2017年12月10日

レストアに挑戦

『現代コミクス版 ウルトラマン』の刊行がらみで、昨年以来、復刊ドットコム編集部とやりとりしていたという話はこちらに書いたが、本当に近年のレストア(修復)技術の進歩には目を見張るものがある。しかし、感心してばかりいるのも能がないので、自分にもその真似事ができないものか、少し前、手持ちのソフトを使って挑戦してみた。

課題はこちら。

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鎌倉アカデミアの演劇科第一回公演「春の目ざめ」(1948年)のポスター。絵とデザインは、この作品の演出を務めた村山知義(演劇科長)。さすが多芸多才の人である。1枚もののイラストとしても秀逸で、今見ても古さを感じないが、残念なことに4ツ折りの状態で保存されていたため、タテとヨコに線が入り、その周辺が変色している。

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どうにかレストアしてみたのがこちら。

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ふたたびレストア前(大きな画像でどうぞ)。

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レストア後。元はこうであったのではないか、という想像で、少しピンク色を鮮やかにしてみた。

何てことないようだが、実際の作業には3〜4時間を要している(不慣れなせいもあるだろう)。

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ちなみにこのレストア画像は、『鎌倉アカデミア 青の時代』のチラシ裏面でも使用している(作業をしたのは今年の2月)。

画像の修復作業というのは、面倒くさいし目も疲れるが、やり終えた時の達成感には独特のものがあると思う。言うまでもないが、こうしたレストアは、漫画やイラストだけでなく、写真画像でも行われる。

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上は以前こちらで紹介した、撮影スタジオでの記念写真だが、この時の一連の画像は『特撮秘宝』への掲載が決まったため、オリジナルの白黒ネガから再度スキャンしている。しかし、スキャンしただけでは編集部に渡すことはできない。なぜなら、

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スキャンした直後はこんな状態だから。

階調も整っていないし、古いネガのため、ゴミや傷がひどい。明暗やコントラストを調整し、ゴミや傷をひとつずつ消していくわけである。

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元のネガがハーフサイズのため、かなり粒子が気になるが、一応レストアしたのがこちら。

実に地味で地道だが、ついつい深みにはまってしまう作業である(ちなみに私が使っているソフトは10年も前のPhotoshopで、最近のものはもっと進化しているのだろう)。
posted by taku at 18:53| レトロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月09日

陽射しの下で

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先週末、知り合いが運営する保育園の開園記念イベントと内覧会があったので出かけてみた。

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好天に恵まれ、多くの親子連れでにぎわっていたが、園庭に出てみると、最新の児童心理学などに基づいて作られたかのような(筆者の想像です)、カラフルでいかした遊具は意外にもガラガラで、

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子どもたちの多くは、ただ土を盛り上げて人工芝を敷いただけの小山がお気に入りの様子。何度も何度も、上から転げ落ちて、そしてまた登って、を繰り返しているのだった。

何となく、わかる。

まだ生まれて数年しか経たない彼ら彼女らは、「文明」よりも「自然」に近い存在である。したがって、より原初的なものに親近感を抱くのだ。最初はそう考えたが、しかしそれは、子どもだけでなく、ひょっとすると大人にも当てはまるのではないか。実は私も、知り合いに勧められるまま、その小山に登り、滑り落ちてみたのだが、なかなかにいい気分であった。しかし、すぐそばにある、作りこまれたカラフルな遊具で遊んでみようという気はついに起きなかった。

現代人は、今やその生活の大部分をPCやスマホといったテクノロジーに依存しており、その便利さ、快適さを当然のように享受しているが、その一方、どこかでもっと体感的なもの、原初的なものを求めているのではないのだろうか。などという独言を、デジカメで撮った画像を使い、PCに向かいながら打ち込んでみるのである。

※ちなみに、こういう話の流れになるとよく引き合いに出されるルソーの「自然に帰れ」だが、実は彼の著作にはそういう言葉は書かれていないという。ただ、ルソーの思想を端的に表現すると、「自然に帰れ」ということになるらしい。
posted by taku at 13:28| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月06日

リニューアル!『物理基礎』

先週の放送では肩透かしを食った『物理基礎』だが、今日の放送では、母親の不在について落とし前をつけたというか、番組がリニューアルしたことを冒頭できっちりアピールしていた。

この間のブログで、「連続ドラマなどで、Aという役を演じていた俳優Bが、何らかの事情で出演を続けることができなくなった場合、製作側の処置には、おおむね以下の4パターンが考えられる」と書いた。以下の4つである。

(1)Aを劇中で殺す
(2)Aを遠く(外国など)に行かせる(転勤などを含む)
(3)Aを俳優Bからほかの俳優に交代
(4)Aという役そのものを消滅させ、なかったことに(劇中でも語られない)

私は(2)か(4)ではないかと予想していたが、結論から言うと、(2)の、「遠くへ行かせる」パターンであった。しかし斬新だったのは、母親だけが家を離れたのではなく、父親も一緒だったこと。要するに父親は「新しい工場」(現状より広い)に付帯した家で暮らすことになり、一方、兄と妹は今までの家に2人だけで住むという。でもねえ、新しい工場が現状より広いところなら、普通一家揃って引っ越すんじゃないのか?

とにかく、父親は「ここからちょっと遠くなっちゃったけどね」と言いつつ、「でも、ちょくちょく戻ってくるから」と、事もなげに言う。要するに、「物理についての薀蓄を傾ける時だけは出かけてきますよ」ということだ。そして「お母さん」という単語は、ついに誰の口からも発せられることはなかった(そういう意味では「役そのものを消滅させ、なかったことに」のパターンでもある)。恐らく、母親は父親とともに新しい工場に行ったということなのだろうが、いくら口ではそう説明しても、3人だけの場面は妙にがらんとした雰囲気で、一家の華を失った寂寥感に包まれているようだった(収録現場ではどうだったのだろう)。

それにしても、これだけのトンデモ設定を冒頭のわずか30秒で説明してしまうとは、さすが物理(ものり)家の人々、やることにそつがない。それからは、いつもと変わらない流れで静電気と電流についての解説になったが、終盤の〆の言葉で、父親がいつになくしんみりと「共通の悲しい思い」について語ったのが印象的だった。親や教師は、いつか成長した子どもから「もういらない」と言われる日が来る。愛おしく、手放したくない子どもからそう言われるのは悲しいことだが、子どもをそこまで自立させるのが、子育てや教育の目的である、というもので、どうしてこんな、最終回で話すような内容を、ここにぶち込んできたのか大いに気になった。これはやはり、「愛おしく、手放したくなかった」けれど、こういう形にせざるを得なかった。それがみんなの「共通の悲しい思い」です、という、製作サイドから母親役だったS・Yへの秘めたるメッセージのように思えてならないのだが…。
posted by taku at 17:01| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする