2018年06月16日

さらばキユーピーエルドレッシング

itarian.jpg
左が新ラベル、右が旧ラベル。もともとは1/3ドレッシングという商品名だった(2008年、名称とラベルの変更時に撮影)

「キユーピーエルドレッシング」が、残念ながら販売終了となった。10年越しのヘビーユーザーとしてはかなり深刻なダメージである。なぜなら、これに変わる商品が見当たらないから(具体的な点は後述する)。

異変に気づいたのは数ヶ月前くらいだった。近所のバリューローソンの棚から姿を消し、代わりにローソンのオリジナル商品が並んでいたのである。しかし、そのあとで訪ねた駅前のCan☆Doではその姿が確認できたので、単にバリューローソンが取り扱いをやめただけかと思っていた。しかし、先日Can☆Doに行ってみたところ、ここでもその姿を見ることはできず、嫌な予感がして、帰宅後すぐにキユーピーの公式サイトを閲覧してみたが、エルドレッシングの名前はどこにもなかった。

最終確認の意味で、メーカーのお客様相談室に電話を入れてみた。

私「10年以上、おもに100円ショップで見かけていた『エルドレッシング』…、イタリアン、ごま、サウザンアイランドなど何種類か出ていたと思うんですが、最近まったく見かけないくなってしまいました。これは製造中止ということでしょうか」
相談室「そうなんです。100円ショップ専用で出していたんですけど、もうそのシリーズ、製造はしておりませんで…」
そうか、エルドレッシングは100円ショップ「専用」商品だったのか。どうりで普通のスーパーで見かけなかったわけだ。
私「代替商品の発売予定とかはないんですか?」
相談室「そうですね…。エルドレッシングは油の少ないタイプで、さっぱりした口当たりがご好評だったんですが、今のところ、オイルを使っていて低オイルという商品は、お出ししていないですね」
私「今おっしゃった、オイルを使っているんだけど低オイル、というのがすごくいい具合で(これがこの商品の唯一無二のところなのだ!)、割とファンの方もいらっしゃったと思うんですが」
相談室「そうだと思います…」
私「個人的には『イタリアン』が一番お気に入りでして。今現在、キユーピーさんがお出しの通常の『イタリアン』だと、ちょっと油が多めなんですよね」
相談室「そうですね…」
実際、ラベルの原材料名を見ても、通常の『イタリアン』が「醸造酢、食用植物油脂、ぶどう糖果糖液糖、食塩…」なのに対し、エルドレッシングの『イタリアン』は「醸造酢、ぶどう糖果糖液糖、食用植物油脂、レモン果汁、食塩…」となっている。原材料名は使用重量の多い順に記載するきまりがあるので、これを見ても、エルドレッシングが低油脂であることは明らかである(もともとの名称だった「1/3」は、油脂が従来品の3分の1という意味だろう)。
私「結構長いこと使っていまして、いつまでもあるとあるように思っていたものですから…」
これは事実である。通常のサラダ、マリネ、時には冷奴にもかけたりした。一体何本消費したのか、数え切れないくらいだ。
相談室「そういったご意見はよくうかがっていまして、担当部署には伝えてありますので…」
どうやら、私以外にもエルドレッシングについての問合わせをする人は少なからずいるようだ。まあ、あれだけのロングセラー商品だし、それも当然だろう。
私「じゃあ、是非復活リクエストがきていることを上にお伝えしてください!」
相談室「わかりました。お電話ありがとうございました」
ということで電話は終わったのであるが、果たしてエルドレッシングの復活はありうるのだろうか。そもそも、そこそこ売れていたように思っていたこの商品が、どうして販売中止になったのかがわからない。価格が安いため、あまり利益が見込めなかったのか。いや、それを言うなら、キユーピーの商品はどれもそれほど高価格ではないぞ。…などと、経済音痴の私が、電話を切ったあとも、あれこれ想像をめぐらしたのだった。

「ドレッシングひとつでどうしてそこまで熱くなるのか。他のメーカーの商品を探せばいいじゃないか」
という声も聞こえてきそうである。実際、私もこの電話のあと、大型スーパーのドレッシングコーナーに立ち寄って、かなりの時間を費やして「後任」候補を探してみた。しかし、エルドレッシングに代わるものは容易に見つからない。種類自体はものすごく増えているのだが、なんだか新奇な趣向を凝らしたテイストのものが多く、シンプルなイタリアンなどは一番軽視されている感じだ。また、オイルありかノンオイルか、という区分けがきっちりなされていて、先ほどから何度か書いた、オイルを使っているんだけど低オイルという商品はなかなか見出すことができない。

もともと、歯磨きにせよ、シャンプーにせよ、肌着にせよ、日常的に使うものに関しては、一度ベストフィットするものに出会うと、他を使う気がしなくなる「本命第一主義」なので、今回のように、それが突然になくなった時には、かなり難儀な思いをするのである。
posted by taku at 19:46| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月12日

森田童子の訃報

20180612.jpg

森田童子が4月に亡くなっていたという。引退宣言をするでもなく姿を消し、「高校教師」で話題を集めた際にもカムバックせず、ついに本名も素顔も明らかにすることなく静かにこの世を去った。最後までおのれの美意識に忠実な人生を送った人という印象を受ける。

かつて1度だけ、彼女のコンサートを聴きに行ったことがある。1981年の12月、冷たい雨の降る夜だった。場所は両国だったか(当時の日記を見ればはっきりするのだが)、駅前広場に特設テントをしつらえての公演だった。

当時の私は高校3年生。大学受験の2ヵ月前だが、もはや現役合格はなかば諦めていた。何も面白いことが見出せず、鬱々と日を送っており、そんな当時の心情に彼女の切ないボーカルがマッチしたのだろう。そのころ増え始めていたレンタルレコード店(まだレンタルビデオ店はなかった)でアルバム4枚を借り、カセットテープに録音して繰り返し聴いていた。

さて、そのコンサートだが、残念ながら、細かい記憶はほとんど抜け落ちている。本物の森田童子を間近かで見たという胸の高鳴りも、感じたのか感じなかったのか…。もっとも、曲が曲なので、観客も全体にテンションは低めであり、公演は淡々と始まり、淡々と進行していった。数曲ごとにぽつりぽつりとMCをはさんで…、という流れは、アルバム「カテドラル聖マリア大聖堂録音盤」と同じ感じで、代表曲というべき「さよならぼくのともだち」「ぼくたちの失敗」「セルロイドの少女」「雨のクロール」などはすべて歌われたはずだ。そして、終盤ではそれなりに盛り上がって、アンコールも2曲くらいはあったような気がする(そのうちの1曲は「ぼくと観光バスに乗ってみませんか」だったような…。この時は観客一同手拍子をして会場も結構盛り上がった)。大変寒かった日で、私はコンサートの中盤ごろから尿意を催しており、さりとて中座するのはもったいなく、何とか終演までガマンしたのだが、アンコールあたりはかなり辛く、早く終わってほしいという生理的欲求と、もっと聴いていたいという文化的欲求が大いに葛藤していた。そして終演後、駅のトイレに駆け込んだ時は、人間の膀胱はこんなに広がるものかと驚くほど、とめどなく放尿が続いたことを鮮明に覚えている(追悼文なのにこんな内容ですみません)。

その翌年、私は予想通り大学受験に失敗、その翌年も失敗し、計2年間の浪人生活を送ることとなり、一方、森田童子はその間(1983年)に活動を休止してしまうので、まさにその夜のコンサートは「一期一会」であった。彼女は、たしかこの時に、「私たちのコンサートができなくなる様を観てほしい」というような意味深なことを言っていたが、実際そのとおりになってしまったのである。早いもので、あれから37年の歳月が流れ去っていった。

森田童子の歌の魅力については、すでに多くの人が語っているし、またこれからも語られていくだろうから、あえて口をはさまずにおきたい。ただ、ひとつだけ特筆しておきたいことがある。
私は当時、フォークギターをかじっていたので、お気に入りの「かぐや姫」や「風」を弾くのに飽きると、少し趣向を変えて、森田童子のナンバーの弾き語りに手を染めたりしていた。彼女の歌はメロディもコード進行もシンプルなので、楽譜がなくても割と楽に音を拾うことができたのである。
しかし、湧き水のように冷えびえと透き通ったあの「歌声」、そして、その底に流れる「諦観」は、真似ようとしても真似られるものではなかった。1度、多重録音で「ぼくを見かけませんでしたか」のコピーに挑戦したのだが、仕上がりを聞いて、そのお粗末さに嘆息したことがある。心象風景は、コピーのしようがないのだ。

報道によれば、森田童子は1952年生まれ。当時はまだ20代だったはずなのに、すでに人生におけるあらゆる戦いに敗れたような疲労感や絶望感、悲哀などを幾重にも身にまとっている印象だった。彼女の歌には「悲しい」「淋しい」という単語が割と頻繁に登場するが、そんな言葉など使わなくても、ただあの声で歌われるだけで、充分に人生の哀感は伝わるように感じたものだ。
今回の訃報に接して、「まだ生きていたのが意外だった」という声が少なからずあるようだが、自分もある意味で同感だ。森田童子は青春のただなかにいながら、すでにして人生の終わりの淵に腰を降ろし、そこで歌をうたい、ギターを奏でていたのである。
「若さは必ずしも生の躍動と結びつくものではない、そしてまた、若さゆえに絶望は鮮血を噴き出す…」
そんなことを教えてくれた不世出のシンガーソングライターに、あらためて哀悼の意を表したい。
posted by taku at 18:58| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月25日

大嶋、奄美大島へ(2)

早いもので旅行から1週間が過ぎてしまいました。

もはやかなり記憶も遠のいてしまいましたので、写真のみにて失礼します。

amami02.jpg

amami03.jpg

amami04.jpg

amami05.jpg

amami06.jpg

amami07.jpg

amami08.jpg

amami09.jpg

amami10.jpg

amami11.jpg

amami12.jpg

amami13.jpg

amami14.jpg

amami15.jpg

amami16.jpg

amami17.jpg

amami18.jpg

amami19.jpg

奄美はすでに梅雨入りしていましたが、ほとんど雨に遭うこともなく、穏やかな3日間でした。
posted by taku at 12:46| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月19日

大嶋、奄美大島へ(1)

amami01.jpg

ご無沙汰しております。

突然ですが、先日(5/15〜17)奄美大島に行ってきました。自分の苗字が「大嶋」なのに、これまで伊豆の大島にも奄美の大島にも行ったことがなかったので、ふと思い立って2泊3日のツアーに参加、ついに「大島」の地に一歩を記したというわけです。

とり急ぎ、動画をアップしましたので、まずはこちらをご覧ください。群れなすサンゴ礁の合間を熱帯の魚が泳ぎ回る様は、さながら竜宮城の如し。陳腐な例えですが、まさに「絵にも描けない美しさ」でした。


posted by taku at 19:23| 動画紹介 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月02日

『鎌倉アカデミア 青の時代』上映会終了

20180331.jpg

一昨日(3/31)、『鎌倉アカデミア 青の時代』の上映会が、横浜市教育会館ホールで開催されました。上映後には、主催元である春風社の三浦衛代表と監督の私(大嶋拓)による対談も行われ、盛況のうちに閉幕しました。

対談時間は1時間とたっぷり取ってあったのですが、それでも、事前の打ち合わせの時、「この話は是非入れましょう」と示し合わせておいた話ができなかったり、時間はいくらあっても足りない感じでした。会場には鎌倉アカデミア演劇科第一期生の加藤茂雄さん(今年93歳!)や、昨年ご逝去された文学科一期生・若林泰雄さんのご長女もお見えになっており、最後にひとことずつお言葉を頂戴しました。

年度末のご多忙な時期にもかかわらず、たくさんの方々にご来場いただき、まことにありがとうございました。
posted by taku at 11:37| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月20日

『鎌倉アカデミア 青の時代』上映会

kawaduzakura.jpg

すっかりブログの更新が滞ってしまい、申し訳ありません。地元・生田の河津桜も満開を過ぎ、ようやく春の足音が聞こえてまいりました(ここ数日は、また冬に戻ったような気候ですが)。

さて、きたる3月31日、横浜の学術系出版社・春風社主催による『鎌倉アカデミア 青の時代』の上映会が、下記の要領で開催されます。上映後には、春風社の三浦衛代表と監督の私(大嶋拓)による対談も行われます。どうぞお誘いあわせの上ご来場ください。

yokohama_chirashi_omote_s.jpg

yokohama_chirashi_ura_s.jpg
(クリックで拡大します)

日時:2018年3月31日(土)
●本編上映 13:00〜15:00(開場 12:30)
●対  談 15:10〜16:10 三浦 衛(春風社代表)×大嶋 拓(監督)
会場:横浜市教育会館 4Fホール(JR桜木町駅北口より徒歩10分)アクセス
料金:全席自由 500円

お申し込み・お問い合わせ:春風社 mail:info@shumpu.com
TEL:045-261-3168(平日10:00〜18:00)
主催:春風社 協賛:(一財) 横浜市教育会館

http://kamakura-ac.blue/shumpu.html
posted by taku at 12:46| 鎌倉アカデミア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月26日

平成最強寒波!

saikyokanpa.jpg

平成最強の寒波が来ているそうです。この間の大雪の後始末にも閉口しましたが、ここ2日間の朝の冷え込みといったら!

現在の住居に移って4年が経ちますが、朝、水道管が凍っていてお湯が出ないなんていうのは今回が初めてです。昼間も暖房が手放せない底冷えで、電気代の請求が恐ろしい…。

ポール星人の陰謀で、ガンダーが冷凍光線でも吐いているのでしょうか。

gander.jpg
ウルトラセブン 第25話「零下140度の対決」より

下のような恐ろしい物語もありましたが、最近の状況を見ていると絵空事とも思えません。少し前まで地球温暖化の危険がささやかれていましたが、実は寒冷化に向かっているのでは??

tokyo_hyogaki.jpg
ウルトラQ 第14話「東京氷河期」より

連日の異常低温のため、モロボシ・ダン並に寒さに弱い私の身体機能はすっかり麻痺してしまい、長めの文章は当分書けそうにありません。もう少し生き物にやさしい気温に戻るまでお休みしたいと思います。どちら様もどうぞお元気で。
posted by taku at 16:38| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月18日

パーマン原典購読(1)

年も改まってかなり経ったが、もう少し「パーマン」ネタを続けてみたい。

「大全集」の目次ページにも断り書きがあるように、F先生は単行本化の際、元の原稿に加筆修正を施すことが多かったようだ(手塚大先生の影響だろうか)。これは「パーマン」も例外ではなく、『少年サンデー』での連載第1話「パーマン誕生」や「はじめましてパー子です」、名作「パーマンはつらいよ」、ハードな展開の前後編「鉄の棺桶%ヒ破せよ」、そして最終回「スーパー星への道」などにもかなり手が加えられている。「大全集」も、一昨年出た「てんとう虫コミックス」新装版も、70年代に単行本化されたものを底本にしているということなので、雑誌に掲載された時の「完全なオリジナル」を目にすることは、もはや今日では難しいということになる。
そこで今回から2回にわたって「パーマン原典購読」と題して、『少年サンデー』掲載時のオリジナルと現行の単行本とを比較し、どういう風に加筆や修正が行われたのかを検証していきたい。

通常、こういう比較は、before、afterの順で行うことが多いと思うが、今回は、現在流通しているものが最初はこうだった、という流れでご覧いただきたいので、after、beforeの順で画像を紹介していくことにする。

plus01.jpg

第1話「パーマン誕生」。『少年サンデー』1967年2号掲載時は14ページだが、単行本では18ページ。4ページも増えている。この見慣れた扉も加筆されたもので、

org01.jpg

オリジナルの扉はこちら(「大全集」1巻の表紙で使用)。

はじめの4ページはオリジナルのままで、特に変更箇所はない。しかし、『サンデー』ではキャラクター表記が「ミツ夫」「ミチ子」「カバオ」となっており、現行の「みつ夫」「みち子」「カバ夫」と微妙に異なっている。

plus02.jpg

加筆修正が始まるのは5ページ、みつ夫とスーパーマンとの出会いの場面から。

org02.jpg

こちらがオリジナル。間違い探しの要領で見比べてみてほしい。

plus03.jpg

右のスーパーマンはオリジナルだが、みつ夫と風景は加筆されたもの。

org03.jpg

オリジナルと比較すると、みつ夫の表情や等身の違いがよくわかる。

これら一連の加筆は、1970年の「虫コミックス」(虫プロ商事)ではなく、1976年の「ホーム・コミックス」(汐文社)の刊行時に行われたものと推測される(「大全集」1巻巻末には、虫コミックス版だけの第1話オープニングシーンが掲載されているが、それを見る限り、みつ夫の顔にそれほど大きな違いは見られないので)。

plus04.jpg

このコマなどは、人物は元原稿のままだが、それを切り貼りして縦長にし、画面に広がりを持たせている(このパターンが結構あることに驚く)。

org04.jpg

元はこんな感じ。

plus05.jpg

やたらと有名なスーパーマンの自己紹介シーンも、

org05.jpg

オリジナルはこんなに控えめ。

スーパーマンはともかく、みつ夫の顔は違和感ありまくりで、オリジナルで描かれたものと明らかに雰囲気が違う。

mitsuo1967.jpg
みつ夫(1967年)

mitso1976.jpg
みつ夫(1976年)

顔全体における目の面積が小さくなり、目と目の間隔も広くなったため、コミカルさが薄れ、かなり大人っぽい顔立ちになっている(こうした加筆修正は、いきなり作品の世界観が変わってしまうような気がして、あまり好みではないのだが、それについてはあらためて述べたい)。

plus06.jpg

2段ブチ抜きのスーパー星の紹介も加筆によるもので、

org06.jpg

元は実にシンプル。

plus07.jpg

微妙な言葉の変更についてはご覧のとおり。

org07.jpg

この件についてはこちらでさんざん書いたので今回はスルー。

plus08a.jpg

plus08b.jpg

パーマンの超能力を紹介するシークエンスは、現行のものは1.75ページを使っているが、

org08.jpg

オリジナルでは1ページ。比較してみると、元原稿を活かしつつ、大ゴマを使ってダイナミックに表現しているのがわかる。単行本にすると紙面が雑誌よりかなり小さくなってしまうので、そうした点も考慮したのだろうか。

plus09.jpg

また、コピーロボットの説明シーンは、現行のものにはロボットがみつ夫の顔になる過程が2段目に描きこまれているが、

org09.jpg

オリジナルにはそうした描写はない。また、「この脳細胞破壊銃でほんとのパーにしてやる」の元コマがかなり狭かったこともわかる。


さて、みつ夫の加筆部分については、顔を見れば容易に判断できるが、これがパーマンになると、マスクをかぶっているため、見分けるのがいささか難しい。しかし、実は顔以外にも見分ける大きなポイントがある。それは、60年代の「オバQ」「パーマン」が「4本指」で描かれているのに対し、70年代以降の「ドラえもん」「新オバQ」は「5本指」で描かれているということ。

アニメや漫画における「4本指」は、歴史的にはディズニーが発祥で、それが手塚大先生を経て藤子不二雄両先生に引き継がれたということらしいが、70年代以降は写実主義の時代に入ったからかあまり見ることはなくなる(アニメの「パーマン」も、60年代の旧作は4本指だが、80年代の新作は5本指である)。ここで紹介している加筆修正は70年代に行われたものなので、5本指になっているものが多い。

plus10.jpg

加筆された1、2、3コマ目の人物の指はしっかり5本。

org10.jpg

オリジナルはあくまでシンプル。指は4本。

plus11.jpg

2段目右のパーマンとみち子のツーショットは加筆コマだが、注意しないとわからない。

org11.jpg

こちらがオリジナル。コマの配置も微妙に変わっている。

plus12.jpg

よくよく見ると、みち子の前髪の数が違う。加筆は3つだが、

org12.jpg

オリジナルは2つ。

plus13.jpg

パーマン初の人命救助に出動。加筆なので指は5本。

org13.jpg

オリジナルは指4本。

飛行機を墜落から救う場面も、先ほどの超能力の紹介と同様、コマを大きめにして迫力を増加させているが、それほど大きな修正はないのでここでは省略。

plus14.jpg

そしてこれ。ヒーロー物の第1回にふさわしい決意表明のシーン。
「なったからにはがんばらなくっちゃな。ぼくにできるはんいで」
などというセリフは実にF先生チックなのだが、実はこれもすべて加筆。

org14.jpg

オリジナルでは、飛行機を救ったすぐあとに、「さて、そろそろ家へ帰るか」となっており、あくまで日常ベースの物語という感じ。また、みち子のセリフが「子どものスーパーマンが…」になっている。

という感じで、第1回は終了。いやあ、これは思ったより時間と手間がかかる! 本当は「はじめましてパー子です」も手をつけたかったが、とても時間が足りない。しかもこれだけ労力を使っても、「パーマン」に興味のない人には、あんまり面白くないような気もするし…。今後どうするか、ちょっと考えます。
posted by taku at 18:12| 漫画・アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月11日

F先生まぼろしのサイン

noborito_dora.jpg

前回のブログに、

当時生田に住んでいた私にとって、藤子不二雄先生というのはご近所の大先生であり、小学3年の時、友人とご自宅までサインをもらいに行ったこともあります。

と書いたので、忘れないうちにその時のことを記しておこう。しかし、このことについて書くのは、正直いささか気が重い。それは、最後まで読んでいただければおわかりだと思う。

あれは小学3年の、秋だったか春先だったか、あまり暑くも寒くもないころだったと記憶している。休み時間に何人かの級友とマンガの話をしていた時、Aくんが、
「うちの近所には藤子不二雄が住んでるんだ」
と言うので、
「それじゃあ、サインをもらいに行こう」
という話になり、やはり近所のBくんも誘って、3人で学校の帰り、F先生のご自宅にうかがったことがある。

「生田に藤子不二雄が住んでいる」ということはすでに知っていたが、歩いていける距離だというのは正直意外だった。もっとも、この時期はすでに生田スタジオで「仮面ライダー」の撮影を見学したこともあったので、「マスコミで有名な存在が、手をのばせば届くところにある(いる)」ということには大して感動も驚きもなかった(今考えると、生活圏内に「仮面ライダー」と藤子不二雄両先生がいたというのはかなりすごいことだと思うのだが)。

小学校から歩いて10分もかからない静かな住宅街に、F先生のお宅はひっそりと建っていた。門柱には「藤本弘」「藤子不二雄」というふたつの表札が掲げてあったと思う。当時は新築して間もないころだったはずだが、とりたてて華美な印象はなく、子ども心にも、
「え、これがあの藤子不二雄先生の家なのか? ずいぶん普通だなあ」
と、ちょっと肩透かしを喰った気分だった。あれだけ想像力豊かなマンガを描く人だから、家ももっと非日常的な建物の方が似つかわしく思えたのだろう。

さて、今でも解けぬ謎なのが、どうしてAくんは、「黒い藤子不二雄」(A先生)ではなく「白い藤子不二雄」(F先生)のお宅に、私とBくんを案内したのかということ。誰でも知っているように、F先生宅とA先生宅はほぼ隣り同士である。そして当時はまだFとAとにわかれていなかった時期で、どちらがどの作品を描いているかは一般には知らされていなかった。それを考えると、A先生のお宅を訪ねてもおかしくなかったはずなのだが、Aくんはしっかり「小学生御用達」である「白い藤子不二雄」(F先生)のお宅の門の前に立ったのだった。

そこで、呼び鈴を押すまでに、3人してかなり躊躇したような記憶がある。いくら近所といっても、Aくんも直接の面識はなかったようだし、いきなり「サインをくれ」というのもずうずうしすぎるのではないか、と小学生の頭でもそう考えたのだ。しかし、せっかく来たのだからということで、多分Aくんが、意を決して呼び鈴を押した。少しの静寂。やがて家の中から、40代のご婦人が出てきた。F先生の奥さまだったと思う。
「…あの、ぼくたち近所の小学生なんですけど、藤子先生のファンで、是非、藤子先生のサインが欲しいんですけど」
なんてことを言ったのだと思う。すると奥さまは、
「今、主人は仕事でいないんですよ」
とおっしゃった。これは、当時のわれわれには少々意外な返事だった。何故なら、あの時代のマンガには、漫画家が自分の家でうんうんうなって執筆している様子がよく描かれていたからだ。そして私の父も作家で自宅が仕事場であったから、漫画家が昼間、「仕事でいない」というのがどうもピンとこなかったのである。
「先生はいないんですか」
「そう、お昼間は東京の仕事場でお仕事をして、帰りは遅いの」
この仕事場というのはもちろん、藤子スタジオのことを指しているわけで、この日のやりとりで、私は藤子不二雄という漫画家は家と仕事場をわけているということをはっきり知った(あらためて雑誌などのおたよりの宛先を見ても、住所は市川ビルの藤子スタジオになっていた)。

とにかく、F先生は不在だという。われわれ3人はしばし顔を見合わせた。先生がいないんじゃ、サインはあきらめるしかないのか…。そんなわれわれの心中を察したかのように、奥さまは、
「じゃあ、描いてくれるように頼んでおくから、2、3日したら取りに来てちょうだい」
とおっしゃったのである。
「え、いいんですか?」
思いがけない話に、われわれは身を乗り出した。
「絵は何がいいの? ドラえもん? オバQ?」
その当時の小学生には、学年誌に数年連載中のドラえもんがなじみ深かったが、一方、「新オバQ」もアニメが放送中で、人気は伯仲していた。しかしわれわれは期せずして3人とも、オバQをリクエストした。
「オバQね。わかりました」
われわれは奥さまに御礼を言い、その日は引き上げた。

そしてその2日後、われわれ3人は約束どおりふたたびF先生宅を訪れ、そこで奥さまから、間違いなくF先生直筆の、オバQイラスト入りサインを、頂戴したのである。手渡されたのは色紙ではなく藤子スタジオの原稿用紙で、青のサインペンでイラストのメイン部分、赤のサインペンでオバQのくちびるとサインが描かれていた。しかも3枚ともポーズが違っている!!
われわれは子どもながらにF先生の細やかな心遣いに感激し、何度も御礼を申し上げてお宅を引き上げたのであった。

こうして、アポなしの藤子不二雄宅訪問は、先生と直接お目にかかることはかなわなかったものの、念願のサインをいただくという、大変大きな収穫を得て終わった。帰り道は、AくんもBくんも私も、かなり興奮していたと思う。ポーズの異なった3枚のオバQをどうやって分配したのかは記憶にないが、多分ジャンケンでもして、勝った者から好きなのを選んだのだろう。私は、割と正面向きのポーズのものを手にすることになった。

それにしても、一面識もない近所の子どもの訪問に、嫌な顔ひとつせず対応した奥さまは本当にできた人だなあとあらためて思う。もっとも、当時の生田は新興住宅地で子どもの数がやたら多かったから、この手の不意の訪問者は日常茶飯事だったのかも知れないが…(それでもああした等身大の対応は、なかなかできることではないと思う)。

さて、こうしてめでたくサインをもらえたというのに、なぜ私はこのブログの冒頭で「いささか気が重い」などと書いたのか。それは、その時のサインが、現在、私の手元に残っていないからである。

この不始末については、あまりにも腹立たしく、本当に、何度自分の頬を張り飛ばしても足りないくらいだ。これよりもっと前の時代の「現代コミクス」などは保存してあるくせに、どうしてF先生のサインが手元にないのか?

処分したという記憶はないのに、どうしても、どこを探しても、見つからないのだ。実に悲しい。そして、取り次いでくださった奥さま、お忙しいところサインを描いてくださったF先生にも本当に申し訳ない。

しかし、こういう、やるせないこともあるのだ。これをお読みの方にも申し訳ない気持ちでいっぱいである。せめてものお詫びのしるしとして、記憶を頼りに再現してみたのがこちら。

obaQ_saigen.jpg

拙い再現ですが何卒お許し下さいますよう。青と赤の配色とサインの位置はこんな感じだったと思う(実際には縦長の原稿用紙の中央に描かれていた)。

ちなみに、最近ネットオークションなどで、人気漫画家のサイン色紙がかなり出回っているようだが、その多くは偽物で、出品者自身が描いているケースもあるらしい。安易に入札するのは避けたいものだが、私も上の再現サインを描いている時、何だか自分が偽物の製造に手を染めているような錯覚に陥り、ちょっと後ろめたい気分であった。
posted by taku at 16:32| 漫画・アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月09日

お宝年賀状

昨年暮れは、4回連続で藤子不二雄先生ネタを書いたということもあり、半世紀近く所蔵してきたお宝年賀状を特別に公開することにしました。昨日、実家の物置からやっとのことで見つけ出したものです。

nengajo1973.jpg

まずは1973年。ネットで検索してみても、70年代のものはあまり見つからなかったので、割とレア度は高いのかも知れません。「ジャングル黒べえ」の黒べえ、赤べえ、パオパオが目立つ場所に描かれていますが、これらのキャラはまったく見たことがなかったため、しきりと首を傾げたのを覚えています(「ジャングル黒べえ」は放送・連載ともこの年の3月に開始)。当時の私は小学3年生でした。

nengajo1975.jpg

こちらは2年後、1975年。73年の賀状はF先生のキャラがメインでしたが、こちらはキレイに左半分がF先生、右半分がA先生のキャラになっています。「プロゴルファー猿」はこの前年(1974)に連載が始まったばかりですが、キャラクター全員にゴルフクラブを持たせていることから推察して、すでにかなりの話題作だったことがうかがえます。私は小学5年生でしたが、この時期『少年サンデー』は読んでいなかったので、「プロゴルファー猿」のことはほとんど知りませんでした。

nengajo1975omote.jpg

ネットオークションなどで入手したものでない証拠として、一応表面も載せておきます。差出人は藤子スタジオで、住所は今は亡き市川ビル(ぼかしをかける必要はなかったかも…)。

小学生のころは、何度となく藤子スタジオ宛にファンレターを送っていたので、ファンサービスの一環として、こういう年賀状が送られてきたのです(ついでに言うと、当時生田に住んでいた私にとって、藤子不二雄先生というのはご近所の大先生であり、小学3年の時、友人とご自宅までサインをもらいに行ったこともあります。しかしその話はやや長くなるのでまたの機会に)。

最後に、これは藤子不二雄先生ではありませんが、やはり何度かファンレターを出した永井豪先生(ダイナミックプロ)の年賀状(1974年)。

nengajo1974.jpg

こちらは、左上の筆者の絵のみオリジナルで、あとはそれぞれの掲載誌の絵を転載しています。年賀状用の1枚絵を書き下ろすだけの時間的な余裕はなかったということでしょうか。上から「バイオレンスジャック」「マジンガーZ」「ドロロンえん魔くん」「キューティーハニー」。4作中3作がアニメ放映中だったというのもすごいです。ちなみに「マジンガーZ」は『少年ジャンプ』での連載を終え、『テレビマガジン』に移っていました。
posted by taku at 20:39| 漫画・アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする