2015年10月25日

追悼 野崎茂氏

昨日(24日)調べ物があって、鎌倉市中央図書館の近代史資料室に足を運んだのだが、その際、資料室の平田恵美さんから、鎌倉アカデミア産業科1期生の野崎茂氏が最近亡くなったことを知らされた。1928年6月2日のお生まれだから、享年87ということになる。死因はわからないとのことだった。

野崎氏は1946年に鎌倉大学校(のちの鎌倉アカデミア)に入学。2代目校長・三枝博音の思想や人間性に深く傾倒し、卒業後は三枝の薦めで横浜市立大学経済研究所や東西文化交流研究所に勤務する。その後、日本民間放送連盟研究所に入所し、1980年に所長。1988年から1997年までは、東京女子大学現代文化学部コミュニケーション学科の教授を務めた。専攻は「メディア論」で、テレビ視聴における充足度調査システムを開発したという。「第2世代テレビの構想―VP,CATV,空中波」(1970)、「メディアの熟成―情報産業 成長史論」(1989)などの著書もある。

以上のような経歴の持ち主なのだが、どこのメディアも、今日までその訃報を一切取り上げていない。メディア発展のために力を尽くしてきた人間が、メディアによって黙殺されてしまうというのはいささかやりきれないものがあるので、この場を借りて公表させていただく。

私は野崎茂氏とは個人的な行き来はなかったが、鎌倉アカデミアの「創立60年記念祭」や毎年5月の「伝える会」などで、何度となくお目にかかっていた。「鎌倉アカデミアと三枝校長への思いの強さでは人後に落ちぬ」という強い気概が全身からみなぎっていて、ある年の「伝える会」では、平田さんが会のしめくくりに「三枝先生の思い出を一言」とマイクを向けたところ、「一言ではなくて、3500言ぐらいあります」と前置きした上で、えんえん語られていたお姿を思い出す。「我、三枝氏とともに行かん」という当時の日記の文言を披瀝されたのもその時だった。それくらい野崎氏にとって、三枝校長との人間的結びつきは濃密で、忘れがたいものだったのだろう。

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第7回「鎌倉アカデミアを伝える会」にて。左から野崎茂氏、若林一郎氏、一人おいて加藤茂雄氏(2013年5月18日)

野崎氏自身も、大学教授を務めている時に、学生との間でそのような濃密な関係を持とうと努力したそうだが、思ったような手応えは感じられなかったという(もっとも女子大では、教師と生徒が濃密な関係を持つのはいろいろな意味で難しいだろうが…)。「鎌倉アカデミアは学校の体裁をなしていなかった。あれはある種の文化運動だった」と後年野崎氏は語っている。

そんな野崎氏だったが、2013年11月25日に横浜市立大学で行われた「三枝博音先生没後50年記念講演」では、それまでの元気さが影をひそめ、声にも張りが失われているようだった。しかしそれでも、三枝校長との公私にわたる「つながり」をしめやかに語られており、それは恩師の顕彰の場を飾るにふさわしいものであったと記憶している。

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横浜市立大学での記念講演(2013年11月25日)

それが、公の場で野崎氏を見た最後であった。昨年の津上忠氏に続き、鎌倉アカデミアの草創期を知る証人がまた一人、黄泉路へと旅立った。しかし彼らが語った言葉、書いた文章は、確実に歴史の証言として永くこの世に残るであろう。

【追記】一期生の数は減ってきていますが、それでも「伝える会」の二大重鎮、加藤茂雄氏(演劇科1期・90歳)と服部博明氏(文学科1期・86歳)はお元気です。服部氏は図書館で資料整理やデジタル化を継続的に行っていますし、加藤氏に至っては、去る7日に池袋のライブハウスで朗読劇に出演、また12日には、由比ガ浜で漁師として地引網を行ったりと、まさに「浜役者、いまだ健在」といったところです。私は両日とも同行し、大変インパクトのある映像も撮ったのですが、それはまた折を見てということで。
posted by taku at 14:00| 鎌倉アカデミア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする