2014年05月23日

ホッツェンプロッツと再会

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「大どろぼうホッツェンプロッツ」のチラシ。左が初演(1972)、右が現在のもの

先週の日曜日(5/18)、人形劇団ひとみ座「大どろぼうホッツェンプロッツ」という人形劇を見て来ました。「ひょっこりひょうたん島」と並ぶ、ひとみ座の代表的なレパートリーですから、ご存知の方も多いのではないでしょうか。

私とこの作品との出会いは、今から実に40年以上前の1972年にまでさかのぼります(詳細については、以前こちらのブログに書きましたので、お時間のある方は併せてお読みいただければ幸いです)。簡単に説明すると、私の父の青江舜二郎が初演の脚本を担当し、それを当時小学3年生だった私が学校公演で見た、ということです。

その後、ひとみ座との関係は久しく絶えていたのですが、今年に入り「鎌倉アカデミアを伝える会」のゲストとしてひとみ座をお呼びすることが決まったあたりから、にわかに行き来が活発化してきました。特に、制作部の田坂晴男氏とは2月の片岡昌氏追悼イベント「AKIRAのひとみ」を振り出しに、今月9日の児童福祉文化賞表彰式、そして17日の「鎌倉アカデミアを伝える会」でもご一緒することになり、その田坂氏から、
「ホッツェンプロッツもずいぶん長いことやってきましたが、18日の公演でフィナーレを迎えますので、よかったらご覧になりませんか」
と誘われ、それならば是非、という流れになったわけです。

この劇は1972年の初演時だけでなく、2009年にも見ているので、ストーリーはすっかり頭に入っています。ですから今回は内容ではなく、人形の動きと、その人形を操る演者の動きを中心に見てみよう、と最初は思っていました。でも、芝居が進行していくと、やはりストーリーやセリフに気を取られ、また、人形の動きと演者の動きは、どちらが「主」でどちらが「従」」かわからないくらい見事に一体化しているので、そのふたつを分離して観察することは不可能でした。青江は「人形こそは人間」という言葉を残していますが、その意味が何となくわかった気がしました。

終演後は田坂氏のご案内でバックステージに回り、この作品のタイトルロールであるホッツェンプロッツとご対面! 何と、この人形は、1972年の初演時のものがそのまま使われているとのこと。脚本も演出も演者もすべて当時とは変わっているので、当然人形も何度か作り直しているだろうと私は思っていたのですが、木を彫って作った人形の寿命は思いのほか長いのだそうです(細かい補修や塗り直しはしているようですが)。このホッツェンプロッツをはじめ、数々のひとみ座作品の人形制作を手がけた片岡昌氏は、昨年7月28日に惜しまれつつ亡くなりましたが、彼が作った人形は、今も全国を飛び回り、舞台の上で生き続けています。まさに「人生は短し、されど芸術は長し」です。今回のフィナーレ公演で、ホッツェンプロッツはしばし休息の時を迎えましたが、またいつの日か復活し、コショウピストル片手に大暴れする日も来ることでしょう。

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お疲れさま!

その後は、同作品に関わった歴代の関係者約20人で打ち上げが行われ、出席を予定していた何人かが急用で来られなくなったため、その穴埋めという名目で、私も僭越ながら参加させていただきました。
2009年バージョンでホッツェンプロッツを演じた齋藤俊輔氏(今回は大魔法使いペトロジリウス・ツワッケルマン役で参加)、そして今回のホッツェンプロッツ役である来住野正雄氏は、何と5年前に私が書いた前述のブログを読んでいたとのことで、作品のストーリーやキャラクター設定などについて、かなり突っ込んだ意見交換ができたのも収穫でした。

私は、ずいぶん前からこの作品のある設定に疑問を持っていました。それは、
「何故、大魔法使いツワッケルマンは妖精アマリリスをスズガエルの姿に変えて、7年も城の地下の池に閉じ込めておいたのか?」
というもので、それについて、自分なりに以下の解釈をしていました。
「ツワッケルマンは以前からアマリリスに恋心を抱いていて、ある時プロポーズをしたのだが、こっぴどく振られてしまい、その腹いせに、他の男と恋愛ができないよう、醜いカエルの姿に変えてしまった。そして、そんな状態で池の中に幽閉しておけば、いずれはアマリリスの心も変わって、自分になびくかも知れない考えたのだ(そうでなければ、さっさと殺していたはずである)」
心に抱いていたこんな裏設定を披瀝したところ、齋藤氏はすかさず、
「それはボクも考えてました」
とのこと。こういうのって嬉しいですよね(児童劇なので、その辺を舞台上で掘り下げるのは難しいでしょうが、演じ手の役作りとして発想をたくましくしていくのは大いにありだと思います)。

また、初演時の演出兼ホッツェンプロッツ役を務めた故・須田輪太郎氏(元劇団代表。2011年病没)の奥さまで、やはり初演メンバーだった村上良子氏が元気な姿を見せてくださり、
「最初の時は人数が足らなくって、私がツワッケルマンの人形をやって、そして声だけは片岡昌さんがやったのね。ツワッケルマンって魔法使いだからずいぶんあちこち動き回るんだけど、片岡さんがなかなか動きについて来れなくって、『片岡さん!』『もう遅い!』なんて、今思うとずいぶんひどいダメ出しをしたわねえ…」
という「秘話」も披露されていました。これなどは、劇団員のほとんどが初めて聞く意外なエピソードだったようです。

こうして、ホッツェンプロッツ最終公演の夜は更けていきました。

私は一昨年、影絵劇団かかし座のドキュメンタリー映画『影たちの祭り』を撮りましたので、かかし座の本番→バラシ→打ち上げというプロセスは間近で見ていますが、今回思いがけず、人形劇団ひとみ座においても同じプロセスを見せていただくことになりました。

かかし座は「影」という実態のないものに生命を吹き込み、自在に操る劇団。
ひとみ座は人間以上に人間くさい「人形」が、人間とともに物語を紡ぐ劇団。
表現手法は違いますが、どちらも底知れない魅力を秘めています。

そして、このふたつのユニークな劇団は、ともに「鎌倉アカデミア」という学校から誕生しているのです。
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2014年05月21日

第8回 鎌倉アカデミアを伝える会

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5月17日、第8回鎌倉アカデミアを伝える会が、鎌倉市材木座の光明寺で開かれました。私がこの催しに参加するのは2009、12、13年に続き、これで4回目(2009年の「伝える会」の様子はこちら)。2006年の「創立60年記念祭」を含めると5回目の光明寺となります。さすがに、スタッフの顔見知りも増え、今回初めて、鎌倉市中央図書館で行われた事前打ち合わせや設営のお手伝いなどにも加えていただきました。

昨年、一昨年に続き、この日の関東地方は朝から晴天、絶好の行楽日和に。鎌倉駅周辺は、午前中から大勢の観光客でごったがえしていました。ただ、会場となった浄土宗の古刹・光明寺は、中心部からはかなり離れているため、週末でも人影はまばらです。
そんな静けさの中で当日を迎えた「伝える会」。昨年秋、三枝博音校長の手になる扁額(演劇科第1期生の故・廣澤榮氏が長年大切に保管していたもの)が鎌倉市中央図書館に寄贈され、今年初めて光明寺に展示されることになったので、あわただしい準備の合間を縫って、当時架かっていた場所(本堂と開山堂の渡り廊下)にセッティングしてみる一幕も。これは「伝える会」事務局の小泉親昴氏の発案でした。

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「幾何学を学ばざる者 この門を入るべからず」とギリシャ語で彫ってあります

13時の時報とともに記念碑の前で碑前祭が始まり、寺のお坊様2人による読経、そして「伝える会」会長の加藤茂雄氏(演劇科第1期生)が参加者を代表して碑前で合掌、記念撮影と続きます(ここまでは例年どおり)。

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「ここに鎌倉アカデミアありき」の碑の前で読経。今年はいつになく花がカラフル

13時半からは会場を書院に移し、まずは加藤茂雄氏の挨拶。
「最初の1回で終わってしまうんじゃないかって心配していたんですが、鎌倉っていいところですねえ。鎌倉同人会の方々と、中央図書館の平田恵美さんを中心とするうら若き女性グループ、そして光明寺さんのおかげで、8回を数えるまでになりました。卒業生としてこんな嬉しいことはありません」。

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加藤茂雄氏(演劇科第1期生)と若林一郎氏(同第2期生)

続いて光明寺の宮林昭彦法主のご挨拶。鎌倉アカデミアとの関わりと言うことで、講師だった吉田健一と高見順にまつわる思い出、そして、宗教というものは混沌とした時代にこそ強く希求されるというお話。ご自身の健康がすぐれないということも織り交ぜて話されましたが、これまでになく、法主個人の心情が表に出ていらしたように感じられました。

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光明寺の宮林昭彦法主。「60周年記念祭」からこの催しを支援してきた

ここからは、毎年趣向を凝らしたショートスピーチで、今年は3つありました。

まず高橋寛人氏(横浜市立大学教授)が昨年秋に行われた同大学の「三枝博音回顧展」を話の枕に、鎌倉アカデミア校長であり、横浜市立大学学長であった三枝博音が、いかなるスタンスの教育者であったかを、本人の文章や演説を引用しつつ考察しました。岡邦雄は三枝博音について「彼は死んだ時は学長という肩書きだったが、その精神は生涯、民間学者であった」というようなことを語ったそうですが、そうした自由な在野精神こそ、アカデミアの精神そのものという気がしました。横浜市立大学もアカデミア同様、一時期廃校の危機に瀕していたが、どうにか乗り切ったという話は初耳でした。

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扁額を前にスピーチする高橋寛人氏(横浜市立大学教授)

次に、服部博明氏(文学科1期生)が、「三上次男先生の書斎から」と題して、生涯私淑した三上次男の書斎に飾られていた扁額や色紙(三枝博音や吉野秀雄の手によるもの)などを紹介。これらの品々は、昨年三上次男夫人が亡くなり、北鎌倉の自宅が閉じられるのに伴って服部氏がお預かりしたものだそう。ひとつひとつの由来を語る服部氏の姿から、時を経ても変わらぬ師弟間の心の結びつきが伝わってきます。また、若き日の服部氏が自作して三上に謹呈した香合(香を入れておく蓋つきの小さな容器)が、40年の歳月を経てふたたびご自身の手元に戻ったというエピソードは、思わず目頭が熱くなるものでした。

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アカデミア資料の整理にも尽力した服部博明氏(文学科1期生)

お茶休憩をはさんで、後半は、人形劇団ひとみ座の劇団員・友松正人氏と伴通子氏が登場。鎌倉アカデミア演劇科の第1期生だった清水浩二(渡辺信一)氏が地元の仲間たちと1947年に結成した劇団「鎌倉青年芸術劇場」が翌年ひとみ座になり、今日につながっているという話は、当日配布の資料でも触れられていましたが、1954年にひとみ座に入団した伴通子氏の話は、その後のひとみ座の知られざる歴史にもおよび、清水氏がひとみ座を離れることになったいきさつなども、かなり赤裸々に語ってくださいました(会場にいらしたお客様は、大変レアな話が聞けたと思います)。後半は、友松正人氏が「ひょっこりひょうたん島」のキャラクターたちを自在に操りながら、人形の仕掛けについてレクチャーをしてくれました。

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「ひょうたん島」の人形と友松正人氏、伴通子氏(人形劇団ひとみ座)

その後は、三枝博音のご子息である三枝利文氏とさらにそのご子息・新氏のご挨拶、卒業生の岩内克己氏(演劇科第1期生)、若林一郎氏(演劇科第2期生)のご挨拶(休憩前には演劇科第1期生の津上忠氏も)などがあり、最後に加藤茂雄氏が、演劇科学生たちのたまり場だった「耽美荘」(光明寺境内の掘立て小屋。ひとみ座創設者の清水浩二氏もそこの住人)の思い出を語り、しめくくりに全員で「鎌倉アカデミア学生歌」を歌って16時半に閉会。

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三枝利文氏と加藤茂雄氏

とまあ、実にボリュームたっぷりの内容で、終わった時には正直ぐったりしていました。でも、この数回の中では一番盛会だったと思います。参加者の数も、今までで一番多かったとのことですし。
時間とともに薄れる記憶もありますが、逆に、時間の流れとともに、より鮮明に現れてくる歴史もあるように思います。鎌倉アカデミアというのは、それだけ深い「文化の鉱脈」だと言えるのではないでしょうか。
posted by taku at 21:24| 鎌倉アカデミア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月13日

消えたジャンパー【後篇】

【前回のあらすじ】
ヘロヘロな状態にも関わらず、行かなくてもいいイベントに出かけてビデオを撮影した私(大嶋)は、帰りの電車内でそのビデオ映像に気を取られていたため、黒いジャンパーを網棚に置き忘れてしまう。中にはパスモや手帳、そしてあんな人やこんな人の電話番号&アドレス(約200人分)が入力された携帯電話も入っていたのだ! もしこれが人手に渡ったら? 私は失われた黒ジャンパーを求めて一路川崎駅に向かうが、それらしいものは見つからなかったという。マジか?

落し物取扱所の駅員S氏によれば、終点に着くまでの間に、誰かが忘れ物だと気づいて、途中駅の駅員に届け出る場合もままあるそうで、私の落胆ぶりを見て気の毒に思ったか、ご丁寧に、登戸から川崎までのすべての駅に電話を入れて、黒いジャンパーの忘れ物が届いていないか聞いてくれた。しかし、結果はすべて「なし」。

その間にも、忘れ物をしたという乗客が、5分と置かずに取扱所を訪れる。

(1)携帯を落とした中国人らしき20代男性 → あり
(2)子どもの帽子を忘れた若い母親 → なし
(3)買ったばかりのガマグチをなくした中年男性 → あり

という感じで、私が確認した範囲では回収率66.7パーセント。やはり人間というのは素直なもので、「あった」と聞いた時の嬉しそうなリアクションは、実にわかりやすい。(3)のガマグチをなくした中年男性はこんな感じ。
「いやあ、ゴールデンウイークに買ったばっかりなもんで、中身は大して入ってないんだけど、新品なんですよ。だから、出てこなかったら嫌だなあって。でも、あきらめてたんですよね、都会だし。いやあ、世の中まだまだ捨てたもんじゃないねえ」

何だかドラマのワンシーンみたいだが、間違いなくこの男性の言葉である。人間、感極まると、案外芝居がかったセリフを吐くものかも知れない。
こちらも、「ああ、よかったですねえ」と言葉をかけてあげたくなる。と同時に、「その幸運を分けて欲しいなあ」とも思う。

川崎駅にも、ほかの駅にも黒ジャンパーが届いていないとなると、考えられるのは、誰かが持ち去ったか、あるいはまだ、あの電車の網棚に揺られているかだ。
駅員S氏に再確認したところ、停車時間の関係で、2号車と3号車の網棚しか捜索していないので、乗っていたのが他の車両であれば、まだ電車の中にある可能性も否定できないという。

「2号車か3号車じゃないかというのは、登戸駅の駅員さんの判断で、絶対ではないんです。今あの電車はどの辺を走ってるんですか?」
と私が聞くと、現在も折り返し電車として走行中だが、立川駅ではなく途中駅の稲城長沼駅どまりで、しかも間もなく、その稲城長沼に着くころという。停車時間もそこそこあるらしいので、最後の望みを賭け、列車の全車両を捜索してもらうことにする。ここでまた、駅員S氏は稲城長沼に電話連絡。結果を待つこと10数分。相手方から電話がこないので、やはりダメか、との絶望感も強まる。

駅員S氏、ころ合いをみてふたたび電話を入れる。
「川崎駅ですが、先程のジャンパー、どうでしたか? …ええ、ああ、パスモではなくスイカ?」
それらしいものはあったが、内ポケットに入っていたのはスイカらしい。あ、そうだ、うっかりパスモと言ってしまったが、自分の交通系ICカードは、ここ10年来スイカだった。
「あ、スイカです、スイカ!」
このあとは、携帯の形とか通信会社とかをいろいろ聞かれて、どうやらほぼ間違いないとの結果になる。

ほっとしたと同時に、ぐったり疲れが出た。詳しくは聞かなかったが、どうやら2、3号車と隣接した車両の網棚で見つかったらしい。かくしてまた、川崎から稲城長沼まで、南武線に揺られること約40分。駅に到着した時にはすでに日は落ちており、何か上に羽織るものがないと薄ら寒い時刻になっていた。改札口のそばの事務室に入って、名前と用件を告げた私の前に、問題の黒ジャンパーは、2時間前に網棚に乗せた時と何ら変わらない状態でおごそかに置かれ、ポケットの中身を確認し、必要書類に記入した上で、晴れて私の体とふたたび一体になったのであった。

いろいろと教訓。

(1)疲れている時は、不要不急の外出は控える
(2)上着は体の一部。むやみに脱がない
(3)電車の乗り降りなどの際、「ながら歩き」はしない
(4)携帯に入っている情報は、必ずバックアップを取る

まあこんなとこだろうか。なお、落し物取扱所の駅員S氏には、大変丁寧で誠実な対応をしていただき、心から感謝しているのだが、同時に、自分の乗った車両が何号車だったかを、正確に伝えることがいかに重要かを思い知った。限られた時間で電車の全車両を捜索することは、いろいろな制約があって難しいからだ。

今回の遺失物騒動、何かの参考になれば幸いです。

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無事に回収された黒ジャンパー(実物)
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2014年05月12日

消えたジャンパー【前篇】

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この写真はイメージです。本文とは関係ありません

以下に記すのは一昨日(5/10)のお話。

前日の表彰式疲れもあったが、あるイベントを撮影するために高尾山方面へ(仕事ではなく趣味)。イベントは盛況で、映像もそれなりのものが撮れたとまあ満足。帰りは、分倍河原で京王線からそこそこ混んだJR南武線に乗り換え、着ていた黒いジャンパーは暑かったので網棚に乗せ、イヤホンを装着して、先程撮ったビデオ映像の再生を行う。「少し手ぶれが気になる箇所もあるが、まあ許容範囲だろう」などと思っているうち電車は登戸に着き、ここで小田急線に乗り換えるので、あわてて電車を降りる。降りる時もビデオは止めず、いわゆる「ながら歩き」でエスカレーターに乗る。そして改札に向かったところで、はたと気づく。
「パスモは?」
瞬時に思い出す。黒ジャンパーの内ポケットだ。で、その黒ジャンパーは? 電車の網棚だ。あわててホームの方を見下ろしたが、すでに電車は走り去っていた。

疲れている時に、強いて外出すると、だいたいこういうミスをしでかす。ジャンパーにはパスモだけでなく、手帳や携帯電話も入っている。免許証が入った財布はズボンのポケットだったので無事だが、携帯がない状態で自宅に帰るわけにはいかない。

大変げんなりして、改札口にいた駅員氏にことの次第を話す。今出た電車は約30分後に川崎駅に着くので、そこで捜索してもらうことになるが、「何両目に乗っていましたか」と尋ねられたので、「エスカレーターの近くでした」と答えると、「じゃあ2号車か3号車ですね」ということになり、その旨を川崎駅に電話してもらう。
まあカバンやリュックならいざ知らず、紳士ものの上着なら、置引きに遭う可能性も低いだろうと思い直し、私も次の電車で川崎に向かうことにする。駅員氏に、「でも、ないかも知れませんよ」と声をかけられるが、そういう可能性は考えたくなかった。

じれったい気持ちで南武線に揺られること約30分。もし、ジャンパーが見つからなかったらどうなるかシミュレーションしてみる。まず、携帯は不正使用の恐れがあるので至急回線停止の手続きをしなくてはならないが、問題はその中に入っている約200人分の電話番号やメルアドなどの個人情報だ。彼らに迷惑がかかるかも知れないし、第一、携帯番号もメルアドもバックアップはしっかり取っていない。どうやって連絡をつければいいのか。それ以外にも携帯には、あまり第三者に読まれたくないメールなどもいろいろ入っている…。考えているうちにどんどん不安が大きくなってきた。

30分が1時間にも2時間にも感じられる車内だったが、ようやく川崎駅に到着、南武線ホームの端にある落し物取扱所に向かう。
「あの、先程登戸駅から連絡してもらった者ですが…」
と、中をのぞきこむようにして、遺失物係の駅員氏に尋ねると、
「ああ、黒いジャンパーですよね。…2号車と3号車の網棚を見たんですが、なかったですねえ」
「え??」
頭が真っ白になった。では、電車が川崎に着くまでの間に誰かが持ち去ったということか? 大して高価とも新しいとも思えないあのジャンパーを、持ち去った人間がいるというのか? 日本の不景気はそこまで深刻なのか?

また長くなりそうなので、今回はここまで。【後篇】に続きます。
posted by taku at 18:38| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月11日

表彰式のこと

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映画『影たちの祭り』が児童健全育成推進財団の「児童福祉文化賞推薦作品」に選定されたため、一昨日(5/9)、厚生労働省内で行われた表彰式に出席してきました。こういうところに呼ばれるなんていうのも滅多にあることではないので、当日の様子をご報告しておきます。

表彰式は14時30分からでしたが、14時から受付開始だというので、同行者の櫻本なつみさんとは14時に霞ヶ関駅のB3a出口で待ち合わせ。『影たちの祭り』が劇団かかし座の「Hand Shadows ANIMARE」のバックステージを追ったドキュメンタリー映画であるということは、このブログをお読みの方には周知の事実だと思いますが、では何故、同行するのが演出の後藤圭代表でも、チームリーダーの飯田周一さんでもなく、比較的若手の櫻本さんなのかといえば、
「それはやっぱり、こういう晴れがましい席には、野郎よりも年若い女性でしょう!」
と、私が強硬に主張したから…ではもちろんなく、目下「Hand Shadows ANIMARE」のマカオ公演真っ最中で、後藤代表や飯田さんをはじめとする出演者は、5月8日にマカオに旅立つ段取りになっていたからです。それで、今回はたまたま他の上演作品との兼ね合いで日本に残る櫻本さんに、私のサポート役をお願いしたという次第。でも櫻本さんも、何といってもこの映画のヒロインの一人ですからね。監督と主演女優が連れ立って表彰式出席というのも、それなりに形は整っているのじゃないでしょうか。

さて、集合時間の前にお昼をすませておきたいけれど、霞ヶ関という駅は、ほとんど降りたことがないし、あまり駅前にお店があるようにも思えなかったのでどうしようと思いつつ、当日の午前中にネット検索をしたところ、何と、厚生労働省のお隣りの農林水産省の中に「日豊庵」という蕎麦屋があり、そこは一般人でも利用できるとのこと。迷わずそこに入ることにしました。冷やし肉そばと五目御飯で460円。そばもそば湯もおいしゅうございました。入ったのが13時半すぎだったためかお客さんの数も少なく、ゆったりと食べられたのもよかったです。

そして13時55分に約束のB3a出口に向かったところ、櫻本さん、もうしっかり先に到着してらっしゃいました。彼女に限らず、かかし座劇団員諸氏のこの辺の安定性は揺るがないものがあります。
こうして合流した神奈川県民2人、
「どうもこのあたりは慣れてなくて…」
と苦笑しあい、地図をちら見しつつ、出口から10メートルほどのところの門からおずおずと入省。そこでまず一度目のIDチェック。でもここでは、財団からの送付物を見せただけでOKでした。そしていよいよ館内に入り、受付のところで、身分証の確認。私は運転免許証、櫻本さんはパスポートを提示し、招待者本人であることが認められた上で、館内のゲートを通る時に必要なIDカード(首から下げるタイプ)を受け取ります。
「NHKなんかも同じくらい厳重ですよね」
と、かかし座としてテレビ出演も数多くこなす櫻本さんがさらっとひとこと。こちらは、
「へえ〜、そうなんだ」
と感心するばかり。

エレベーターで6階に上がると、「表彰式場」の矢印が見やすい場所に点々と続いているため、不慣れな2人も迷うことなく会場(大きめの会議室)まで到着することができました。ここで名前のチェックと、受賞の花をつけてもらうなどがあり、そして席まで案内してもらったのですが、少し想定外だったのが、賞状をもらう人間と同行者が、隣り合わせではなく、別々の場所に座るようになっていること。これは、賞状授与の導線を考えてのことなのでしょう。かくて、櫻本さんとは引き離され(といっても数メートルですが)、名前が書かれた席に腰を下ろすと、隣りに何やら見覚えのある男性が。何と、かつてニューシネマワークショップという映画学校の事務局におり、その後制作会社に移ってプロデューサーになったSくんでした。彼とはもう15年以上前からの知り合いですが、顔を見るのは3、4年ぶりです。彼は、『影たちの祭り』と同じ「映像・メディア部門」で推薦作品となったある邦画の制作プロダクションの人間として、幹事会社から言われるままここに来ただけだそうで、
「あまりよく事情がわかっていないんですよねえ」
と、場違い感を隠し切れない様子でした。ああ、そういうケースもあるのかなあ、と思いつつ周囲を見てみると、実際、5作品ある「映像・メディア部門」の推薦作品の中で、監督本人が来ているのは、『影たちの祭り』だけでした。まあそりゃあそうでしょう。他の4作品の「受賞者」は、いずれも歴史ある大手・中堅の映画製作会社もしくは配給会社で、それに対してこちらは「『影たちの祭り』パートナーズ」なんていう、よくわからないサークルのような団体。でもまあ、そういうサークル的な団体の方が、小規模な分、当事者としての喜びをダイレクトに味わえると思うんですけどね。

そんなことを考えていると、私のちょうど前の席には、人形劇団ひとみ座制作部のTさんが着席しました。彼とは、この2月に同劇団の人形美術を永年担当した片岡昌の追悼イベントで知り合い、来週(5/17)開催の「鎌倉アカデミアを伝える会」についてもいろいろ相談に乗っていただいた間柄です。彼が制作を担当した作品が「舞台芸術部門」で推薦作品になったので、この場にいらしているということでした。いやはや、まさかこんな場所で、2人も知人と出会うとは。世間というのは、案外狭いものかも知れません。

そうこうしているうちに、表彰式が始まりました。司会の女性が、
「今日は東京は大荒れの天気予報ですが、そんな荒天に負けない拍手を…」などとおっしゃったと思うと、見る間に外が暗くなり、横殴りの雨が降り出しました。「雨男」として半世紀を生きてきた私が、「ああ、やっぱり」と心でつぶやいたのは言うまでもありません。

はじめに財団理事長のご挨拶。原稿を丸読みかと思ったらそうではなく、ご自身の生きた言葉でしっかりと参加者に語りかけて下さったのが好印象でした。
「この年まで生きて参りますと、人生というのはいろいろある。いろいろあるけれども、人生というのは、生きるに値(あたい)するものであるということを、子どもたちにきちんと伝えることの重要性を強く感じます。そしてそれを一番ストレートに伝えられるのが、芸術文化というものではないか」
細部が違っていたら申し訳ありませんが、そんな意味のことをおっしゃっておいででした。もっともな話だと思います(しかし、「人生は生きるに値する」と素直に思うのが難しい社会になっていることも、同時に重く感じてしまいました)。

続いて厚労省雇用均等・児童家庭局長のご挨拶があり、それから「児童福祉文化賞」の表彰、さらにその後に、われわれのカテゴリである「児童福祉文化賞推薦作品」の表彰という流れでした。特に挨拶をするわけではないのですが、やはり前に出て賞状と楯を受け取る瞬間というのは、妙に緊張するものです。

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最後に、「児童福祉文化賞」の受賞者を代表して、NHKの初代「うたのおねえさん」として知られ、今も精力的にコンサート活動を行っている眞理ヨシコさんがご挨拶をされました。
「私は最後の疎開世代です。ほとんど何も荷物を持たずに疎開した田舎で、毎晩親子で歌を歌っていました。それが私の原点です」
そして、現在まで半世紀にわたり、世代を越えて愛される歌をうたい継ぎ、「三世代(親・子・孫)なんて甘い、これからは四世代(親・子・孫・ひ孫)で参加できるコンサートを」とますます意欲的に活動されているとのこと。一筋の道を、倦まず、たゆまず歩き続ける人の言葉は、大変胸を打つものがあります。

こうして、長いような短いような90分が過ぎ、受賞者で集合写真の撮影をして15時15分に無事閉会となりました。

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肖像権のこともありますので小さめに。後列左端が私です

賞状授与の瞬間と集合写真撮影の際、櫻本さんはカメラマンとして大活躍。さすがANIMARE班、こういう時の動きは敏捷かつ的確です。しかし、まさかかかし座の女優さんに写真を撮っていただけるとは(『影たちの祭り』ではずっとこっちがビデオカメラで追いかけていたんですが…)。

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カメラマンモードの櫻本さん。集合写真の際は「こちらに(目線)お願いします」などの声かけも

会場を離れる前に、その櫻本さんに記念楯を持ってもらい、表彰式の看板をバックに記念のスナップ。こちらは、前述のひとみ座制作部Tさんに撮っていただきました。

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facebookページで公開したものとは別カットです

会場を出たあとも、雨の勢いは衰えないので、省内1階にあるドトールで、雨やどりを兼ねて小休憩。櫻本さんと落ち着いて話をするのも、かなり久しぶりだったのですが、約2年前、一番最初にかかし座を訪ねて「記録映像を撮らせて下さい」とお願いした時、実際に手影絵を実演して見せてくれたのが飯田さんと櫻本さんのお2人だったこと、キャストインタビューで彼女が、
「デフォルメした動きっていうのも必要なんですけど、やっぱり原点は本物かなって思うんですよ」
と発言した時、私がカメラの向こう側で頭を大きく振ってうなずいたらしいこと(私自身はまったく意識していませんでした)等々、思い出話も弾み、2年の間にひとつの映画がうぶ声を上げ、こうして公共的な場で認められたことに、ある種の感慨を覚えずにおられませんでした。

いつの間にか雨も上がり、夕方の日差しが店内に差し込んでいます。櫻本さんはまた劇団に戻って稽古だというので、霞ヶ関の日比谷線ホームで別れました。

帰宅してみると、早速、櫻本さんから一連の写真画像とともに、
「私としては初めてだらけの授賞式でしたが、かかし座にいることの素晴らしさや重さ、楽しさを改めて感じることができました。ありがとうございました」
とのメールが。
「こちらこそありがとう。同行していただいて心強かったです」
と返信してから画像を整理し、『影たちの祭り』facebookページにこの日の模様を急いでアップ(本当は内緒なのですが、情報の更新は私自身が行うことが多いです)。
しかるのち、マカオにいるかかし座ご一行に報告のメールを打ち、本日の業務はこれにて終了。「ANIMARE」マカオ公演の成功を祈りつつ、いつもより少しだけ上等のワインを開けました。
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2014年05月10日

サザエさんをさがして「火星の土地を買う」

本日(5月10日)、朝日新聞beの名物コラム「サザエさんをさがして」に、かつて実際に行われていた火星の土地分譲と、そこから着想を得て製作した映画『火星のわが家』のことが取り上げられています。私のコメントも、取材に応える形で掲載されました。

また、亡父(青江舜二郎)が1957年に実際に購入した証拠である「火星土地分譲予約受付証」も紙面を飾っています。

宇宙時代の到来に沸き立っていたあの時代の息吹きを感じたい方は、是非ご一読下さい。
記事は、朝日新聞のウェブページでもお読みいただけます(無料登録が必要)。
posted by taku at 20:13| レトロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月09日

第8回 鎌倉アカデミアを伝える会、5/17に開催

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来たる17日、5月恒例の「鎌倉アカデミアを伝える会」が鎌倉の光明時で開かれます。

鎌倉アカデミアは終戦の翌年(1946年)に生まれた「自由大学」で、わずか4年半の歴史ながら、戦後の日本文化史上に多くの足跡を残しています。

「伝える会」は、2006年に同寺で行われた「創立60周年記念祭」の翌年、鎌倉市民の方々の呼びかけで始まり、今回で早くも8回目。私もここ数年は毎年参加しています。2年前のこの会で劇団かかし座の「Hand Shadows ANIMARE」の存在を知り、それが映画『影たちの祭り』として結実したわけですから、自分にとっては貴重な文化交流の場となっています(目的意識を持って参加すれば、得るものは必ずある会だと思います)。

鎌倉の近現代史、戦後の文化史などにご興味のある方は、是非お越し下さい。詳細は以下のとおりです。


第8回 鎌倉アカデミアを伝える会

日時:2014年5月17日(土) 13:00〜16:30
場所:鎌倉市材木座 光明寺
(JR鎌倉駅より京急バス 小坪経由逗子行15分 「光明寺」下車)

プログラム:
■13:00〜 法要(記念碑前にて)

■13:30〜 茶話会・ショートスピーチ(書院にて)
(1)横浜市立大学「三枝博音回顧展―大学と思想」をふりかえって
高橋寛人(横浜市大教授)

(2)三上次男先生の書斎から
服部博明(文学科1期生)

(3)人形劇団「ひとみ座」誕生と鎌倉アカデミア
友松正人・伴通子(劇団ひとみ座)

■卒業生・ゆかりの方々の座談会など

※資料代として1,000円が必要となります(当日受付にて)

主催:鎌倉アカデミアを伝える会(市民実行委員会)
資料提供・協力:鎌倉市中央図書館
お問合せ先:090-3007-9025(小泉)

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posted by taku at 19:46| 鎌倉アカデミア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月06日

オレンジ色の憎い奴

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前回の竹の子に続き、今回も植物ネタで。

今の季節、外を歩けば、自然と目に入ってくるオレンジ色の可憐な花の一群がある。最初にそれを意識したのは今から4年ほど前で、私はその控えめな美しさに魅かれ、路上にあったひと株を持ち帰り、実家の庭の片隅に植えた。そうすればこの先毎年、その花を庭先で楽しむことができると思ったからだ。

ところが、その数週間後に、次のような記事が東京新聞に載った。


外来ヒナゲシ 各地で満開
専門家「生態系乱す恐れ」


春になると、路肩や空き地などさまざまな場所で、鮮やかなオレンジ色の花が目につくようになった。地中海沿岸が原産地の外来植物「ナガミヒナゲシ」。ここ数年で急速に分布が広がっているという。(中略)ケシ科の一年草だが、アヘンの成分はない。実が長いことからこうした名前になった。最初に見つかったのは東京都世田谷区で1961年。輸入堆肥(たいひ)に混じって種が入ってきたとの説もある。

(中略)きれいな外来植物の仲間が一つ増えたわけだが、農業環境技術研究所の藤井義晴上席研究員は「駆除が必要」と話す。藤井氏によると、1株から100個超の実ができることもあり、一つの実には約1500個の種が入っている。つまり、1個体が15万個以上の種を作ることができ繁殖力は極めて強い。最近の研究で、根などから出る物質は、ほかの植物の生育を阻害する作用が強いことも判明したという。

藤井氏は「きれいなので庭で観賞する人もいるが、ほかの植物が育ちにくくなる」と指摘。2000年以降に爆発的に増えているといい「防除しにくい雑草となって、生態系を乱すリスクが高い」と話している。

(2010年5月17日夕刊)


あろうことか、ブラックバスなみに危ない「在来種キラー」だったのである。あの可憐な容姿は、それを隠すための巧みな装いということか。かくてこの花は、ひと月を待たずに実家の庭からお引取りいただいた。庭に生えている月見草などの野草が全滅させられてはたまらないと思ったからだ。

2014050602.jpg 人目を引く可憐な色と形だが…

2014050603.jpg この実の中に、1500粒もの種が!

上記の一件以来、この季節、実家の近くなどでこの花を見つけると、繁殖しすぎないように間引くことを何度か行ってきた。しかし、その生命力は底なしで、とても追いつくものではない。しかも、いまだにこの花の危険性を知らない人が多いようで、先日も高円寺の遊歩道で「この花、このごろよく見るけど可愛いわねえ」と、風に揺れるオレンジの花弁の前で、しばし足をとめているご婦人の二人連れを見かけた。

そんなわけで、知っている人にとっては今さら何だという話なのは充分知りつつ、まだ知らない人のために、ささやかな警鐘としてこの一文を草する次第である。

日本という国は、古来気候風土がそれほど激烈でないせいか、植物も動物も(多分人間も)概して性質が温順で、あまり屈強な生命力を有していないように思われる。だから簡単に外敵に圧倒されてしまうのだ。タンポポやメダカなど、ほとんど外来種に取って替わられ、古くからの在来種が絶滅に瀕しているというのもその一例だろう。

「ある種が海を越えて持ち込まれ、やがてそれが在来種を駆逐するのも歴史の必然」という考え方もあるかも知れない。しかし、ひとつの国には固有の風土に根ざした固有の種が存在してしかるべきであり、それはその国のアイデンティティにもつながるものである。「きれいな花だからいいじゃない」で終わらせることなく、きちんとこうした問題に目を向ける必要があるように思う。

※なお、今回のタイトルの元ネタは…、40代以上の人にはわかりますよね。『夕刊フジ』のかつてのキャッチフレーズです。
posted by taku at 12:44| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする