旧知の間柄である劇作家の若林一郎さんは、月に数回、「ねごとのつづき」という日々の記録をメールでお送りして下さるのだが、一昨日送られてきたそれに、右手和子さんについての記述があった。右手さんの父親は戦前の紙芝居の貸元で、私の父の青江舜二郎と松永健哉が1938年に設立した日本教育紙芝居協会にも関わっていた人物である。その父親の影響で、右手さんもその生涯を教育紙芝居普及のために捧げ、そして過日、旅立たれたという。
若林さんの文章には、半世紀におよぶ交遊から、最期の様子までが丁寧に描かれており、ある時代の記録としても貴重なものだと感じられた。それを読んですぐ、「右手和子」の名前でネット検索をしてみたのだが、彼女の素顔に触れた文献も、きちんとした訃報も、ほとんど上がって来ない。そこでこのブログを使って、以下に全文を公開したいと思う(若林さんには転載の許可を得ています)。
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■右手和子さんを見送る
ぼくは長男だから兄や姉はいない。そんなぼくにとって、ウテちゃんは甘えられる姉のような存在だった。そのウテちゃんが亡くなったという知らせを受け取った。「順番だから仕方ない」と、うかうかと80歳になっている自分に言い聞かせながら、なんともいえない寂しさがこみあげてくる。
「ウテちゃん」こと右手和子さんが天国へ旅だったのは、11月17日だったという。
彼女と知り合ったのは、ぼくがまだ二十代のころ、考えれば半世紀を超えるおつきあいだった。
NHKのテレビ放送が始まってまもなく、『なんでも百科』という子ども向けの番組があった。劇団民芸の庄司永建さんが司会者で、子どもが興味を持ちそうな話題をとりあげる情報番組、いま考えてみるとニュース・ショーの先駆けだった。プロデューサーは細入昭さんで、ぼくはその台本を担当していた。司会者にガー公というアヒルの人形がからんで、いろんな質問をする。ウテちゃんはそのガー公の声をやってくれた。当時は「声優」なんて言葉もまだなかったけど、彼女はそういう仕事の草分けだった。
まだテレビが手作りだった時代、田村町にあった放送会館のスタジオから放映していた白黒テレビのナマ放送。とりあげる素材がなかなか決まらないもんだから、ガリ版の台本が出来るのはいつも本番ギリギリ。進行がうまくいかない急場を、いつもウテちゃんに助けてもらったものだ。本番が終わればみんなで揃って食事に行ったりして、スタッフも出演者も友だちづきあいだった。
ウテちゃんには遠藤晴こと「おハルさん」という御神酒徳利(おみきどっくり)の相棒がいた。そういえば、このふたりは劇団四季の草創期にメンバーに名を連ねていたと聞いた覚えがある。揃ってお酒は強かった。
このふたりに誘われて、貧乏暮らしをしていたぼくもショーチュー以外の高級なお酒の味を教えてもらった。と、いったって、あのころはサントリーのハイボールぐらいだったけど。すっかり酔っぱらって、ウテちゃんとおハルさんに両腕をかかえられるようにして、渋谷の地下にあったバーの階段を登っていった思い出が、若い日の幻のように浮かんでくる。
ウテちゃんは声優としてなかなかの売れっ子で、虫プロの『悟空の大冒険』では主役の孫悟空をやっていたのを覚えている。沙悟浄役は愛川欽也だった。もっともこのときは、亡き宇野誠一郎作曲の歌が歌えなくて弱ったらしい。「私ゃオンチだから」と、いつもの笑顔でこぼしていたっけ。
そんなことがあったせいかどうかはよく分からないが、ウテちゃんはいつのまにか声優の仕事からすっぱりと足を洗って、紙芝居の仕事ひと筋に進むようになった。きっと、なによりもお父さんの志を継ぎたかったのだろう。
いまぼくはおこがましくも「紙芝居の親方」なんて名乗っているけど、ウテちゃんのお父さんは右手悟淨さんといって、正真正銘の紙芝居の親方だった。紙芝居屋さんたちに紙芝居の絵を貸す貸元をやっていたのだ。お宅は当時の玉川電車(現・東急田園都市線)の大橋の駅の近くにあった。
自転車の荷台に紙芝居の舞台を載せて紙芝居屋さんは町角にやってくる。そして、カッチカッチと拍子木を鳴らして町内をひと周りすると、メンコやベーゴマで遊んでいた子どもたちが集まってくる。
彼らに水飴などを売るのが紙芝居屋さんの収入で、オマケに紙芝居をやってみせるのだ。『黄金バット』などのヒット作は子どもたちを夢中にさせたものだ。テレビのお蔭ではかなく姿を消していくまで、紙芝居屋さんは子どもたちの人気者だった。これをいまは「街頭紙芝居」と呼んでいる。
そういう紙芝居の絵は一枚ずつ手書きだった。それをワン・セットずつ紙芝居屋さんたちに貸し出すのが貸元。水飴なども卸したようだ。絵がこすれてしまわないように一枚ずつニスを塗っては、天井に張り巡らされた針金にぶら下げて干す。そのニスの匂いをかぎながら幼いウテちゃんは育った。
当時、街頭紙芝居は俗悪で子どもの情操教育によくないとさんざん批判された。それに応えて、右手悟淨さんは「教育紙芝居」運動の推進者のひとりとなって、さまざまな苦労を重ねられたという。娘のウテちゃんはそんなお父さんの前座として紙芝居をやって「天才少女」と評判されたそうだ。だから声優を捨てるのに未練はなかった。そして、きっぱりと紙芝居の道を歩み始めた。
そして「子どもの文化研究所」や「日本幼児教育研究会」の講師として、全国を巡回して幼稚園や保育園の先生たちに紙芝居を指導するかたわら、子どもたちに紙芝居の実演をしてみせるようになった。そんなウテちゃんが紙芝居の講習会の参加を呼びかけている文章をネットで見つけた。
「講習会や子ども達の前で演じるとき、椅子ごとひっくり返るほど笑い、同じように心配そうな顔をし、食い入るように画面を見つめるそのまなざしが、子ども達の生き生きした心を伝え、私の心もふくらんでくるのです。こんな幸せを味わってごらんになりませんか」
こういう子どもたちとの交流は、テレビの世界には求められない。ぼくもテレビの青少年番組の現場にいて、子どもたちの生き生きとした反応のないことをいつもさびしく思っていた。
彼女の紙芝居のうまさはまさに独壇場で、ひとつの「芸」になっていた。
その講習会をなんどか見学にいったことがある。最初はウテちゃんがごろごろと引っ張ってくる荷物の大きさに驚いた。旅のバッグを載せたカートに、紙芝居の舞台だの何種類かの紙芝居だのをくくりつけると、大の男でもひるみそうな大荷物になる。それを引きずって彼女はどこへでも紙芝居を教えに出かけていったのだ。
そういう活動を認められて、ウテちゃんは平成7年(1995年)に高橋五山賞の特別賞を贈られている。一般にはあまり知られていないが、教育紙芝居の世界では最高の賞なのだそうだ。けれども彼女の仕事のすばらしさは、そういう名利を超えたところにあったと思っている。
そんなウテちゃんの仕事ぶりを知っていたものだから、大月書店から『紙芝居をつくる』という本の執筆を頼まれたときに、一も二もなくウテちゃんを頼りにした。絵の方でぼくのわがままを聞いてくれたのは故・西山三郎こと「さぶちゃん」で、文章は僕が書いて三人の共著という形で出版されている。このときも絵の抜き方、間の取り方など、ずいぶんいろいろなことを改めて彼女に教えられている。しかもこの本のすばらしさは、演じ手のウテちゃんと客席の子どもたちとの写真をふんだんに採り入れたところにあった。文字通り「椅子ごとひっくり返るほど」笑っている子どもたちの姿! 悲しいことに、これが彼女を偲ぶなによりの形見となってしまった。
右手さんと若林さんの共著『紙芝居をつくる』(1990年・大月書店) その後、鎌倉アカデミアの旧友の中野寛次君こと「カンちゃん」と齋藤英司君こと「エイちゃん」のコンビが、紙芝居をやりたいといいだしたときにも、
「それならウテちゃんに習いに行ったらいいよ」
と、ぼくは勧めたのだった。
ウテちゃんは目白の「子どもの文化研究所」の中に「ひょうしぎ」というグループを作って指導していた。ふたりともたちまちウテちゃんのファンになって、この道に夢中になっていった。このグループでふたりは「G組」と呼ばれた。すなわち「爺(じい)」組。
カンちゃんとエイちゃんが芸能紙芝居「にこりん座」の旗揚げ興行をしたときにも、ウテちゃんは宮沢賢治の『なめとこ山の熊』をやってくれた。ああいうきちんとした日本語の語りをやれるひとはもういないなあ。あのときは講談の小金井芦州先生も『寛永三馬術』をやってくださったっけなあ。
「教育紙芝居」がいつのまにか保育園と幼稚園の枠の中に収まってしまったのにあきたりなくて、「にこりん座」は「芸能紙芝居」と称したのだが、そんな行き方もウテちゃんは温かく見守ってくれた。
そのカンちゃんも亡くなって十年以上になる。彼らの仕事は、声優学校の講師をしていたカンちゃんの教え子たちが組織した「きらく座」というグループに受け継がれている。
紙芝居のよさは手作りにあると思っている。印刷された教育紙芝居は市販されるという性質上、絵の枚数に制限があってなかなかこちらの思うとおりの台本が書けない。それでも、何本か引き受けているが『竹一本塩一升』という台本だけは、ウテちゃんに褒めてもらえた。それを「きらく座」で上演するときにも、西山三郎さんの絵を何枚か増やして上演している。出版社にはイヤな顔をされそうな、そんなぼくのわがままもウテちゃんという「お姉さん」には許してもらえると信じてきた。
通夜は11月21日、東急多摩川線の沼部駅に近い密蔵院で行われた。このお寺とはお父さんのころから交流があって、ウテちゃんもなんどかお寺の子ども会で紙芝居をやっていたという。ウテちゃんには家族はいなかった。密葬のやり方は故人が細かく注文していて、親友の磯貝しまさんを喪主として遺志通りに行われた。
その席で配られた「病状報告」によると、8月ごろから体調を崩していて、ほとんど食事もとれなくなっていたらしい。そういえば「ムーブ町屋の紙芝居劇場」で坂井志満さんからそんな話を聞いたっけ。それでも講習会に出ているというから、まだそれほどのことはないと思っていた。最後の紙芝居の旅は8月22日から一泊の盛岡への旅。このときは「立っているのもたいへんそうだった」ので「ひょうしぎ」のメンバーが入院を勧めたようだ。スケジュールの調整をしたりして、入院したのは10月31日。病院のベッドでぼくがプリント・アウトして送った『ねごとのつづき』を読んでくれていたと聞いて、思わず胸が熱くなった。
11月2日の早朝、脳梗塞を起こす。膵臓ガンの末期と診断されたのはそのあとで、直接の死因は脳梗塞だったという。入院から18日目で眠るように亡くなった。
ご戒名は陽童和合信女。太陽のように明るく温かでいつも童心を忘れずに、仲間の面倒をよくみてくれた彼女にふさわしいご戒名だ。享年84歳。ぼくより4歳年上なのを初めて知った。
亡きお父さんの仕事を継いで、ひたすら紙芝居を愛して、それを演じるのを楽しみながら、ひと筋の道をひたむきにまっすくに生き抜いた人生だった。
お浄めの席で、久しぶりのエイちゃんやご列席のみなさんと、さまざまな思い出話にふける。
最後にあったのはいつだっけ、と考えて、ことし4月の『竹下玲子の会』に来てくれたのを思い出す。切符売りの苦手なぼくのために、毎年たくさんの切符の注文してくれたっけ。顔を合わすと、温かな微笑をぼくに向けてくれた。あの笑顔にまた会えないと思うと、またたまらない寂しさがひたひたと胸に迫ってきた。
(若林一郎「ねごとのつづき・その246」より)
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なお、若林さんが主催する芸能紙芝居「きらく座」の公演が12月23日、ムーブ町屋で行われる。
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