2017年05月27日

『鎌倉アカデミア 青の時代』東京公開終了

20170527.jpg

映画『鎌倉アカデミア 青の時代』、新宿K's cinemaでの公開は、昨日(5/26)、盛況のうちに終了しました。

時期はずれの猛暑(1〜3日目)や雨模様(最終日)にも関わらず、ご来場くださいました多くのお客様(鎌倉アカデミアゆかりの方も大勢いらっしゃいました)、ご登壇いただいたゲストの方々、そしてスタッフ不足を細やかな配慮でカバーしてくださったK's cinemaの皆様に、心より御礼申し上げます。

おかげさまで、これまで劇場公開した映画の中で、もっとも「作ってよかった」と感じた作品になりました。これも、『鎌倉アカデミア 青の時代』という作品を取り巻くすべての方々の熱い思いの賜物です。本当にありがとうございました。

新宿での公開は終わりましたが、大阪では6/9まで上映、その後、神戸、名古屋、横浜とまだまだ公開は続きます。これからも、どうぞよろしくお願いいたします。

■『鎌倉アカデミア 青の時代』上映情報
posted by taku at 17:18| 鎌倉アカデミア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月26日

『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(7)

20170526_01.jpg

東京公開最終日は、朝からあいにくの雨。外出には不向きな天候でしたが、それでも、ありがたいことに多くのお客様にご来場いただきました。

この日のゲストは、初日にもいらした演劇科1期生・加藤茂雄さんと、2日めにお越しの同2期生・若林一郎さんです。お二人とも2回めの登壇、そして最終日ということもあって、いつにもましてフリートークの度合いが強くなりました。

加藤さんは改めて映画をご覧になって、
「鎌倉アカデミアが二松學舎と合併するプランがあったという話のところで思い出したんだけど、1949年にアカデミアがやっていた二松學舎での夜間講座に、女優の左幸子さんが通っていたんだよね、後からわかったことなんだけど。つまり、同じ時代に同じ先生から授業を受けていたわけ。僕は左さんとは増村保造監督の『曽根崎心中』(1976)で共演しているんだけど、その時にはそういう話は一切出なかった。お互いそういう経歴だってことを知らなかったからね。もしそれがわかっていたら、いろいろ語り合えただろうに、今思うと残念だったね」
とのこと。実は『曽根崎心中』は、ごく最近DVDで観たのですが、たしかに左幸子(宇崎竜童の母親役)と加藤さん(宇崎竜童の本家の主人役)とはがっつり共演しています(さらに、別の場面で映画科1期の山本廉も出演)。気がつかないうちに、アカデミア出身者同士が同じ現場で仕事をしていた、というのも、少なからずあったことかも知れません。

また、加藤さんは初日の舞台挨拶の時から右手の指に包帯を巻いていたので、それについてお尋ねしたところ、ボタンエビを網からはずす仕事をしている時、爪の間に菌が入って、それがなかなか治らない、とのこと。92歳の「現役漁師」ならではの名誉(?)の負傷といえるでしょう。前の日も網をやってきた、とのことだったので、
「ずばり、その元気の源、健康の秘訣は?」
とお聞きしたところ、
「いや、いろいろ病気はしてるんですよ。大腸がんもやったし、脳梗塞もやったし。その時診てもらったお医者さんがよかったのかね。今でも『オレの薬飲んでたからこの程度ですんだ』とかお医者に言われるけど、実際、10年経ったけどどっちも再発してないからね。余計なものが体から去っていって、身が軽くなったからかな」
と、いろいろと意外なお答え。
「長生きの秘訣はよく笑うこと、と言われますけど、加藤さん、いつも楽しそうにしてらっしゃって、よく笑うじゃないですか。そういうのが体にいい影響を与えるんじゃないでしょうか。私も、加藤さんと会って話すと元気が出ますよ」
私は、思ったままを話しました。実際、人間の一生というのは、いいことと悪いことがだいたい半々で起こるようになっているようですが、それを楽観的に受け取るか、悲観的に受け取るかで、人生そのものが大きく変わってくるように思います。そして、この日のゲスト2人は、いずれも人生を楽観的に、ポジティブに受け取って今日までほがらかに生きてきた方のように見受けられました。

20170526_02.jpg

「若林さんも、加藤さんに負けず劣らず、実際には割と逆境続きだったのかも知れませんが、いつも明るくお元気でいらっしゃいますよね」
と、若林さんに水を向けると、
「最初にアカデミアを受験した時に、『演劇では喰えませんよ』と言われてますからね。最初から逆境は覚悟の上でしたけれど、そう言われて入ったアカデミアのおかげで、はしなくも一生文筆で喰うことができました」
と、人生に希望が持てる嬉しい話が。

日本でテレビ放送が始まったのは1953年ですが、そのころ嘱託として日本テレビの開局に関わっていた青江舜二郎(私の父です)に呼ばれて、試験放送用番組の台本を何本も書いたそうです(ドラマではなく、「パトカーの1日」などというフィルム撮りのルポルタージュ作品だったとのこと)。
また、劇団かかし座がアカデミアの演劇サークル「小熊座」から生まれたというのは前述したとおりですが、NHKのテレビ放送開始直後、連続影絵劇の台本を書いていた前田武彦さんがほかの仕事で忙しくなったため、アカデミアつながりで、若林さんがその後任として台本を書くことになりました(それから60余年、今でもかかし座には台本を提供されています)。
この2つのことから、放送業界にコネクションができ、以来、若林さんは多くのテレビ台本を手がけることになるのですが、さらに、前進座の文芸部長だった津上忠さん(演劇科1期生)の勧めで、青少年劇場(児童劇)の台本にも手を染めるようになります。まさに、アカデミアのご縁で花開いた作家人生と言っていいでしょう。

奇しくも、この日は津上忠さんのご息女も会場にいらしており、加藤さんからは、当時だいぶ年長だった津上さんのことを、当時16歳だったいずみたくさんの母親が、学校の先生だと思って丁重に挨拶したという逸話などが披露されました。

他にも加藤さんからは、在学中に2回、演劇の巡回公演で大日本紡績工場(ユニチカ)の工場を回り、その売り上げが学校の運営資金に充てられたという、映画では語られなかったエピソードなどが披露されました。その公演に加わった学生は、ギャラこそなかったものの、学費免除という特典があったそうで、加藤さんは2、3年生の時には学費を払わなかったとのこと。まさに、既成の大学の枠には収まらない学校であったことがしのばれます。

最後に若林さんが、
「光明寺で私の人生は始まりました。入学の時に見た、光明寺の桜は忘れられません。この映画で、その光景にもう一度出会えたことを本当に嬉しく思います」
としめくくられました。

komyoji_hondo_sakura.jpg
posted by taku at 19:14| 鎌倉アカデミア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月25日

『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(6)

20170525.jpg

公開6日めのゲストは、『ムーランルージュの青春』監督の田中じゅうこうさん。実は、『ムーラン〜』こそ、『鎌倉アカデミア 青の時代』を完成へと導いてくれた大切な里程標(マイルストーン)であり、それを作った田中さんはまさに大恩人、どうしてもトークゲストとしてお呼びしたい人物なのでした。やっとそれが実現するとあってでしょうか、劇場に向かう小田急線の中で、『ムーラン〜』のパンフレットをめくっているうち、今から6年前のことがいろいろ頭をよぎり、自然と涙があふれてとまらなくなってしまいました(これは恥ずかしい!)。

当然、トークの最初は、そのあたりの事情を説明するところからスタート。田中さんとの出会いは、2011年秋、『ムーランルージュの青春』が、この新宿K's cinemaで公開され、私が一観客として観たことから始まりました。普段は映画を観ても、いちいちそれをブログに書くなどほとんどしない私ですが、この作品はいろいろ感じるところがあって ブログに感想をしたためたところ、次の日、私のyoutubeチャンネルに田中さんから書き込みがありました。そこからメールのやりとりが始まって、忘れもしない11月10日、かつてムーランルージュ新宿座があった場所(その時には国際劇場というピンク映画館、現在は建て替え中で、パチンコとドン・キホーテになる予定)の前で初めてお会いし、初対面にも関わらず、喫茶店から飲み屋へと場所を移しつつ、終電時刻まで話に花を咲かせたのでした。

「『ムーランルージュの青春』には、アカデミア演劇科1期生の津上忠さんがインタビュー出演していて、明日待子さんにまつわる印象的なお話をされるんですよね。それで、津上さんは僕もアカデミアのつながりで何度もお会いしたことがあって……というような話を最初に会った時にしましたよね。田中さんは、鎌倉アカデミアのことは以前からご存じでしたか?」
と、私が質問すると、
「名前だけはね。『ムーラン〜』の公開のプロモーションで永六輔さんのラジオ番組にゲストで出たんですけど、その時永さんが『日本のテレビの礎を作ったのはムーラン、アカデミア、トリロー(三木鶏郎)グループだ』っておっしゃったんです。それで、鎌倉アカデミアっていう学校のことを知ったんですけど、ムーランにしても、アカデミアにしても、そこの出身者が全盛期のテレビや映画に実に多く関わっている。そういう作品にわれわれの世代は大変な刺激を受けたわけですよ。たとえば『全員集合』なんかにしても、コントがあって、歌があって、という構成は、まんまムーランの舞台でやってたことですからね。そういう、自分たちが影響を受けた作品のルーツを探るっていうのは面白いですよ」
とのお答え。
「そういうお考えをお持ちだったからでしょうね。田中さんは、僕が、鎌倉アカデミアのドキュメンタリーを作ろうかどうしようか、結構迷ってる、みたいなことを言ったら、『絶対やった方がいい』と。それで、すごく具体的なアドバイスを、精神的なところから実務的なところまで、本当に丁寧にお話ししてくださったんですよ」

私は、その時に田中さんがお話になった内容のメモ(翌日、記憶を頼りに書き起こしたもの)を持参してご本人に見せました。
「こんなこと話したっけ? ほとんど覚えてないなあ」
とのことでしたが、ノンフィクションは初めてだった私が、『影たちの祭り』『鎌倉アカデミア〜』という2本の記録映画を世に出すことができたのは、間違いなく田中さんのアドバイスのおかげです。
その内容の一部を紹介しますと、

●5人くらい会って話を聞けば、だいたいの輪郭というか、それ以降の方向性がおのずと見えてくる(トータル20人に会った)。

●何度か困ったと思った時があったが、そういう時には決まって救いの手が差し伸べられる。「ムーラン」というと、ありがたいことに関係者が手を貸してくれる。

●『ムーラン〜』は家族のつながりの映画。親から子、孫への継承…

●記録映画を撮ることで、生身の人間を観察する。それは、劇映画の演出にも必ず活かされる。ベンダースもトリュフォーも、劇映画の合間にノンフィクションを撮っている。

最初のアドバイスにしたがい、2012年以降、どうにか5人の関係者にインタビューを行ったところ、たしかに、おおよその方向性が見えたような感じがして、そして、最終的には『ムーランルージュの青春』と同じ20人の方のインタビューを行うことになりました。また、舞台の再現映像やゆかりの場所への再訪、というシークエンスを入れたのも、明らかに『ムーランルージュの青春』の影響です。困った時には、「アカデミア」のことなら、と何人もの人が助け船を出してくれましたし(劇団かかし座の方たちがいい例)、ご本人だけでなく、家族の方にも協力をしていただきました。

ちなみに、『鎌倉アカデミア〜』は、創立60周年記念祭をビデオで記録することから始まっており、そのあとのことはかなり漠然としていたのですが、『ムーランルージュの青春』もまた、最初から映画にするつもりはなかったそうです。もともとは『カッパノボル』という劇映画(かつてムーランの芸人だった老人を主役にしたドラマ)を作るための取材で記録映像を回していたところ、美術の中村さんという元ムーランのスタッフが亡くなり、その葬儀の席で関係者から、「若い監督(田中さんのこと)が今、ムーランの映画を作っています」と紹介をされたため、後に引けなくなったのだとか。一方こちらのアカデミアも、伝える会のスタッフから、「いつかは撮影しているものをまとめて発表するんでしょ?」などと粉をかけられ、いつまでもお茶を濁すわけにもいかなくなって奮起したような経緯があります。年長者のアドバイスによって、やらざるを得なくなったところは、この映画と似ているように思いました。

トークの後半では、かなりのシニア世代の方々にインタビューした経験を持つ者同士ならではの苦労話も出ました。
「インタビューでは、基本的にみなさんすごく若々しく喋ってて、80〜90代のおじいちゃんおばあちゃんていう感じがしないんですよね。若いころの話をしているうちに、心もそのころに戻るからなんでしょうけど、その一方で、やっぱり年齢相応というか、話が噛み合わなかったり、ちょっと認知症が入ってて、同じ話が反復しちゃうとか、そういう方はいませんでしたか?」
と私が聞くと、
「ああ、そういうのはどうしてもね。喫茶店に入ると、カメラを回す前からいきなり喋りだすとか。もう話したくて仕方ないんですよね。『あ、ちょっと待ってください』って、そういう時はこっちが慌てちゃうんだけど。あとはそう、若干認知症が入ってて、一定の時間でループしちゃう人はいましたね。でも、そういうのは仕方ないですよ。ループするまでで使える話がひとつでもふたつでもあればいいわけで、あとは、こっちが聴きたい話が出るまではひらすら待つ」
田中さんはどっしり構えた感じの方なので、あまり現場での動揺はなかったのかも知れませんが、せっかちな私は、つい、自分が答えて欲しい方向に話を誘導しようとしたことが一度ならずあった気がして、反省しきりでした。
また、
「テレビのドキュメンタリーなんかは基本的に二段構えなんですよ。最初に、リサーチャーと言われるスタッフが話を聞きにいって、それをもとに構成台本を作って、それから改めてクルーを連れてインタビューを撮りにいく。でも、『ムーラン〜』なんかでは、2回以上インタビューしたこともあるんだけど、すべて最初のインタビューを使っています。やっぱり人間てのは、一番伝えたいことを最初に喋りますからね」
と、大変納得のいくお話もうかがいました。私の場合も、インタビューはすべて「一期一会」の精神で臨み、ナビゲーター的な役割の加藤茂雄さん以外、複数回の収録は行っていません。録音状態が悪かったりして、撮り直したい箇所もいくつかありましたが、「もう一度あの話をしてください」とお願いしたとしても、どうしても鮮度が落ちるように思えたからです。

トークの最後には、今年の2月に亡くなった鈴木清順さんのお話も出ました。最初に新宿で会った時から、「清順さんのインタビューは、多少の困難はあったとしても絶対に撮った方がいい。清順さんが出てるのと出てないのとでは、作品の厚みが全然違うから」と力説していた田中さんにとっては、やはりひときわ印象的な場面だったようです。

「清順さんについては、それほど裏技を使ったわけではなくて、とにかく、ダメもとで交渉して、そしたら、今の奥様が電話で、『このごろは相手がNHKでも朝日新聞でも一切お断りしています』とおっしゃるんで、『それじゃあしょうがないですね』と、あっさり引き下がったんですが、それから数時間後にメールが来て、「短い時間なら受けてもいいと申してます」と書いてあったんですぐにまた電話して、その3日後くらいにご自宅にうかがったんです。どういうご心境の変化だったかは、もはや永遠の謎なんですが」
と、私が2015年当時のことを思い起こすと、田中さんは、
「やはり、通った期間は短くても、清順さんにとってそれだけアカデミアは特別な存在だったんだと思いますよ」
と推測され、続けて、
「アカデミアの箴言に『幾何学を学ばざるもの…』っていうのがあるでしょう。幾何学っていうのは数学ですよ、数学っていうのはすなわちお金。これは僕の解釈ですけど、その幾何学っていうのが、清順さんの場合、奥さんだったんじゃないかな? ずいぶん年上の奥さんで、アカデミアの同級生ですよね。その奥さんが、新宿で『かくれんぼ』っていうバーをやって、清順さんの不遇時代(日活を解雇されてからの約10年)を支えたんですよ。そのころ調布に住んでた清順さんは毎日車で送り迎えをして…。もしも、清順さんがあの奥さんにアカデミアで会っていなければ、『ツィゴイネルワイゼン』も『ピストルオペラ』もなかったかも知れない」
うーん。そこまでは考えつきませんでした。でも、おしどり夫婦として知られた清順さんと最初の奥様との出会いの場所が、鎌倉アカデミアなのは紛れもない事実です。
「奥様のどこに魅かれたのですか?」
という私の質問に、
「まあ、いい女だったんだよね」
とはにかみながら答えていた笑顔が目に浮かびます。
清順さんは、昨年、映画の完成をご報告した時にはお元気だったのに、年末から体調を崩され、公開を待たずに亡くなるという、大変残念な結果となりました。ほかにもインタビューに答えてくださった数人のアカデミア出身者が亡くなっていますし、それはムーラン関係者も同様だそうです。でも、記録された姿と声は、そのありし日を確実に後世に伝えてくれます。映像の持つ大きな力というべきでしょう。

最後に田中さんは、
「最近ムーランについて若い人が興味を持って本を出したり(映画公開後5冊の関連本が出版)、今年の半年だけで3本の芝居が上演されたりしています。記録映画はある意味テキストで、次の世代の人の研究材料になればいいと思っています。これは『ムーラン〜』公開時(2011年)のことですが、海城学園の中学生がムーラン研究をしたいと申し出たので、ムーランの元踊り子さんを紹介して、彼らがインタビューをして、学校の機関紙に特集記事を掲載しました。80歳の元踊り子さんの話を14歳が聞いたわけで、70年後、その子が84歳になった時、『俺はムーランの踊り子の話を聞いたことがある』と人に言える。ムーランは2011年の時点で生誕80年なので、70+80=150年前の話をできる人ができたということです。それは、まるで北斎の晩年(1840年代)に14歳の子どもが話を聞いているとして、その子が80歳代になる大正時代に「俺は北斎に会った」と言える。もし大正生まれの森繁久彌さんや明日待子さんがまたそのおじいさんに会っていると、『私は、北斎に会ったという人に北斎の話を聞いた』と言える。さらに80年。70+80+80=230年後の僕らが森繁さんや明日さんから、北斎の実像を聞くことができるんです。これはすごいことです。こういう風に、若い人に伝えてゆくことが、一つの文化の継承になるということです」
と、大変に含蓄に富んだ言葉でトークをしめくってくださいました。
昔のことを語るのは、一見回顧的なようですが、実は、文化を次世代に伝え、よき未来へとつなげていく、大変建設的な作業なのです。田中さんは、『ムーラン〜』の取材テープは、ゆくゆくは早稲田の演劇博物館に寄贈するつもりで、後世の資料になればいい、とのこと。苦労して集めた資料や取材テープというのは、とかく自分の手元に囲い込みたいものですが、田中さんはもっと視野を広くお持ちで、公共性ということを常に念頭に置かれており、その姿勢には、深く頭を垂れるばかりです。

トーク終了後は、田中さん、そしてそのパートナーであるカメラマンの本吉修さんと恒例の「らんぶる」でロングトーク。本吉さんとは帰りも同じ小田急線だったのですが、清順さんとは何本もテレビの仕事でご一緒したとのことで、ロケ先でのエピソードもいろいろとうかがいました。やはり広いようで狭い業界です。
posted by taku at 21:06| 鎌倉アカデミア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月24日

『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(5)

20170524_01.jpg

今日のトークゲストは劇団かかし座の女優・澤田晴菜さん。映画中の再現映像で「春の目ざめ」のヒロイン・ヴェンドラ役を演じてくれた方です。映画の中でも紹介していますが、劇団かかし座というのは鎌倉アカデミアの演劇サークル「小熊座」から生まれた劇団です。そういうご縁のある劇団と、どうにかコラボできないものかとあれこれ考え、再現映像出演という形でそれが実現したのでした。

ここまでのイベントゲストを振り返ると、初日は90代3人、2日めは80代2人、3、4日めが60代と、全員私より年上でしかも男性です。連日結構緊張してトークに臨んでいました。それが5日めにして一気に若返り、舞台に現れたのは20代の麗しい女性! 砂漠でオアシスを見つけた心境というと大げさですが、ここに来て少し肩の力が抜けた気がしました。
実はこの日は偶然、1948年当時、実際の「春の目ざめ」でヴェンドラを演じた演劇科2期生のMさんが観客席にいらしていて、新旧2人のヴェンドラが同じ場所にいるという、ちょっと不思議なめぐり合わせとなりました。

まずは、この日初めて映画全体を観た感想をうかがいました。澤田さんも2年前までは大学生だったので、当時のアカデミアの学生たちとほぼ同年代です。
「鎌倉アカデミアの名前や概略は知っていたんですが、実際に映像を見て、当事者の方たちのお話をうかがって、ああ、そういうことだったのか、と、初めて全体像がつかめました。楽しい学校だったんだろうなあ、今もしあったら自分も通ってみたかったなあ、などと考えながら観ました」

澤田さんとのトークは、撮影時のことに移ります。2016年1月に再現映像の撮影が正式に決まり、同じ月に劇団内でオーディションが行われたこと。若手俳優約10人に「父帰る」と「春の目ざめ」の抜粋台本が渡され、その時澤田さんは、どちらかといえば「父帰る」のおたね(長女)より「春の目ざめ」のヴェンドラをやりたいと思ったこと、などが語られました。

そしてヴェンドラ役に決まった澤田さんは、最初の稽古の日に、「春の目ざめ」の原作台本を読んでみたい、と私に申し出ました。抜粋台本は数ページですが、原作台本は全部上演すれば3時間近くになる大変長い戯曲です。私自身、かなりしんどい思いをしながら読んだのですが、澤田さんはそれをきっちり読了して稽古に臨みました。

「原作台本をお読みになって、どうでした」
「そうですね。難しい言葉がいっぱいでてきて、時代を感じましたけど、19世紀のドイツの、キリスト教がベースにある物の考え方とか、面白かったですね」

harumeza01.jpg
「春の目ざめ」のワンシーン

たしかに「春の目ざめ」は、キリスト教にもとづく禁欲主義的な倫理観が根底にあり、その大人がふりかざす倫理観を、早熟な青年・メルヒオールが壊していく、ある種の反逆劇であるといえます(そしてヴェンドラは、その犠牲になってしまう)。そして、もう1本の「父帰る」も、家父長的な倫理観に対する長男の反逆を描いたもので、そういった「レジスタンス演劇」を、鎌倉アカデミアの学生が上演したというのは、そのころの時代背景を考え合わせると大変興味深いことに思えます。

「ヴェンドラを演じるに当たって苦心したことってありますか?」
「通常の舞台ではお芝居を通しで(最初から最後まで)演じることが当たり前で、ハイライトシーンだけを、「抜き」で演じるという経験はほとんどなかったので、役作りには苦労しました。演じられていない部分も演じたという前提で、その先を演じなければいけないので、その手助けに、原作を何度も読み返して感情を追いかけたりして…」
メルヒオールを演じた賀來俊一郎さんは劇団の数年先輩で、アドバイスしあうことが多かったとのこと。実際の「春の目ざめ」でも、メルヒオール役はMさんの1年先輩の増見利清さん(俳優座の演出家)でした。
「抜粋台本じゃなくて、オリジナルの台本を読みながら、ここがわからない、ここってどう思うのかな、なんて、全体の稽古が終わった後もスタジオに残って、夜の9時過ぎまで賀來さんと意見交換をしてました。原作台本には、それぞれの親との関係なんかも描かれているので、それをふまえて、うちの親はどうだとか、そういう突っ込んだ話もしましたね」
そんな役の掘り下げまでしていたことは、初めて聞きました。でも、その甲斐あってか、奥行きのあるヒロイン像が出来上がったように思います。もちろん、それは他のキャラクターにも当てはまるでしょう。
この映画における再現映像は、当時演じられた舞台の「本番の様子」を再現したものなので、ある程度芝居がこなれていなくてはなりません。初々しさよりは、ある程度定まった感じ、が必要だと思い、通常の再現映像とは比較にならないくらい時間をかけました。「父帰る」「春の目ざめ」ともに本読み1日、立ち稽古2日、収録(本番)1日という贅沢なスケジュールで、お忙しい中、それだけの時間を捻出してくださった劇団かかし座のみなさんには、この場を借りて、心から御礼を申し上げたいと思います。

「かかし座さんの演目は大半が児童劇なので、当然ラブシーンはありませんよね。ですから澤田さんもそういうシーンは初体験だったはずで、多少ドキドキしたのでは?」
とうかがったところ、
「でも、芝居なので」と、当時の学生さんとまったく同じお答え。
「どうなるんだろう、ちゃんとできるかな、と最初は不安に思ったりしたんですけど、本番の時は冷静に、芝居としてやれましたね」
とのこと。もちろん、メルヒオール役の賀來さんの好リードもあってのことでしょうが…。
「ただ、干草場のシーンでは、藁(わら)が服についてかゆかったですね。動き回ると藁が粉になって舞うから咳込んだりもして…」
「当時を知る方の話によると、実際の公演では、藁は再現映像よりずっと多くて、役者の体が隠れるくらいの量だったそうです」
「それじゃあ、もっと大変だったかも知れませんね」

harumeza_caststaff.jpg
撮影終了後にスタッフ・キャストで記念撮影(2016年2月13日)

話題はふたたび、鎌倉アカデミアの校風のことに。
「自由な学校で、毎日楽しかったんだろうと思います。『みんなで作っていく』ということができたのは、時代も環境もよかったからなんでしょうね。私の通っていたのは4年制の女子大の音楽学部で、先生方の指導も親身だったし、実技試験なんかでは男子がいないので、男性役はプロの先生が演じたりして、かなり先生と生徒の関係は親密だったと思うんですけど、やっぱり鎌倉アカデミアとは違いますよね。お寺を間借りした学校、というこじんまりした感じだから可能だったような気がします。規模が大きくなりすぎちゃうと難しいんじゃないでしょうか」

また、ご自身が在籍するかかし座の原点が鎌倉アカデミアの演劇サークル「小熊座」であることに触れ、
「現実には、お客様の要望、観る側の要望で演目が決まってしまうことが多いと思うんですけど、小熊座では学生たちが、自分たちの演じたいものを選んでどんどんお客様の前で演じていた、というお話が印象的でした。でも、そういうのが演劇の原点なのかも知れないですね」
としめくくられました。そういえば、かかし座代表の後藤圭さんも、「まず観る側が楽しんでないとね」とことあるごとにおっしゃっていますが、それはそのまま、鎌倉アカデミアで培われた精神なのかも知れません。

20170524_02.jpg

ロビーで記念写真を撮ると、澤田さんはバタバタと高円寺に移動。これから知人のバレエの公演を観て、その後はすぐ 岐阜県下呂の劇団宿舎に戻るそうです。かかし座は2008年から下呂温泉合掌村の「しらさぎ座」で、影絵劇のレギュラー公演を行っており、澤田さんもこの春からそのメンバーとしてほとんど下呂に駐在しているのですが、今日(水曜)は休演日のため、新宿に来ることができたのです。そして明日から28日まで、また1日3回のステージをこなすとのこと。連日本当にお疲れ様です。また、「しらさぎ座」のほかのメンバーの方々も、お忙しいところご来場ありがとうございました!(今回の写真画像は、井ノ上舜雪さん、 細田多希さんにご提供いただきました)
posted by taku at 19:07| 鎌倉アカデミア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月23日

『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(4)

20170523.jpg

今日のゲストは、作家・山口瞳(文学科1期生)の長男でご自身も作家の山口正介さん。山口さんは、ご両親が鎌倉アカデミア出身だっただけでなく、祖父の山口正雄も学校の専務理事(父兄会長)を務めており、先代、先々代がともにアカデミアと深く関わっていらっしゃいます。もちろん、その当時はまだ生まれていないので、詳しいことは知らないとのことでしたが、ファミリーヒストリーともからみあう学校のことだけに、映画も興味深くご覧になったようでした。

祖父・山口正雄については、
「この映画ではずいぶん好人物のように描かれていたけれど、自分の印象では、あのころ学校の理事を引き受けるなんていうのは、『学校経営は儲かる』という計算があってのことだったと思います。若いころから、会社を作ってはつぶし、大儲けしては大損して、という浮き沈みを繰り返していた人のようですから。起業家気質というのかな。だから、自分の子供たちの通う学校だから一肌脱ごうというだけではなく、そろばん勘定も大いにあって引き受けたんだと思いますよ。それが映画では、ずいぶんいい人のように描かれていて、ありがたかったんですが」
とのこと。正雄の破天荒な生き方については、息子の山口瞳が『家族(ファミリー)』『父の晩年』など複数の著書に書き残しています。当時近所だった川端康成から、妻の葬式を理由に借金をして、それを踏み倒したなどという豪快なエピソードも『小説・吉野秀雄先生』の「隣人・川端康成」に出てきますので、ご興味のある方は是非そちらをお読みいただければと思います。

yoshinohideosensei.jpg
山口瞳が鎌倉アカデミア時代を綴った『小説・吉野秀雄先生』(1969年・文藝春秋)

そんな山口正雄ですが、正介さんが物心ついたころから中学生くらいまで、同じ家に住んでいたそうです。当時は糖尿病で隠居の身だったそうですが、そのころの思い出をうかがったところ、
「じいさんは映画にも登場した『停電灯』の開発もそうだけど、発明好きでね。ある時、布にスプレーするとその布が燃えなくなる、という薬品を開発したっていうんですよ。それで僕が瓶に入ってた液体をハンカチにつけて、火をつけたら普通に燃えちゃったんで、『おじいちゃんダメだ、これ燃えちゃうよ』って言ったら、何とも不機嫌そうな顔をしてましたね(会場内爆笑)」
停電灯も、アイデアは素晴しかったのに思わぬところで失敗して実用化には至らず、それが災いして山口家は鎌倉の邸宅から去っていくことになります。正雄はどこかツメの甘い性格だったのかも知れません。しかし、戦前の発明では、ドラム缶に車輪をつけて、移動式の簡単なガソリンスタンドを作ったことがあり、これは成功例だったそうです。

正雄のことで思いがけず話がふくらんでしまったので、そろそろ肝心のご両親のお話しも、と水を向けたのですが、正介さんいわく、
「親父は鎌倉アカデミア時代のことを喋るのは嫌みたいでしたね。おふくろと恋愛していたころのことが恥ずかしかったんでしょう。直接話を聞いた記憶はほとんどありません。文章に書くには書くんですがね。一方の母親は、青春の思い出ですから、60周年記念祭や伝える会で鎌倉に行くと、光明寺のそのへんにパパがいたのよ、とか、あそこが最初にデートした場所で、とか、息子としては聞きたくないですよね。もういい加減にしてくれ、って感じで…」
やはり男性は基本的にこういう話題にはシャイなようで、瞳・治子夫妻のなれそめについては、前述の『小説・吉野秀雄先生』や、山口治子さんの『瞳さんと』をひもとくのがいいように思いました。その一方、
「この映画の冒頭に、60周年記念祭のトークの映像が出てきますけど、考えてみると、これがうちの母親の、最後の映像記録なんですよね」
と、2011年に亡くなられた治子さんに思いを馳せるひと幕も。

また、正介さんは最近、『山口瞳電子全集』刊行のため、その全著作にあらためて目を通していた際、生前未発表作品の中に、鎌倉大学における初代学校長解任劇の内情が書かれているものを見つけたということで、その部分のコピーを持参して朗読してくださいました(文中では「湘南大学校」と記述)。

トークではほかにも、瞳・治子夫妻が1949年に結婚した時の仲人は三枝博音校長が務めたこと、引出物はバナナで、それを三枝校長が珍しがった、そのくらい物のない時代であったこと、瞳が一時期、出版社(国土社)に勤めたのも、三枝校長がそこの顧問だったからということ、等々、三枝校長との浅からざる交遊エピソードが披瀝されました。瞳は1948年の秋以降はアカデミアに通っていませんが、その後も吉野秀雄や高見順、三枝校長らとの行き来は続いており、山口瞳にとっても鎌倉アカデミアがまさに、作家としての「原点」であったことがうかがえました。

ここからは余談ですが、正介さんは作家の家の一人息子、私も、知名度はぐんと落ちますが、やはり同じように劇作家の一人息子なので、うまく言えませんが、「作家」という大変やっかいな人種の家族として生きる者に共通の「匂い」のようなものが強く感じられ、お会いするのはまだ2回めなのに、勝手に、大いに親近感を抱いてしまいました。親の個性が強烈だと、次の代はいろいろ苦労するものです。ね、正介さん。
posted by taku at 19:56| 鎌倉アカデミア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月22日

『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(3)

20170522_01.jpg

今日も関東地方は太陽がギラギラと照りつけ、初日以来3日連続の夏日となりました。
「シニア層にも快適にご覧いただけるよう、暑くもなく寒くもない5月に」と、劇場支配人とも相談して5月に決めたというのに、ほとんど真夏の陽気です。どうして暦どおりの気候になってくれないんだとアゴを出しつつ劇場に迎えば、週明けの割には入場者数がそれほど下がっておらず、ほっと胸を撫で下ろしました。

今日のゲストは、横浜市立大学国際総合科学部教授の高橋寛人さん。

実は、鎌倉アカデミアと横浜市立大学とは非常に関係が深く、1952年に横浜市立大学に文理学部が生まれた際、三枝博音、西郷信綱、早瀬利雄、田代三千稔、加藤衛、古沢友吉、以上6人の鎌倉アカデミア教授講師陣が招聘されています。ちなみにこの年三枝博音は60歳、そして同大学の学長になったのは1961年秋、69歳の時でした(その翌々年11月、いわゆる「鶴見事故」に遭い急逝)。

高橋さんいわく、
「私は教育学を専攻していたので、学生の時から鎌倉アカデミアのことは、名前だけは知っていました。戦後の教育史について書かれた本には、鎌倉アカデミアのことが出てくるんです。その後、高瀬善夫さんの書かれた本を読んでさらに関心が深まりまして、ですから、横浜市立大学に奉職が決まった時には、鎌倉アカデミアにゆかりの大学で教えることができるということで、大変光栄に感じたものです」
そして、市立大学が鎌倉に近いということもあって、2006年の「創立60周年記念祭」に参加、その翌年から毎年行われた「伝える会」にも、ほとんど顔を出して来られたとのこと。私よりも出席率が高いというのは驚きです。
「ただ、今の市立大学の教師も学生も、あまりそういうことを知らないんですよ。今から4年前の2013年が、三枝先生の没後50年で、その時に小冊子を作ったり展示と講演を行ったりしたので、鎌倉アカデミアとのつながりは少しは認知されたかと思いますが…」
私は2013年の没後50年イベントには鎌倉市中央図書館の平田恵美さんのお誘いで参加し、そして翌2014年に「伝える会」で高橋さんがスピーチをされたのも聴いています。それらを通じて、鎌倉アカデミアのスポークスマンたるにふさわしい先生と見込んでいたので、この映画の公開が決まった時、高橋さんが担当する授業の中で映画の紹介をさせてもらえないかとご相談し、そして先月下旬の「人間科学論」の授業の際、予告編と本編の一部(前半)を学生さんに観てもらったのですが、その結果は、驚くべきものでした。
「授業のあとに、10分くらい学生に感想文を書いてもらうんですが、みんな、本当にびっちり書いてあるんです。普段は5行くらいなのに」

学生さんたちはほとんどが19〜20歳で、当時の鎌倉アカデミアの学生と同じ年齢だけに、感じるところも多かったのでしょうか。82名の学生さんたちの感想文を、私もすべて読ませていただき、その中の一部を抜粋して、この場で紹介させていただきました。

●学生が「学べる喜び」を感じていたのはもちろんのこと、教授も「教えたいことを教えられる喜び」を感じていたという話に感銘を受けた。

●インタビューに答えていた方々が皆さんとても熱意を持って語られていたことが印象的だった。

●自分が90歳になった時、どれほど大学生活を語ることができるだろうかと思いました。鎌倉アカデミアに出演している方々のように密度が濃く充実した大学生活を送りたいです。

●時代の流れに影響されずに教育を続けていくことは難しい。やはり時代が時代だけに、鎌倉アカデミアのような学校は援助が受けにくかったのだろう。

●壇上に上って、上から指導するような立場でなかった、など、異常なまでに民主化されていた。就職に直結するとはあまり思えないような学問を積極的に学ぼうとしていたことにも驚きました。でもよく考えればこのように民主化され、自分の学びたいことを自由に学べる場こそが、大学のあるべき姿なのだと思います。このような理想的な学びの場が、時代の流れに淘汰されてしまうことは本当に残念です。

●そこに通った人々の学びたいという意欲はとても素晴しく、現在自分たちが当たり前のように大学に通うことができ、授業を受けられていることに感謝しなければいけないと感じました。

「予想以上の教育効果でした。熱を感じましたね。私は、昔の話として、歴史として聞いてもらって、現在、そういう流れを汲む横浜市大に学んでいることに誇りを持って欲しかったんですけど、彼らは、現在の『自分の問題』として、『学べる喜び』を感じてくれたんですよ。受身ではなく、自分たちの学ぶ場所を自分たちで考えるということの大切さに気づいてくれたというのは、何より嬉しいことです」
そう語る高橋さんの口調もまた、熱を帯びていました。

順序が逆になってしましましたが、この日初めて映画をご覧になった高橋さんにご感想をうかがったところ、
「『伝える会』なんかでも、話題になるのは光明寺時代ばかりで、今回、大船時代の話を初めて聞けたのが新鮮でした。大船で入学した3期生たちは、大船時代を案外評価しているんですね。大船というと、ボロ校舎で雨漏りがひどくて…という話ばかり聴かされていたんで、その辺は少し意外でした」
とのこと。たしかに、3期生以降は光明寺時代を知らないので、校舎の状態など比べようがありません。わずか4年半の歴史しかないアカデミアですが、その原風景は、入学年度によって大きく異なるのです。
「三枝先生が、訪ねてきた学生に自らお茶を点ててふるまうという話がありましたね。大変貧しかったが、心は豊かだったという当時の状況が映画から伝わってきました。そうした学生との深い結びつきが、閉校の際、ひとりひとりの学生の転学のために奔走するという三枝先生の行為につながるんだと思います」

また高橋さんは、三枝校長の戦前の経歴にも言及します。三枝は唯物論研究会に関わっていたため1933年に治安維持法で逮捕。1ヵ月拘禁され、釈放後も、大学等の教育機関で教えることができませんでした。それからは在野の学者として執筆や科学技術史書の編纂などを続けていたところ、終戦で世の中が激変。GHQの方針もあって教育現場に戻ることができたものの、制度化された既成の大学に対しては、どこかで批判的なまなざしを注いでいたのではないか――。それが横浜市立大学における入学式の挨拶などからも読み取れる、と高橋さんは指摘します。
「横浜市立大学は、小規模とはいえ大学ですからね。大学として存続するにはいろいろな縛りがあって、鎌倉アカデミアとはだいぶ違います。三枝先生の授業は、アカデミアでは大変人気があったそうですが、市立大学での三枝先生のことを知っている人に話を聞くと、授業も、受講者は案外少なかったそうです」 
とのお話は、鎌倉アカデミア時代の、みんなに慕われ愛された三枝校長の逸話しか知らなかった私には、大層意外なものでした。しかしそれは、貧乏だったがせめて精神は豊かにありたいと願った終戦直後と、物質的繁栄を最優先した高度経済成長期との時代の違いも、無視できない要因のように思えました。

しかし、今や高度経済成長もはるか昔の話で、ふたたび精神の豊かさを求める時代に回帰しているのを感じます。横浜市立大学は、たしかに小規模ながら大学ではありますが、私の印象では、キャンパス全体もこじんまりしており、食堂もたったひとつ。学長も学生もその同じ食堂で昼食を取るところなどは、かなり鎌倉アカデミア的です。通っている学生さんたちも内面重視の落ち着いた感じで、是非、この学び舎でアカデミア的なるものを、継承、発展させていって欲しいと感じました。

高橋さんは最後に、
「最近、人文系の学部学科はなくしてもいいんじゃないかという暴論もあり、文系学部は大変風あたりの強い時代を迎えています。そういう時代だからこそ、鎌倉アカデミアを再検証するのは大いに意義のあることだと思います。大学というのは、すぐ役に立つことばかり勉強するところではないんです。人生も、人間の歴史も長いわけで、今、役に立つものが、10年後にはまったく役に立たなくなっているかもしれないし、反対に、役に立たないと思われていることが、いつか大変役に立つかもしれない。最終的には、内面からの渇望、自発的な学びたいという意欲を信じていくほかはないわけで、それがいかに大切か、考えるきっかけを鎌倉アカデミアは与えてくれると思います」
としめくくられました。
posted by taku at 20:37| 鎌倉アカデミア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月21日

『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(2)

20170521_01.jpg

公開2日めのトークゲストは、演劇科第2期生の声優・川久保潔さん(中央)と劇作家・若林一郎さん(左)のお二人。

私の亡父・青江舜二郎は1946年の鎌倉アカデミア開校時にはまだ中国にいたため教員になっておらず、翌47年の春から光明寺に通い始めます。つまり、第2期生の入学とともにアカデミアの一員となったわけで、それだけに第2期生との一体感は強く、閉校後に家族的な付き合いを続けたのも、ほとんどが第2期生でした。私自身も、第2期生の方々には幼少期からずいぶん可愛がっていただいた記憶があるのですが、こういう公共の場でそういう方たちとトークを行うとなると、昔のことが変に頭をよぎり、進行がぎこちなくなってしまうところがあるようです。

最初に映画の感想をうかがったところ、川久保さんは、
「2時間は少し長いかなあ。1時間半くらいだとよかったかも知れない」
とのこと。たしかに、尺のことは、そうお感じになる方もきっといらっしゃると思っていたので、正直におっしゃっていただいてよかったと思います。しかしその一方、
「音楽がよかったですね。すばらしい選曲で感心しました」
と、嬉しいお言葉も。劇中のBGMは、すべてクラシックのピアノ曲を使用したのですが、選曲にはかなりごだわりを持って臨んだつもりだったので、そこに着目というか「着耳」していただいて、苦心の甲斐があったと思いました。若林さんは、
「カバさん(川久保さんのアダナ)は長いとおしゃいましたが、私はひたすら懐かしく、いい学校だったな、という思いを新たにして観ました」
と、内容的にもご満足だった様子。

続いて、アカデミアの思い出について語っていただいたのですが、「悪いこともずいぶんした」とお二人が顔を見合わせてお話になったのが「トンネルスリラー」。
通学に使用していた東海道線の保土ヶ谷と戸塚の間にはトンネルがあって、当時は電車の中に電灯がないから、そのトンネルを通過している間は真っ暗になるそうです。その闇に紛れて、帽子を隠したり、殴ったり、といういたずらを繰り返していたのだとか。もちろん学生同士限定で、一般の乗客の方に害が及ぶことはなかったそうですが…。加害者の筆頭は、後に洋物ドラマのアテレコの第一人者となる中野寛次さん、被害者の筆頭はフジテレビのディレクター・プロデューサーを務めた福中八郎さんだったそうです(すでにお二人とも故人)。
アカデミア出身者にはテレビ界で活躍した人が数多くいたことが、こんなエピソードからもうかがえます。

20170521_02a.jpg

また、お二人に「春の目ざめ」上演当時のことをうかがったところ、川久保さんは、美術学校に通うお兄様の影響もあって、この作品でも吉田謙吉の指導の元、美術スタッフとして参加しており、まだ演じる側を志向してはいなかったとのこと。一方の若林さんは文芸部で、早稲田演劇博物館に行ってヴェデキントのことを調べて学生みんなの前で発表したことがあるそうです。
中盤の見どころというべき干草場の場面について、若林さんに再現映像の「再現度」をうかがうと、「あの場面は、もっとわらが多かったよ。演じる2人の姿がすっかり埋もれてしまうくらい」
とのお答え。その辺まで、きちんとリサーチしておけばよかった、と心の中で舌打ちしました。

声優として60年以上のキャリアを持つ川久保さんですが、俳優としての出発点と自覚しているのは、1950年に研究発表公演として上演された「死神と林檎の樹」の精神科医・イーヴァンスの役だったとのこと。
「精神的におかしくなった患者に『わかってもらえたね』と念を押すセリフがあるんですが、それをすーっと口にしたところ、総稽古の時、青江先生に、「おい、そこはもっともっと待て、もっと間を長く取れ」と言われましてね。それで、あ、そうか、間というのは、いちいち台本には書かれていないけれど、演じる俳優同士の気持ちのやりとりだったり、観ているお客さんに想像させたり納得させるためだったり、いろいろな意味あいがあって、それをきちんとわかった上で演じることが大事なんだと、つくづく教えられました。それは今でも鮮明に覚えています」
70年近く前のことであっても、心に響いたアドバイスというのは、永く記憶に留まるということを具体的に示してくれたエピソードでした。それを聞いた若林さんも、
「間とか、間合いなんていうのは、人間同志の濃密な付き合いからでなければ生まれて来ないものです。そういうことを、アカデミアの先生方はちゃんと教えてくれたんですよ。ありがたかったなあ」
と言葉を継いでくれました。

最後に川久保さんから、
「こういう学校もあったということを、皆様の頭の片隅にでも置いていただければ幸いです」
とのメッセージがあって、この日のトークショーは閉幕となりました。

20170521_03.jpg

ゲストのお二人をお見送りしたあとは、『カナカナ』と『凍える鏡』でカメラマンを務めた宮野宏樹さんと、『彦とベガ』の監督・谷口未央さんが来てくれていたので、昨日に引き続き、喫茶店「らんぶる」に移動して、夕方まで映画談義に花を咲かせました。
posted by taku at 20:41| 鎌倉アカデミア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月20日

『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(1)

20170520_poster.jpg

ついに来ました、『鎌倉アカデミア 青の時代』記念すべき東京公開初日。晴天に恵まれたのはいいのですが、少し恵まれすぎというか、とても5月とは思えない、真夏のような強い日差しが朝から照りつけていました。これはこれでしんどい! K's cinemaに着くまでにすでに汗びっしょりです。しかしこんな天候にもかかわらず、劇場にはほぼ満員のお客様にお越しいただき、晴れやかに封切り日を迎えることができました。

今日は演劇科1期生の勝田久さん(声優)と加藤茂雄さん(俳優)をゲストにお迎えする予定でしたが、劇場ロビーに着いてみると、何と、岩内克己さん(映画監督)のお姿が。急遽、御三方に舞台挨拶を行っていただくことになりました。

20170520_02.jpg
控え室にて。舞台挨拶前のため、一同、やや緊張の面持ち

勝田さんは、2週間前にご自宅にうかがって打ち合わせをした際には、最近足腰が弱っているため、劇場には車椅子で行くことになると思う、とおっしゃっていましたが、その後、連日歩行訓練を行ったとのことで、この日は車椅子なしでお客様の前に出ていただきました。また、今でも地引網をやっているという加藤茂雄さんはこの日も元気ハツラツ、もうすぐ92歳になるとは思えません。さらに、岩内さんは88歳の時に、それまで飲んでいた7種類の薬をすべてやめたそうで、それが奏功したのかはわかりませんが、現在は病気とも無縁の生活を送っているとか。

20170520_01.jpg

1時間59分の映画本編が終了し、いよいよ舞台挨拶の始まり。私もこれまで、映画の舞台挨拶はいろいろやってきましたが、登場ゲストが全員90歳超えというのは今回が初めてです。

まず御三方に映画の感想をうかがったところ、勝田さんからは、
「力作ですね。こういうものを作るエネルギーはどこから来るのか」
とのコメントをいただき、大先輩と言うべき岩内さんにも、
「アカデミアの映画で2時間なんて、一体何を見せるんだろう、30分で充分じゃないかと最初は思ってたんだけど、2時間まったく退屈しなかったね。編集のテンポがいいんだと思う」
と、過分なお言葉をいただきました。あの「若大将シリーズ」のメイン監督だった岩内さんから編集を褒められるとは、まさに望外の喜びです。

一方、この映画を観るのは3回めとなる加藤さんからは、作品の最後、学校が亡くなるシークエンスを見るたびに淋しくなるというお話が。加藤さんご自身は、1949年の春にきちんとした卒業式とともに学校を巣立ったのですが、その1年半後の閉校式はひっそりと行われ、かつての学生たちも、悲しい思い出だったせいか、ほとんど記憶に残っていないと証言しています。そのあたりの話を聞いてウルウル来てしまうというのも、加藤さんの強い母校愛の表われなのでしょう。

20170520_03.jpg

岩内さんからは、
「僕はもともと明治大学で物理を専攻して量子力学を学んでいました。それがなぜ演劇を選んだかというと、量子力学は、計算から素粒子を見つけ出すという『目に見えない世界』、一方の演劇というのは初めに台本があって、それを舞台化するという『目に見える世界』。いわば正反対のものですが、戦争が終わったあと、連合軍が日本のサイクロトロン(原子の加速器)を持ち出して海に捨てたという話を聞いて、日本は、工業立国としては終わりだ、これからは文化立国になるしかないと思って、見えない世界から見える世界に大転換したわけです」
と、アカデミア志望の理由が語られました(このあたりのことは、映画本編でも一部語られています)。

勝田さんは、中村光夫のフランス語の授業の際、中村は上品な喋り方で声が小さく、後ろの席ではよく聞こえなかったため、「先生、もう少し声を張ってください」とリクエストしたところ、「それなら、ここへ来なさい」と言われ、中村のすぐ隣りに座って授業を受けたという微笑ましい思い出を語り、そのころ覚えたフランス語の一節を朗唱。また、お客様のリクエストに応える形でお茶の水博士の声を特別に披露してくださいました。

20170520_04.jpg

加藤さんは、
「僕は東宝の大部屋俳優で、専属で20年やったけど、今となりにいる岩内くんは監督だから、こうして並んでても、何だか落ち着かないんだよ。でも、元はといえば、もうだいぶ前に死んじゃったけど、東宝の助監督をやってた廣澤榮っていう同級生がいて、そいつが、僕ともうひとり、鈴木治夫っていうのに声をかけてくれたのがきっかけなんだよね。ある時電報が来て、明日、横浜の開港記念会館に来いと。その時2人で新聞記者の役をやったんだよ」
と、東宝入りの裏話を披露。それを受けて岩内さんも、
「教職員の適格検査を神奈川県で受けたら不合格で、それでそのあと東京で受けたら合格して、八潮高校で教員をやってたんですが、その給料だけじゃ食べられない。そんな時に、この加藤くんが、廣澤くんから預かった手紙を持ってきてくれて、それに『東宝争議が終わって初めての社員募集をするから受けてみないか』って書いてあったんです。それで試験を受けることにして。鎌倉アカデミアは各種学校で大学でじゃないですから、無理だろうと思ったんだけど、どういうわけか合格して…」
と当時を振り返りました。
「第一期生っていうのは、アカデミアに入る半年前まで戦争で、半数以上が軍隊帰りなんだよ。それも陸軍士官学校とか海軍兵学校とかに通ってたエリートが多くて、軍人勅諭なんか叩き込まれてたんだけど、それが戦争に負けて、世の中がひっくり返って、…みんな同じ憂いを持っているの。それだけに、みんな非常に仲がいい。だから困っている人がいるとほっとけないんだよね」
と、その絆の深さを語る加藤さん。旧友再会の喜びに、予定時間の15分はあっという間に過ぎていきました。

20170520_05.jpg

トーク終了後も、控え室に戻って、ひとしきり思い出話や近況報告に花が咲きました。

20170520_06.jpg

ロビーでは、勝田さんが最近出された『昭和声優列伝』が販売されており、購入後、勝田さんにサインを求めるファンの方も。

20170520_07.jpg

ポスターをバックに記念撮影。今回の写真画像は、高畠正人さん、内山杏南さんにご提供いただきました。

御三方にとって心の和むひとときとなったようで、お招きしたこちらも嬉しい限りですが、この日は、私自身にとっても、思いがけない「再会」の場面が待っていました。
何と、私が中学1〜2年生の時に脚本と出演で参加して、記念すべき第1回PFF(ぴあフィルムフェスティバル)の入選作品となった「ひとかけらの青春」(1977)の監督・大久保健吾さんと主演の野間栄一くんが、示し合わせたわけでもなく、たまたま劇場に来てくれたのです。加藤さんや岩内さん、勝田さんの原点が鎌倉アカデミアなら、私の映画製作の原点は、まぎれもなくこの「ひとかけらの青春」です。大久保さんは前作『影たちの祭り』も観にきてくれているので数年前にもお会いしていますが、野間くんとは実に30数年ぶり。アカデミアの御三方と劇場前でお別れした後、歩いて数分のレトロな喫茶店「らんぶる」に場所を移して、こちらも旧友交歓のひとときを過ごしました。
posted by taku at 19:24| 鎌倉アカデミア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月19日

鎌倉アカデミア学生歌

いよいよ明日(5/20)から、映画『鎌倉アカデミア 青の時代』が公開されます。ご来場を心からお待ち申し上げております。

映画の公開を記念して、「鎌倉アカデミア学生歌」をyoutubeにアップロードしました。作詞は文学科教授だった吉野秀雄、作曲は「早世の天才」との誉れも高い矢代秋雄。万葉の古歌をこよなく愛した壮年歌人と、当時まだ東京音楽学校作曲科の学生だった若き才能との、異色のコラボレーションです。


鎌倉アカデミア学生歌

作詞:吉野秀雄 作曲:矢代秋雄 合唱:鎌倉市民混声合唱団 指揮:川合良一

以下に、歌詞をひらがな表記と漢字混じり表記で記しておきます。吉野秀雄の書いた原詞はすべてひらがな表記でした。

いくさ やぶれし くにつちの
おきて ことごと あたらしく
もゆる めばえに さきがけて
ここに われらは つどいけり
わかき さかりの いきのをに
たぎつ ちからを あいたのみ
しかも きびしく きたえむと
つねに われらは いそしめり
おお おお かまくら
かまくら あかでみあ

うみは みなみへ とおひらけ
こころ はるけく いざなえり
まつに かなずる こえすめば
おもい ふかめん たどきあり
ふるき みやこに よみがえる
いまぞ ひかりは さわやかに
ときの いぶきに めざめもて
まなぶ としつき さちおおし
おお おお かまくら
かまくら あかでみあ

にしに ひがしに さぐりゆく
わざも おしえも はてなけれ
ともよ たがいに ふるいたち
まこと もとめて うまざらむ
きけや いずみは すでにわき
いささ ながれの おときよし
たかき のぞみを よにひろく
あえて とげずて やむべきか
おお おお かまくら
かまくら あかでみあ


戦(いくさ)敗れし国土(くにつち)の
おきてことごと新しく
萌ゆる芽生えに先がけて
ここにわれらは集いけり
若きさかりの息のをに
たぎつ力をあいたのみ
しかも厳しくきたえむと
常にわれらはいそしめり
おお おお
鎌倉 鎌倉アカデミア

海は南へ遠(とお)展(ひら)け
心遥(はる)けく誘(いざ)なえり
松に奏(かな)ずる声澄めば
思い深めんたどきあり
古き都によみがえる
今ぞ光はさわやかに
時のいぶきにめざめもて
学ぶ年月(としつき)幸多し
おお おお
鎌倉 鎌倉アカデミア

西に東にさぐりゆく
業(わざ)も教えも果てなけれ
友よたがいにふるいたち
誠(まこと)もとめて倦(う)まざらむ
きけや泉はすでに湧き
いささ流れの音清し
高き望(のぞみ)を世にひろく
あえて遂げずて止むべきか
おお おお
鎌倉 鎌倉アカデミア
posted by taku at 13:18| 鎌倉アカデミア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月18日

日下武史さんへ

kaseinowagaya01.jpg
『火星のわが家』より。左から鈴木重子、日下武史、ちわきまゆみの各氏

日下武史さんが亡くなった。異国のスペインで、誤嚥性肺炎のために旅立ったという。享年86。

一昨日の帰宅途中、電車の液晶画面ニュースでそれを知った時、反射的に頭に浮かんできたのは、薄暗い病室のパイプベッドに寝かされ、臨終の時を待つ日下さんの姿だった。それは、私が監督した映画『火星のわが家』のラスト近くのワンシーンである。

kaseinowagaya02.jpg

1998年8月に撮影されたその作品で、日下さんは、かつて火星の土地を分譲していた、風変わりな初老の科学ジャーナリスト・神山康平を演じていた。妻に先立たれ、一人で暮らす康平のもとに、歌手の次女・未知子(鈴木重子さん)がニューヨークから里帰りしてくるのだが、その数日後に康平は脳梗塞で倒れ、左半身麻痺となってしまう。康平の介護をめぐって未知子と姉・久仁子(ちわきまゆみさん)の意見が対立、居候の青年・透(堺雅人さん)も巻き込んで、家族のドラマが展開し始める。その後いろいろなエピソードをはさみ、最後に康平は風邪をこじらせ入院、免疫力が落ちているところへ緑膿菌に感染して、病院で息を引き取ってしまう(ネタバレ全開で失礼)。その撮影の時の情景が、妙に鮮やかに脳裏によみがえってきたのだ。

kaseinowagaya03.jpg

もちろん、ドラマの中のことであるから、実際の日下さんはぴんぴんしていたのだが、ロケでお借りした埼玉の病院の個室が、なんともいえぬじめじめした陰鬱な雰囲気を醸しており(私の父が亡くなった病院の部屋とよく似ていた)、しかも隣室からは、実際に重病の方のうめき声が聞こえてきたりして、何だか本当に、日下さんを看取ろうとしているような重苦しい雰囲気に満ちていた。この時撮影した、臨終間際の康平(日下さん)が、それまで不仲だった久仁子の頭を軽く撫でる場面は、長回しの一発撮りだったのだが、本番中、見ていて不覚にも涙がこぼれそうになってしまった。自分の父の臨終の光景がよみがえったというのもあるが、何より、日下さんという人が、本当にあちらの世界に行ってしまうような淋しさが胸をよぎり、ただの映画の一場面とは思えなかったのである。

それから19年が過ぎて、本当に日下さんを見送る一文を草する日がきてしまった。自分の新作映画があさってから公開という、何ともバタバタした中で、大切な人の追悼文を綴らなければならないのが切ない。しかしこれだけは力説しておきたい。『火星のわが家』は日下武史さんの存在なくしては成立しなかった映画であった。準備稿のアテ書き(実際の俳優を想定してシナリオを書くこと)も日下さんのイメージだったし、最初に出演交渉したのも日下さんだった。どうしてそこまで日下さんに執着したのかといえば、まだ学生のころにNHKの舞台中継で観た「この生命誰のもの」に強い衝撃を受けたからである。この作品で、首から下が麻痺して寝たきりの主人公を演じたのが日下さんだった。ほぼ全身麻痺だから、身体で表現することはできず、武器となるのは表情とセリフだけ。しかしその鬼気迫る表情とナイフのように鋭いセリフ回しで、健常なほかの出演者を次々ねじ伏せていく。その迫力に圧倒され、いつか自分の映画に出てもらいたい、と熱望するようになっていった。その独特の容姿と、歯切れはいいがクセのある語り口は好みの分かれるところかも知れないが、私の中では日下武史という俳優は、その時から大変大きな存在として心に居座ることになったのである。

kaseinowagaya04.jpg

晴れて『火星のわが家』に出演していただけることになり(交渉自体は思ったほど難航しなかった)、顔合わせを兼ねて某ホテルのティーラウンジで初めてお目にかかることになった。その時、私が青江舜二郎の息子だと名乗ると、
「ああ、青江先生にはまだ駆け出しのころ、劇評でずいぶん好意的に書いていただいて。今でも感謝しているんですよ」
と、思いがけないひとことが飛び出した。
「そうか、父も日下さんのことがお気に入りだったのか。やはり親子というのは好みが似るものなのだな」
と密かにほくそえみ、それからは、旧知の間柄のような気安さで接することができた。また、『火星のわが家』は全体の約半分が康平の家の場面なのだが、その撮影は、鎌倉アカデミア演劇科2期生の木口和夫さんの横浜のお宅を、約半月お借りして行った。その初日、木口さんはやって来た日下さんに、
「実はそちらの奥様とは鎌倉アカデミアの同窓なんですよ」
と明かし(日下さんの当時の奥様は演劇科の3期生で、木口さんの後輩にあたる)、日下さんもこの偶然にはびっくりしたらしく、ただでさえ大きな目を一層大きくされ、そこから一気にうちうちの関係、という雰囲気になっていった。

kaseinowagaya05.jpg

そうしたいくつかの因縁もあってか、お芝居にはきわめてストイックに臨むと思われていた日下さんが、この映画では終始リラックスムードだったのがとても印象的だった。もちろん、演技に対してのこだわりは大変なもので、事前に総合病院のリハビリセンターを訪問して左半身麻痺の症状をつぶさに観察、ご自身でも理学療法士を相手に実演なさり(上写真参照)、回復の過程を5段階に分けて、このシーンではこの段階、と細かくシナリオに書き込むなど、実に緻密な演技プランを立てられていたのだが、現場では気難しい様子は一切なく、毎日うきうきと楽しげに木口宅に通っていらした。

kaseinowagaya06.jpg
ロケの休憩時に駐車場にて

家に着いてパジャマに着替えると、もうすっかりその家の主人といった風情で、宅配便の業者が荷物を届けにきた時には玄関まで出ていって業者を驚かせたり、自室のベッドで寝ている場面の撮影中に、実際に眠ってしまったり(そのリアルな寝姿と寝息は、映画の中でそのまま使っている)、しまいには、ご自分の家にある「爪楊枝入れ」が、どうしても見当たらない、と一生懸命探してしまうほど、ご自宅と木口宅とが一体になってしまっていた。これを役作りというのは少し違うと思うが、とにかく日を追うごとに神山康平という役と日下武史という俳優は接近していき、撮影後半では、鈴木さん、ちわきさんとも親密の度を増し、3人が居間で談笑している姿などは、本当の親子にしか見えなくなっていた。日下さんは実際にはお子さんがいなかったので、ドラマの中にしろ、2人の娘に囲まれた生活空間というのは好ましいものだったのかも知れない。

kaseinowagaya07.jpg
打ち上げにて、2人のまな娘と

撮影終了後に日下さんが、
「ぼくはこの現場で、生まれて初めて、生活をしながら仕事をしたよ。逆に言えば、仕事をしながら生活をしたということなのかな」
とつぶやいていたのが今でも忘れられない。それまでの劇団四季での日下さんの数々の芝居は、あくまでプロフェッショナルとしての厳然たる「仕事」だった。そこには日常生活の入り込む余地はなく、両者は完全に隔絶していたのだが、『火星のわが家』で初めて、日下さんは、生活(日常)と芝居(非日常)との混交を体験したのだという。天下の日下武史に、生まれて初めての体験をさせたということで、私も監督として、大変誇らしい気持ちになったものである。そして神山康平というキャラクターは、私のこれまで作った映画の中でも一番のお気に入りとなり、一方『火星のわが家』は、日下さんにとって、最後の映画出演作品となった。

先ほども書いたように『火星のわが家』は1998年の8月に撮影されたものだが、その同じ年に、劇団四季は首都圏初の常設専用劇場となる四季劇場[春][秋]を東京・浜松町に開場した(2003年には自由劇場も開場)。そして[春]では大型ミュージカル「ライオンキング」、[秋]や自由劇場では劇団創立初期の「オンディーヌ」「ユリディス」「アンチゴーヌ」といったストレートプレイが次々上演されていくことになる。日下さんは当然のごとく、そうした作品に主要な役でキャスティングされ、私もファンの一人として、かつて父も観たであろうそれらの芝居にいそいそと出かけたのであった。「オンディーヌ」における水界の王の冷徹な存在感、「ユリディス」における死神アンリの知的な狡猾さも記憶に刻まれているが、一番深い感銘を受けたのは「アンチゴーヌ」のクレオンだった。この芝居は大部分がアンチゴーヌとクレオンの二人芝居なのだが、死を覚悟したアンチゴーヌと、どうにかして彼女を助けたい(しかし表立ってそれをすることができない)クレオンとのセリフの応酬がまさに絶品で(これはもちろん戯曲そのものの力もあるが)、公演中涙がとまらず、終演後も興奮冷めやらず、翌日もう一度、母を誘って観にいったというほどの傑作舞台であった。こういう芝居に出会うと、演劇の感動に映画は遠くおよばない、としみじみ感じてしまうのである。ほかにも「スルース(探偵)」「ヴェニスの商人」「鹿鳴館」「エクウス(馬)」など、日下さん見たさに浜松町にはずいぶん通ったものだ。

実は日下さんとは、『火星のわが家』のあと、もう一度一緒に仕事をしている。それは2005年製作の青江舜二郎 生誕百年記念作品「水のほとり」(ボイスドラマ)で、この時は、主役の流離王を日下さん、摩訶南尊者を柳澤愼一さん、 釈迦族長老を川久保潔さんが演じている。吹替えファンの目線で見ると、「アンタッチャブル」のエリオット・ネスと「奥さまは魔女」のダーリン、そしてその義父のモリースの共演なわけで、なかなか豪華な顔ぶれだったと思う。

mizunohotori.jpg
「水のほとり」収録風景。左から川久保潔、日下武史、柳澤愼一の各氏

この時日下さんは、
「これはかなり難しい内容の歴史劇ですよ。いきなり本番じゃなくて、リハーサル日を別に設けて欲しいなあ」
と提案され、実際そのとおりにしたのだが、私としてもボイスドラマの演出は初めてだったので、そういう段階を踏んで丁寧に収録に臨めたのはとてもありがたかった。そして無事に収録が終了し、所属事務所から提示されたギャラを振り込んだ数日後、思いがけない現金書留を頂戴した。

そこには、振り込んだギャラがまるまる入っており、そして一枚の便箋が添えてあった。

kakitome.jpg

青江先生に若い頃、認めて頂いた事が忘れられません。
せめてもの気持ちです。どうぞお修め下さいますよう。
日下武史

さっぱりした文章の間に、日下さんの人柄がにじみ出ているようで、今も大切な私の宝物となっている。

劇団四季の「美女と野獣」札幌公演のあと、合流して一緒にお酒を飲んだ話など、思い出はまだまだあるが、日下さんについての回想はこの辺で終えるのが妥当だろう。

『火星のわが家』のラストは、鈴木重子さん演じる未知子と、堺雅人さん演じる透がベランダで空を見上げ、
「お父さん、もう着いたかなあ」
と、康平の魂が火星に到着したことをイメージするシーンで幕を下ろすのだが、日下さんの魂は、今、どのあたりを彷徨っているのだろう。

私も若いころ、日下さんと映画を作ったことが忘れられません。
どうぞごゆっくりお休みくださいますよう。
大嶋 拓
posted by taku at 18:35| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする