2013年10月13日

お知らせ

この度、当ブログの更新をしばらくお休みすることにしました。5年ほど前に立ち上げたものの、このブログという形式は、どうも私とはあまり相性がよくなかったようです。最近では、ツイッターやフェイスブックなど、さらに速報性重視のツールが人気のようですが、50歳を迎えてどんどんスローライフの方に向かっている私には、何やら別次元の出来事のように思われます。

今後は、以前のように、公式サイトの中に「コラムのページ」を復活させることも考えていますが、具体的なことはまだまったく決めていません。
なお、映画『影たちの祭り』の最新情報については、同映画のフェイスブックページをご覧下さい。
これまでのご愛読に心より感謝申し上げます。
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2013年10月04日

続・姫田忠義さんのこと

前回このブログに姫田忠義さんの追悼文を書きました。その後、劇作家の若林一郎さんから届いた「ねごとのつづき」という月に一度の備忘録的エッセイを読んだところ、そこにも姫田さんとの長年にわたる交遊が綴られていました。テレビ草創期の珍しいエピソードなども記されており、ある意味貴重な記録であると思われたので、ご本人の許可を得て、ここに転載させていただきます。

姫田忠義さんを悼む
若林一郎


 この世でなすべきことをきちんと仕遂げた友人が、あの世へと旅立っていく。寂しさを胸に、その思い出を書き残すのも、生き残りのお役目だろう。

 姫田忠義さんが7月29日に亡くなった。享年84歳、早生まれのぼくからいうと学年は一期上だったようだ。慢性閉塞性肺疾患というから、前から胸は悪かったのかな。確か2年ほど前に主宰していた民族文化映像研究所の所長を後進に委ねたというお知らせを受けて、やはり彼もトシをとったんだなあと感じたことがあったっけ。

 姫田さんといえば思い出すのは、ひとなつっこい温厚な笑顔。口数の少ないひとだったが、たまたま出会って「やあ、元気?」という「姫さんの笑顔」に出会うと、なぜかほっとしたものだ。
 彼と知り合ったのは、テレビ放送が始まったころ。NHKの青少年部のライター仲間だった。
 そういえば『びっくり百科』という番組の構成を、姫さんと交替でやっていた時期もあった。
 いまのニュース・ショーを子ども向きにしたような番組で、糸川英夫博士のペンシル型ロケットの紹介をしたのを覚えている。水平にロケットを発射して「等間隔に張った紙を破って速度を測る」という子どもじみた実験をしていた時代があったのを、今の若い人たちは知るまい。
 そういう話題を構成するのがライターの仕事で、司会は劇団民藝の庄司永建さん。それに右手和子さんが声を担当したガー公というアヒルの人形がからむ。こっちは子どもたちを笑わせるようなツナギを書いてお茶をにごしていたけれど、姫田さんの仕事ぶりはひたすら篤実。そのせいか「ヒメさんはマジメすぎて、もひとつおもしろくならないねえ…」なんて声も聞こえてきたっけ。こういう淡い付き合いのまま、いつのまにか彼の姿はテレビ・スタジオから消えていた。

 彼の仕事にまためぐりあったのは、国立民族学博物館が大阪の万博の跡地に開館して間もなくだった。そのころぼくは前進座の青少年劇場のために『星は歌っている』というミュージカルを書いた。世界各地の星の民話を採りあげたオムニバスだったので、さっそく民博に勉強に出かけた。
 すると映像ライブラリーがあって、そこに姫田さんが撮影した作品を発見した。
「あっ、ヒメさんはこんな仕事を始めたのか」と思った。記憶はおぼろげだが、奄美諸島の「諸鈍(しょどん)シバヤ」という民俗芸能の演目で、盲目の座頭(ざっと)どんが川を渡る様子をユーモラスに演じる姿を撮ったのもあったっけ。「いかにもヒメさんらしく、丁寧な撮り方だな」と思ったりしたものだ。

 いちはやくテレビの世界に見切りをつけたあと、姫田さんが民俗学者の宮本常一さんの門下となって『あるく みる きく』という雑誌の編集などに携わっていたのは知っていた。そして、彼はついに民俗の記録映像に自分の進むべき方向を発見していたのだった。
 彼の肩書きを「ドキュメンタリー作家」とした訃報もあったけれど、彼には「民俗映像記録作家」という表現がふさわしいと思っている。
 その業績は枚挙にいとまない。中でも後世に残る傑作は『越後奥三面(えちごおくみおもて)』。ダムの底に沈んでしまった新潟県の北の外れの集落を記録している貴重な映像だ。高度成長真っ盛りの時代、冬には雪に閉ざされてしまう山間の小さな集落の生活は、姫田さんが記録を思い立っていなければ、ひっそりと忘れ去られてしまったに違いない。
 いかにも彼らしく篤実な記録だった。しかも、いったん集落が湖底に沈んだあと、移住した集落で民俗がどう変わったかということまで記録して、続編を製作した執念に頭がさがった。

 そのころ、新宿二丁目にあったヒメさんの事務所にときどき遊びに行っては、おしゃべりを楽しむようになった。新作の記録映画の会も、そのたびご案内をもらって律儀に通っていた。
 彼には『イヨマンテ―熊送り』などのアイヌの民族行事を記録した作品が何本もある。ぼくもそのころ『民話の手帖』の編集を手伝っていて、北海道の二風谷のアイヌ集落を訪れて、萱野茂さんから「ユカラ」(アイヌに伝わる叙事詩)の原稿を頂きに通ったりしていたから、それからそれへと話は尽きなかった。
 萱野さんは独力で「アイヌ文化資料館」を建てて民族の文化資料を収集していらした。そこへ姫田さんの師の宮本常一さんが訪れた。アイヌは漆塗りの箱を大切にしているのだが「お金がなくて、こわれたものしか集められないんです」と萱野さんがいうと、宮本さんは「だからいいんです」と答えたという。「こわれていれば、そこから漆の塗り方など、作り方がわかりますからね」。
姫田さんはこれを聞いて楽しそうに「ぼくらの仕事はまさにそういうもんだからな」といっていた。
『イヨマンテ―熊送り』という作品などは、まさにそんな仕事だった。アイヌの「イオマンテ」という祭りは、肉という贈り物を持って人間の世界にやってきカムイ(アイヌの神)を、神の世界へ送り返す儀礼だ。姫田さんの映像は、そういうアイヌの人たちの民族の魂を丁寧に映しだしていた。

 けれど、あるとき部屋をのぞいたら、彼が深刻な表情で書類をじっとみつめているのを見た。新しい記録映像のための予算書だった。まだいまのように映像が簡単に撮れる時代ではなかった。さまざまなスタッフや機材にいくらかかるか「どうみたって足りないってところから、スタートしなくちゃならないんだよ」といいながら、ヒメさんいつもの微笑をみせた。「だって、いま撮って置かないと、もうチャンスはないかもしれないんだからね」
 経済オンチのぼくにはとても出来ない仕事だと思った。こういう隠れた苦労の積み重ねの上に彼の仕事があるのを知って、改めて頭の下がる思いがした。
 彼の作品のナレーションは、監督自身が行うのが特色となっていた。もしかすると、ナレーターのギャラを支払えなかったせいかもしれない。しかし、彼でなければ語れない「思い」があのナレーションにはこめられていた。それを語りたいために、彼は記録映像作家となったのだろう。

「記録」も時代と共に変化していく。姫田さんの師の民俗学者・宮本常一は写真機を手にして全国を回って、失われていく「民俗」を撮影し続けた。その写真の一枚一枚が、貴重な記録として後世に残された。
 姫田さんは「映像」という手段を通して、師の志した道を歩み続けた。ビデオなんて夢のまた夢、まだ映像は高価なフィルムに記録されていた時代だ。それを編集してひとつの記録にまとめあげるには、ヒメさんの体当たりのエネルギーが必要だったと思う。

 いまや「映像」は新しい時代を迎えている。携帯カメラなどで手軽に撮影された「情報」としての映像が、世の中に溢れかえる時代。その巨大な「情報」の渦の中から、何を掬いとり、何を伝え、何を訴えていけばいいのか――。
 とても大きな課題が、姫田さんの後に続くこれからの「記録映像作家」たちには与えられているように思える。
posted by taku at 11:55| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする