今年はほぼ『鎌倉アカデミア 青の時代』の宣伝と上映活動で明け暮れた感じだが、製作中のインタビューにおいても、上映イベントのトークショーなどでも、アカデミアで実際に学んだ方たちから、あの学校の教師たちが、人間としても、学者としても、いかに素晴しかったかを聞かされることが多く、その度に実にうらやましく感じたものだ。感受性豊かな10代後半から20代前半に、そうした優れた師と巡り合い、教えを受け、時間を共有することは、生涯にわたる精神的な糧となることだろう。
顧みて、私自身はどうだったか。残念ながら、高校、大学時代とも、そういう師との出会いには、まったくと言っていい程恵まれなかった。大学時代については、私自身が積極的に「よき師」を探そうとしなかった怠慢も否定できないが、こちらが選択する余地のない高校時代の教師連中に関しては、まさに思い出すのもはばかられる「体たらく」であった。もっとも、教師のことに限らず、高校時代のことは全般的に自分の中の黒歴史なので、このブログでもそのころの話はほとんど記したことがない。しかし少し前、たまたま某質問サイトで、次のような質問を見かけたため、封印していた記憶がにわかに蘇り、そして改めて、当時の腐敗した状況にムラムラと怒りが湧き起こってきたのである。
都立高校の教員についてお聞きします。かれこれ30年近く前、都立高校の教員…完全週休二日(すでにこの制度が適用されていた…研究日の名目で)、予備校でのアルバイト(能力のある教員はかなりやっていた)、何かあると授業ボイコット(1時間目の授業の自習が多かった…ストなどで)、勤務時間のいい加減さ(授業終わると生徒と一緒に帰ってた)等々、結構好き勝手にやっていて、高校生だった自分は「あれで仕事になるなら…自由な人生が送れる」と思ったものでした。今でも都立高校の教員はそうなのでしょうか?(後略)(2011年2月)
この質問に対しては、「昔は週に1日、自宅研修日という制度があったが、10年ほど前になくなった。長期の休みも、夏休みや年末年始以外は有休を使う。今の都立高校は、タイムカードもあり、かなり管理が厳しい」との回答が寄せられていた。となると、予備校でのバイトも当然アウトだろう。あのころのいい加減な勤務形態が、完全に過去のものとなったのなら幸いである。
どうやら私が都立高校に通っていた1970年代後半から1980年代初めにかけては、都立のレベルが(学力、風紀とも)最も低かった時期のようで、学校全体にもまったく覇気がなく、教師は十年一日のごとく同じ授業をお経のように唱えるティーチングマシンと化し、しかもそれを学校内だけでなく、夕方以降の「副業の場」でも繰り返していたのだから呆れ返るほかない。私の通っていた都立X高校は(そのころは落ち目の最右翼だったが)、かつては府立○中と呼ばれたナンバースクールで、それなりに知名度があったためか、駿台、河合塾、代ゼミなどの大手予備校に、偽名を使って教えに行く教師がかなりの数存在した。言うまでもなく、都立高校の教員はれっきとした地方公務員なので、アルバイトは禁止である(昨年来、政府は正社員の副業を、原則禁止から原則容認へと方針転換し、それは公務員にも適応される可能性を帯びているようだが、上の事例は今から30年以上前の話)。
地方公務員法の第35条を見ると、
「職員は(中略)その勤務時間及び職務上の注意力のすべてをその職責遂行のために用い、当該地方公共団体がなすべき責を有する職務にのみ従事しなければならない」
と、職務に専念する義務を謳っているし、また第38条では、
「職員は(中略)自ら営利を目的とする私企業を営み、又は報酬を得ていかなる事業若しくは事務にも従事してはならない」
と、副業をはっきり禁じている。
にも関わらず、当時、教師が夕方以降、学校から予備校に足を向けるのは、生徒のみならず保護者にも公然の事実であった。本来なら、自分の勤務する学校での授業に全力を傾注し、少しでも生徒の学力をアップさせるのが教師の務めであるのに、手抜きの授業でお茶を濁し、体力気力を温存し、夕方以降は、予備校生相手の副業に精を出すのである。そんなに小遣いが欲しかったのだろうか。
うちの母などは、筋の通らないことが大嫌いな性格だったので、保護者会でそれを問題にしたことがあったのだが、事を荒立てることを好まない者が多数を占め(教師を敵に回して、あとあと内申書などで報復されることを恐れたのだろうか)、結局、教育委員会に提訴するなどの思い切った方策が講じられることもなく、3年が無風状態のまま過ぎていった。だから、少なくとも私が在学していた3年間は、教師は大手を振って副業に勤しんでいたし、その後も、すぐにその悪習がなくなったとは思えない。今思い返しても、ああいう不誠実な勤務態度には腹が立つし、そんな教師を尊敬しろと言われても無理な話だ。
一番タチが悪かったのは、3年の間私の担任だった△という教師で、自分自身もX高校の卒業生である△は、日頃から「母校に奉職できるのは何よりの幸せ」などとお題目のように唱えながら、その一方で平然と駿台に教えに行っていた。しかも彼は3年間ずっと学年担任(いわゆる学年主任)を務めており、8人いたクラス担任を統括すべき立場だったのである。しかし、上には上がいるもので、やはりX高校出身で△の後輩に当たる▽は、教務主任という教頭に次ぐ職責にありながら、悪びれもせず長年代ゼミの教壇に立っていた。もう何をかいわんやである。
そういう教師への不信もあり、卒業以降、ほとんど高校関係者と接触することはなくなっていたのだが、今から20数年前、最初の劇場用映画を撮った時、旧知の人たちに案内の通知を出したところ、その△という元担任は大層喜び、同窓会名簿の私の職業欄に、私に無断で「映画監督」と書き込むよう同窓会事務局に指示したらしい。あとでそれを知った私は、「1本撮っただけで監督を名乗るのはおこがましいので、職業欄は空欄にしてください」とあらためて事務局に頼んだのだが…。△という教師は、元文学青年を気取っていたものの、実際にはかなりの俗物で、肩書きを何よりありがたがる人種だということがその時はっきりわかった。
最近、△がある同窓会に招かれた時のことを、自費出版したエッセイ集に書いているのをネットで読んだのだが、言葉を交わした生徒が「わがクラスでひとり東大に進んだ生徒」だったり、欠席だったけれど「どうしても逢いたいな、と思う女生徒」が「A賞(著名な文学賞)受賞作家」だったり、ここでも教え子を「東大」や「文学賞」といった肩書きで品定めしているようでげんなりした。教師が教え子の成功を喜ぶのは無理からぬことかも知れないが、「東大」も「文学賞」も所詮は通過点に過ぎず、それをわが身の栄光であるかのように浮かれ騒ぐのは鼻白む行為である。教育者というのはもっと長い目で、そして俯瞰的な視点から、生徒ひとりひとりの成長を静かに見守るべきではないだろうか。いや、「母校に奉職できるのは何よりの幸せ」と言いながら、嬉々として予備校での副業に励んでいた実利主義者の△先生には、そんな境地は生涯望むべくもなかったのだろう。
今、「生涯望むべく…」と書いたが、実は△という元担任は、しばらく前に亡くなっていた。私がそれを知ったのは昨日、同窓会のホームページにおいてである。高校の同窓会など一生行かないと決めているので、ホームページも実に久しぶりで見たのだ。
訃報を知った私は、自分が、自分でも意外なくらい何も感じないことに驚いた。いやしくも高校時代3年間担任だった人である。にも関わらず、私の心は微動だにしない。記憶力は悪くないはずなのに、ただひとつのエピソードさえ、はっきりと浮かんでこないのだ。こういうこともあるのか、と首を傾げながら、その無感動の原因を探ってみた。
そして、答えはすぐに出た。真に人間的な魅力に溢れた教師であれば、生徒とともに真理を探求し、感動を共有しようとする情熱を持った教師であれば、おのずから生涯忘れ得ぬ鮮明な印象を残してくれたはずである。しかし、△はそうした理想的な教師像からはあまりに遠かった。もっとも、ここで△だけを責めるのは少々酷というものだろう。「デモシカ教師」という言葉がまだ現役だった80年代、あの高校に在職していた教師のほとんどはただのサラリーマンで、教育者であるという自覚も矜持も、はなから持ち合わせてはいなかったからだ。
かえすがえす、鎌倉アカデミアに学んだかつての学生諸氏をうらやましく思う。当時一流の知識人が揃っていたアカデミアの教師陣は、財政難で閉校になるまで、1年近くほぼ無給で授業を続け、その一方、学校存続のための資金集めに奔走していたが、それは後年明らかになったことで、当の教師たちは、学生にそんな苦労は少しも見せなかった。結構な額の給料をもらいながら、なおも偽名まで使って小遣い稼ぎのバイトに励んでいたX高校の教師連中とは、人間としての品格も器の大きさもまるで違うではないか。
私が年を経るごとに鎌倉アカデミアに心酔していくのは、もしかすると、若いころ果たせなかった麗しき師弟関係への渇望のなせる業なのかも知れない。