

(2点とも『週刊少年サンデー』1968年1号の新春特集ページより)
今年(2017年)は、パーマンの放送開始から50年ということで、パーマンネタを3回ほど書いてきたが、実は、今年は「2人で1人のマンガ家・藤子不二雄」がコンビ解消を発表してからちょうど30年という節目の年でもある(30年前の今ごろ、1987年12月23日の消印で、出版関係者に挨拶状が送付された)。だから、今回はパーマンをお休みしてそちらを取り上げてみたい。最初は「コンビ解消30年」というタイトルをつけてみたのだが、「解消」というと何となくマイナスのイメージが付きまとうので、藤子・F・不二雄と藤子不二雄Aという二人のマンガ家が新たに誕生した記念の年ということで、「F&A 活動開始30年」にしてみた。

こちらは1988年1月30日の朝日新聞(クリックで拡大)。そのころの私は大学卒業間際、就職を目前に控えており、人生の中でももっとも藤子マンガと遠かった時期だと思うが、それでもこうして新聞を切り抜いていたところを見ると、やはり無関心ではいられなかったのだろう。
この記事には、「ドラえもん」「パーマン」はF先生、「忍者ハットリくん」「怪物くん」はA先生の作品であると書かれており、これは、幼年期からの藤子不二雄ファンにとっては、サンタクロースの正体をばらされたような、結構な衝撃であった。小学生時代、「まんが道」を繰り返し読んだ者としては、2人でアイデアを出し合い、2人で机を並べて執筆するというのが「藤子スタイル」だと、信じ込まされてきたからである。

『週刊少年チャンピオン』(1971)より。最初の「まんが道」は「チャンピオンマンガ科」というマンガ入門講座のラスト2ページに「マンガ道」のタイトルで掲載されていた。
もっとも、「藤子スタイル」を喧伝したのは「まんが道」だけではない。雑誌の特集ページなどでも「藤子不二雄は2人で1人、常に合作をしている」というアピールがなされていた。
以下は、前回紹介した『週刊少年サンデー』の「週刊パーマン」より。

「10時半ごろ、仕事場の、スタジオゼロに到着」
「さっそく、サンデーの、アイデアをふたりで相談」

「おひるごはんは、両先生とも、奥さんのつくったお弁当」
「午後は、サンデーの絵を、フーフーいってかく」

「夜は、テレビマンガをみて、いろいろふたりで話しあう」
「夜もふけたころ、いっしょに、家に帰る」

一度ネタがばらされてみると、「ドラえもん」の描線と「怪物くん」の描線はたしかに違う。しかしこれはコロンブスの卵のようなもので、言われるまではっきり気づかなかった人の方が多いのではないだろうか。それは、先ほど書いた合作アピールのせいもあるが、それ以外にもうひとつ、1960年代の代表作「オバケのQ太郎」では、キャラクターを分担して、実際に共同で執筆していたという事実が大きい。

オバQとほかのオバケ、大原パパ&ママはF先生、正ちゃん、伸一兄さん、小池さんはA先生が担当。

また、実は「パーマン」でも、パーマン1号(みつ夫)をはじめとする主要キャラはF先生だが、パートナーであるパーマン2号といじめっ子キャラのカバ夫&サブはA先生が担当している(カバ夫の独特の目の形を見れば明らか)。
小さいころから「オバQ」や「パーマン」を読んでいた私たちの世代は、2人の微妙に異なるタッチがひとつの作品の中に自然に共存しているのを見ていたため、どちらのタッチも「藤子不二雄」として認識し、その認識が後年になっても続いていたのだろう(もっともこのころは、共作ということを意識して、両氏とも相手の作風に似せて描いていたような印象も受ける)。

「新オバケのQ太郎」(1971〜73)のころになると、2人のタッチがかなり異なってきているのが明らかに。

1980年代の「パーマン」。この時期の「パーマン」はパーマン2号やカバ夫、サブもすべてF先生が描いているが、「プロゴルファー猿」を意識したこのページの2号だけは、A先生が描いているようにしか見えない。
33年におよぶコンビ解消の理由については、当事者だけしかわからないことなので、詮索する気はさらさらないし、その是非を論ずるつもりもないが、上の新聞記事を読み返して「はっ」としたのが、この時の両先生が、今の私と同じ50代なかばであったこと。やはりこの年代というのは、青少年期から背負ってきた荷物を一度肩から下ろし、これまでの道のりを振り返り、自分や周囲を見つめ直す時期なのだろうか。記事のインタビューでF先生は「何か新しいことやれるのではないか」と将来に期待を寄せ、一方、A先生は「50代で初めて独り立ち。だから不安ですよ」と語る。人生の後半戦に臨むお二人の心には、文字どおり期待と不安が相半ばしていたに違いない。
「不安ですよ」と漏らしたA先生がいまだご壮健で、「新しいこと」と夢を語ったF先生がこのあとわずか8年で他界したことを思うと、人生のままならなさにため息だけがこぼれる。ともあれ、コンビ解消の後も、2人の間ではそれまでと変わらぬ友情が継続していたというのがうらやましい。多くの忘れがたい作品を世に送り出した2人で1人の「藤子不二雄」に、改めて感謝と賞賛の意を表したい。

『週刊少年サンデー』1967年2号新春特集ページ。「無人島へいって、のんびりと、くらすのが、ボクたちの、夢と希望です」