2015年03月31日

小田急線下北沢駅 地上ホーム最後の日



小田急線の下北沢駅は今から2年前に、地上から地下ホームに変更となりましたが、駅舎の工事はまだまだ続くようで、完成は2018年度、あと3年はたっぷりかかるそうです。

小田急線人の私としては、渋谷に出る時には下北沢から井の頭線に乗り換えるというのが標準ルートなのですが、いまだにあの長距離移動(所要時間約5分)に慣れることができません。
「昔はさっと乗り換えられたのになあ」
と、長い長いエスカレーターに乗るたびに思います。かつての地上ホームは全体に薄汚れていて、時代に取り残されたような昭和の香りに満ちていましたが、井の頭線ホームと複数のルートで結ばれた独特の立体構造は、ラビリンスを思わせる不思議な魅力を有してもいました。

というわけで、下北沢駅ホームの地下化2周年を勝手に記念して、地上駅ホーム最終日の動画をyoutubeにアップしました。上の画面中央をクリックしてもご覧になれますが、youtube.comでご覧になる方はこちらからどうぞ。今となっては懐かしい、2年前の下北沢ホーム「現役最後の姿」を是非ご堪能下さい。
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2015年03月25日

二代目バルタンと毛利博士

ウルトラマンスタンプラリーは先月末で終わってしまったが(結局、ラリーに参加したのは1日限りだった)、あの時のブログに、「バルタン星人の二代目については、稿を改めて書きたい」と予告めいたことを綴ってしまったので、一応その「公約」を果たしたいと思う。というわけで今回は、二代目バルタン星人について。

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まず何より目を引くのは、初代よりもスマートで洗練されたフォルムだろう。デザイナーの成田亨も「オリジナルデザインに近い」という理由で、完全な新規制作である二代目の方を気にいっていたらしい(初代はセミ人間の頭部を改造したもの)。
上の写真は1983年に発売されたバンダイのプラモデル「The 特撮Collection 1 二代目バルタン星人」。浪人中だったにも関わらず、すぐに買って組み立て、机に飾ってその造形美を堪能した。

もちろん初代の造形も充分魅力的なのだが、セミ人間をベースにしているためか、パーツのひとつひとつは割と大作りな印象である。しかし、そのインパクトの強さは比類がなく、ウルトラ関連の怪獣宇宙人の中でも常にダントツの人気を誇っている。

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それに対し二代目は、現場で写真撮影を行っていないためオリジナルのスチールがなく、ある時期まではほとんど幻の存在であった(いまだに「へー、二代目なんていたんだ」などと言われることが多いが、そもそも「二代目」という呼び方自体、1970年代に入り、本編映像からの抜き焼き写真が出回るようになった時からのもの)。そうしたミステリアスさも手伝って、こちらのバルタンへの思い入れが強まったというのもあるかも知れない。

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成田亨によるラフデザインと決定稿。たしかに初代より二代目に近い

次に特筆するべきは、その二代目バルタン星人が登場する第16話「科特隊宇宙へ」の素晴しさ。傑作ぞろいの『ウルトラマン』の中でも、間違いなく五指に入る名エピソードではないだろうか。少なくとも特撮シーン&戦闘シーンの多彩さ絢爛さにおいては、初代が登場した第2話「侵略者を撃て」をはるかに凌ぐというのが、多くの特撮ファンの共通認識だと思う。

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第16話「科特隊宇宙へ」1966年10月30日放送

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脚本:千束北男 監督:飯島敏宏 特殊技術:高野宏一
※「千束北男」は飯島敏宏のペンネームなので、この回は脚本と監督が同一人


では簡単にあらすじを。
人類初の有人金星探検ロケット「オオトリ」が発射された。宇宙飛行士として乗り込んだのは、ロケットの発明者である宇宙開発研究所の毛利博士(奇しくも日本人2人目の宇宙飛行士と同じ苗字。日本には30万もの苗字があり、その一方、宇宙に飛び出した日本人がいまだ10人前後であることを考えると、これは大変な偶然の一致というしかない)。科学特捜隊のブレーンである岩本博士も、同じ性能を持つロケット「フェニックス」を開発していたが、テスト回数の不足から、一番乗りを毛利博士に譲る形となった。

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「オオトリ」船内の毛利博士(池田忠夫)

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爽やかに敗北を宣言する岩本博士(平田昭彦)

「オオトリ」は無事軌道に乗り、金星までの飛行は順調に進むかに見えたが、バルタン星人の陰謀で制御不能に陥ってしまう。第2話でウルトラマンにほぼ全滅させられたバルタン星人の生き残りが、地球人類とウルトラマンにリベンジマッチを仕掛けてきたのだ。

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バルタンは「オオトリ」をオトリにして(洒落ではありません)科学特捜隊とウルトラマンを宇宙に誘い出し、その隙をついて地球を侵略する作戦を立てていた。バルタンの狙いどおり、科学特捜隊の主戦力(ハヤタ、アラシ、ムラマツ)はロケットエンジンを搭載したビートル機で宇宙に向かい、毛利博士を救助するが、博士の肉体にはすでにバルタンが憑依しており、その力でビートル機はR惑星に不時着させられる。そのころ、地球にはミニバルタンの大群が来襲し都市を破壊、イデが単身で迎撃するも苦戦を強いられていた。

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ハヤタはウルトラマンに変身して、まずR惑星のバルタンと対戦。バルタンは前回の轍を踏まぬため、ウルトラマンのスペシウム光線を跳ね返す「スペルゲン反射鏡」を胸に装備して戦いに臨むが、新技「八つ裂き光輪」に破れ去り、一方、地球を襲ったバルタンも、「テレポーテーション」で光速移動してきたウルトラマンによって倒される。そしてビートル機が不時着したR惑星には、岩本博士が「フェニックス」で自ら救助に赴くのだった。

…という感じで、とにかく見どころ満載、素早い展開、新メカ新技続々登場、まばたきする隙も与えてくれないような大サービス回なので、未見の方はぜひとも本編を見ていただきたいところであるが、それが難しいという方は、このページこのページがとても詳しいので参考までに。

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上の3点は、ウルトラファンならおなじみ、「スペルゲン反射鏡」によってスペシウム光線が跳ね返されるシーン。「スペルゲン反射鏡」「スペルゲン反射光」「スペシウム抗体反射板」などいろいろな言い方があるようだが、物質的な名称は「スペルゲン反射鏡」でいいのではないかと。その反射鏡が反射した光が「スペルゲン反射光」ということで。ちなみに劇中で毛利博士(中身はバルタン)は「スペルゲン反射光の餌食にしてやれ!」と言っている。

この第16話は何度見直しても、その度に幼いころのわくわくどきどき感が甦る、大変充実したエピソードであるのだが、私にはただひとつ、どうしても納得のいかないところがある。それは、ドラマの中盤までは主役級の扱いだった毛利博士が最終的にどうなったのか、きちんと描かれていないことだ。劇中では、R惑星でバルタン星人として巨大化して以降、まったく姿を見せず、その生死についても一切触れられていない(おそらく、正味23分という時間的制約によるものだろう)。

しかしながらこの毛利博士、ロケットの飛行が安定した後に、宇宙服を脱いでスーツ姿になり、宇宙食ではなくステーキを食べるという仰天パフォーマンスを披露してみたり、バルタンに乗っ取られた無重力状態のロケット内で、天井に張り付いた状態で悶絶したり、それ以外にも、バルタンに憑依された後、ミニバルタンを手のひらに乗せて指令を下す、それを「ふっ」と口で吹いて飛ばす、何度となく狂ったような高笑いをする、等々、とにかく、一度見たら絶対に忘れない、大変インパクトの強い(マッドサイエンティスト系の)キャラクターなのである。しかもドラマ上の設定では、あの岩本博士のライバルと言ってもいい偉大な科学者。これだけ存在感のある登場人物について、何のフォローもないままドラマを終えるのは、少々配慮に欠けているのではないだろうか。

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ドラマ中盤までは間違いなく主役級の毛利博士。怪しい高笑いに毒蝮もビックリ!

もっとも、そう考えたのは私だけではなかったようで、この16話が放送されて程なくして発行された現代コミクスのコミカライズ版では、その消息がはっきりと語られている。

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現代コミクス『ウルトラマン』1967年2月1日発行

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「新バルタン星人の巻」。作者はご存じ井上英沖。

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前半の流れはほぼテレビ版と同じだが、毛利博士の容姿が大きく異なる。こちらはつるっぱげに白ひげで、いかにもこの時代の「博士」といういでたち(どう見ても50代なかば以上。よく宇宙に行く体力があったものである)。

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岩本博士が開発競争で後塵を拝したエピソードもきちんと描かれる。ホシノを諭すムラマツのセリフもほぼテレビ版どおり。

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中間ページのイラスト。初代バルタンのスチールを元に、スペルゲン反射鏡を無理やり書き足して「二代目」を表現。絵は藤尾毅。

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バルタン星人の宣戦布告。ほとんどテレビ版を踏襲。

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バルタン星人に憑依される場面。「おまえのからだをかりるぜ」なんて軽く言ってますが…

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テレビ版と異なり、ロケットエンジン搭載のビートル機で「オオトリ」救助に向かうのはハヤタのみ。

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ここではっきりと、毛利博士の死が語られる。
「わたしはもう毛利ではない。バルタン星人だ。毛利はこの世にいなくなったぜ。ウヒウヒウヒ」

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地球に残ったムラマツや岩本博士も、眼前の状況から毛利博士の死を悟る。

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ついでながら、井上版の「スペルゲン反射鏡(光)」シーン。「ブヒーッ」って、豚じゃないんだから…

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2体のバルタンの反射鏡を向かい合わせにして同士討ちさせる(でも反射鏡は、元の光がないと「反射」しないはずですが…)。

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そしてラストページ。ハヤタはウルトラマンに助けられたという設定で、岩本博士による「フェニックス」での救助シーンはなし。しかし最後のコマで、岩本博士の毛利博士への哀悼の意が表明される。

どうです。こっちの方が納得が行くでしょ?

実は、私は幼児期にこの現代コミクスを繰り返し読んでいたので、テレビ版も、こういうラストだと思い込んでいた。だから、中学3年生の時、久しぶりで「ウルトラマン」の再放送が(どういうわけかフジテレビで)行われた時、この16話を改めて見て、「え、毛利博士はどうなったの? 行方不明?」と困惑したというのが正直なところである。

ちなみに、16話のコミカライズ版はこの現代コミクスのほかにもうひとつある。当時雑誌『ぼくら』に連載されていたもので、こちらは一峰大二の筆になるもの。せっかくなのでこちらも紹介しておくが、かなりオリジナル度が高く、岩本博士も登場しない。

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「バルタン星人の巻」(『ぼくら』1966年12月号別冊付録)

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一峰版の毛利博士は、井上版よりは若そうだが、やはりかなりのおっさん(しかもメタボ)。注目すべきは、テレビ版や井上版と違い、ロケットに複数の乗組員がいること。こちらの方が自然という感じも。

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「おおとり」のSOSを受けて「ハヤタ救助艇」が出動(井上版同様、こちらも救助に向かうのはハヤタのみ)。

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「おおとり」は損傷も激しく、乗組員は全滅かと思われたが、なぜか毛利博士だけ生存が確認される。

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救助された毛利博士は科学特捜隊内の病室(そんな場所があったのか?)に収容されるが、やがて憑依していたバルタン星人が姿を現わした。この時、毛利博士とバルタンが分離し、毛利博士は正気を取り戻す。

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せっかくなので、一峰版の「スペルゲン反射鏡」シーンもご紹介。

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こちらは、反射鏡のついていない背中をスペシウム光線で狙い撃ち、勝利を収める。

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ラストページ。朝日を浴びながら帰還するビートル機を出迎えるフジ、ホシノ、そして毛利博士。「おう、なんとすばらしい……」なんてセリフまである。まさにすばらしい。一峰版コミカライズでは毛利博士は死んでいないのである。こういうラストもありだと思う。

以上、『ウルトラマン』第16話「科特隊宇宙へ」のテレビ版とコミカライズ版2つにおける毛利博士の扱いの違いについて記してみたが、どのような印象を持たれただろうか。

この16話に限らず、テレビ版の『ウルトラマン』は内容を詰め込みすぎているせいか、ラストが異常に駆け足で、ドラマとしてのカタルシスが弱い話が少なからず存在する。それをコミカライズが救っているケースはほかにもあり、たとえば、「トラックにひき逃げされて死んだ少年の霊が乗り移った」とされる高原竜ヒドラが車を次々に襲撃する第20話「恐怖のルート87」などは、テレビ版では、ラストでハヤタが「ひき逃げをした運転手も自首して警察に捕まりましたよ」と語るだけで、その姿は画面には一切登場しないのだが、井上版では、物語の後半にひき逃げ犯人のトラックをヒドラが襲う場面がきちんと描かれており、そのトラックを巡って、ヒドラと科学特捜隊、さらにウルトラマンが争奪戦を繰り広げるクライマックスが用意されている。ドラマとしてどちらが完成度が高いかは言うまでもないだろう。コミカライズというと、元のストーリーをなぞって漫画にしただけ、と思われることも少なくないが、このように、オリジナルを補完する機能を果たしているケースもあるのである。

閑話休題。話を二代目バルタンに戻そう。もう一度、現代コミクス『ウルトラマン』2月号の表紙をよく見て欲しい。

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柳柊二の筆になるこの表紙絵のバルタンは、…そう、初代とはあきらかに違う細身の面容、まぎれもなく二代目バルタンである。

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プラモを横に置くと一目瞭然!

しかし、前にも触れたように、この二代目バルタンは制作現場でスチール写真の撮影を行っておらず、それゆえ1970年代以降に公開されるようになった画像も、すべて本編からの抜き焼きである。したがってこの当時、二代目バルタンのスチール写真というのは存在しなかった。だから上に紹介した井上版も一峰版も、そして藤尾毅のイラストも、すべて初代バルタンをモチーフにして描かれている。
にも関わらずこの表紙絵だけは、きちんと二代目バルタンが描かれているのだ。これは一体どういうことなのだろう。あるいは成田亨のデザイン画を見て書いたのかとも思ったが、比較してみると、かなりの隔たりがある。もしかするとこの当時、限られた関係者の間だけで出回ったスチールというものが存在したのだろうか。それとも、柳柊二は実際の放送を見ながら、それをスケッチするなどして、この表紙絵の下絵としたのだろうか(16話のオンエアは1966年10月30日。現代コミクス『ウルトラマン』2月号発売が1967年1月なので、表紙絵の納品は多分12月初旬くらいと推測され、時間的に不可能な話ではないが、かなり無理のある仮説である)。いずれにせよ、大変にレアなケースだと思う。

※このページのキャプチャ画像は、(株)円谷プロダクションが制作したテレビ映画『ウルトラマン』第16話「科特隊宇宙へ」(1966)からの引用であり、すべての著作権は円谷プロダクションが保有しています。
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2015年03月15日

フォトギャラリー完成

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今年の初めにリニューアルした私の公式サイトですが、フォトギャラリーに関しては、とりあえず冬の情景を12枚アップするという暫定処置でしのいでいました。本当なら、これまで撮りためた写真をカテゴリごとに分類して閲覧できるようにしたかったのですが、写真の選別とレタッチに思った以上に時間がかかり、とても年頭に間に合わなかったのです。

そのフォトギャラリーが、この度、何とか完成いたしました。
こちらです≫ フォトギャラリー|大嶋拓 公式サイト

ページのトップに、季節に合った写真を1枚あしらい、その下にカテゴリ別のポートフォリオを配置しています。ちなみにカテゴリというのは以下のとおり。

自然・風景(40枚)
廃墟(40枚)
(28枚)
カラーポートレイトT(40枚)
カラーポートレイトU(40枚)
白黒ポートレイト(32枚)

今回特筆するべきは、「」を単独のカテゴリにしたことでしょうか。一昨年の秋まで住んでいた賃貸住宅の庭は、猫たちのたまり場になっていたので、必然的にそこで撮ったものが多くなっています。

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ほかのカテゴリについて簡単に述べておくと、「自然・風景」はいわゆるネーチャーフォトで、これは特に説明の必要もないと思います。一応、春夏秋冬を意識して並べてみました(あくまで雰囲気で)。

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廃墟」については、私の中の廃墟熱もだいぶ冷めてきていますし、「自然・風景」の中に組み込んでもいいかなとも考えましたが、やはり自然とも風景とも根本的に異質な被写体であるため、旧takurama photo galleryに続き、今回も単独カテゴリとしました。一部、旧ギャラリーの廃墟系との重複もありますが、半数以上は今回初めて公開するものです。

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一方、「ポートレイト」に関しては、最近あまり熱心に撮影を行っていないので、旧ギャラリーで公開したものの再掲が多くなっています。しかしながら、今回の公開に当たり、すべての画像の色調や濃度等を再調整しました。再度ネガからスキャンし直したものもあります。したがって、以前公開したものより、画質のクオリティは上がっていると思われます。ちなみにTはフィルム撮影、Uは前半をのぞきデジタルカメラ撮影です。白黒は、そのほとんどが20世紀に撮影したものなので、当然フィルム撮影です(数点例外あり)。

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全部で220点ありますので、一度にご覧になるのは大変かも知れません。つれづれのお慰みにでも、お役立ていただければ幸いです。

こちらからどうぞ≫ フォトギャラリー|大嶋拓 公式サイト
posted by taku at 20:23| 写真 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月13日

さらばJR黒姫駅

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早春の黒姫山

長野と金沢を結ぶ北陸新幹線があす(14日)開業する。
これにともなって、長野以北の信越本線・長野−妙高高原間(長野、北長野、三才、豊野、牟礼、古間、黒姫、妙高高原の8駅)はJR東日本から切り離され、第3セクターのしなの鉄道がその経営を引き継ぐことになった。新名称は「北しなの線」で、私が毎年夏を過ごす山荘がある黒姫もその中に入っている。これにはさすがに一抹の淋しさを感じずにいられない。

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北しなの線(長野・妙高高原間)路線図

黒姫駅は、長野駅と同じ1888年の開業で、実に120年以上の歴史がある。当初は柏原という駅名で、1968年に現在の黒姫に改名している。

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ちなみにうちの山荘は、私が生まれる数年前に亡父・青江舜二郎が、「南洋のデパート王」の異名を持つ岡野繁蔵氏から購入したものである(岡野氏は戦前、インドネシアのスラバヤで「トコ・千代田」という百貨店を経営し、貿易商として大成功を収めた立志伝中の人物)。
1963年生まれの私は、その年以降毎年山荘に連れて来られていたから、柏原時代の記憶もうっすら残っている。そして駅名が変わった時、5歳の私は、「何となくかっこいい名前になったなあ」という印象を抱いたものだ。

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黒姫(柏原)は俳人・小林一茶の生誕地としても知られる(駅から徒歩5分の小丸山公園にて)

駅名変更の少し前から、当時の国鉄は黒姫山周辺を冬はスキー場として、夏は高原や湖(野尻湖)のある快適な避暑地として、大々的に宣伝し始めた。そうした広告戦略もあり、1970〜80年代の黒姫は、上野始発の特急あさま号や白山号で、都心から乗り換えなしで到着できる、大変メジャーな北信濃の駅だったのである(80年代には新宿発着の特急もあった)。

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夏の黒姫高原(黒姫童話館からの眺望)

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晩秋の野尻湖。中央に見える鳥居の島が弁天島

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雪に覆われた真冬の黒姫山

しかしそれも今は昔。1997年の長野新幹線開通とともに、特急が停車することもなくなり、黒姫駅は信越本線の一ローカル駅に「降格」となった(すでにこの時点で、ゆくゆくはJR東日本から経営分離されることは規定路線だったようである)。それからはまさに雪山を転げ落ちるような「寂れ方」で、静かな環境を好む私でさえ、最近の夏の黒姫駅周辺、野尻湖周辺の人の少なさにはため息がこぼれる。JRからの分離で、今後さらに乗降客が減っていくようなことになれば、観光地としては死活問題ではないだろうか。

なお、2008年公開の映画『凍える鏡』はドラマの主要部分をこの黒姫で撮影したのだが、その中で以下のようなやりとりが出てくる(シナリオより抜粋)。

○香澄の山荘・リビングダイニング

  由里子(冨樫真)と香澄(渡辺美佐子)が話をしている。
由里子「……長野までの新幹線は早かったんだけど、そのあとの各駅が全然来なくて」
香澄「そうよ、あの電車、一時間に一本だもん」
由里子「前はここも特急が停まってたのに」
香澄「そんなのずいぶん前の話じゃない」

このあたりのセリフは、私自身のぼやきでもある。

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『凍える鏡』の一場面。左から田中圭、冨樫真、渡辺美佐子

明日、黒姫駅では「北しなの線」の開業記念列車の到着に合わせてイベントを予定しているという。9時55分の記念列車到着を「お出迎え」するという主旨だ。
私がその場に立ち会うことは恐らくないと思うが、今年の夏、黒姫駅に降り立った時、自分はその変化をどのように感じるのだろう。何がどう変わって、何が変わっていないか―そういうことををきちんと見届けるのも、長く生きて来た人間の務めのような気がしている。

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古間を出て黒姫に向かう信越本線(2002年12月撮影)
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2015年03月04日

「文學者之墓」のこれから

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昨年暮れ、日本文藝家協会から「『文學者之墓』緊急アンケート」と称する封書が送られてきた。

以下に引用するのは、その中に入っていた、出久根達郎氏(文学者支援委員会委員長)による挨拶文の一部である(漢数字を一部数字に変更)。

「文學者之墓」についてのご意見をうかがいます

当協会では1969(昭和44)年に、富士山のふもとの「冨士霊園」内に、「文學者之墓」を設け、以来、墓碑周辺の一画を「文学碑公苑」と名づけ、整備し運営してまいりました。
公苑内には2014年現在、8連の墓壁が並び、生前に手続きされた方を含め、799名の方の氏名、代表作品名(亡くなられた方は没年月日と享年も)が刻まれ、墓壁前の地下にはカロウトが設けられ、遺骨や遺品が納められております。(中略)

しかしながら第1期墓碑の完成より44年がたち、問題が生じてまいりました。
適当な建碑の余地が無いことです。
約二千坪の公苑全体が山の傾斜地にあり、火山灰層のため地盤が安定せず、建設に適う場所が限られるのです。
最新の第8期の墓碑面も残すところ30数名分で、あと2、3年で募集を終了せざるを得ません。第9期の建設場所が見当たらない。
新しい墓域を求める場合、少なからぬお金がかかります。これまでの形態ですと広大な土地が必要となります。(中略)

お墓に対する意識も昨今は変ってまいりました。樹木葬や、慰霊塔などの合同供養といった選択をされる方も増えつつあります。
新たな構想、保全、継続の案など、会員の皆様の率直なご意見をお聞かせいただきたいのです。(後略)


私の亡父・青江舜二郎の墓は、まぎれもなくこの「文學者之墓」の一画なのでまったく他人事ではない。しかし、青江の納骨を行った今から30年前は、まだずいぶんスペースに余裕があるようだったし、その後何度か墓参に訪れた時も、それほど手狭になっているという印象はなかった。だが「緊急アンケート」を実施するくらいだから、もはや事態は放置できないところに来ているのだろう。

年末の忙しさに取り紛れたのと、いいアイデアがまったく思いつかなかったのとで、結局アンケートには回答せずじまいだったが、現在「文學者之墓」がどんな状況なのか、この目で確かめたくなり、2月下旬の某日、久しぶりで冨士霊園(静岡県駿東郡小山町大御神)へと足を向けた。

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駿河小山駅からの風景

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霊園の送迎バスに揺られつつ雄大な富士を堪能

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平日ということもあり「文学碑公苑」は完全な無人

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当時の文藝家協会会長だった丹羽文雄の碑文

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第1期のトップは菊池寛。以下、そうそうたる文士の名前と代表作が並ぶ

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墓壁の裏側に彫られた名前は作家の配偶者またはそれに準ずる者

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青江舜二郎は第3期。代表作「法隆寺」(せっかくなので花を供えました)

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第3期のすぐ後ろが第8期。たしかに墓壁の空きスペースはあまりない

「文學者之墓」の現状は以上のようなもので、そう遠からず新しい形を考えなくてはならないところに来ていることは明らかだった。

大都市では高齢化社会の進行にともない、墓所不足が深刻化し社会問題にもなろうとしているが、それは文学者においても例外ではないということか。しかしその一方、過疎地などでは住民が都市に移動してしまうため無縁の墓などが増えているという(こちらは土地はふんだんにある)し、お墓をめぐる問題はいろいろと深刻である。

あまり話を広げても仕方がないので、「文學者之墓」だけに絞って考えると、見てわかるとおり、この墓所は「墓」と言いながら形状は記念碑のようで、実際、この下のカロウトに遺骨を納め、純粋に「墓」として利用している方ばかりではないようだ。きちんと調べたわけではないが、ここに名前が並んでいる作家の中には、ほかの場所に自分の墓や先祖代々の墓があり、遺骨もそちらに納めていつつ、この「文學者之墓」には、作家としての名前を末永く公に残すというメモリアルな目的で、分骨もしくは遺品を預けている方が少なくないように思われる。それは現状の規約からすれば違反でも何でもないが、しかし元々この「文學者之墓」は、文芸美術国民健康保険組合などと同様、収入が不安定な文筆家のための救済措置、すなわち「通常の墓所よりも安く墓所を提供する」という目的で企図されたもののはずである。文藝家協会の「文學者之墓」管理運営内規を見ても、

第1条 日本文藝家協会(以下「協会」)は、死去の時まで協会の正会員であった者の為に「文學者之墓」を設け、墓所を提供する。墓所には、正会員本人と、希望により配偶者(家族)及びそれに準ずる者も1名に限り遺骨等を埋葬することができる。
2 「文學者之墓」は、文学碑として一般にも公開し、公益に供する。

とあり、「文學者之墓」はまず第一に「墓所」であり、それに次いで、公益に供する「文学碑」でもあると明確に定義されている(なお、この事業に尽力した丹羽文雄は、遺族の意向もあって、「文學者之墓」以外に墓を作っていないという)。

したがって、ここはひとつ初心に帰って規約を改め、「よそに墓を持っていない、あるいは経済的な事情で持つことのできない」作家に限って新規の申し込みを受け付ける、という風にしてみたらどうだろうか。そうすれば、申し込み者は大幅に減るはずである(ちなみに、うちの青江の場合、自慢ではないが生涯を通じて貧乏作家だったため、生前に自分の墓所を求めるなど思いもよらないことで、それで家族としてもやむなく、この場所に眠ってもらうことにしたのである。であるから、ほかの作家はいざ知らず、青江舜二郎の墓というのはここしかない)。

もっとも、仮にそのような制限を設けてみたところで、あと30数名分の場所しか残っていないのであれば「時すでに遅し」の感は否めない。そうなると、あとはやはり出久根氏の提案するように、ある程度大きな慰霊塔か石碑を建立して、そこに、小さめに故人の名前を彫りつけるという形式になるのだろうか。

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2006年に「千の風になって」という歌が大ヒットした時、
「私のお墓の前で 泣かないでください そこに私はいません」
などという挑発的(?)な詞のせいで、墓石の売り上げが悪くなるのではないか、と石材業者は戦々恐々だったらしいが、実際にはまったくそんなことはなかったそうだ。どうやら日本人は根っからの「お墓大好き民族」であるようで、したがって、お墓をめぐるもろもろの問題も、日本が存続する限り、議論され続けていくのだろう。
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2015年03月02日

初句会

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先週の土曜日(2/28)、生まれて初めて「句会」なるものに参加してきました。

といっても本格的なものではなく、春風社社長の三浦衛さん宅で毎月行われているホームパーティー(通称「御殿山クラブ」)での趣向のひとつで、当然参加者はほとんどが俳句に関してはまったくの素人。ただ、「御殿山クラブ」常連の写真家・橋本照嵩さんが、知る人ぞ知る、かの「点々句会」のメンバーなので、彼を「宗匠」に仕立てて「遊んでみよう」という話になったそうです。ちなみに今回のテーマは今の季節=「春」とのこと(このように、季節以外に特に制約を設けないのを「当季雑詠(とうきざつえい)」と言うらしいです)。

私は「御殿山クラブ」にもかなりのご無沙汰でしたし、しかも今回はまったくなじみの薄い俳句も作らなくてはならないということで、いささかハードルが高かったのですが、世に言う「句会」というものがどのように行われているのか興味があったので、恥をかくのを覚悟の上で、実に数年(!)ぶりに、JR保土ヶ谷駅からのだらだら坂を登っていったのでした。

三浦さん宅到着は14時少し前。すでに常連の方数名が日本酒を片手に上機嫌でしたが、やはり、この日のメインイベントである句会が気になってか、皆さん杯を干すペースもどこか控えめです。やがて参加者も10人を超え、午後の日差しが西陽へと変わるころ、いよいよ句会が始まりました。上は75歳から下は13歳まで、性別も年齢も職業もまちまちの11名が参加です。

なお、句会の進め方については、いろいろな方法があるようですが、今回は巷でのやり方をかなり簡略化(合理化)したもののようでした。以下、簡単にそのプロセスを書いておきます。

(1)まず参加者全員が、配られた縦長の短冊(正式には「投句用紙」と呼ぶそうです)2枚にそれぞれに一句ずつ、計2句を記入する(その場で考えるのではなく、事前に考えてきていたものを清書するという感じ。これには名前は書きません)。

(2)記入が終わったら、短冊を2つ折りにして中が見えないようにして、三浦さんが用意したA4の書類封筒に「投句」。

(3)全員の「投句」が終了したところで、三浦さんがそれをシャッフルし、11名が2句づつ詠んだ全22句を1枚の「清記用紙」に書き写す(本当はこの書き写しも参加者が分担して行うようですが、今回は進行をスムーズにするため三浦さんの単独作業でした)。

(4)その「清記用紙」を人数分コピーして参加者全員に配る(これについても、本来は1枚のものを回し読みするようですが、こちらの方が合理的だと思います)。

(5)参加者は、配られた「清記用紙」に自分の句が間違いなく転記されているかを確認したのち、そこに書かれた句を精読して、お気に入りの5句を選び、各自に配られた「選句用紙」に書き写す。「清記用紙」には句の上に番号も書かれているので、その番号も一緒に記載する(ここの説明が不徹底だったため、あとから橋本宗匠がしきりに「何番?」と問いただすハメになりました)。なお、この時に自分の句を選ぶのは禁止で、必ず他の参加者が作った句の中から選ぶ。5句選んだ上で、1番のお気に入りに◎をつける(この辺も「天地人方式」とか、いろいろ採点方法があるそうですが、今回は最初なのでざっくり)。

(6)選び終わったところで、いよいよ「披講」。参加者がひとりずつ順番に、自分が選んだ5句を披露する(ここでやっと、「声を出して句を詠む」という、素人がイメージする「句会」の場面になります。いやあ、「句会」ってのはこんなにも面倒くさいというか、段取りが多いものだったんですね。またこの「披講」にもいろいろ決め事があって、自分の投句した俳句が読み上げられた時は、大きな声で自らの俳号をさっと名乗らなくちゃいけないとか、披講中に私語は厳禁だとか、橋本宗匠は薀蓄を垂れてらっしゃいましたが、なにぶんド素人句会ですから、その辺はグダグダでした)。

(7)全員の「披講」が終わったあと、橋本宗匠と三浦さんとで一応結果の集計を行い、選ばれた数、◎の数が多かった3句の表彰。最後に橋本宗匠から簡単な講評があって、記念すべき第一回の句会は終了。

以上が大まかな流れですが、いやあ、初めての試みというのは面白いものですねえ。(1)の「投句」の時は、全員、メモやら手帳やらを見ながら、物も言わず一心に短冊に向かい、三浦さん宅には約10分、ほぼ完全な静寂が訪れました。こんなことは「御殿山クラブ」始まって以来じゃないでしょうか。
(5)の、他の参加者の句を選ぶ時にもふたたび静寂が部屋を覆いますが、明らかに静寂の種類が違うのです。このあたりも、人間の微妙な心理が垣間見えるようで興味深い時間でした。
そして(6)の「披講」では、それまでの緊張感から一気に解放されたせいなのか、ひとつひとつの句が読み上げられるたび、「なるほど」とか「おお」とか「うん」とか、すべての反応が肯定的というか、とにかく大変に大らかな空気が部屋を支配していたのが印象的でした。自分の歌が選ばれた、あるいは自分の選んだ句を他の人も選んでいた、というのは素直に嬉しいものですし、逆に、自分は選ばなかった句だけれど、声に出したのを聴くと、なかなかいい句だったとか、そういう発見も多々ありました。ひと口に「春」というけれど、いろいろな捉え方があるものだ、とも思いましたし、皆さん初めてという割に、ずいぶんレベルの高い句をこさえて来ていたのにも正直驚きました。いずれにせよ予想以上の盛り上がりで、句会の後はさぞやお酒も進んだのではないかと想像しています(私はあいにく所用のため、句会終了とともに失礼しました)。

以下、印象に残った何句かをここでご紹介したいと思います。

春きても空気吸うのはマスクごし
飛び梅をおおいつくすか杉花粉
「ちがうもん」花粉症だとくしゃみ言う

以上3句は「花粉症」ネタですが、ほかにも数句ありました。アレルギー性疾患が季語となるのもやはり時代でしょうか。

水温むそこかしこにて猫会議
水温み鳥鳴く里の人何処(いずこ)

この2句は、初句はほとんど同じ(春の季語)なのですが、そのあとに展開される情景がまったく違います。前者はのどかな春、後者は荒涼たる無人の春です。わずか12文字でここまで異なる世界観を構築するとは、日本語の力というのはあなどれません。

梅の香の白く匂ひて幾夜かな
梅寒し酒で内(なか)からぬぐだまる ※「ぬくくなる=温まるの意」

この時期ならではという感じで、梅を詠み込んだ句も多く見られました。私も個人的に梅は大好きな花で、桜と違い、かなり長い間ぽつりぽつりと咲いて目を楽しませてくれるのを、春が来るたび好ましく思っています。そんなわけで、近所を散歩していた時にたまたま目にした風景を何のひねりもなく、

あるじなき家の庭にも梅ひらく

という句にしてみたところ、割に好評だったので、やはり素人は変にこねくり回したりせず、わかりやすい言葉でつづるのが一番いいのだなと思った次第です。

今回参加されていた装丁家の桂川潤さんは、橋本宗匠とならび、句会経験者でいらっしゃるようでしたが、その桂川さんが「例えて言うなら、俳句は静止画(写真)、短歌は動画(映画)なんですよね」とおっしゃっていたのが深く心に残りました。五七五の俳句は一瞬の光景を捉えるところまでで、その先に七七を加えることでドラマが生まれてくるということのようです。自分は一応写真も映画もやったことがある人間ですが、こんな比較対照は今まで考えたこともありませんでした。

いやはや、人間50年以上生きてきても知らないことはいくらもあるものです。これまで俳句とも短歌ともほとんどなじんだことのない私ですが、この初句会を境に、今までとは少し何かが変わっていくのかも知れません。

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これが当日の「清記用紙」。全22句が何となく読めるかも…
posted by taku at 17:28| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする