
『石巻片影』(いしのまきへんえい)は写真家・橋本照嵩氏が故郷の石巻で撮影した写真と、その写真にインスパイアされた春風社代表の三浦衛氏の言葉から成り立つ「写真書籍」である(写真集とは少し違う)。先月発売され、内館牧子氏が「週刊朝日」誌上で取り上げるなど、すでに複数のメディアで好意的に紹介されている。
三浦衛氏については、このブログにもずいぶん登場しているから、今さら説明の必要もないだろう。2009年から親しくお付き合いさせていただき、今まで世に出た氏の著書は『出版は風まかせ おとぼけ社長奮闘記』を初めとして、ひととおり拝読している。しかし、今回の本は、正直言って、とても気が重かった。それは、『石巻片影』というタイトルでもわかるように、この本が、あの東日本大震災の被災地にカメラを向けたものだったからである。
2011年3月11日の震災から、この3月で丸6年を迎えたわけだが、未曾有の大災害は、いまだ終息も収束もしていない。原発事故の完全な収束には1,000年も10,000年もかかると言われているし、私自身、あの日を境に、それまでの安寧な生活のすべてが壊され、永遠に失われててしまったという思いから逃れることができない。
14時46分、音もなく静かに始まったわずかな揺れは、やがて大きなうねりとなって部屋の家具の位置を変え、机上のものを次々落下せしめた。永遠に続くように感じられたあの揺れは心底恐ろしかったし、その後テレビに映し出された大津波や原発の爆発なども、すべてが悪い夢のようで、2011年のあのあたりのことは、思い出すだけで目まいを催すほどである。そんなへたれ具合だから、被災地の人たちの苦しみ、絶望はこんなものではなかったと思いながらも、現実にしっかり向き合うということができなかった。知人の中には、時を移さず瓦礫撤去のボランティアに志願して現地に車を飛ばす人道精神にあふれた者もいたが、自分には到底真似のできない行為である。要するに私は、あの大震災を、自分の中で、必死に「なかったこと」にしようとしてきたのだ。このブログでも、2011年5月以降、震災のことにはほとんど触れていない。同じころに新聞の購読も辞め、テレビのニュースもなるべく見ないようにし、情報を意図的に遮断してきた。それが、言い知れぬ不安に対抗し、精神の崩壊を食い止めるための、せめてもの自己防衛だったのである。
それは現在でも続いていて、震災に関連したものは、できるだけ視野の外に置くよう務めてきた。そこへもってきて今回の『石巻片影』である。この一冊は私にとって、ある意味で踏絵であった。しかし、最近読んだ『向上心』(S・スマイルズ著)という本に「逃げてばかりいる人に安住の地≠ヘ永遠にない」という一文があり、それに励まされて、おそるおそるページをめくったのであったが…。
多くは語るまい。人間は有史以前から、こうして数え切れぬほど、自然の猛威に激しくやっつけられ、踏みにじられ、それでもどうにか、また立ち上がり、生の営みを続けて来たのである。私は災害というものの悲惨さばかりを脳内で増殖させてきていたが、現実はそれだけではないことをこの本で教えられた。最初の方のページこそ、心細げな少女や津波の爪跡など、目をつぶりたくなる写真が出てくるものの、後半に行くにつれ、人間の持つバイタリティのようなものが強く感じられ、同時に、生き残ったものが亡くなったものを弔う、鎮魂という行為の荘厳さに圧倒される。そして最後の章を飾るのは、4年ぶりとなる田植えの情景。苦しみに耐えたあとの安らぎ、新たな命を育むことのありがたさが自然に伝わってくる。
ああ、こういうことが、人間の歴史というものなのか、絶望には絶えず希望が付き添うから、人間はどんなに辛くとも、その歴史を紡ぐのを止めなかったのだということを、橋本氏の「むきだし」の写真と、その写真群に新たな命を吹き込もうとする三浦氏の文章との混淆が、静かに、そしてはっきりと教えてくれたのであった。
しかし、こうした激しいエネルギーのぶつかりあいは、想像以上の消耗をもたらすもののようだ。三浦氏はあとがきで、「写真を前にして一時間はあっという間、夜中にガバと起き、明かりをつけて写真に向かったことも一再ならず…」と、写真に「説明文ではない文」を添える作業が思いのほか難航したことを告白しているが、その余波は出版後にも及び、あの元気すぎるぐらいだった三浦氏が、ここ最近まで、1,000年ならぬ10年に一度の体調不良の波をかぶっていたのである(春の訪れとともに本来の健康を取り戻されつつあるのは喜ばしい限り)。
私がひたすら震災の恐怖に脅え、そこから目を背けている6年の間に、三浦氏は、おのれの健康を犠牲にしながらも、それを確かに見据え、こうして心を動かす1冊の本を上梓された。どちらが「表現」にかかわる者としてふさわしい道であるかは、もはや論を待たないであろう。
間もなく「最も残酷な月」(同書4ページより)と呼ばれる4月がやってくるが、この『石巻片影』のおかげで、私もやっと、あの震災を現実と認識し、そこから一歩を踏み出す決心がついた気がする。

石巻片影