昨日(6/28)、「日下武史さんを偲ぶ会」に行ってきた。場所は浜松町から徒歩7〜8分の自由劇場。日下さんが出演する舞台を観に何度も通った場所だ。まさかそこで、最後のお別れをすることになろうとは…。
駅から劇場への道を歩くうちに、明らかにそれとわかる劇団関係の参列者の姿が増えていく。彼ら彼女らが一様にフォーマルな葬儀のいでたちであることに大きな不安を覚えた。会の案内には「平服にてお越しくださいますよう」と書いてあったが、それは建前で、やはりこういう場にはそれにふさわしい格好をしてくるもの、というのが暗黙の了解なのか。案内の言葉を真に受けて、思い切り平服(カジュアルシャツとチノパン)で来てしまった私は、劇場すぐそばの、海岸通りを右に折れる道に進むのをためらい、一度は通りを直進し、そのまま帰ってしまおうとした。
「こんなラフな格好で参列するのは、故人を偲ぶにはふさわしくないのでは? 何より、おごそかな会の調和を乱してしまうのでは?」
通りを行き過ぎたあと、道の片隅で立ち止まって5分弱あれこれ考えたが、やはりせっかく現地まで来たのだからと思い直し、外に出していたカジュアルシャツをチノパンの中に入れ直して劇場に向かった。
すでに一般参列時間の14時を回り、入り口は大勢の参列者でにぎわっている。とは言うものの、一般参列者は少なめで、大半が劇団もしくは芸能界関係者のように見えた。芳名用紙に記入し、それを受付で3ッ折のしおりと引き換えてもらって劇場の中へ。ステージ中央には花で形づくられた劇団四季の竪琴マーク、そしてそれに包み込まれるように、日下さんのご尊影が飾られていた。
参列者は一時客席で待機し、順番が来たら献花するという流れ。会場にはありし日の日下さんの名セリフの数々が流れている。10分弱くらいで順番が来て、白いカーネーションを手渡され、4人1組の列を作って献花。カーネーションを手向け、日下さんに最後のお別れをする。合掌の時間は、1分弱くらいだっただろうか。同じ列の人たちと無言のうちに呼吸を計り、そろって一礼し献花台を離れる(こういう「間合いを読む」という行為は日本人の得意技のように思う)。
こうして、おおやけの場でお別れをすませてしまうと、いよいよ日下さんが遠くに行ってしまったという感じがして、あらためて淋しさがこみあげる。
日下さんの思い出については、先月、こちらに書いたとおりだが、『火星のわが家』に出ていただいた1998年からわずか20年足らずで、劇団四季をめぐる状況も、ずいぶん変わってしまったものだと思う。あの年、四季はJR東日本の広大な敷地に「首都圏初の常設専用劇場」として、四季劇場[春]と[秋](場所は自由劇場の並び)を華々しく開場。同じころ、地方都市にも常設劇場が次々オープンし、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いであった。
それから19年。[春]と[秋]は、竹芝エリア再開発のためという理由で一時休館となり、一方、創立以来劇団のトップを務めた浅利慶太氏は、2014年に経営者の座を離れ新事務所を設立、そして、もうひとりの創立メンバー日下さんは、四季に籍を置いたまま、異国の地でひっそりと旅立った。
世の中に常なるものはないとはよく言われることだが、時の流れは静かで、そして残酷である。
日下武史さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。