何とか2017年のうちに書いておかなくちゃ、と、年末も押し迫ったあわただしい中で始まったこのシリーズ、今回は、旧「パーマン」世代なら誰でも多かれ少なかれ気に留めているに違いない、カラーアニメ化にともなう設定と名称変更の問題について書いていきたい。
2号(ブービー)の住んでいるのが動物園でなくなったり、時速が91キロから119キロにアップしたり、というのはそれほど大きな問題ではなく、ここで取り上げたいのは、「パーマンの秘密を他人に知られた場合」のペナルティ、そして「スーパーマン」から「バードマン」への名称変更である。
まずは秘密を他人に知られた場合のペナルティについて。旧作では上画像のように、スーパーマンは「脳細胞破壊銃でほんとのパーにしてやる」と言っているが、新作アニメが始まった1983年以降の書籍では、すべて「細胞変換銃で動物に変身させてやる」に変更されている。
「……だめだ、ひみつをうちあけると、ぼくはパーになる」(→「動物にされる」に変更)
さらに、「おじさんは精神病院から脱走してきたんだね」というセリフも、「おじさんはぼくをからかってるんだね」に変更(「映画の宣伝も大変だね」というバージョンもある)。以上は「パーマン誕生」より。
思い起こせばこのころは、映画、マンガ、テレビなどで、精神に異常をきたす描写や「気ちがい」という言葉は、かなり頻繁に登場していた(「パーマン」と同時代で有名なものとして、1967年放送の「ウルトラセブン」第8話「狙われた街」がある)。それが、1970年代の中盤以降、某団体のクレームをきっかけに、「気ちがい」「気が狂う」という表現は自粛(禁止ではない)されるようになり、また、精神に異常をきたす描写自体も、見かけることが極端に減っていった(「めくら」「つんぼ」「おし」「かたわ」といった身体的なハンディキャップを表す言葉が差別用語と見なされ、使用が控えられるようになったのもほぼ同じ時期)。すなわち、旧「パーマン」(1966〜68)は「気ちがい」という言葉や描写が頻繁に使われていた時代の作品、新「パーマン」(1983〜85)は、そうした言葉や描写が忌避されていた時代の作品なのである(しかし最近は「おことわり」を入れて、当時のままの言葉で放送、出版するケースが増えている。前述の「狙われた街」でも、「まるでキチガイ病院だ」というキリヤマ隊長のセリフは近年無修正で放送されることが多い)。
「狙われた街」より。左が「まるでキチガイ病院だ」と言い放った直後のキリヤマ。「パーマン」ではもともと「気ちがい」というストレートな言葉はほとんど使われていないが(「気がくるう」はたまに出てくる)、「パー」という言い回しも、「頭がおかしい」とほぼ同じ意味であるため、時代の流れにしたがって変更を余儀なくされたということだろう。しかし、その代案が「動物にする」というのはどうも釈然としない。2号はもともと動物(チンパンジー)なのでペナルティにならないではないか(2号の場合は別の動物に変えられるということのようだが…)。
もともと、秘密を知られた場合にパーにされるというのは、ペナルティと同時に口封じの意味合いも強い。たしかに動物に変えてしまえば喋れないので口封じにはなるが、あまりに突飛で、現実味に乏しい。これは前々から考えていたことなのだが、「記憶を消す」でよかったのではないだろうか。
実際、新アニメの410話「さよならパー子」(1984)では、パー子が海外留学のためパーマンをやめるとバードマンに申し出るシーンがあり、それを受けたバードマンは、脳細胞破壊銃としか思えない銃を取り出し、
「この銃は、君のパーマンであった部分の記憶をすべて消してしまう。残酷なようだが、パーマンの秘密を守るためには仕方ないのだ」
と宣告している(結局パー子はパーマンをやめず、記憶も消されないのだが)。
「さよならパー子」より。旧パーマン世代にはびっくりの、かなり胸熱な展開。これが普通に放送されたのなら、「記憶を消す」というペナルティはまったく問題ないことになる。実はこのエピソードは、1週間ほど前にネットでその存在を知り、数日前に初めて視聴して大いに驚いたのだが、もしかすると新アニメのスタッフも、「動物にする」というペナルティには違和感を覚えていたのかもしれない。
ただ、「パーマンであった部分の記憶を消す」だけでは、口封じにはなってもペナルティとしてはいささか弱いので、秘密を知られてしまった場合には「すべての記憶を消す」とすればいいと思う。人間が、生まれてから現在までのすべての記憶を失ってしまえば、頭の中は真っ白、パーと大差はない。しかし、いわゆる記憶喪失(全生活史健忘)は「気ちがい」とは違うので、これならクレームも発生しなかったと思うのだが…。今から30年前の設定変更について今さらああだこうだ言っても始まらないが、「脳細胞破壊銃でパーにする」というペナルティは、一見のびやかなパーマンワールドの中に潜む「黒い十字架」であり、それを背負いながら戦っている、というところに、この作品の奥深さがあるようにも思えるのだ。
「パーマン全員集合!!」より。パーマンセット(マスクとマント)を奪われたみつ夫は、「やくそくどおりパーにする」とスーパーマンに銃口を向けられる(でも、実際は「約束」したわけではないんだけどね。初回でスーパーマンが一方的に宣告しただけ)。修正後のセリフは「やくそくどおり動物にする」。
「クルクルパーにされちゃって、一生わけもわからずにくらすんだ」と涙ぐむみつ夫。これはホントに怖いだろう。現在は「動物にされちゃって、一生つらくくらすんだ」というセリフに変えられているが、恐怖の質がまったく違う。
私自身の小学校時代を振り返ってみても、自分が「気ちがい」になるというのは、想像するだけで底知れぬ恐怖心が沸き起こることであった。私の住んでいた生田には、その当時から精神科専門の大きな病院があったのだが、頭がおかしくなった者は「黄色い救急車」でそこに連れて来られ、鉄格子で仕切られた病室に収容されているのだと、まことしやかにささやく同級生がいて、近所にそんな施設があるのか、と恐れおののいたものである。そして同時に、自分は今は自分のことがわかっているけれど、頭を強打するなど何かのはずみで、自分で自分のことがわからない状態になることもあるのではないか、そうしたら自分もそんな病院に入れられてしまうのだろうか、などという不吉な妄想で頭がいっぱいになったこともある。少年期には、誰しもそうしたアイデンティティ崩壊の恐怖を覚えることがあるのではないだろうか。そして、「パーマン」における「脳細胞破壊銃でパーにされる」というペナルティは、そうした少年少女の潜在的な恐怖心をかなり鋭く、リアルに刺激するものだったように感じる。それだけに、「動物にする」という現実離れしたぺナルティへの変更は残念で仕方がない。「すべての記憶を消す」なら、アイデンティティは確実に崩壊するわけで、同じような恐怖心を喚起することは可能だと思うのだが…。
「パーマンはつらいよ」より。自分がパーマンであることを家族や友人に打ち明けたいと言い出すみつ夫に「そんなことをしたらパーにする」と恫喝するスーパーマン。現在では「ぜったいにゆるさん」というセリフに変更。
もっとも、このペナルティが物語の中で取り上げられるのは、100話以上ある旧原作の中でもほんの数話であり、この改変が作品全体に大きな影響を与えているということではない。
どちらかといえば、これから述べる「スーパーマン」から「バードマン」への名称変更の方が、いろいろと面倒を引き起こしているように思う。旧原作ではみつ夫をパーマンに任命したのは「スーパーマン」で、彼は、
「マスクやマントをつければだれでも超人的な力をもてるんだ。しかしほんもののスーパーマンにはおよばないのでこれをパーマンとよぶ」
と説明している。
つまり、
スーパーマン>パーマン>パー(秘密がばれた時)という図式になり、呼称が短くなるにつれ、能力も落ちるというシャレになっていたわけである。しかし、1983年のカラーアニメ化の際には、権利関係で「スーパーマン」の名前が使えなかったのか、
スーパーマン→超人→鳥人→バードマンという発想の転換(?)でバードマンに名称変更し、同時に、マスクのデザインも鳥をイメージしたものに変更されたが、バードマンとパーマンでは言葉の関連性も乏しく、旧パーマン世代にはおおむね不評のようである。もっともこれは、リアルタイムで「帰ってきたウルトラマン」を見ていた世代が、後付けの「ウルトラマンジャック」という名称に拒否反応を起こすようなものだろう。幼少期に見たものが「原型」として脳に刻印されるというのは本能的なものなのかも知れない。
とにかく83年以降は、パーマンの上司といえばバードマンで統一されていたのだが、前回も書いたように、2009年の「藤子・F・不二雄大全集」では、「バードマン」の名称を当初の「スーパーマン」に戻している。「大全集」という性質上、初出時の設定を尊重したということなのだろうが、それなら「パーにする」設定も復活させるべきで、どうにも一貫性がない。しかも、2016年のてんとう虫コミックス新装版では、原稿のスキャンデータは「大全集」のものを使いつつ、名称は「バードマン」になっており、もはやこの問題はまったく集結点が見えない。一度設定に手を加えてしまうと、どこまでも混乱が続くものなのだろうか。
しかし、以上は原作マンガに限った話であり、アニメにおいては2014年に画期的な事件が起きた。それは、言うまでもなく白黒版アニメのDVD発売で、何とこのソフトでは、「パーにする」設定も「スーパーマン」の名称も放送当時のままだったのである。
こういう「おことわり」を入れておけばいいわけですよ。
「パーマン誕生の巻」より。パーマンのマスクを被らされたみつ夫が「パーマン? この人パーじゃなかろか」とつぶやけば、
スーパーマンは「もし人にきみの秘密を漏らせば、その場できみは本物のパーになる」と警告する(ご丁寧に、「クルクルパー」の指の動きまで)。
カバ夫とサブの計略でマスクを取られたみつ夫、初回からピンチ!「顔を見られたらパーになっちゃうよ〜」とベソをかく。この第1話だけで5回「パー」と言っている。
「パーマン全員集合!!」より。「脳細胞破壊銃だ! 約束どおりパーにするぞ!」と迫るスーパーマン。
震え上がるみつ夫。
「ぼくはもうダメだ! クルクルパーにされちゃって、一生わけもわからずに暮らすんだ!」と、みつ夫はパー子の目の前で泣きわめく。アニメだけあって原作より感情表現が派手。
……というわけで、マンガ版の自主規制に納得の行かないものを感じていただけに、この2作品は実に痛快だった。このままでも、まったく問題ないじゃないか!
マンガはネームを貼り替えればセリフの変更が容易にできるが、アニメは再録音が必要になり、まして50年近く前の作品ともなると、当時の声優を集めるのもひと苦労である(もっとも、そうした事例がないわけではなく、たとえば「奥さまは魔女」では、オリジナルのキャストを招聘し、差別用語に当たる言葉だけを他の言葉に変えて録音し直している。以前、ダーリンの吹替えをやっていた柳澤愼一氏に聞いたところでは、「めくら蛇におじず」などということわざも今ではNGらしい。ご本人は「いろいろ面倒くさい世の中になったねえ。40年以上も前の若いころの声と同じに喋ってくれなんて言われても、そんなのできるわけないよ」と苦笑いをしていらした)。今回はそこまで手間をかけるのは見合わないという判断だったのかも知れないが、とにかく、オリジナルのままの状態でソフト化したのは英断だと思う。と同時に、これまで長らく封印されていた「パーにする」設定と「スーパーマン」の名称を広く世に出してしまった以上、マンガもこちらに合わせて原形に戻してしまえば、すべてがすっきりすると思うのだが…。
しかし、そう考えるのは私が旧パーマン世代だからであり、1980年代の新パーマンを見て育った世代は、「動物にする」設定や「バードマン」でなければしっくり来ないのかも知れない。実に悩ましい問題である。ともあれ、2017年の現在「パーマン」という作品は、入手可能な正規のメディアにおいて、「パーにする」設定と「スーパーマン」(旧作DVD)、「動物にする」設定と「バードマン」(原作マンガと新作DVD)、「動物にする」設定と「スーパーマン」(大全集における原作マンガ)、という3パターンが存在する、何ともカオスな状態を呈しているのである。