
とある日の夕暮れ、近くの公園を通りかかったら、砂場のところで、父親と3歳ぐらいの子どもが何かをやっている。暗かったのでよく見えなかったが、どうやら砂をカップに入れて、それを木枠に並べているようだ。それが、どうもかなりきちんと為されているようなので、気になって、翌朝ふたたび、同じ場所に出かけてみたのだが…。

早朝散歩の犬などにだいぶ荒らされたようだが、まだかなり前日の形を留めていた。



砂場のオブジェはきちんと等間隔に並べられ、ご丁寧に、花まであしらっている。

この冬にどこから花を? と不思議に思ったが、よく周囲を見ると、砂場のすぐ近くにこんな可憐な花が咲いているのだった(ウインターコスモスというらしい)。
父親と3歳の子どものどちらが主導して作ったのかわからないが、こういう素朴な造形に心惹かれてしまうのは、ここには「つくる」という目的以上の何も存在しないからだ。ただ、作りたいから、面白そうだから、作った。そこには他者からの視線や評価を気にするいやしい気持ちなどは毛頭なく、また、自分たちが作っているものが芸術なのか工芸なのか、役に立つのか立たないのかなどという、内面の問いかけもない。作ったものが翌日には形をとどめていなくとも、少しも意に介さない。

本来、ものをつくるとは、そうした無心の行為であるべきなのに、今日世の中にあふれているものは、おしなべて、「つくる」という目的以上の何物かに縛られ、規定されている。まあこれは文明社会においては仕方のないことなのかも知れないが、それゆえ、まだ自我が形成されていない幼児の原初的で内発的な「つくる」という行為が、大変気高く貴重なものに思えてくるのだ(実際、これは未就学児までの特権なのではないだろうか)。子どものいる人は、恐らくこうした幼児の自然な創造行為と日常的に接しているわけで、子どもがいない私としては、大変うらやましく思うのである。

砂場のオブジェは、同じ日の夕方にはすでにほぼ消失していたが、そこから持ち帰った一輪のウインターコスモスは、グラスに入れて何日か経っても、花びらは生き生きしたままである。冬に咲くだけあって強い花のようだ。