2020年12月31日
2020年の終わりに・発表!がっくり10大ニュース
世界的な災厄に見舞われた最悪の年、2020年が終わろうとしている。
本当にロクなことがなかった。振り返って見ても、思い出されるのはネガティブな出来事ばかりで、楽しいエピソードはほとんどない。必然的に愚痴も多くなると思うが、個人ブログということでご容赦いただきたい。とりあえず備忘録的な意味合いで、今年の「がっくり10大ニュース」を書き止めておくことにする(社会性のあるものもないものも一緒くたです)。
1)新型コロナ禍(1月〜)
これについては説明も不要だろう。収束するどころか増加の一途、しかも変異種まで出てきている。マスク生活や移動制限がいつまで続くのか、誰にもわからない。しかし今年2月ぐらいの段階では、「夏ごろには収まるんじゃない?」と思っていた人が大半だったように記憶している。今思うととんでもない楽観論である。
2)Windows7サポート終了(1月14日)
2013年にXPから乗り換えて使ってきた7がついにサポート終了。インストール時に四苦八苦して以来、10との相性は最悪で、依然としてオペレーションにストレスを感じる日々が続いている。どうしてどんどん「人に優しくないパソコン」に進化していくのか。理解に苦しむ。
3)加藤茂雄さん逝去・『浜の記憶』公開からわずか1年(6月14日)
この件については、いまだにもやもやして仕方がない。加藤さんはすでにあちらの世界で、奥様や懐かしい仲間たちと再会していると思いたいが、残されたこちらは、罪深い映画を作ってしまったのではないかという自責の念から逃れることができない。8月16日に閉幕した鎌倉での追悼上映会のレポートをきちんと書けないのも、自分の中で相対化できていないことの表れだろう。「老い」と「死」は誰しも避けられないこととは知りつつ、それをテーマにした映画に93歳の加藤さんを担ぎ出したのは、いささか思慮が足りなかったのではないかと今でも思う。「2年経ったらまた来ます。2年なんてすぐですよ」これはヒロインの最後のセリフだ。なんと残酷なひとことだろう。その2年の間に加藤さんはいなくなってしまったのだ。
4)レジ袋有料化(7月1日)
スーパーなどに行く際、袋を持参するのはいいとして、日常生活においては予定外の買い物というのもあるわけで、そんな時に店が袋を提供するのは一般的なサービスの範囲だと思うのだが。何より、コロナ禍で人々が衛生問題にことさら敏感になっているタイミングで、あまり衛生的といえない(場合もある)袋の持参を推奨するような施策を断行したのは大いに疑問である(2011年3月に東日本大震災が起きた4ヶ月後、各種インフラが平常時にまで回復していない中で、7月にテレビの地デジ化が断行された時にも同じことを感じた記憶がある。どうして世の為政者は「状況を見て予定を変更する」という柔軟な判断ができないのか)。
5)野尻湖グリーンタウン管理のK氏退職・勤続48年(8月24日)
ここら辺からはかなりローカル&プライベートな話題。黒姫にある山荘の管理組合「野尻湖グリーンタウン」のスタッフとして、半世紀近く勤務してきたK氏がこの夏で退職。私が小学校の時から知っている方で、毎年夏、山荘に行った時には何かとお世話になってきた。温順な人柄で、彼を管理事務所に訪ねて少しの時間世間話をするのが、単調な山荘生活でのリフレッシュのひとときでもあった。山荘の開け閉めから敷地内の草木の伐採、荷物の運搬、冬の雪下ろしに至るまで、すべてK氏に頼んで手配してもらっていた。今後それができなくなるのは実に心細い。K氏は黒姫に「いつまでもいる人」と思い込んでいたのだが、諸行無常、何事にも終わりはあるものだ。
http://www.nojiriko-greentown.com/wp_public/?p=3772
6)N○WのT氏退職内定・勤続24年(11月6日)
1997年の開講以来、幾多の映画人を世に送り出したN○W。私も2013年までゲスト講師として出入りしてきた映画の学校だが、そこでクリエイター部門の統括をしていたT氏が来年3月で退職することになったと本人から聞かされる。まだ正式に発表する段階ではないのでイニシャルだが、かなりショックな出来事であった。T氏とは1995年の『カナカナ』公開年からの付き合いで、『火星のわが家』『凍える鏡』でも現場で苦楽をともにした仲。彼がN○Wにいるおかげで、私もかろうじて昨今の若手映画人の情報をある程度つかむことができていたのに…。前述した黒姫のK氏と同様、T氏も、N○Wに「いつまでもいる人」と思い込んでいたのだが、諸行無常、何事にも終わりはあるものだ。
7)さがみはら陽光台食堂閉店(11月10日)
これも地味にショックな出来事。オーケーストアに買い物に行く時よく利用していた、さがみはら陽光台食堂が突然の閉店。好きなおかずをトレーに取って、キャッシャーでご飯と豚汁を頼んで、という流れが学食みたいで好きだったのに。コロナの影響もあってか、少しお客さんが減った感じはしたものの、お弁当のテイクアウトもやっていたし、そこまで逼迫しているようには思えなかった。まだまだこの地域にあり続けると思い込んでいたのだが、諸行無常、何事にも終わりはあるものだ。
8)新宿TSYTAYA閉店、25年の歴史に幕(11月15日)
もう秋以降はこんなのばっかり。1995年の開店以来、屈指の品揃えを誇っていた新宿TSYTAYAがまさかの閉店。もはやレンタルの時代は完全に終わったと感じる。オープンした1995年は上にも書いたが『カナカナ』公開の年で、したがって私の劇場映画デビューとともに歩んできた忘れがたき店舗である。1996年に『カナカナ』をビデオ化(時代はまだVHSがメインだった)した時も、2000年に『火星のわが家』をビデオ化した時も、発売日に、何本並んでいるかこの新宿店に確認しに行ったものだ。2000〜2001年にビデオオリジナル作品を5本立て続けにリリースして、監督別の棚に「大嶋拓」コーナーが作られたりもした。レンタル全盛のころである。新宿店にあった今や貴重なVHSの在庫は、渋谷TSYTAYAに移されたそうだが、小田急線人の私としては、やはり新宿から店舗が消え去った淋しさが強い。またしても諸行無常、何事にも終わりはあるものだ。
https://www.bcnretail.com/market/detail/20201007_194014.html
9)小田急バス減便、1時間に1本に(11月16日)
M駅北口からM大学正門まで運行している小田急バスがこの日から減便となり、昼間はなんと1時間に1本のローカルバスとなる。この間までは1時間に2本、そのさらに数年前までは1時間に3本もあったのにと、急速な減便に頭を抱えるばかりである。私は実家に行く際にこのバスを利用しているのでかなりショックが大きい。だがこれもまた諸行無常、何事も同じ形を留めるということはないのだ。
10)母の老化
昨年の12月に自転車に追突されて左手首を骨折して以来、いろいろと不具合が多くなり、今年の秋にも自宅内と外で連続転倒、ついに通常歩行ができなくなり外出も不能となる。現在は訪問リハビリを週に2回受けているがもうすぐ89歳、どこまで回復できるか実に心もとない。人生はどこまでも諸行無常、「若さ」も「健康」も確実に損なわれていく。同じ形のまま留まるということは許されないのだ。
付記)著名人、亡くなりすぎ
これは何年も前から感じていたことが、自分が幼少期や青年期(そして現在)、影響を受けた映像や音楽、書物、美術作品などに関わっていた人たちが次々この世から去っていく。今年はいつにも増して多かったように思う。まさに諸行無常のオンパレード。ここまで来ると淋しいというより、ただただ心細く感じてしまう。
1月2日 上原正三(脚本家)
1月12日 青山京子(俳優)
1月13日 坪内祐三(評論家)
1月18日 宍戸錠(俳優)
1月19日 原知佐子(俳優)
1月21日 まついなつき(漫画家、エッセイスト)
1月30日 藤田宜永(小説家)
1月31日 内田勝正(俳優)
2月18日 古井由吉(小説家)
2月21日 勝田久(声優、俳優)
3月17日 松田政男(映画評論家)
3月21日 宮城まり子(女優、歌手、ねむの木学園園長)
3月21日 増岡弘(声優、俳優)
3月21日 伊井篤史(声優、俳優)
3月22日 やながわ理央(漫画家)
3月28日 堀川とんこう(テレビプロデューサー、演出家)
3月29日 志村けん(コメディアン)
3月31日 佐々部清(映画監督)
4月2日 伊地智啓(映画プロデューサー)
4月3日 C・W・ニコル(作家、環境活動家)
4月3日 志賀勝(俳優)
4月5日 素九鬼子(小説家)
4月10日 大林宣彦(映画監督)
4月20日(遺体発見日) ジャッキー吉川(ドラマー、バンドリーダー)
4月20日 志賀廣太郎(俳優)
4月23日 小島一慶(フリーアナウンサー)
4月23日 岡江久美子(俳優)
4月24日 開米栄三(怪獣造形家)
4月27日 田口勝彦(映画監督)
4月28日 金内喜久夫(俳優)
5月12日 ジョージ秋山(漫画家)
5月24日 関口欣也(建築史家、横浜国立大学名誉教授)
5月25日 ユミコテラダンス(ダンサー、女優)
6月11日 服部克久(作曲家)
6月16日 五島勉(作家)
7月2日 桑田二郎(漫画家)
7月3日 渡辺典子(元声優、映画監督・渡辺護の妻)
7月10日 吉川進(テレビプロデューサー)
7月16日 森崎東(映画監督)
7月18日 三浦春馬(俳優)
7月21日 山本寛斎(ファッションデザイナー)
7月21日 弘田三枝子(歌手)
7月30日 外山滋比古(英文学者、評論家)
8月2日 立石涼子(俳優)
8月2日 轟二郎(コメディアン)
8月10日 渡哲也(俳優)
8月11日 宅八郎(評論家)
8月11日 須藤甚一郎(芸能リポーター、区議会議員)
8月13日 桂千穂(脚本家)
8月14日 宮内淳(俳優)
8月19日 恵口公生(漫画家)
8月25日 梅野泰靖(俳優)
8月28日 岸部四郎(タレント、俳優)
8月28日 階戸瑠李(俳優、元グラビアアイドル)
8月?日 大月ウルフ(俳優)
9月14日 芦名星(俳優)
9月20日 藤木孝(俳優)
9月27日 富田耕生(声優)
9月27日 竹内結子(俳優)
10月4日 高田賢三(ファッションデザイナー)
10月6日 まつもと泉(漫画家)
10月7日 筒美京平(作曲家)
10月12日 森川正太(俳優)
10月17日 近藤等則(トランペット奏者)
10月27日 大城立裕(小説家)
10月29日 佐江衆一(小説家)
11月11日 岩名雅記(舞踏家、映像作家、元声優)
11月18日 岡田裕介(映画プロデューサー)
11月20日 矢口高雄(漫画家)
11月27日 一峰大二(漫画家)
12月1日 金城茉奈(俳優、モデル)
12月3日 花村えい子(漫画家)
12月4日 佐久田脩(声優、俳優)
12月7日 小松政夫(コメディアン、俳優)
12月9日 織田無道(僧侶、タレント)
12月11日 キム・ギドク(映画監督)
12月13日 浅香光代(俳優)
12月13日 小谷承靖(映画監督)
12月17日 林家こん平(落語家)
12月18日 宅間秋史(映画/テレビプロデューサー)
12月20日 中村泰士(作曲家、作詞家)
12月23日 なかにし礼(小説家、作詞家)
12月30日 井上泰治(映画監督)
そうこうしているうちに2020年もそろそろ終わりである。はてさて、来年はいったいどんな年になることやら。
2020年12月14日
世紀の大発見!『現代コミクス ウルトラマン』後日譚(2)
前回につづき、1966〜67年に現代芸術社から刊行された「ウルトラ」関連書籍の原画等を紹介していきたい(前回記事はこちら)。
まずは『ウルトラマンカード』に収載されたイラストの数々。前回紹介できなかったものを一気に公開。最初の6枚は「ウルトラマン」の美術デザイナー・成田亨自身による貴重な直筆画である。
ミイラ人間とウルトラマン(デザイナー権限でカラータイマーは無視)。
シュールな形のブルトン。「アンドレ・ブルトン」より命名。
赤い怪獣、火炎を吐くバニラ。
対する青い怪獣アボラスは、何でも溶かす溶解泡を吐く。
日本アルプスに出現したギガス。
ギガスと対戦したドラコは彗星ツイフォンより飛来。
成田の描く怪獣は描線も細く、絵画というよりイラストと呼んだ方がぴったりくる感じがする。
ここからの3点は藤尾毅の画。前回のジラースもそうだったが、藤尾の描く怪獣はまさに「獣」の生々しさに溢れており、成田のグラフィカルな筆致とは対照的。第1話に登場のベムラー。
ネロンガと戦うウルトラマン。
モングラーと戦うウルトラマン。モングラーは「ウルトラQ」の怪獣なので、実写作品にこうしたシーンはない。まさにドリームマッチ。『ウルトラマンカード』からはここまで。
『ウルトラマン 決定版!怪獣カード』より「ウルトラQ」のゴロー。画は小林弘隆。
ちなみに小林弘隆は昭和初期に「挿絵界の三羽烏」と謳われた小林秀恒の次男で、そのご子息・小林秀樹さんもイラストレーターという三代にわたる絵師の家系。
『ウルトラマン 決定版!怪獣カード』より「ウルトラQ」のタランチュラ。童話の挿絵のような独自のタッチは河島治之。
「ウルトラQ 宇宙指令M774」フォノシート実物(上)と、その原画。テレビでは見られないボスタングの雄姿。
『世界大怪獣カード』の表紙。
原画は前村教綱によるもの。 描かれているのはガメラとバルゴンなのだが、パッと見ではそうとわからない。前村が本格的に怪獣画を描き始めるのはこれより少し後らしいので、まだ勘所をつかんでいなかったのだろう。
『ウルトラマン 決定版!怪獣カード』の付録「怪獣パノラマ」。
成田亨による原画はこちら。背景(燃えるビル街)は小林弘隆が担当。
『ウルトラマン・怪獣 きりぬき仮面』の表紙。
その原画。執筆は石原豪人。ウルトラマンの奇抜なポーズと全体の不安定な構図が幼児のころ気になって仕方がなかったが、今見てもやはり奇抜で不安定である。
『キャプテンウルトラ画報』の表紙。
その原画。こちらも執筆は石原豪人。リアリズムを超えた迫力というか、とにかく画全体から発せられる強烈なパワーに圧倒される。キャプテンの顔が西洋人風。
フォノシート「テレビマンガのうた」のジャケット。
その原画。井上英沖が『少年画報』に連載していた「サンダー7」をジャケット用に描き下ろしたもの(魔人ガロンと正太郎くんのパチモンにも見える)。
『現代コミクス増刊2 ウルトラマン』1月号に掲載の「グリーンモンスの巻」の生原稿。岸本修によるもので、現在も単行本未収録。
『現代コミクス ウルトラマン』表紙シリーズ。
7月号(サイゴ、シーボーズ)
8月号(グビラ、ダダABC)
特別増刊『ウルトラマン怪獣大全集』(ヒドラ、ネロンガ、ドドンゴ)。これらの原画3点はすべて柳柊二。
最後に、成田亨による掲載誌不明の恐竜イラスト。成田が実在の恐竜を描くのはかなり珍しいのでは?
以上の原画や原稿はすべて、現代芸術社社長だった長嶋武彦氏(昨年10月に99歳で逝去)のご自宅の居間のテーブルで拝見し、その際に一眼レフカメラで撮影したものだ。スキャンしたわけではないので、よく見ると上下左右で明るさが微妙に違っている。立ち会ったのは武彦氏の次男で、現在鎌倉市議会議員をされている長嶋竜弘さん。
私とはひとつ違いの1964年生まれで、したがって初代「ウルトラマン」をぎりぎりリアルに知る世代に属する。そうした親近感もあって、かなり長時間におよぶ「開陳」となった(細かく言うと、訪問は2回。最初は鎌倉市川喜多映画記念館のM谷さんに連れられて行き関連資料の半分を拝見、その後、あらためて訪問し残りの半分を見て、主なものを撮影)。
ここで、長嶋武彦氏の経歴をご紹介しておこう。
以上はおもに詩集の略歴からの抜粋だが、これを読んだだけでも、多彩な分野で精力的に活動された教養豊かな方だったことがしのばれる。亡くなる少し前までお元気であったと竜弘さんはおっしゃっていたので、もう少し早く消息がわかっていたら、お目にかかってお話をうかがえたのに…と残念に思う。
ちなみに、2014年4月に長嶋武彦氏の94歳のお祝いをした富樫宥太さんというミュージシャンのブログがこちら(どういう関係なのかは不明だが、武彦氏のことを「師匠」と呼んでいる)。
これを読むと94歳でなお矍鑠(かくしゃく)としていたことがわかる(加藤茂雄さんも顔負け)。さらに言うと、このブログを書いていた富樫宥太さんは1964年1月生まれで竜弘さんや私と同世代なのだが、なんと昨年の1月に55歳で急逝したそうである。師匠である武彦氏より9ヶ月も早かったのだから何ともやり切れない。
なお、現代芸術社でのフォノシート出版事業のことは、ご本人が当時を回想した文章(インタビュー?)をこちらのページで読むことができる(当然ながら長嶋家には当時のフォノシート出版物も大量に保管されている)。
その文中に、
65年頃から、フォノシートにかげりがでてきました。大きくなった世帯を維持するために、いろいろなものを出しました。
という記述があるが、その「いろいろなもの」のひとつが、当時大人気だったウルトラマンを題材にした『現代コミクス ウルトラマン』や「怪獣カード」シリーズだったのだろう。
なお、このブログで紹介したのは、長嶋家に残っていたもののごく一部だが、『現代コミクス ウルトラマン』やそれ以外の「ウルトラ」関連出版物に関する限り、原画や原稿のたぐいはそれほど多くなかった。井上英沖による原稿はトータルでも10ページ以下だったし、成田亨の原画にしても、「怪獣カード」シリーズに書き下ろしたものの半分にも満たない。どうしてそんな不完全な形でしか残らなかったのか、それはもはや永遠の謎である。竜弘さんに言わせると、武彦氏はあまり過去のものには執着しない性分だったようで、逆に言えば、これだけでも手元に残ったのは、武彦夫人の配慮によるものだったのではないか、ということであった。
現在長嶋家では、竜弘さんと、「鳴神響一」のペンネームで精力的に小説を発表しているお兄様(武彦氏の長男)とで遺品の整理を進めているそうだが、それを後々どのようにするかはまだ決まっていないという。
「できることなら、どこかで一括して保存、あるいは公開などしていただいて、生前の父の業績を後世に伝えられるようになればいいと思うのですが…」
と竜弘さんはおっしゃる。私も作家の息子であり、父の業績をどう伝えていくかは人生における大きなテーマのひとつであるだけに深く共感したが、実際にはなかなか難しいところがありそうだ。とはいえ、竜弘さんは鎌倉市議で、お兄様も著述業。お二人の広範なコネクションを駆使すれば、私の心配などは杞憂で終わるようにも思う。とにもかくにも、鎌倉はまさに「秘めたる文化財」の宝庫であると、改めて思い知らされた出来事であった。
長嶋家の窓から鎌倉市街を望む
まずは『ウルトラマンカード』に収載されたイラストの数々。前回紹介できなかったものを一気に公開。最初の6枚は「ウルトラマン」の美術デザイナー・成田亨自身による貴重な直筆画である。
ミイラ人間とウルトラマン(デザイナー権限でカラータイマーは無視)。
シュールな形のブルトン。「アンドレ・ブルトン」より命名。
赤い怪獣、火炎を吐くバニラ。
対する青い怪獣アボラスは、何でも溶かす溶解泡を吐く。
日本アルプスに出現したギガス。
ギガスと対戦したドラコは彗星ツイフォンより飛来。
成田の描く怪獣は描線も細く、絵画というよりイラストと呼んだ方がぴったりくる感じがする。
ここからの3点は藤尾毅の画。前回のジラースもそうだったが、藤尾の描く怪獣はまさに「獣」の生々しさに溢れており、成田のグラフィカルな筆致とは対照的。第1話に登場のベムラー。
ネロンガと戦うウルトラマン。
モングラーと戦うウルトラマン。モングラーは「ウルトラQ」の怪獣なので、実写作品にこうしたシーンはない。まさにドリームマッチ。『ウルトラマンカード』からはここまで。
『ウルトラマン 決定版!怪獣カード』より「ウルトラQ」のゴロー。画は小林弘隆。
ちなみに小林弘隆は昭和初期に「挿絵界の三羽烏」と謳われた小林秀恒の次男で、そのご子息・小林秀樹さんもイラストレーターという三代にわたる絵師の家系。
『ウルトラマン 決定版!怪獣カード』より「ウルトラQ」のタランチュラ。童話の挿絵のような独自のタッチは河島治之。
「ウルトラQ 宇宙指令M774」フォノシート実物(上)と、その原画。テレビでは見られないボスタングの雄姿。
『世界大怪獣カード』の表紙。
原画は前村教綱によるもの。 描かれているのはガメラとバルゴンなのだが、パッと見ではそうとわからない。前村が本格的に怪獣画を描き始めるのはこれより少し後らしいので、まだ勘所をつかんでいなかったのだろう。
『ウルトラマン 決定版!怪獣カード』の付録「怪獣パノラマ」。
成田亨による原画はこちら。背景(燃えるビル街)は小林弘隆が担当。
『ウルトラマン・怪獣 きりぬき仮面』の表紙。
その原画。執筆は石原豪人。ウルトラマンの奇抜なポーズと全体の不安定な構図が幼児のころ気になって仕方がなかったが、今見てもやはり奇抜で不安定である。
『キャプテンウルトラ画報』の表紙。
その原画。こちらも執筆は石原豪人。リアリズムを超えた迫力というか、とにかく画全体から発せられる強烈なパワーに圧倒される。キャプテンの顔が西洋人風。
フォノシート「テレビマンガのうた」のジャケット。
その原画。井上英沖が『少年画報』に連載していた「サンダー7」をジャケット用に描き下ろしたもの(魔人ガロンと正太郎くんのパチモンにも見える)。
『現代コミクス増刊2 ウルトラマン』1月号に掲載の「グリーンモンスの巻」の生原稿。岸本修によるもので、現在も単行本未収録。
『現代コミクス ウルトラマン』表紙シリーズ。
7月号(サイゴ、シーボーズ)
8月号(グビラ、ダダABC)
特別増刊『ウルトラマン怪獣大全集』(ヒドラ、ネロンガ、ドドンゴ)。これらの原画3点はすべて柳柊二。
最後に、成田亨による掲載誌不明の恐竜イラスト。成田が実在の恐竜を描くのはかなり珍しいのでは?
以上の原画や原稿はすべて、現代芸術社社長だった長嶋武彦氏(昨年10月に99歳で逝去)のご自宅の居間のテーブルで拝見し、その際に一眼レフカメラで撮影したものだ。スキャンしたわけではないので、よく見ると上下左右で明るさが微妙に違っている。立ち会ったのは武彦氏の次男で、現在鎌倉市議会議員をされている長嶋竜弘さん。
私とはひとつ違いの1964年生まれで、したがって初代「ウルトラマン」をぎりぎりリアルに知る世代に属する。そうした親近感もあって、かなり長時間におよぶ「開陳」となった(細かく言うと、訪問は2回。最初は鎌倉市川喜多映画記念館のM谷さんに連れられて行き関連資料の半分を拝見、その後、あらためて訪問し残りの半分を見て、主なものを撮影)。
ここで、長嶋武彦氏の経歴をご紹介しておこう。
長嶋武彦(ながしま・たけひこ)
1920(大正9)年4月20日、福島県会津生まれ。早稲田大学文学部西洋哲学科卒業。1945(昭和20)年、大学院に進みドイツ浪漫主義を研究。『主婦と生活』編集部に1年勤務の後、文芸図書の装幀を行うアトリエ(生活美術)の経営、雑誌(「富士」「週刊映画」)編集や長嶋書房を自営。1960年10月、現代芸術社を創設。フォノシート出版や一般出版を手がける。1971年から1986年まで、劇団木馬座の代表取締役を務め、児童劇の制作、脚本を担当。1989(平成元)年に第一詩集『雲母(きらら)』(現代詩人叢書第8集/檸檬社)、1991年に第二詩集『峡(はざま)』(近代文藝社)を上梓。2019(令和元)年10月28日逝去。享年99。
以上はおもに詩集の略歴からの抜粋だが、これを読んだだけでも、多彩な分野で精力的に活動された教養豊かな方だったことがしのばれる。亡くなる少し前までお元気であったと竜弘さんはおっしゃっていたので、もう少し早く消息がわかっていたら、お目にかかってお話をうかがえたのに…と残念に思う。
ちなみに、2014年4月に長嶋武彦氏の94歳のお祝いをした富樫宥太さんというミュージシャンのブログがこちら(どういう関係なのかは不明だが、武彦氏のことを「師匠」と呼んでいる)。
これを読むと94歳でなお矍鑠(かくしゃく)としていたことがわかる(加藤茂雄さんも顔負け)。さらに言うと、このブログを書いていた富樫宥太さんは1964年1月生まれで竜弘さんや私と同世代なのだが、なんと昨年の1月に55歳で急逝したそうである。師匠である武彦氏より9ヶ月も早かったのだから何ともやり切れない。
なお、現代芸術社でのフォノシート出版事業のことは、ご本人が当時を回想した文章(インタビュー?)をこちらのページで読むことができる(当然ながら長嶋家には当時のフォノシート出版物も大量に保管されている)。
その文中に、
65年頃から、フォノシートにかげりがでてきました。大きくなった世帯を維持するために、いろいろなものを出しました。
という記述があるが、その「いろいろなもの」のひとつが、当時大人気だったウルトラマンを題材にした『現代コミクス ウルトラマン』や「怪獣カード」シリーズだったのだろう。
なお、このブログで紹介したのは、長嶋家に残っていたもののごく一部だが、『現代コミクス ウルトラマン』やそれ以外の「ウルトラ」関連出版物に関する限り、原画や原稿のたぐいはそれほど多くなかった。井上英沖による原稿はトータルでも10ページ以下だったし、成田亨の原画にしても、「怪獣カード」シリーズに書き下ろしたものの半分にも満たない。どうしてそんな不完全な形でしか残らなかったのか、それはもはや永遠の謎である。竜弘さんに言わせると、武彦氏はあまり過去のものには執着しない性分だったようで、逆に言えば、これだけでも手元に残ったのは、武彦夫人の配慮によるものだったのではないか、ということであった。
現在長嶋家では、竜弘さんと、「鳴神響一」のペンネームで精力的に小説を発表しているお兄様(武彦氏の長男)とで遺品の整理を進めているそうだが、それを後々どのようにするかはまだ決まっていないという。
「できることなら、どこかで一括して保存、あるいは公開などしていただいて、生前の父の業績を後世に伝えられるようになればいいと思うのですが…」
と竜弘さんはおっしゃる。私も作家の息子であり、父の業績をどう伝えていくかは人生における大きなテーマのひとつであるだけに深く共感したが、実際にはなかなか難しいところがありそうだ。とはいえ、竜弘さんは鎌倉市議で、お兄様も著述業。お二人の広範なコネクションを駆使すれば、私の心配などは杞憂で終わるようにも思う。とにもかくにも、鎌倉はまさに「秘めたる文化財」の宝庫であると、改めて思い知らされた出来事であった。
長嶋家の窓から鎌倉市街を望む