三人組は靴磨きをして代金の1500円を貯め、買い戻しに店に行くが、すでにオルゴールは売れてしまっていた。買ったのは「35、6歳の女性」だと言う(このあたりの展開は映画でも踏襲されているが、原作では、ルリ子は靴磨きに参加していない)。

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一方のルリ子は、世話になった船頭さんのお得意様(かなりの資産家)の奥様がルリ子を引き取りたい、と言い出したため、京都に行くことに(まさかの展開。養子縁組など、法的な手続きはどうしたのか)。

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舞台は一転し、京都での豪邸暮らしが始まる。

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おばさま(養母)はやさしい人で、おじさま(養父)は海外赴任中で長期不在。

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愛犬のシェパード「ジュピター」と散歩した帰り、みなし児のマミ子と出会う。ルリ子のたっての希望で、マミ子もおばさまの家で一緒に暮らすことになる(もう何が何だか…)。

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ちなみにこちらが映画のマミ子。くりくりっとした髪型など、かなり原作に忠実な姿。

急に「妹」ができたルリ子は「お姉さん」としてバタバタしながらも充実した日々。

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ある日ルリ子は、マミ子にせがまれ、弥栄会館で行われていた視聴者参加の公開番組「あなたの歌」(NHKの「のど自慢」が元ネタか)に飛び入りで出演。赤面しつつマミ子とともに「子鹿のバンビ」を歌い、見事合格して賞品をもらう。

ちなみに日本におけるテレビ放送はこの前年、1953年に始まったばかり。放送局はNHKと日本テレビの2局だけだった。力道山、木村政彦組対シャープ兄弟のプロレス中継が行われ、何万という観衆が街頭テレビに群がったのはこの年2月の出来事。まさにテレビの黎明期である。掲載紙である読売新聞は日本テレビの関係会社なので、テレビの宣伝普及のため、こういう場面を入れることを奨励したのかも知れない。

なお、この物語では、ルリ子とマミ子が歌う様子が全国に流れたようなことが書かれているが、この当時はまだNHKは東京、大阪、名古屋の3局しか開局していない。 仙台、広島、福岡などの局が放送を始めたのが1956年、全国ネットの放送体制が整うのはそれよりさらに4年ほど先のことである。

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賞品をもらってご満悦のマミ子。ところが東京の喫茶店では大入道が、また、街頭テレビでは三人組が「あなたの歌」を見ていたからさあ大変。ルリ子が京都にいるとわかり、大入道たちも三人組も京都に向かう。

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三人組には京都に行く旅費などは当然なかったが、飛行場で映画スターの「石狩浩一郎」と遭遇し、彼に頼み込んで飛行機に乗せてもらう。

この「石狩浩一郎」、何かしら物語の展開に絡みそうな雰囲気を漂わせていたが、実際はただの捨てキャラであった。ただ気になるのは、そのネーミングがどうしても「石原裕次郎」を彷彿させること(しかもこの「緑はるかに」は水の江滝子の第一回プロデュース作品)。しかし、1954年には、裕次郎どころか、兄の石原慎太郎も、まだ作家デビューしていないので、ただの偶然ということになってしまうのだが……。

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テレビの反響は凄まじく、ルリ子とマミ子に関する問い合わせが放送局に殺到。

きのうのテレビで、かわいらしい、ルリ子とマミちゃんのすがたを見て
「一つ、うちの会社の専属スターにしようじゃないか」
と思ったのでしょうか。けさは早くから、ひっきりなしに、各映画会社、レコード会社の人が、つぎからつぎへと、住所をたずねてくるのでした。


これは記念すべき連載第100回(1954年8月6日掲載)なのだが、そんな物語のすぐ下に、

「緑はるかに」のルリ子役≠一般募集

の記事が載っているのが実に興味深い。

「一般人のルリ子がテレビで注目を浴び、映画会社などから問い合わせ殺到」というエピソードとシンクロするかのような「映画のルリ子役募集」の記事。あまりに出来すぎたタイミングで、映画製作サイドから原作サイドへ、何らかの要望があったように感じられる。先ほどの記事にあったように、原作の北條誠は学生時代からのターキーファンとのことなので、プロデューサー・水の江滝子のリクエストに、ノリノリで応えた、といったところだろうか。それにしても、こうした一連の流れをすべて水の江が画策したのだとしたら、話題作りにたけた、実に有能なプロデューサーとしか言いようがない。原作→映画化決定→ヒロイン募集、というプロセスは、角川映画の「野性の証明」(1978年)を20年以上先取りしている。

このヒロイン募集の反応は大きく、2千数百人の応募があったという。審査は第4次まで行われ、最終オーディション(カメラテスト)には「原作者」北條誠と中原淳一も審査員として参加、中原の目にとまった浅井信子がルリ子役に選ばれ、中原はヒロインのヘアカットや衣裳考証など、映画にも深く関わることになるのだが、そのあたりのお話は次々回以降に。

さて、京都に着いた三人組は、ルリ子の住所を訊くために訪ねた放送局の事務所で、何とルリ子の母と出会う(死んだはずなのに生きていた??)。

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実はルリ子の母は、乗船直前に腹痛になり、事故を起こした青函連絡線には乗っていなかったのだ。しかしすでに切符を買っていたため船客名簿に名前が載っており、それで死亡者扱いにされてしまったという(どうでもいい話だが、挿絵における京都のおばさまとルリ子の母のビジュアルが、顔も髪型も服装もまったく同じため、いささか混乱してしまう。せめて片方は着物でなく洋服にしてくれるとありがたかったのだが……)。

母は東京に戻ってからずっとルリ子を探し続けていたが、テレビでその姿を見て、急ぎ京都に来たのであった。そしてまた、古道具屋からオルゴールを買ったのがルリ子の母だったことも判明する。ルリ子の母と三人組は京都に逗留し、手分けしてルリ子を探すが、その行方は杳として知れない。

一方、当のルリ子は、そんなことは露ほども知らず……

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「変な男(大入道とビッコ)がお宅の住所を聞きにきました」と放送局から電話を受けたおばさまは、難を逃れるため和歌山&九州への旅行を思い立ち、ルリ子とマミ子を連れて出かけたが、その途中で車窓から淡路島を見たルリ子が、
「行ってみたいわ、あの島に……」
とつぶやいたことで行き先を淡路島に変更、有名な鳴門の渦潮をのんきに見物しているのだった(このあたりの行き当たりばったり感がすごい!)。

それなりの日数が経ち、旅費もそろそろ心細くなったため、おばさまは単身、京都の豪邸に戻るが、張り込んでいた大入道たちによって、使用人もろとも監禁されてしまう。

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「やい、いわねえな。どうしても強情はるんなら、一ついたいめを見せてやろうか?」

ルリ子の居場所を言わせようと、和服のおばさまに鞭を振るう大入道。ああ、これぞ「伊藤晴雨の責め絵」的世界。映画におけるお母様の鞭打ちはここから発想されたのか…?

一方、淡路島の宿屋に居残ったルリ子とマミ子は、おばさまが一向に戻って来ないため宿代も払えず、その支払いのため宿屋のホールの演芸ショーに出て歌を歌う。

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恥ずかしがりのルリ子にはかなりの苦行だったが、目立つことの大好きなマミ子はノリノリ。

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そしてこれが評判を呼び「スミレ劇団」の上野という男にスカウトされる。

「宿代は肩代わりする、全国各地を回れる、学校にも通わせる、君たちはたちまちスターだ」
などの甘言に惑わされ、「スミレ劇団」入りを承知するルリ子とマミ子。だが「スミレ劇団」の実態は場末の旅回り一座で、上野はとんでもない悪党だった。

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哀れ、ルリ子とマミ子はいつ果てるともない流浪の日々を送ることに……。

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よろよろと立ち上がって、またばったり……
「ふん、大げさなやつだ。いくらそんなことして見せたって、だまされんぞ。さあ歩け、歩かなけりゃこれだぞ」
ビュンと、ムチをふって見せました。

あ〜、またしてもこの展開。どうでもいいけど、悪漢が女を鞭打つっていう描写が多すぎません? まさに無限地獄の如し。
哀れルリ子の運命やいかに??

つづく(次で完結の予定)
posted by taku at 11:53| レトロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする