2019年04月30日

平成の終わりに

今日で平成も終わりである。節目の日でもあるので、この30年の映画製作の変遷を、個人の目線でざっくり振り返ってみたいと思う。

平成元年は1989年。今からちょうど30年前だ。当時の自分はまだ、映画製作は8mmフィルムで行っていたが、すでに8mmカメラは生産が終了しており、ハードとして過去のものになりつつあったため、そのころ台頭してきていたS-VHS-Cのビデオカメラを初めて購入したのがこの年だった。そのカメラで撮ったのが、『とおい渚』という40分の作品。鎌倉の海でロケを行った。この時もほぼノースタッフ。『浜の記憶』とあまり変わっていない。ただ、その当時のS-VHS-Cの画質はとうてい劇場で公開できるクオリティではなく、この作品も、S-VHSで完パケしたあと、ほとんど人に見せることもなく終わった。そのころ劇場で公開するには、最低でも16mmフィルムで撮影することが必要で、だから、1993年(平成5年)に撮った『カナカナ』も、1998年(平成10年)に撮った『火星のわが家』も、16mmで撮影している(『火星のわが家』は、スーパー16mmで撮影したあと35mmにブローアップ)。16mmフィルムカメラは専門性が高いので、自分がカメラを回すことは難しく、プロのカメラマンにお願いした。

ただ、この2作品のあいだ、1995年(平成7年)にソニーがDCR-VX1000というデジタルビデオカメラを発売し、これが、デジタルシネマの普及にひと役買ったように思う。自分も、1996年(平成8年)にこのカメラを購入(当時、16万円くらいだった)、同じ年に撮った作品は、ヨコシネディーアイエーでデジタルキネコ(ビデオ映像を16mmフィルムに変換すること)を行って、劇場公開の可能性を模索したりした。

2000年(平成12年)以降はもっぱらこのカメラで作品を撮り、劇場公開ではなくオリジナルビデオ作品として発表した。そのうち、世はデジタルシネマが本格化し、2007年(平成19年)の『凍える鏡』はパナソニックが開発したP2カード記録方式のハイビジョンカメラAG-HVX200で撮影している。仕上げもパソコンで行い、上映はHDカムで行った。このあたりから、フィルムで撮らない映画が増えてくる。

そして現在、映画用フィルムの国内生産は終了し、ほぼすべての映画はフィルムで撮られなくなった。自分が最近劇場で公開した『影たちの祭り』(2013・平成25年)、『鎌倉アカデミア 青の時代』(2017・平成29年)、この夏公開する『浜の記憶』は、いずれもハンディタイプのハイビジョンカメラで撮影したもので、カメラも軽く操作も簡単なため、カメラマンのお世話になることなく、すべて自分でこなしている。はるか昔、中学、高校、大学と8mmフィルムで作品を撮ったころに回帰している感じだ。

平成の30年は、映画がフィルムという記録媒体から完全に訣別した歳月だったといえると思う。メディアがフィルムからビデオへと変化したことで、パーソナル化が進み、手軽に映画作品が作れるようになったのはたしかだが、その反面、画面がどこか日常的になり、迫力や風格、虚構性が乏しくなってきた感は否めない。

明日から新しい元号が始まる。映画はこの先、どのようなメディアと混交し、いかなる変遷、発展をとげていくのだろう。

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2019年04月23日

追悼 川久保潔さん

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声優の川久保潔さんが16日に亡くなった。享年89。

川久保さんとの付き合いはとても長い。物心ついたころからであるから50年以上だろうか。鎌倉アカデミア演劇科の第2期生で、私の父・青江舜二郎の教え子。学校がなくなったあとも、数人の教え子たちが、年に何回かわが家に遊びに来ていて、それは青江が病気で倒れるまで続いたが、その中に川久保さんの顔もあった。川久保さんの低音の声はひときわよく通り、その笑い声が家じゅうに響きわたっていたのをよく覚えている。

当時はテレビが家庭での娯楽の王様。わが家でもゴールデンタイムはほとんどテレビ三昧だった。その時見ていたテレビのアニメや洋画の吹き替えなどで思いがけず川久保さんの声を聴くと、家族で「ああ、出た!」と、大いに盛り上がったものである。あまり特撮ものには出なかった川久保さんだが、「ロボット刑事」(1973)では敵組織・バドーの首領の声をやっている。そのころ家に遊びにきた時には、私のカセットテレコに、
「今週はスプリングマンと、ロッカーマンが出てくるよ」などと首領の声のトーンで語ってくれたこともある。

時は流れて1983年。青江が亡くなった時には通夜、葬儀ともに駆けつけ、焼き場から骨が戻った際は、
「あの青江先生が、こんなに小さくなってしまうんだからなあ…」
と、祭壇に向かってつぶやいていた姿も忘れられない。

それから10年後の1993年に私が『カナカナ』という最初の劇映画を撮った時は、ヒロインの父親役で、ノーギャラで出演してくれたり、さらに、2004年に録音した、青江の生誕100年記念のボイスドラマ『水のほとり』でも、日下武史さん、柳澤愼一さんと絶品の声の芝居を聴かせてくれた。

2015年の暮れには『鎌倉アカデミア 青の時代』にインタビュー出演という形で出ていただき、当時のエピソードを2時間以上お話ししてくださった。さらに、この映画が公開された一昨年の5月には、アフタートークのゲストとして、若林一郎さんとともにK's cinemaのステージにも登壇してくれている(上写真)。ステージでは元気を装っていらしたが、この時にはすでにお痩せになっており、終わったあと楽屋で、「実は、この間、肺がんのステージ4と宣告されてね…」と、声を落とされていた。いきなりの話でこちらも驚いたが、なんと声をかけてよいのかわからなかった。そばにいた若林さんは、「まあ、年寄りのがんは進行も遅いから…」と慰めていらしたのだが…。

令和の改元を待たずして、いろいろな人がいなくなっていく。実に淋しいものである。
謹んで、川久保潔さんのご冥福をお祈りいたします。
posted by taku at 11:39| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする