2018年06月24日

森田童子 1981年コンサートレポート

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前々回のブログで1981年に行われた森田童子のコンサートについて書いたが、何しろ37年も昔のことである。記憶もひどくおぼろで、アップしては見たものの、もやもやした感じが残っていた。せっかくなので、もう少し詳細に当時のことを振り返ってみたいと思い、一昨日実家に赴いて、当時の日記を探してきた。18歳当時のつたない文章だが、あのころの雰囲気を感じていただくため、原文のままここに再録することにする(ただし漢数字は数字表記にし、曲名の誤記は適宜修正)。

12月5日(土)

朝10時起床。
4時家を出る。途中定期を買ったりしたものだから現地(両国)に着いたのは5時半近かった。すぐ受付で整理券もらう。405番。かなりあとの方らしい。近くのラーメン屋でみそラーメン喰い、しばし待てば整列開始。入場開始は予定より20分遅れた6時50分。中はおどろくべし、畳じき! 暖房完備とは石油ストーブのこと。おそろしく狭いテント中に800人をつめこむのに又々時間をかなり費し、開演は7時半。しかもはじめはつげ義春の劇画の幻燈だったから、コンサートが始まったのは7時40分。森田童子はとくいのモジャラモジャラ頭と黒のグラサンで、顔なんかほとんどわからぬ。詩を朗読しているような喋り方の語りが曲と曲の合い間にしばしば入り、なんかきいてる方としては気が気でなく、はらはらしていると又曲になり、ほっとし、てなかんじで15曲うたって一応終り、アンコールかかって2曲うたい、又アンコールで1曲やり、さらにアンコールでもう1曲。合計19曲。終了は9時20分頃か。アンコールの頃は、足は氷の如くひえきって、又尻は不自然な座り方を長時間していたため痛みが走り、寒さ故ぼうこうは悲鳴をあげ、もー、なんたる三重苦! 終了するや否や尻をさすりつつ便所にかけこめば、際限なく、でるわでるわ、自分でこわくなっちった。

森田童子「ねじ式」
黒色テント劇場B
12月5日(土)於:国鉄両国駅西口構内

【曲目】

1. 菜の花あかり
2. きれいに咲いた
3. ぼくたちの失敗
4. 蒼き夜は
5. 春爛漫
6. 雨のクロール
7. ぼくと観光バスに乗ってみませんか
8. ふるえているネ
9. グリーン大佐答えて下さい
10. 水中花
11. ラスト・ワルツ
12. セルロイドの少女
13. ぼくを見かけませんでしたか
14. 憂鬱デス
15. 友よ泣かないのか
16. 風さわぐ原地の中に(アンコール)
17. 地平線(アンコール)
18. さよならぼくのともだち(アンコール)
19. センチメンタル通り(アンコール)

ま、なかなか興味深いコンサートだったと思いますね。いってよかった。ウン。もーれつに感動した、とかいうんじゃなかったけど、心に残るものがあった気がする。又、行きたい、と思う時があるかも知れん。しかし寒かったなあ。風邪を引いたよーです。

日記は以上である。前々回のブログと比較すると、人間の記憶がかなり不確かであることがよくわかる。寒かったものの、当日は雨ではなかったようだし、「ぼくと観光バスに乗ってみませんか」はアンコール曲ではなかった。コンサートが始まる前に、つげ義春の漫画「大場電気鍍金工業所」を投影して見せていたことなどもすっかり記憶から抜け落ちていた。ただ、アンコールのあたりで尿意を必死に耐えていたことは、ほぼ記憶のとおりであった。やはり肉体で味わった苦痛は、通常のエピソードなどより深く脳裏に刻まれるのであろうか。
それにしても、テント公演で800人の入場者というのはかなりのボリュームである。公演は5日行われたので、全日その入りだったとすると、4,000人動員ということになるのだが…(結構すごいぞ)。もっとも、この日は土曜ならではの大入りで、ほかの日はこれほどではなかったのかも知れない。ひとつ不思議なのは、どうして入場者が800人だと知ったかということ。当時の自分に問いただしてみたい。

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この時のコンサートのフライヤーがこちら(現物はたしかに所有していたのだが見つからなかったため、ネットに漂っていたものをお借りしました)。ここに、
「あと何年か後には、駅前にテントを建てる事は殆んど不可能になるでしょう。私たちのコンサートが不可能になっていく様を見て欲しいと思います。そして、私たちの歌が消えてゆく様を見て欲しいと思います」
という本人のコメントが記載されている。



最後に、森田童子に追悼の意を表して、私のギター&ボーカルで、「ぼくを見かけませんでしたか」をyoutubeにアップしてみた。といっても歌いおろしではなく、当時の弾き語りである(前々回のブログで「カセットデッキ2台を駆使して、ある曲のコピーに挑戦したのだが…」と書いたのがこれ)。大変つたないものだが、まだ森田童子が活動していた時代の息吹きを感じていただければ幸いである。


posted by taku at 20:03| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月16日

さらばキユーピーエルドレッシング

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左が新ラベル、右が旧ラベル。もともとは1/3ドレッシングという商品名だった(2008年、名称とラベルの変更時に撮影)

「キユーピーエルドレッシング」が、残念ながら販売終了となった。10年越しのヘビーユーザーとしてはかなり深刻なダメージである。なぜなら、これに変わる商品が見当たらないから(具体的な点は後述する)。

異変に気づいたのは数ヶ月前くらいだった。近所のバリューローソンの棚から姿を消し、代わりにローソンのオリジナル商品が並んでいたのである。しかし、そのあとで訪ねた駅前のCan☆Doではその姿が確認できたので、単にバリューローソンが取り扱いをやめただけかと思っていた。しかし、先日Can☆Doに行ってみたところ、ここでもその姿を見ることはできず、嫌な予感がして、帰宅後すぐにキユーピーの公式サイトを閲覧してみたが、エルドレッシングの名前はどこにもなかった。

最終確認の意味で、メーカーのお客様相談室に電話を入れてみた。

私「10年以上、おもに100円ショップで見かけていた『エルドレッシング』…、イタリアン、ごま、サウザンアイランドなど何種類か出ていたと思うんですが、最近まったく見かけないくなってしまいました。これは製造中止ということでしょうか」
相談室「そうなんです。100円ショップ専用で出していたんですけど、もうそのシリーズ、製造はしておりませんで…」
そうか、エルドレッシングは100円ショップ「専用」商品だったのか。どうりで普通のスーパーで見かけなかったわけだ。
私「代替商品の発売予定とかはないんですか?」
相談室「そうですね…。エルドレッシングは油の少ないタイプで、さっぱりした口当たりがご好評だったんですが、今のところ、オイルを使っていて低オイルという商品は、お出ししていないですね」
私「今おっしゃった、オイルを使っているんだけど低オイル、というのがすごくいい具合で(これがこの商品の唯一無二のところなのだ!)、割とファンの方もいらっしゃったと思うんですが」
相談室「そうだと思います…」
私「個人的には『イタリアン』が一番お気に入りでして。今現在、キユーピーさんがお出しの通常の『イタリアン』だと、ちょっと油が多めなんですよね」
相談室「そうですね…」
実際、ラベルの原材料名を見ても、通常の『イタリアン』が「醸造酢、食用植物油脂、ぶどう糖果糖液糖、食塩…」なのに対し、エルドレッシングの『イタリアン』は「醸造酢、ぶどう糖果糖液糖、食用植物油脂、レモン果汁、食塩…」となっている。原材料名は使用重量の多い順に記載するきまりがあるので、これを見ても、エルドレッシングが低油脂であることは明らかである(もともとの名称だった「1/3」は、油脂が従来品の3分の1という意味だろう)。
私「結構長いこと使っていまして、いつまでもあるとあるように思っていたものですから…」
これは事実である。通常のサラダ、マリネ、時には冷奴にもかけたりした。一体何本消費したのか、数え切れないくらいだ。
相談室「そういったご意見はよくうかがっていまして、担当部署には伝えてありますので…」
どうやら、私以外にもエルドレッシングについての問合わせをする人は少なからずいるようだ。まあ、あれだけのロングセラー商品だし、それも当然だろう。
私「じゃあ、是非復活リクエストがきていることを上にお伝えしてください!」
相談室「わかりました。お電話ありがとうございました」
ということで電話は終わったのであるが、果たしてエルドレッシングの復活はありうるのだろうか。そもそも、そこそこ売れていたように思っていたこの商品が、どうして販売中止になったのかがわからない。価格が安いため、あまり利益が見込めなかったのか。いや、それを言うなら、キユーピーの商品はどれもそれほど高価格ではないぞ。…などと、経済音痴の私が、電話を切ったあとも、あれこれ想像をめぐらしたのだった。

「ドレッシングひとつでどうしてそこまで熱くなるのか。他のメーカーの商品を探せばいいじゃないか」
という声も聞こえてきそうである。実際、私もこの電話のあと、大型スーパーのドレッシングコーナーに立ち寄って、かなりの時間を費やして「後任」候補を探してみた。しかし、エルドレッシングに代わるものは容易に見つからない。種類自体はものすごく増えているのだが、なんだか新奇な趣向を凝らしたテイストのものが多く、シンプルなイタリアンなどは一番軽視されている感じだ。また、オイルありかノンオイルか、という区分けがきっちりなされていて、先ほどから何度か書いた、オイルを使っているんだけど低オイルという商品はなかなか見出すことができない。

もともと、歯磨きにせよ、シャンプーにせよ、肌着にせよ、日常的に使うものに関しては、一度ベストフィットするものに出会うと、他を使う気がしなくなる「本命第一主義」なので、今回のように、それが突然になくなった時には、かなり難儀な思いをするのである。
posted by taku at 19:46| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月12日

森田童子の訃報

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森田童子が4月に亡くなっていたという。引退宣言をするでもなく姿を消し、「高校教師」で話題を集めた際にもカムバックせず、ついに本名も素顔も明らかにすることなく静かにこの世を去った。最後までおのれの美意識に忠実な人生を送った人という印象を受ける。

かつて1度だけ、彼女のコンサートを聴きに行ったことがある。1981年の12月、冷たい雨の降る夜だった。場所は両国だったか(当時の日記を見ればはっきりするのだが)、駅前広場に特設テントをしつらえての公演だった。

当時の私は高校3年生。大学受験の2ヵ月前だが、もはや現役合格はなかば諦めていた。何も面白いことが見出せず、鬱々と日を送っており、そんな当時の心情に彼女の切ないボーカルがマッチしたのだろう。そのころ増え始めていたレンタルレコード店(まだレンタルビデオ店はなかった)でアルバム4枚を借り、カセットテープに録音して繰り返し聴いていた。

さて、そのコンサートだが、残念ながら、細かい記憶はほとんど抜け落ちている。本物の森田童子を間近かで見たという胸の高鳴りも、感じたのか感じなかったのか…。もっとも、曲が曲なので、観客も全体にテンションは低めであり、公演は淡々と始まり、淡々と進行していった。数曲ごとにぽつりぽつりとMCをはさんで…、という流れは、アルバム「カテドラル聖マリア大聖堂録音盤」と同じ感じで、代表曲というべき「さよならぼくのともだち」「ぼくたちの失敗」「セルロイドの少女」「雨のクロール」などはすべて歌われたはずだ。そして、終盤ではそれなりに盛り上がって、アンコールも2曲くらいはあったような気がする(そのうちの1曲は「ぼくと観光バスに乗ってみませんか」だったような…。この時は観客一同手拍子をして会場も結構盛り上がった)。大変寒かった日で、私はコンサートの中盤ごろから尿意を催しており、さりとて中座するのはもったいなく、何とか終演までガマンしたのだが、アンコールあたりはかなり辛く、早く終わってほしいという生理的欲求と、もっと聴いていたいという文化的欲求が大いに葛藤していた。そして終演後、駅のトイレに駆け込んだ時は、人間の膀胱はこんなに広がるものかと驚くほど、とめどなく放尿が続いたことを鮮明に覚えている(追悼文なのにこんな内容ですみません)。

その翌年、私は予想通り大学受験に失敗、その翌年も失敗し、計2年間の浪人生活を送ることとなり、一方、森田童子はその間(1983年)に活動を休止してしまうので、まさにその夜のコンサートは「一期一会」であった。彼女は、たしかこの時に、「私たちのコンサートができなくなる様を観てほしい」というような意味深なことを言っていたが、実際そのとおりになってしまったのである。早いもので、あれから37年の歳月が流れ去っていった。

森田童子の歌の魅力については、すでに多くの人が語っているし、またこれからも語られていくだろうから、あえて口をはさまずにおきたい。ただ、ひとつだけ特筆しておきたいことがある。
私は当時、フォークギターをかじっていたので、お気に入りの「かぐや姫」や「風」を弾くのに飽きると、少し趣向を変えて、森田童子のナンバーの弾き語りに手を染めたりしていた。彼女の歌はメロディもコード進行もシンプルなので、楽譜がなくても割と楽に音を拾うことができたのである。
しかし、湧き水のように冷えびえと透き通ったあの「歌声」、そして、その底に流れる「諦観」は、真似ようとしても真似られるものではなかった。1度、カセットデッキ2台を駆使して、ある曲のコピーに挑戦したのだが、仕上がりを聞いて、そのお粗末さに嘆息したことがある。心象風景は、コピーのしようがないのだ。

報道によれば、森田童子は1952年生まれ。当時はまだ20代だったはずなのに、すでに人生におけるあらゆる戦いに敗れたような疲労感や絶望感、悲哀などを幾重にも身にまとっている印象だった。彼女の歌には「悲しい」「淋しい」という単語が割と頻繁に登場するが、そんな言葉など使わなくても、ただあの声で歌われるだけで、充分に人生の哀感は伝わるように感じたものだ。
今回の訃報に接して、「まだ生きていたのが意外だった」という声が少なからずあるようだが、自分もある意味で同感だ。森田童子は青春のただなかにいながら、すでにして人生の終わりの淵に腰を降ろし、そこで歌をうたい、ギターを奏でていたのである。
「若さは必ずしも生の躍動と結びつくものではない、そしてまた、若さゆえに絶望は鮮血を噴き出す…」
そんなことを教えてくれた不世出のシンガーソングライターに、あらためて哀悼の意を表したい。
posted by taku at 18:58| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする