読売新聞夕刊で絵物語「緑はるかに」(作・北條誠 絵・中原淳一)の連載が始まったのが1954年4月12日。約1ヶ月後の5月19日夕刊には映画化決定の記事が載り、そして8月6日夕刊においてヒロイン・ルリ子役募集の告知がなされる。
読売新聞1954年8月6日夕刊
「緑はるかに」のルリ子*を一般募集
プロデューサー水の江滝子で映画化される本紙連載「緑はるかに」の主演ルリ子役を一般から募集する。応募要項次の通り。
十三歳から十五歳までの少女で、身長、体重を記入した簡単な履歴書一通、手札型以上の正面、横顔、正面全身の三種の写真(裏に住所氏名明記)を、東京都千代田区有楽町一の一日活株式会社宣伝部あて、八月三十一日までに送ること。
前にも書いたが、事前の宣伝を兼ねてヒロインを募集する、という手法は角川映画の「野性の証明」を完全に先取りしている。少なくとも私の知る範囲では、この作品以前にヒロインを一般公募した日本映画は思い当たらない。そういう意味では、「緑はるかに」は、「日活初の総天然色(コニカラー)映画」とともに、「日本初のヒロイン公募映画」という冠をつけてもいいのではないだろうか。
では、これ以降のヒロイン公募映画にはどんなものがあっただろう。ざっと以下のようなものが思い出される(漏れがあったらごめんなさい)。
1978年「野性の証明」 応募者 1,224人 薬師丸ひろ子
1980年「四季・奈津子」 応募者 9,500人 烏丸せつこ・佳那晃子・影山仁美・太田光子
1982年「伊賀忍法帖」 応募者 57,480人 渡辺典子 特別賞・原田知世
1983年 「アイコ十六歳」 応募者 127,000人 富田靖子
「野性の証明」の応募者が1,000人ちょっとと、知名度の割に少ないのが少々意外で、逆に「アイコ十六歳」は多すぎてよくわからない。「緑はるかに」は新聞報道によると「二千数百名」とのこと。
ちなみに、こうした公募の選考方法だが、今も昔もそれほど変わらず、だいたい以下の流れで進むことが多い。
1次審査(書類審査)
2次審査(面接審査T 何人かまとめてのグループ面接)
3次審査(面接審査U 個別面接)
4次審査(最終審査)
「緑はるかに」の場合も、2,000人以上の応募があったとしても、その全部をオーディションに呼んだとは考えられず、おそらく1次の書類審査で、100〜200人程度に絞り込んだものと思われる。そして東京・日比谷の日活本社でグループ面接と個別面接を(おそらく複数日で)行い、さらなる絞り込みがなされ、日を変えて、東京・調布の日活撮影所で、候補者7人から1人を選ぶ最終審査(カメラテスト)が行われたと推察される。
募集告知からちょうど4ヶ月後の12月6日夕刊には次のような記事が掲載された。
読売新聞1954年12月6日夕刊
ルリ子*に浅井信子
「緑はるかに」主役当選決る
本紙に連載中の北條誠原作、中原淳一絵「緑はるかに」は日活で水の江滝子プロデューサーの第一回作品として、天然色による映画化の準備がつづけられ、さきほどからその主演の少女ルリ子役を一般から募集審査していたが、応募した二千数百名のなかからこのほど浅井信子(写真)が決定した。彼女は昭和十五年七月生れの十四歳で、千代田区今川中学二年に在学、小さいときから日本舞踊、歌謡曲を習ってきたひとみのきれいな少女で、執筆の作者と画家も交えた審査員は文句なく彼女を主役に迎えることを決定した。
なお、第四次の最終カメラテストまで残った高城瑛子(10)、山東昭子(10 ※正しくは12)、田村まゆみ(12)、斎藤みゆき(12)、久保田紀子(15)、味田洋子(13 ※正しくは12)の六名も本人の事情が許せば主演外の役で出演する。
見出しの「主役当選決る」には違和感を覚えるが(「当選」というと懸賞か何かに当たったような印象を受ける)、とにかくこうして、浅井信子がルリ子役に決まったことが、世間に示されたのであった。
最終選考に残った方々と浅井信子。その後女優として活躍した方多数。
久保田紀子(15歳)
斎藤みゆき(桑野みゆき・12歳)
田村まゆみ(田村奈巳・12歳)
高城瑛子(滝瑛子・10歳)
山東昭子(12歳)
味田洋子(榊ひろみ・12歳)
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浅井信子(14歳)
しかし、この写真の浅井信子は、中原淳一の描くルリ子とはずいぶん雰囲気が異なっている。そこで、原作のビジュアルに合わせるべく、肩まであった長髪は大胆にカットされることになるのだが、それにまつわるエピソードがなかなかに興味深い。
浅丘ルリ子本人は、当時のことをこう回想している。
父は4姉妹のうち1人くらいは芸能界に進んで欲しいと願っていた。そこで私はダメ元≠ナオーディションを受けてみることにした。向かったのは会場となった東京・日比谷の日活本社。応募者はなんと二千数百人。のっけから人数の多さに圧倒された。
私には当時、面接で着る上等な服がなかった。そこで学校の友人からセーラー服を借りて受験した。セーラー服など着てくる応募者はいない。それが目立ってかえってよかったのかもしれない。
1次審査、2次審査……。候補者がどんどん絞られていく。最終のカメラテストに残ったのは私を含めて7人。(中略)
最終のカメラテスト会場は日活の調布撮影所。私は4年かけて伸ばした長い髪を三つ編みにして水玉のリボンで結んでいた。すると審査員でプロデューサーだった水の江滝子さんからこう聞かれた。
「あなた、受かったらその髪を切る勇気がありますか」
「はい、大丈夫です」
私はきっぱりと答えた。主人公のルリ子は前髪から耳元まで緩いカーブに切りそろえたショートカットが特徴。髪をバッサリと短く切るのに何のためらいもなかった。
カメラテストの直前。私はなぜか中原先生に呼ばれてメーク室に入った。大きな鏡の前に座った私の目元に先生がサラリと目張りを入れる。するとどうだろう。瞳がみるみる輝き始めたのだ。自分の変貌ぶりに私は息をのんだ。
(2015年7月5日『日本経済新聞』「私の履歴書」より)
ここでは、「受かったら切ります」というやり取りをした、と書かれているが、別な媒体ではいささかニュアンスが異なる。
浅丘「中学2年生のとき、読売新聞の連載小説『緑はるかに』の映画化で、主人公のルリ子役の募集があったんです。(中略)私の家は貧乏だったから、自分のセーラー服はヨレヨレ。裕福な友人に頼んで、きれいなセーラー服を1日だけ借りて、最終オーディションへ行きました。そこで、されるがまま、腰に届くくらいの長い髪を勝手にバッサリ切られて、カメラテストをしたら、『この子しかいない!』って私に決まったの」
中山「勝手に髪の毛を切るなんて、当時は荒っぽいですよね(笑)」
(2015年5月5日『女性自身』「中山秀征の語り合いたい人」より)
https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/1611929/
ここでは「勝手に」髪の毛を切られ、カメラテストをして、その結果自分に決まった、と語っているのだ。また、つい最近の「徹子の部屋」(2021年2月2日放送)でも、以下のように、ほぼ同じ内容を語っている。
「あたし、背中まであったんですね、髪の毛が。それをバサッと、(中原淳一先生が)すごい切り方なさって、びっくりしました。何するの?、と思ったら、……あ、でも、髪を切られるってことは、あたしに決まっていいのかなって思って、それで黙って……、そしたら私に目張りを描いてくださって……見たら、うわー、すごい、こんなに目が大きく、綺麗になるんだ、と思って、それからずっと、(中原先生がやってくださったとおりに)目張りを入れてます」
さて、このエピソードをどうとらえればいいのだろうか。どうやら浅丘ルリ子の記憶の中では、髪は映画スタッフサイドの要望により、「オーディションの最中(カメラテスト直前)」「勝手に」「バサッと」切られた、ということになっているようだ。そしてDVDのライナーノーツも、この本人の記憶を元に、
11月23日の最終選考は、井上梅次、北条誠、中原淳一らの前でのキャメラテストだったが、その前に、中原は信子の前髪を切りショートカットにしたという。(※実際には井上梅次は別会社の仕事が入っていたため不参加→『みんな裕ちゃんが好きだった』より)
と記述されているのだが、このエピソードが、私にはどうしても納得できなかった。インパクトのある話ではあるが、いくらワイルドな映画界とはいえ、堅気の、それもまだ14歳の女子の髪を、本人のきちんとした同意を得ないでいきなり切り落とすなどということが、果たしてあり得るだろうか。しかも、あれだけ繊細な「美の追求者」であった中原淳一が、4年もかけて伸ばした乙女の黒髪に無造作に鋏を入れるとは……。
人間の記憶というのは時間とともに変容するものである。時間が経つほど、また「思い出す」→「記憶を再保存する」という過程を繰り返すほど、変容の度は高くなるという。したがって、本人の体験談といっても、100パーセント現実に起きたこととは断定できない(もちろん、本人は意識して記憶を書き換えているわけではないので、決して責めるべきことではないのだが)。
こういう時は、なるべく当時に近い資料に当たるのが、解決の早道と思い、中原みずからが編集兼発行人を務めていた『ジュニアそれいゆ』の1955年早春号を紐解いてみた。すると、浅丘の証言とはかなり異なる当時の状況が詳述されていた(どういうわけか、この誌面ではすべて「ルリ子」ではなく「ルリコ」と表記されている)。
『ジュニアそれいゆ』1955年早春号。表紙ももちろん中原淳一
ルリコに決定した浅井信子さんは、浅丘ルリコという名前をつけられました。これからは浅丘ルリコさんと呼ぶことにしましょう。
さて、その浅丘ルリコさんは応募された始めから、長い長いおさげがまず人眼をひきました。中原先生の画かれているルリコは、あのルリコ・カットと最近云われている、前髪から横に続いて短い髪が後に少しカーヴして長くなっているのが第一の特徴なので、水の江さん始め審査員の人たちが「若しルリコにきまったらその髪を切ってしまう勇気がありますか?」と心配して尋ねられたところ、浅丘さんはすぐに「ハイ」とお返事されたということです。
ところで、いよいよ浅丘さんがルリコにきまりました。それから何度も皆が集まって打合わせの度に、浅丘さんの髪が問題になりました。水の江さんも「折角ここまで長くしたのにねェ、長くとかすと何かの精のように綺麗で惜しいわ。長い髪のルリコにしましょうか」ともおっしゃったそうですが、やっぱり新聞のさしえでルリコ・カットに親しんでいる読者の方たちのためにも、短い髪にしようということにきまりました。そこで、ルリコさんの断髪式が始まりました。鋏はルリコ・カットを始められた中原先生が持たれ、水の江さん始め出演するチビ真たちに囲まれて、その長い長いおさげの髪はみるみるこんなに可愛いルリコ・カットに変わりました。
「あんなに長くするまでに、四年もかかったっていうことをふっと思い出したら、耳許にブツッと鋏を入れる時、なんだか少しふるえてしまいましたよ」と中原先生は後で語っていられました。
浅丘さんは、その後人に会う度に「まァ、すっかり変ってしまったのね。でも、まるで中原先生の画にそっくりよ。画が動いているみたい……」と云われています。
「いよいよ切っちゃうとなると惜しいだろうなア」「ルリコさん、平気かい?」チビ真、デブ、ノッポたちが心配そう。「だって前から切ってみたいと思ってたのよ」
「本当に綺麗な髪ね。よく見ておきなさい」と水ノ江さん。「ルリコのような髪になるんだったら、私切りたいのよ」とルリコさん。
「いよいよ切るとなるとなんだか急にこわくなった……」と、ルリコさんは鋏を入れる瞬間、ギュッと目をつぶってしまいましたが……だんだん髪は切られていきます。
いかがだろうか。
髪をカットしたのは「オーディションの最中(カメラテスト直前)」ではなくヒロインに決定した後で、「勝手に」ではなく複数回の協議の結果であり、中原は「バサッと」ではなく、「ふるえながら」鋏を入れたということだ。共演者(チビ真、デブ、ノッポ)も立ち会って「断髪式」と称して行い、しかも取材のカメラまで入っているのだから、もはや外部に向けた映画宣伝の一環というべきで、関係者だけで行われたヒロイン選考とは性質を異にするものであることは明白だ。
しかし、こういう記憶の変容は、少なからずあることで、時間とともに、実際の出来事よりも、その時の感情が強く心に刻印される傾向があるように思う。やはり浅丘にとって、あの長い髪を切ることは、表向き納得した(させられた)とはいえ、内心は相当な葛藤、抵抗があったのだろう。それが長い歳月を経て、「自分の気持ちを無視して、勝手に切られた」というエピソードに書き換えられたと考えれば納得がいく。
さて、浅丘の証言には、カメラテストにおいて、中原が目張り(アイライン)を入れた、という印象的なエピソードも登場したが、上で引用した『ジュニアそれいゆ』にはその話は見当たらなかった。しかし、これについては、「緑はるかに」公開から2年後、1957年9月の『ジュニアそれいゆ』第17号において、中原と浅丘の対談が掲載されており、そこで以下のように語られている。
ルリ子ちゃんと云うと、今から三年前の丁度今頃、「緑はるかに」の映画の主役のルリ子を募集した時のことを思い出す。その時、僕(中原)も審査員の一人だったが、あの時、沢山集った可愛い少女達の中で、一番美しく目立っていた少女がルリ子ちゃんだった。(中略)
「緑はるかに」の審査の時、沢山の少女がいる控室をちょっとのぞいたら、セーラーの制服を着たルリ子ちゃんがチラッと僕の方を向いたのを僕は覚えている。それで、
「審査の時、僕が控室を見たのを知ってた?」と聞くと、
「ええ、覚えています、でも私ね、初め全然知らなかったのよ、先生のこと。あの時先生にお化粧していただいたでしょう?」とルリ子ちゃんは云う。
そうそう、と僕も思い出した。
沢山の少女の中から最後に七人の少女が残り、カメラテストの時だった。はじめてドーラン化粧をする人たちのために撮影所のひとたちが手伝ってあげた時に、僕も手伝ってルリ子ちゃんのお化粧をしたのだった。その時も僕は、カメラテストでもルリ子ちゃんが一番だろうと思った事を又思い出していると、ルリ子ちゃんは、
「私ね、お化粧をして下さったのが中原先生だっていうこと、その時全然知らなかったのよ。この方誰だろうなんて思ってたの。そしたら後で中原淳一先生だったって知って、ウワー、だったらもっと顔を良く見ておくんだった――なんて云ったのよ」
と、例のクルッとした瞳をして云う。
あの時のルリ子ちゃんは、前髪を綺麗にカールして、長い長い髪を二つに分けて三つ編みにしたものを又くるっと輪にして白いリボンで結び、今のルリ子ちゃんよりも、もっと大人っぽい感じだった――と思い出してそのことを云うと、ルリ子ちゃんも大きくうなずいて、
「私がルリ子にきまって、先生が私の髪を切って下さったでしょう? それから急に子供っぽくなったって、自分でも思ったのよ」ということだ。
浅丘の記憶では、カメラテスト直前に、自分だけが特に中原に呼ばれてメイク室に入った、ということになっているが、実際は、7人の少女たちにカメラテスト用のメイクを施すために撮影所のメイクスタッフが駆り出されたが、人手が足りなかったようで、中原もヘルプとしてメイク室に入り、浅丘のメイクを担当した、というのが真相のようだ(そしてこの時点では、浅丘はメイクをしたのが中原だとわからなかったというのも面白い)。ただ、この時すでに中原は浅丘に注目していたようなので、「あ、この子は僕がやるから」という感じで浅丘のそばに陣取り、アイラインを引いたのだろう。もともとは人形製作者だった(すなわち立体造形から始めた)中原は、そのメイク技術も非凡なものがあったのは間違いなく、もし、浅丘以外の6人のメイクもすべて彼が担当していたら、もしかしたら歴史は大きく変わっていたのかも知れない(まあ、カメラテスト以前から、中原は浅丘を気に入っていたようなので、どちらにしろ浅丘が選ばれていたのだろうが)。
ちなみに、上の引用文の最後の2行を読むと、1957年の時点では浅丘本人も、ルリ子役に決まった後で髪を切ったことを認識している。
髪とメイクの話の検証がずいぶん長くなってしまったが、さて、めでたく断髪式を終えた写真がこれ。
ただ、ひとつ気になるのは、原作のルリ子が右分けなのに対して、映画のルリ子が左分けであること。原作に合わせて右分けにすることも検討されたとは思うが、おそらく、浅丘のもともとの髪の分け方が、カット前の写真を見る限り左分けのようなので、それを尊重したということなのだろう。
ためしに原作の絵を左右反転して、写真と比較してみるとこんな感じ。
絵を描いた本人がヘアカットをしているだけあって、絵の中のルリ子がそのまま抜け出てきたような印象を受ける。
これは中原も嬉しかったのではないだろうか。自分の描いた紙の上の存在に過ぎなかったルリ子が、こうして肉体を持ったヒロインとなったのだから。言ってみれば、ギリシャ神話のピグマリオン(彫刻の名人。自分の理想とする女性の像を彫り、その像に恋をし、ついにはアフロディーテの力で人間となったその女性と結ばれる)の心境を味わったわけだ。「ルリ子」というヒロイン名は北條誠の創案だが、ルリ子の原作ビジュアルを作り出し、そして映画化に際し、ルリ子に新たな命を吹き込んだ中原淳一こそ、ルリ子の創造主というにふさわしいだろう。
中原は絵物語「緑はるかに」の原作者のひとりとしてオーディションに立ち会い、ヒロインのヘアカットも手がけたわけだが、それだけにとどまらず、衣裳デザイナーとしても、映画「緑はるかに」と関わることになる。これは最初から決まっていたことなのか、あるいは、浅丘ルリ子という素晴らしい「素材」を発見した中原が、自分の「美」の体現者たりうる浅丘とのコラボを望んで、自ら衣裳デザインを買って出たのか……。今となっては定かでないが、『ジュニアそれいゆ』に掲載された一連のグラビアを見ると、中原が相当な思い入れを持ってこの仕事に臨んだことが伝わってくる。
次回は、中原淳一デザインによるルリ子の衣裳の数々、そして映画「緑はるかに」の製作から公開までの軌跡を追っていきたい。
いやあ、なかなか「緑はるかに」から離れませんねえ。「鉄腕リキヤ」や「チャンピオン太」のルリ子の話になるのはいつのことやら……。