赤塚不二夫の生誕80周年を勝手に記念して、40数年前の雑誌から赤塚不二夫と「フジオ・プロ」周辺の隠れた作品を紹介するシリーズ第1弾。
今回の一冊はこちら。

『少年サンデー』1969年37号。表紙は石井いさみの「くたばれ!!涙くん」。何かカッコいいっす。
ページをめくると、いかにも1969年という感じのアポロ11号の模型広告につづき、いきなり展開される白昼の誘拐劇(カラーページなのにあえてモノクロを使うところが憎い)。

怪しい男たちに拉致される少女、走り去る車、道路に転がったバスケット。完全に映画のオープニングシーンです。
本格写真コミック「現金(げんなま)カッパライ作戦」神宮前、南砂町などでもロケを行ったそうで、かなりの気合いが感じられる作品。全編スチール写真で漫画を表現するというのは、かなり画期的な試みだと思う。当時幼稚園の年長だった私も大変気に入り、何度も読み返したのを覚えている。
なお、この作品については、2007年に刊行された『天才バカボンTHE BEST』(小学館)に収められているから「幻の作品」というわけではないのだが、『THE BEST』には白黒での収録でもあり、また一般への知名度はそれほど高くないと思われるので、この場を借りて紹介してみたい。
天才バカボン誕生40周年記念 天才バカボン THE BEST 小学館版 (少年サンデーコミックススペシャル)長谷邦夫の著書『赤塚不二夫 天才ニャロメ伝』(2005年・マガジンハウス)には、
赤塚のコスプレ好きは、スタジオ・ゼロでの仮装パーティからはじまったのだが、しまいには『週刊少年サンデー』のカラー・グラビアページをもらって写真マンガを制作した。との記述があり、この企画は赤塚の趣味が昂じた結果だという。しかしそんな趣味が、巻頭グラビア16ページの作品という形で誌面を飾ってしまうのだから、このころの赤塚のパワーはすさまじい。当時34歳。もっとも油が乗っていた時期かも知れない。

キャスト写真を見ると、当時のフジオ・プロの中核メンバーが勢ぞろい。高井研一郎はすでに退社後だったとしても、北見けんいちの姿がないのは何故だろう?
また、ギャング団に扮したのはドンキーカルテットの面々。小野ヤスシという芸能人を初めて知ったのはこの作品だったと記憶している。

大富豪・狸小路家令嬢誘拐事件に挑む、「紅顔の老刑事・アカツカ」と「刑事・迷宮(おみや)のトリイ」(素晴しいネーミングセンス!)

娘をさらわれたショックで気が狂った狸小路氏には長谷邦夫。

古谷三敏はレレレのおじさん役でワンカットだけのカメオ(?)出演。

むさ苦しい男たちの中で紅一点の令嬢役・植田多華子は当時の人気子役。その後1980年あたりまで女優として活動。


ギャング一味は令嬢の身代金として3億8円を要求、狸小路氏は泣く泣く金を用意する。山と積まれた札束を見たアカツカとトリイは、警察官の立場も忘れ身代金をネコババすることを思いつき、急造した偽札で令嬢の奪還を試みる。
だがギャング一味も令嬢の偽者(赤鼻のイワイ)を用意していたためこの作戦は失敗。しかし、イワイを尾行することで、アカツカとトリイはギャングのアジトを発見する。一方イワイは令嬢に愛慕の情を抱き、逃亡を手助けしたためギャングのボスの怒りを買い、組織から厳しい制裁を受けるのだった。
「ウンチのリンチを加えるズラ!!」「カレーにしてよ、かあさん!!」 ←ハウス印度カレーのCMより
まさにとりいかずよし的なギャグ炸裂。実写でやるとインパクトも強烈で読んでいて腰を抜かした。
「スカトロジー」という概念を初めて潜在的に意識した衝撃的画像である。

アカツカ、トリイとギャングたちとの激しい銃撃戦。一味は全滅し、令嬢も無事に狸小路氏の元に帰る。

「はやくお金をわけようよ」とほくそ笑むアカツカとトリイだが、肝心の身代金は折からの強風ですべて飛ばされてしまい、失意の2人は入水自殺してしまう…、というなかなかよくまとまったストーリー。「悪はほろびるのだ」などという文もあり、まだこのころのフジオ・プロ作品は十分に良識的であったことがうかがえる。
写真漫画が終わると、次のページからはすぐに「もーれつア太郎」というナイスな連携。

この回の「もーれつア太郎」は「現金(げんなま)カッパライ作戦」を意識してか、ギャングの一味が登場。

本誌の中ほどには「おれはニャロメだ!!」という特集ページも。すでにニャロメはかなりの人気キャラだったことがわかる。
このように、全体にかなり「赤塚押し」の一冊なのだが、まだまだこれでは終わらない。巻末にはなんと「天才バカボン」まで!


実はこの2号前の35号から、『少年サンデー』には「天才バカボン」が連載されていたのだ。「天才バカボン」は言うまでもなく、『サンデー』のライバル誌『少年マガジン』の看板作品だったのだが、先ほども引用した長谷邦夫の『赤塚不二夫 天才ニャロメ伝』によれば、赤塚は『サンデー』編集部の広瀬部長に強く頼まれ、移籍を決めたのだという(この「電撃移籍」には幼稚園児の私もたまげました。世の中こういうことがあるのかと)。
なお同書には、
『少年サンデー』は「おそ松くん」のあとの新連載「もーれつア太郎」の人気が今一つだったための強硬手段だった。(中略)だが、ア太郎にニャロメが登場して、そのヤンチャぶりがたちまち人気キャラとなり「もーれつア太郎」も人気急上昇!とあるが、これは時系列がいささか正確でないように思われる。というのは、上の画像でも明らかなように、この時期の「もーれつア太郎」にはすでにニャロメが登場して十分人気キャラに成長していたし、「ア太郎」自体も、その年の春からテレビアニメになり、「おそ松くん」とほぼ同等と言ってもよいヒット作になっていたからだ。もっとも、古い記憶において、エピソードの順序が入れ替わるのはしばしば起きることである。この時期、部数において『マガジン』の後塵を拝していた『サンデー』が、テコ入れのために「天才バカボン」を引き抜いたのはまぎれもない事実なのだ。
しかし、『サンデー』における連載開始の前の号(34号)をめくってみると、意外なことがわかる。全部で3ページ、新連載の告知があるのだが、



そのすべてに、
「夏休みの特別プレゼント」
「夏休みを楽しんでもらう」
といった文言が添えられているのだ。
どうやら「連載」と言いつつ、当初は夏休み期間限定のスペシャル企画だったようだ。実際、37号のあとは2ヵ月以上誌面に登場していない。その後は47号、49号、51号から1970年15号までと比較的コンスタントに掲載が続くが、『サンデー』連載はここで終了。初のアニメが制作された翌71年には古巣の『マガジン』に復帰する。
いろいろと大人の事情があったことが推察されるが、少年漫画誌の両横綱と言われた『マガジン』と『サンデー』の2誌を股にかけて連載された作品というのは大変に珍しく、他には、経緯はまったく違うものの、手塚治虫の『W3(ワンダースリー)』が思い浮かぶくらいだ。やはり赤塚不二夫という存在は、漫画界のパイオニアであったのだとあらためて思う。
【追記】何という偶然! 今回紹介した『少年サンデー』1969年37号が現在
オークションに出品されているではないか(9/15まで)! 写真を見る限り私が所有するものよりコンディションがよさそう。それほど高価でもないので、気になった方はこの機会に是非!