2014年09月29日

春風社 創立15周年(2)

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春風社の創立15周年イベント第2弾は一昨日の27日。春風社本社がある横浜市教育会館の4階ホールにて、「東北をきく」と題した記念パーティーが開かれました。

第一部は詩人の佐々木幹郎氏の講演からスタート。

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2011年3月の大震災後、二代目高橋竹山氏とともに東北の各地を回り、被災された人たちの体験談を聞いて歩いたという佐々木氏は、中世の「語り物」の背後には、天災などで亡くなった多くの死者がいたこと、そして現在、もはや生まれないであろうと思われていた新たな「語り物」が、震災を背景に生まれてくるかも知れないことを示唆されていました。また、海によってさんざん痛みつけられたはずの現地の人たちが、誰も海を恨まず、逆に、竹山氏に海の歌(大漁節など)を所望した、というエピソードも印象に残りました。

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「うた」は「うたた寝」に通じ、「現実」と「まぼろし」の狭間に立ち現れてくるものだという佐々木氏の話を受けて、ステージでは二代目高橋竹山氏の演奏が始まりました。

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曲は「三味線さされ」「謙良節」と続く

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阿利-ALI-氏による巫女舞(寿舞-kotohogimai-)

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2010年に発表の「糸魚川ジオパーク音頭」(作詞:佐々木幹郎 作曲:小室等)を3人で唱和

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第一部のしめくくりは高橋竹山氏による三味線の即興曲

第二部は、『大地の文学』『絶対無と神』『聖霊の神学』などの研究書を春風社から出されている清泉女子大学名誉教授の小野寺功氏の音頭で乾杯。グラスを上げる前のご挨拶で、最初の著作『大地の文学』刊行時の思い出を語ってくれました。

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小野寺氏は当時の編集担当だった山岸信子氏に、
「私の本は売れないと思うので申し訳ない」
と、大変正直に心の内を吐露したところ、山岸氏は、
「ゴッホの絵は、生前一枚しか売れなかったんですよ」
と、さりげなくおっしゃったそうです。小野寺氏はその言葉に勇気付けられ、
「たとえその時に売れなかったとしても、売れないものにも意味はある。すべては時間の問題だ」
とおのれを鼓舞し、85歳になる今も、フル回転で研究活動を続けておられるとのこと。
「山岸さんがあの時ゴッホについて話して下さったことは、一生忘れないですね」

私はこのエピソードを聞いて、ビデオカメラを回している最中だったにも関わらず、涙が溢れてきてどうにもなりませんでした。売れない作家を親に持ち、自分も同じような境涯にいる人間としての共鳴というのでしょうか。うまく説明できませんが、しかしとにかく、この乾杯前のショートスピーチこそが、何よりも、春風社の精神を公に伝える、まさに記念パーティーにふさわしいものであったと思えてなりません(あくまで個人的な感想です)。

乾杯の少しあとに、私は山岸氏の姿を見つけて駆け寄り、
「小野寺さんのさっきのスピーチ、素晴しかったですねえ」
と声をかけたところ、何と、山岸氏本人は「(物販の)おつりが足りなくなった」とかいう理由で中座しており、そのスピーチを聞いていないとのこと。
「あーあ」
と思うと同時に、山岸氏らしいなとも感じました。そこで私は目をうるうるさせながら要点だけ話し、小野寺氏にお礼を申し上げては、と薦めるにとどめました。

私ごときがよそ様の会社についてあまり語るのもどうかと思うのですが、三浦氏が『出版は風まかせ』やいろいろなインタビューで述べておられるとおり、春風社は1999年に、当時の三浦氏の勤務先だった中堅出版社が倒産したため、その時の同僚2人と設立した会社です。すなわち創立メンバーは、

三浦衛(代表取締役)
石橋幸子(営業担当。通称「専務イシバシ」)
山岸信子(編集担当。通称「武家屋敷」)

の三氏。
当初の社屋は三浦氏の自宅マンションの1室で、あとの2人は毎日そこに出勤し、昼食は三浦氏みずからが買出しをして作っていたといいます。

それから15年。三浦氏は『出版は風まかせ』のあとも2冊の著書を顕わし、またそのキャラクターもあって、名物社長として確実に認知度を上げてきていますし、石橋氏もこの7月に出版したエッセイ集『人生の請求書』が岸田秀氏はじめ多彩な知識人からの賛辞を受けたり、大学の教科書に採用されたりと、かなり露出度がアップしています。そんな中にあって、山岸氏は一歩下がったところで、当時も今も黙々と仕事を続けているのですが、実は、組織というのは、こういう一見目立たない人の功績によって、存続し得ているのではないかと感じます。私の場合、『法隆寺』も『龍の星霜』も社長の三浦氏が直接編集を担当してくれたので、山岸氏と仕事をした経験はないのですが、彼女の持つ、落ち着いた気品のようなものが、学術系出版社としての春風社の「格」を支えているように感じられるのです。そんな山岸氏にこういう形でスポットが当たったという意味でも、「本当によかったなあ」と思ったわけです。

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この日のパーティーには約100名が出席

最後は三浦氏が、やはり、というべきか『新井奥邃著作集』を片手に、
「『奥邃著作集』全10巻が、やっと全部なくなりそうです。15年かかって本を売るというのが、いいのか悪いのかよくわかりませんが、これからもみなさんに喜んでいただける本を作っていきたいと思います」
とご挨拶。晴れ晴れした表情で、2時間半におよぶ宴をしめくくりました。

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ただ、おかしかったのは、
「1日昔を思い出すということは、10日逆行するということだ。1年昔の話をすることは、10年戻るのと同じことだ(だから過去を振り返ってはいけない)」
という奥邃の言葉を引用しつつ、
「でも今日くらいはいいじゃないですか、奥邃先生」
と、出席者に二次会への参加をうながしていらしたことです。

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40歳過ぎての失業、そして会社設立。そこからの15年は、決して平坦な道のりではなかったでしょう。さまざまな思いが去来されたのか、出席者との談笑中、時おり涙ぐまれ、ハンカチで口元を押さえる姿も拝見しましたが、それでも、三浦氏の表情には妙にりきんだところも慢心のかけらもなく、あくまで自然体、まさに春風駘蕩の言葉がぴったり来るものでした。

対照的だったのが、司会進行を務めた編集長の岡田幸一氏で、慣れない仕事に、当初はだいぶコチコチになっている様子でしたが、その初々しさも、春風社がまだ「若い」出版社であることを思わせ、爽やかな印象を残してくれました。

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司会進行の岡田幸一氏。『石巻』の橋本照嵩氏(右)はパーティー中も常に撮影モード

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二次会の乾杯をする石橋幸子氏(左端)、三浦氏、数人おいて山岸信子氏(右端)

三浦衛社長はじめ春風社の皆様、この度は本当におめでとうございました。
会社がよい形で成長を続けていくこと(それは決して図体が大きくなることではありません)を、心より祈念しています。
posted by taku at 14:28| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月28日

春風社 創立15周年(1)

横浜市西区にある学術系出版社「春風社」がこの9月で創立15周年を迎えるとのことで、今月は2回にわたって記念のイベントが行われました。

私とこの出版社との出会いは今から5年前(2009年)、創立10周年の年にさかのぼります。この年の4月から、私は秋田魁新報に亡父・青江舜二郎の評伝を1年にわたって連載していました。その連載も折り返しを過ぎた同年秋、せっかくだからこの機会に、青江の代表的戯曲である「法隆寺」を単行本化できないだろうかと、出版元を探し始めていたのですが、そんな時、春風社の三浦衛社長が、創業して10年の節目に出したエッセイ集『出版は風まかせ』の紹介記事が魁新報に掲載されました。

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春風社という出版社はその時初めて知ったのですが、何か魅かれるものがあって、早速Amazonで購入し一気に読了。出版社を立ち上げるに至った理由やそれからの経緯も興味深く読みましたが、エピソードそのもの以上に三浦氏の語り口が面白く、大いに笑わせ、時には泣かせ、ぐいぐい読者を引っ張っていく力(それは文章的な技巧ではなく、まさに彼の人間性なのでしょう)に満ちていました。しかし、パワーだけの人物かというとそうでもなく、一般にはほとんど認知されていない新井奥邃(おうすい)という幕末の思想家の著作集を何年もかけて刊行するなど、硬派な一面も顔をのぞかせます。
「最近の秋田出身者に、こういう型破りな人間がいたとは」
と感心し、同時にこの人なら相談に乗ってくれるかも知れないと考え、魁新報の連載担当者S氏(偶然にも三浦氏と高校の同期生)に連絡をつけてもらい、初めて桜木町の会社を訪ねたのが、忘れもしない2009年の11月5日。その2日前まで秋田に滞在していた私は、地元銘菓の「金萬」を手土産に持っていったところ、三浦氏ももちろん金萬のことはよく知っていて、
「キンマン、28個食ベマシタ〜」
なんていうローカルCMネタで盛り上がったのを鮮やかに思い出します。

さらに、三浦社長が敬愛する地元(井川町)の文人市長・武塙三山が青江と懇意にしていたという先代からのつながりや、三浦氏自身が以前に青江の『宮沢賢治 修羅に生きる』や『狩野亨吉の生涯』を読んでいたことなどもあり、出版の話はトントン拍子に進み、半年もしないうちに、青江の初の戯曲集『法隆寺』は堂々完成したのでした。

さらにその1年後には、魁新報に私が書いた父の評伝も『龍の星霜』という単行本にして出していただいたり、その余波(?)で、秋田の図書館や中学校、生涯学習センターなどで同じ講演の舞台に立たせていただいたりしました(詳しくはこちらこちら)。

他にも三浦氏と春風社についてはいろいろと書きたいことがあるのですが、すでに前フリとしては長くなりすぎましたので、そろそろ本題に。

創業イベントの第1弾は「読む、書く、出版する。」と題したトークショーで、9月の20日に東京堂書店神保町店(東京都千代田区)で行われました。

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左から平尾隆弘氏、三浦衛氏、中条省平氏

三浦氏が今年の6月まで文藝春秋社長を務めていた平尾隆弘氏と対談、批評家で仏文学者の中条省平氏が司会進行を担当するという豪華な顔合わせ。春風社と文藝春秋という取り合わせには、多くの人が「え?」と思ったと推察されますが(私もです)、実はこの対談も、先程書いた『出版は風まかせ』が大きく関わっていました。この本を東京堂書店で買って読んだ平尾氏が、一読者として読者カードを書いて春風社に送ったことがそもそもの縁の始まりで、それ以降、年賀状のやりとりをするようになったとのこと。その平尾氏も、三浦氏と春風社のシンパらしく、三浦氏については、「集中力、瞬発力、そして持続力を兼ね備えた人物」と評し、また春風社については、「菊池寛が約90年前に設立した草創期の文藝春秋もこんな感じだったのでは」「社員が友だちではなく、友だち同士が社員になったような、共同体的な雰囲気を感じる」などとと話されていました。

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約2時間の対談中、平尾氏の発言で特に印象的だったのは、文藝春秋に入社する際のエピソード。当時の同社には入社試験を受けられる大学の枠が限定されていて、平尾氏の大学はその中に入っていなかったとのこと。ですから最初は門前払いを食わされるのですが、それをどうにか頼み込み、ある管理職の方の知人ということにしてもらって受験し、そして数十年後には社長にまでなってしまうのですから、人生はわからないものです。

そうして入った文藝春秋ですが、二十代のころの平尾氏は仕事になじめず辞めることばかり考えており、一方で吉本隆明などの影響を受け、宮沢賢治に関する著作を(文藝春秋ではない出版社から)刊行したりしていました。しかし徐々に編集者の仕事にのめり込んでいき、現在では「編集者はモノを書いちゃいけない。作家であると同時に編集者であるということは矛盾する」と言い切るまでに。
「編集者は作家をほめることが仕事。批判もするが、なにより作家の一番の理解者でなくてはならない。一方、作家というのは自分が最高の存在だと思っていなくては作家などできない。誰かのよき理解者でありつつ、同時に自分が最高の存在であるということなどは不可能」
というわけです。それは映画でいえば、プロデューサーと監督との関係に近いものがあるかな、などと思いながら拝聴していました。

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一方の三浦氏は、「社長が自分の会社から本を出すとその会社はつぶれる」というジンクスが出版業界にあるのを知りながら、話題づくりも意識してあえてそれに挑んだ、とのこと。幸いにもジンクスははずれたようで、会社は今も操業を続け、15年を迎えたというわけです。

最後に、おふたりが出版を手がけた書籍の中から思い出深い3冊を選んで語る、というコーナーがあったのですが、その中で三浦氏が、ライフワークともいうべき『新井奥邃著作集』、東北の今を世界に向けて発信するという意気込みで出版に踏み切った写真集『石巻 2011.3.27〜2014.5.29』(橋本照嵩著)とならんで、青江の『法隆寺』を選んで下さったのには、正直腰が抜けるほど驚きました。創業15年の春風社は、はじめのうちこそ「はやらない八百屋」(品物の札ばかりで品物がほとんどない)などと揶揄されたものの、今や刊行点数も500点を超えています。ほかに選ぶべき書籍はいくらでもあったでしょうに…。三浦氏の真意は永遠の謎ですが、このトークで取り上げて下さったおかげで、あの博学で知られる中条氏から、
「(聖徳太子の死の謎や私生活に迫った作品という意味で)梅原猛の『隠された十字架』」や山岸凉子の『日出処の天子』(ひいづるところのてんし)に先んじていますね。1950年代にこういう優れた作品が書かれていたとは…」という嬉しいコメントをいただくこともできました。

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三浦氏は対談の中で何度となく、「体の感じ」ということを口にされていました。
「自分の体がどういう風に感じるか、というのがまずあって、その(感覚の)残り方を、頭があとから追いかける」
という流れだそうです。ブルース・リーが『燃えよドラゴン』の中で言った有名なセリフ「考えるな、感じろ」を思い出させますが、三浦氏があとで話してくれたところによれば、上記の3冊も、あれこれ思案したわけではなく、「体の感じ」から自然に決まったとのこと。
そういう三浦氏の思考プロセスは、ご本人のおっしゃるように、小中学校のころはあまり読書をしなかったことや、高校・大学時代、陸上部に所属していたこと、社会人になってから故・竹内敏晴氏の元で「からだとことばのレッスン」を受けていたなどが関係しているのかも知れません。幼少期から運動はまったくダメで、すぐ頭で考えてはくよくよしてしまう私などは、とても三浦氏の思考や発想は真似できそうもありません。

トーク終了後は、同書店3階の「春風社ほぼ全点フェア」コーナーへ。
創業15周年を記念して、春風社の刊行物のほぼすべてが展示販売されています。『新井奥邃著作集』『出版は風まかせ』はもちろん、刊行したばかりの『石巻』、『法隆寺』や拙著『龍の星霜』もしっかり並んでいました。

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また、階段には『石巻』に収載された橋本照嵩氏の写真の中から厳選されたものがパネル展示されています(フェアは10月末日まで)。

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posted by taku at 21:09| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月16日

大船観音のこと

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前回このブログで取り上げた大船観音について、もう少し追加を。

ゆめ観音アジアフェスティバル」に参加したのは初めてと書きましたが、大船観音寺そのものへの参詣は、すでに今年の1月に済ませていました。そのころ私は2ヵ月だけ藤沢のマンションに住んでいて、そこからだとバスを使ってわずか20分ほどで大船に出ることができたからです。この観音様は幼少期以来、電車の中から何度となく垣間見て、その温顔には好ましいものを感じていたので、かなり楽しみな参詣でした。そして、実はもうひとつ、私にとっては特別に「聖地巡礼」的な意味もあったのですが、それについては後ほどゆっくり書くことにしましょう。

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藤沢からのバスルート途中の踏切から望む観音像

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駅からは徒歩約10分

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やや急なこの参道を登っていく

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階段を登るにつれ、迫ってくるご尊顔

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正面から対峙。上半身だけで25メートルの威容

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真下から見上げると、かなり印象が変わる

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頭上の化仏でさえ1.5メートルあるという

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バックショット。これだけだと何の写真だかわからないかも

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像の後ろから胎内に入れる

この大船観音の歴史は意外と古く、最初にプロジェクトが立ち上がり、「護国大観音建立会」趣意書が作成されたのが1927(昭和2)年2月。2年後の1929年4月に工事が着手されるものの、世界恐慌やら満洲事変やらの影響で、1934年には工事中断。それからの日本は第二次世界大戦〜敗戦〜占領と混乱期が続き、その間、観音像は未完成のまま23年間(!)も放置されていたそうです。

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20年以上の放置プレイ。観音様もさすがに淋しげ

1954年11月、財団法人「大船観音協会」が発足し、1957年5月、起工式。1960年4月28日、落慶式。その後、観音像を参詣する信者から「信仰の場への移行」を望む声が多くなったため、1981年11月、曹洞宗包括下の「大船観音寺」となり現在に至る…というのが大雑把な流れです(より詳しい沿革はこちら)。

胎内には、この観音像ができるまでの経緯がパネルで展示されており、原型となった30分の1スケールの木像も見ることができます。また、慰霊と平和祈願のための千体仏(現在も制作中)が安置されています。

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原型を制作した彫刻家の山本豊市の言によると、「制作の間じゅう、法華寺本堂の十一面観音の顔が脳裏に現れては消えた」そうですが、当該の仏像はもっと厳粛な風貌で、この観音様のような温顔とはかなり趣(おもむき)が異なるように私には思われるのですが。そして、文化財的な価値は措いて、純粋に表情だけに着目した場合、私は法華寺の十一面観音より、この大船観音の方が好みだったりします。

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山本豊市の手になる観音像の原型

この日も、観音像の胎内を巡ったのち表に出て、さらに左右から何度となくその御顔を仰ぎ見、何枚も何枚も、飽かずにシャッターを切りました。また別の日にも夕暮れの大船駅から、うっとりしながらカメラを向けたこともあります。

この観音像が、見る度に違った表情をのぞかせてくれるその秘密は何なのでしょう。思うに、寺の本堂や宝物館などに安置された仏像は、朝も昼も夕方も夜も、基本的には同じ室内照明で照らされ、いつ観ても違いはありません。一方、この大船観音のような露坐の仏像は、さえぎるもののない空の下で、直接的にその日その時の天気の影響を受け、太陽の向きや翳り具合、あるいは雨や霧などによって、無限にその相貌を変えることができるからではないでしょうか。そう考えると、お天道様の下の仏像というのは、なかなか風流なものだと思えてきます。

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このページのトップ画像と同じ日、同じ場所で夕方に撮ったもの。時間帯でかなり印象が違う

しかし、この土地にはやはり露坐の鎌倉大仏がありますが、どうもあの大仏に関しては、時間や天候でそれほどはっきりした変化を感じたことはないので、やはり像そのものの表情というのも、大きなポイントかも知れません。

さて、文頭で記した「聖地巡礼」ですが、これは、大船観音寺がお寺だから「聖地」というわけではなく、最近、「ウルトラマン」や「仮面ライダー」のロケ地をせっせと訪ね歩く特撮愛好家の方が増えていて、そういう人たちの間では、ロケ地が「聖地」と呼ばれているのです。このごろはそうした聖地巡りのサイトも充実しており(たとえばこれとかこれ)、よくここまで調べあげたものだ、と不精な私はただ感心するばかりですが、この大船観音も、実はそうした意味での「聖地」のひとつだったのです。

ではこの大船観音は、どんな特撮作品でどのように登場するのでしょうか?

実はこれです。

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「シルバー仮面(ジャイアント)」

とはいえ「シルバー仮面」は「ウルトラ」や「ライダー」ほどメジャーな作品ではないため、2014年9月現在、「大船観音」と「シルバー仮面」の両キーワードで検索しても、特撮や地域の掲示板でちらっと語られている程度で、きちんと取り上げているサイトは今のところ見当たりません。しかし私にとって「シルバー仮面」はかなり思い入れのある作品(詳しくはこちら)なので、この場を借りてご紹介してみたいと思います(あくまで観音様を中心に)。

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もうタイトルからしてすごいでしょ?
第15回「怪奇 宇宙菩薩」 脚本:市川森一 監督:山際永三 特技監督:大木淳
1972年3月5日放送


題名にもあるとおり、まさにこの観音菩薩が主役の話ではあるのですが、ドラマでの扱いはトホホ…でした(名称は、大船観音ならぬ鬼姫観音です)。

ある夜、鬼姫観音の近くで原因不明の新幹線転覆事故が発生(劇中では観音像のそばを新幹線が走っている設定になっている)。

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これは実物ではなくミニチュア(念のため)

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御顔がイマイチ似ていないような…

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とはいえ炎上シーンはなかなかの迫力。さすが「呪いの壷」の大木淳!

観音像のすぐ下にあった民家に新幹線が落下し、少年忠二の父と母が死亡。忠二だけは、父に物ぐさを咎められ、家の外に立たされていたため命拾いする。

事故を目撃し、同時に両親を失った忠二は、
「新幹線を転覆させたのはあの観音菩薩だ!」
人殺し観音!
化け物観音!
などの暴言を吐き、さらにはゴムのパチンコでその御顔を狙い撃つなど罰当たりな行動に。

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ここで初めて本物の大船観音が登場!

忠二からの手紙が津山博士(岸田森)の研究所に届き、春日光三(篠田三郎)と津山リカ(北村佳子)が事件調査のため現場に。忠二の証言は真実で、観音は夜になると目から怪光を発し、送電線の電気を吸い取る。新幹線転覆もこの観音の仕業だった。

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怪光を発するミニチュア観音。この角度だと実物の印象に近い

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翌朝、観音を見守る忠二、光三、リカ。これはまぎれもなく大船観音だが…

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ミニチュアに切り変わったと思ったら

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まさかの大爆発。貴重な文化財が…

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その下から ゆるキャラのような宇宙人(ボルト星人)が出現

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駆けつけた春日光二(柴俊夫)がシルバー仮面に変身してボルト星人と戦う

シルバー仮面はボルト星人の電気ショック攻撃にかなりの苦戦を強いられるが、突然の豪雨と春雷の力を借りて、星人を粉砕する。電気をエネルギーにしていた悪者が電気によって成敗されるという皮肉な結末。

津山博士は「春雷も菩薩様のおかげかね」と言い、リカは「宇宙人は菩薩様を悪いことに利用したから罰が当たったのよ」と続ける(前半では「人殺し」だの「化け物」だのさんざんな言われようだったから、フォローの意味もあるのかも)。そして寺に預けられた忠二も、観音菩薩の功徳で、以前の物ぐさを改め仏道修行に励み、将来は偉いお坊さんになるか、と思いきや、物ぐさ癖は直っていなかった…。

以上がざっくりしたあらすじで、物語としてはなかなかよくできています(さすがは市川森一)。

特にこの話は、1年後に「ウルトラマンタロウ」で主役を演じることになる篠田三郎のメイン回で、とにかく彼のセリフも動きも表情も全部いい! 忠二の手紙を読んでも半信半疑の津山博士や兄弟たちに向かって、
「オレたちの父さんが宇宙人に殺されたんだって訴えて歩いたころ、何人の人が信じてくれた? ほとんどの人々からキチガイ扱いされたじゃないか。宇宙人と、観音様の違いだけだよ」
と、初期設定をきちんとふまえた発言して調査に出かけるくだりや、ニッケル爆弾を作って観音菩薩に復讐しようと企てる忠二に対し、
「敵討ちなんてことを考えていたら、君の一生は台無しになってしまうんだよ」
と諭す場面などは、今見ても感涙ものです。特に敵討ち云々のセリフは、
「怨みを以て怨みに応ぜば怨みやまず。徳を以て怨みに応ぜば怨みすなわち尽く」
という釈迦の箴言に通じるものがあり(ゆめ観音フェスティバルの冒頭のあいさつでも耳にした言葉)、大船観音との相性もぴったりではないでしょうか。

とは言うものの、ラストでの菩薩様礼賛もセリフだけですし、ボルト星人にさんざん利用されたあげく破壊された観音像については、そのまま完全放置。まあこういうのは特撮ものの宿命ではありますが、実際の観音像は、実に30年以上の歳月と多くの人の労力と浄財の結晶であるわけで、よくこの内容で、当時の管理団体だった大船観音協会が撮影許可を出したものだと不思議に思います。
「あのころはまだ寺院ではなかったからいろいろと寛大だったのか? いや、それにしても…」などと考えつつ映像を見返してみると、オープニングのどこにも「撮影協力:大船観音協会」というクレジットが出て来ません。同時期に撮影された第14回「白銀の恐怖」では「協力:上越国際スキー場」と、きちんとタイアップ先がクレジットされているというのに…。

となると、これはもしやゲリラ(無許可)撮影? たしかに、実際の大船観音が映るのは数カットで、ほとんどはミニチュアセットですから、それも不可能ではありません。でも、本物にかなり近いミニチュアを作ったり、俳優を呼んで現地でのロケを行っているのに完全なゲリラというのは考えにくく、謎は深まるばかりです。あと考えられるのは、「非公式」な協力なので、あえてクレジットしなかったということですが…。

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観音様はおそらく一部始終をご存知なのでしょう

それにしても、世界平和希求の象徴ともいうべき大船の白衣観音が、ドラマ中で「人殺し観音」とののしられ、あげくの果てに宇宙人によって爆破されていたとは…。
しかしこれも今は昔、すでに42年も前のお話です。

※このページのキャプチャ画像は、(株)宣弘社が制作したテレビ映画「シルバー仮面」(1972)からの引用であり、すべての著作権は宣弘社が保有しています。

シルバー仮面 Vol.4 [DVD] -
シルバー仮面 Vol.4 [DVD]
posted by taku at 19:46| 特撮 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年09月15日

ゆめ観音アジアフェスティバル

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最近、「鎌倉アカデミアを伝える会」がらみで鎌倉に足を向ける機会が多いのですが、一昨日(13日)も鎌倉のはずれ、岡本地区にある大船観音寺に行って来ました。以前から噂には聞きながら、一度も垣間見るチャンスがなかった「ゆめ観音アジアフェスティバルin大船」を観覧するためです。
この催しは今年で第16回目。日本からアジア各国へ、そして世界へと平和の願いを広げていきたいという趣旨で始まったそうです。ですからイベント出演者も来場者も、オリエンタルなムードにあふれていました。

特筆すべきは、その催しのボリューム。観音像正面の舞台では正午から21時近くまで、実に約9時間にわたってバラエティ豊かなパフォーマンス(一部仏事もあり)が繰り広げられました。最後まで付き合った身としては、もうお腹いっぱいです(これで500円とは大変なお得感ですが)。

それから、ひとつ驚愕すべき事実がありまして、何とこのイベント、ラジコンヘリ(ドローン)で空撮を行い、それをリアルタイムでモニターや観音像に投影する、というハイテクな技術を導入していました。しかもその機材をオペレートしているのはプロの技術スタッフではなく、袈裟を来た普通のお坊さん。

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これがその実物。観音様もびっくり

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手慣れた様子でドローンを操作するハイテク僧侶

帰宅後、パソコンで検索してみると、最近は技術の進歩がめざましく、2〜3万円程度で結構な空撮用ドローンが入手可能だそうな。てことは、シロウトでも「シャイニング」のオープニングみたいなシーンが撮影できてしまうってことでしょうか。いやはや、大変な時代になったものです。
しかし、今年の4月には名古屋の盛り場で墜落事故も起きているというし、無線操縦というのはどうもおっかない気がします。今回のイベントでも、ダンスや演奏の最中、大きな虫のようなモーター音とともにドローンが何度か急降下してきて、パフォーマーや観客のかなり近いところを飛行していましたが、「もし急に電波が途切れるか何かして、頭上に落ちてきたらどうなるんだろう?」などと内心冷や冷やしながら見ていました(※安全性には充分考慮して設計してあるそうですが…)。

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coco鮎美さんのすぐそばを飛ぶドローン。近いよ!(ご本人は楽しそうでしたが)

さて、では催しの概要を写真でご紹介していきましょう(一時中座したため撮影できなかった団体があります。ご容赦のほどを)。

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SAKARAK(カンボジア舞踊)

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麻はか(アフリカ弦楽器)

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Marisol Belly Dance(ベリーダンス)。妊婦さんも踊ってました

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丸義会(津軽三味線 民舞)

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鎌倉市民踊会(民踊)

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Radiant Brass(ブラスアンサンブル)

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平和祈願の萬灯供養。右上にドローンが飛んでます

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夜更けとともに何やら艶かしい雰囲気に…。Devadasi Studio(ベリーダンス)

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ライトアップした観音像の元で展開する 多民族的ヴォードヴィル☆エンターテイメント

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フィナーレ間近。琵琶法師の奏でる静御前の悲恋をオリエンタルダンスで表現。異色のコラボ

まあこんな感じです。「多民族的ヴォードヴィル☆エンターテイメント」の途中で急に大粒の雨が降り出したため、お客さんのほとんどが蜘蛛の子を散らすように帰ってしまい、大いに盛り上がるはずのフィナーレ(ファイヤーダンス)がまさに「水を差された」形で終わったのは残念でした。しかしながら、仏教思想における万物構成の四大元素(地・水・火・風)のうちの2つである「火」と「水」が、互いの激しさを競うようなダンスとなったのは意外な趣向というべきで、雨に濡れながら乱舞する5人の踊りは、一種のトランス状態を思わせる迫力に満ちたものでした。

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「火」と「水」が拮抗する豪雨の中での舞い
posted by taku at 09:31| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする