2017年03月30日

『石巻片影』

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『石巻片影』(いしのまきへんえい)は写真家・橋本照嵩氏が故郷の石巻で撮影した写真と、その写真にインスパイアされた春風社代表の三浦衛氏の言葉から成り立つ「写真書籍」である(写真集とは少し違う)。先月発売され、内館牧子氏が「週刊朝日」誌上で取り上げるなど、すでに複数のメディアで好意的に紹介されている。

三浦衛氏については、このブログにもずいぶん登場しているから、今さら説明の必要もないだろう。2009年から親しくお付き合いさせていただき、今まで世に出た氏の著書は『出版は風まかせ おとぼけ社長奮闘記』を初めとして、ひととおり拝読している。しかし、今回の本は、正直言って、とても気が重かった。それは、『石巻片影』というタイトルでもわかるように、この本が、あの東日本大震災の被災地にカメラを向けたものだったからである。

2011年3月11日の震災から、この3月で丸6年を迎えたわけだが、未曾有の大災害は、いまだ終息も収束もしていない。原発事故の完全な収束には1,000年も10,000年もかかると言われているし、私自身、あの日を境に、それまでの安寧な生活のすべてが壊され、永遠に失われててしまったという思いから逃れることができない。

14時46分、音もなく静かに始まったわずかな揺れは、やがて大きなうねりとなって部屋の家具の位置を変え、机上のものを次々落下せしめた。永遠に続くように感じられたあの揺れは心底恐ろしかったし、その後テレビに映し出された大津波や原発の爆発なども、すべてが悪い夢のようで、2011年のあのあたりのことは、思い出すだけで目まいを催すほどである。そんなへたれ具合だから、被災地の人たちの苦しみ、絶望はこんなものではなかったと思いながらも、現実にしっかり向き合うということができなかった。知人の中には、時を移さず瓦礫撤去のボランティアに志願して現地に車を飛ばす人道精神にあふれた者もいたが、自分には到底真似のできない行為である。要するに私は、あの大震災を、自分の中で、必死に「なかったこと」にしようとしてきたのだ。このブログでも、2011年5月以降、震災のことにはほとんど触れていない。同じころに新聞の購読も辞め、テレビのニュースもなるべく見ないようにし、情報を意図的に遮断してきた。それが、言い知れぬ不安に対抗し、精神の崩壊を食い止めるための、せめてもの自己防衛だったのである。

それは現在でも続いていて、震災に関連したものは、できるだけ視野の外に置くよう務めてきた。そこへもってきて今回の『石巻片影』である。この一冊は私にとって、ある意味で踏絵であった。しかし、最近読んだ『向上心』(S・スマイルズ著)という本に「逃げてばかりいる人に安住の地≠ヘ永遠にない」という一文があり、それに励まされて、おそるおそるページをめくったのであったが…。

多くは語るまい。人間は有史以前から、こうして数え切れぬほど、自然の猛威に激しくやっつけられ、踏みにじられ、それでもどうにか、また立ち上がり、生の営みを続けて来たのである。私は災害というものの悲惨さばかりを脳内で増殖させてきていたが、現実はそれだけではないことをこの本で教えられた。最初の方のページこそ、心細げな少女や津波の爪跡など、目をつぶりたくなる写真が出てくるものの、後半に行くにつれ、人間の持つバイタリティのようなものが強く感じられ、同時に、生き残ったものが亡くなったものを弔う、鎮魂という行為の荘厳さに圧倒される。そして最後の章を飾るのは、4年ぶりとなる田植えの情景。苦しみに耐えたあとの安らぎ、新たな命を育むことのありがたさが自然に伝わってくる。

ああ、こういうことが、人間の歴史というものなのか、絶望には絶えず希望が付き添うから、人間はどんなに辛くとも、その歴史を紡ぐのを止めなかったのだということを、橋本氏の「むきだし」の写真と、その写真群に新たな命を吹き込もうとする三浦氏の文章との混淆が、静かに、そしてはっきりと教えてくれたのであった。

しかし、こうした激しいエネルギーのぶつかりあいは、想像以上の消耗をもたらすもののようだ。三浦氏はあとがきで、「写真を前にして一時間はあっという間、夜中にガバと起き、明かりをつけて写真に向かったことも一再ならず…」と、写真に「説明文ではない文」を添える作業が思いのほか難航したことを告白しているが、その余波は出版後にも及び、あの元気すぎるぐらいだった三浦氏が、ここ最近まで、1,000年ならぬ10年に一度の体調不良の波をかぶっていたのである(春の訪れとともに本来の健康を取り戻されつつあるのは喜ばしい限り)。

私がひたすら震災の恐怖に脅え、そこから目を背けている6年の間に、三浦氏は、おのれの健康を犠牲にしながらも、それを確かに見据え、こうして心を動かす1冊の本を上梓された。どちらが「表現」にかかわる者としてふさわしい道であるかは、もはや論を待たないであろう。

間もなく「最も残酷な月」(同書4ページより)と呼ばれる4月がやってくるが、この『石巻片影』のおかげで、私もやっと、あの震災を現実と認識し、そこから一歩を踏み出す決心がついた気がする。

石巻片影 -
石巻片影
posted by taku at 13:49| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月23日

『昭和声優列伝』

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先月、勝田久さんが『昭和声優列伝』という本を上梓された。勝田さんといえば、「鉄腕アトム」のお茶の水博士(の声)としておなじみだが、実は鎌倉アカデミア演劇科の第一期生で、5月に公開される私の映画『鎌倉アカデミア 青の時代』にもインタビュー出演していただいている。

さて、この『昭和声優列伝』、なかなかに興味深い一冊で、第一部の「そして声優が始まった」は勝田さんの幼少期から声優になるまでの半生記、第二部の「声優列伝」は、以前『月刊マイアニメ』に連載された声優35人の証言(勝田さんが聞き取りを行い文章に起こしている)をまとめたものだ。

第一部については、終戦時の状況や、鎌倉アカデミアでの思い出など、インタビューでうかがったお話もいくつかはあったが、ほとんどが初めて知る内容で、出演していた東宝の『鐘の鳴る丘』を地方公演途中、労働争議のために降ろされた話や、狭き門を突破したNHK東京放送劇団の研修で、スタニスラフスキー研究の山田肇教授を講師にと所望し実現したが、内容が高踏的すぎてほかの研修生には不評で、最後には山田教授とふたりきりのゼミのようになってしまった話、名調子として知られる「サスケ」のオープニングナレーションは、実は担当ディレクターと意見の相違があり、会心の出来とは思っていなかったという話など、印象的なエピソードも多い。

また、さすが「声優」の草分け世代の方だけあって、用語の使い方がきわめて正確で、その説明もとてもわかりやすい。

…スタジオ内のスクリーンに映写、スタジオ内のマイク前で映しだされた画を見ながら、その演技者の唇を掴んで、それに台詞を当てていく。その方法をアテレコといった。映画撮影のとき、音声部分をあとで録音する方法をアフレコというので、声優の場合は外国語に日本語を当てる方法だからアテレコと呼ばれるようになった。(76ページ)

最近では「アフレコ」と「アテレコ」を混同して使う若い世代が増えているように思うが、上の文章を読めば違いは明白である。具体的に言えば、「ウルトラマン」や「仮面ライダー」など、撮影現場に録音部がいないフィルム制作の作品で、俳優自身が自分の演技にあとからセリフを入れるのがアフレコ、「奥さまは魔女」や「スパイ大作戦」などの海外ドラマに、日本の俳優(声優)がセリフを当てるのがアテレコである。

さらにいえば、日本に「声優」なる職業が生まれたのは前述の海外ドラマが日本に輸入されるようになったためである。

昭和32年ごろから、アメリカのテレビ映画が輸入され、日本語版にして放送されるようになった。いわゆるアテレコ番組の誕生である。輸入されるテレビ映画の本数が増えるにしたがって、若い舞台俳優も、にわかに忙しくなってきた。1秒間に24コマ、あっという間に流れていくフィルムの動きに合わせて、日本語をピタリと当てていく仕事には、鋭い反射神経と演技力、正確な標準語をしゃべることが必要で、若い俳優にはうってつけの仕事だったのだ。(中略)後に、この俳優たちは声優と呼ばれるようになった。(132ページ)

これは、野沢雅子の項で書かれた文の抜粋だが、「声優」誕生に至る経緯が、実に簡潔にまとめられていると思う。勝田さんの文章は、30年以上も勝田声優学院で後進の指導に当たってきたからか、大変にわかりやすく、同時に、自分たちがしてきた仕事がどういうものだったかを、きちんと後世に伝えていこうという意思が感じられ、大いにシンパシーを感じつつ読み進めることができた。

そして第二部の「声優列伝」。これは、1963年生まれの私にとっては、ド真ん中すぎるというか、まさに鳥肌もののラインナップである。

1963年というのは「鉄腕アトム」の放送開始の年であって、したがって私は「アトム」をリアルタイムで視聴した記憶がほとんどない。だからお茶の水博士というキャラも、正直いって今ひとつなじみが薄いのである(世代のなせる技です。勝田さん、ごめんなさい)。しかし、この「声優列伝」に名前を連ねた面々は「アトム」以降のアニメや特撮で活躍した人が多く、私の幼少期のお気に入り作品の、いわば常連ばかり。ここに挙がった声優の9割は、名前を見ただけで、反射的にその声が耳に浮かぶくらいだ。富山敬といえば「タイガーマスク」の伊達直人だし、野沢雅子は「タイガーマスク」の健太と「ゲゲゲの鬼太郎」だし、内海賢二はサリーちゃんのパパか「黄金バット」のマゾ、富田耕生は「もーれつア太郎」のブタ松か「マジンガーZ」のDr.ヘル、森功至なら「ガッチャマン」の大鷲の健か「キューティーハニー」の早見青児…といった具合で、次々キャラクターの顔と声が脳裏によみがえる。たてかべ和也大平透はこのブログで追悼文を書いたくらい思い入れがあったし、納谷悟朗(「仮面ライダー」のショッカー首領)、小林清志(「宇宙猿人ゴリ」のゴリ・初代)、柴田秀勝(「デビルマン」の魔王ゼノン)とくれば、悪の組織のラスボス オンパレードである(これに飯塚昭三が加われば完璧の布陣)。

そういった人たちの多様な生い立ちや人生の浮沈が、実にくわしく書かれているのだ。納谷悟朗は一時ヤクザの世界に足を踏み入れていたとか、内海賢二は八奈見乗児の新婚家庭に居候したことがあるとか、広川太一郎は、あのコミカルな芸風とは裏腹に、生涯フリーランスを貫いた一匹狼だったとか、田の中勇の手作り幕の内弁当は絶品だとか、シリアスな話もあれば笑える話もあり、それぞれの声をイメージしながら読み進めると、味わいもひとしおである。勝田さんはご自身が優れた演者であるだけでなく、相手の話を巧みに引き出す名インタビュアーでもあったのだなあと、あらためて感嘆した次第である。
(声優諸氏の敬称は省略させていただきました)


昭和声優列伝 (お茶の水博士の声優 勝田久が贈る) -
昭和声優列伝 (お茶の水博士の声優 勝田久が贈る)
posted by taku at 12:00| 鎌倉アカデミア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月20日

『鎌倉アカデミア 青の時代』チラシ&公式サイト完成!

告知です。

映画『鎌倉アカデミア 青の時代』のチラシと公式サイトが完成しました。

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チラシはこんな感じ。デザインは『凍える鏡』『影たちの祭り』に続いて3度めのお付き合いとなる秋山京子さん。もうね、この人にまかせておけばっていう感じの完成度です。いつもながら感謝感謝です(画面クリックで拡大します)。

公式サイトは kamakura-ac.blue です。ドメインの末尾が「com」や「net」ではなく「blue」というのは、もちろんタイトルの「の時代」に引っかけたわけで、けっこう気が利いているんじゃないかと密かに思っているのですが、果たして何人の人が気づいてくれるのでしょうか。こちらのデザインは、既存のテンプレートをベースに私が作りましたので、チラシよりぐっと地味ですが、とりあえず読みやすさと見やすさを重視しました。

さらに、新宿K's cinemaでの公開日が5月20日(土)から26日(金)までと、これも正式に決まりました。1週間しかやりませんので、どなた様もお見逃しのないよう。連日12:30からの上映となります。ランチタイムではありますが、早お昼をお召し上がりの上、是非お越し下さい。初日には舞台挨拶も予定しています。

なお、その1週間前の5月14日(日)には、ご当地の鎌倉でも1回だけのイベント上映を鎌倉市川喜多映画記念館で行います。春風社社長の三浦衛さんとのトークもあります。その辺のことも公式サイトに書いておきましたので、どうぞよろしくお願いします。
posted by taku at 18:05| 鎌倉アカデミア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする