2021年04月21日

ルリ子をめぐる冒険(8)創造主・中原淳一

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読売新聞夕刊で絵物語「緑はるかに」(作・北條誠 絵・中原淳一)の連載が始まったのが1954年4月12日。約1ヶ月後の5月19日夕刊には映画化決定の記事が載り、そして8月6日夕刊においてヒロイン・ルリ子役募集の告知がなされる。

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読売新聞1954年8月6日夕刊

「緑はるかに」のルリ子*を一般募集

プロデューサー水の江滝子で映画化される本紙連載「緑はるかに」の主演ルリ子役を一般から募集する。応募要項次の通り。
十三歳から十五歳までの少女で、身長、体重を記入した簡単な履歴書一通、手札型以上の正面、横顔、正面全身の三種の写真(裏に住所氏名明記)を、東京都千代田区有楽町一の一日活株式会社宣伝部あて、八月三十一日までに送ること。

前にも書いたが、事前の宣伝を兼ねてヒロインを募集する、という手法は角川映画の「野性の証明」を完全に先取りしている。少なくとも私の知る範囲では、この作品以前にヒロインを一般公募した日本映画は思い当たらない。そういう意味では、「緑はるかに」は、「日活初の総天然色(コニカラー)映画」とともに、「日本初のヒロイン公募映画」という冠をつけてもいいのではないだろうか。

では、これ以降のヒロイン公募映画にはどんなものがあっただろう。ざっと以下のようなものが思い出される(漏れがあったらごめんなさい)。

1978年「野性の証明」 応募者 1,224人 薬師丸ひろ子
1980年「四季・奈津子」 応募者 9,500人 烏丸せつこ・佳那晃子・影山仁美・太田光子
1982年「伊賀忍法帖」 応募者 57,480人 渡辺典子 特別賞・原田知世
1983年 「アイコ十六歳」 応募者 127,000人 富田靖子

「野性の証明」の応募者が1,000人ちょっとと、知名度の割に少ないのが少々意外で、逆に「アイコ十六歳」は多すぎてよくわからない。「緑はるかに」は新聞報道によると「二千数百名」とのこと。

ちなみに、こうした公募の選考方法だが、今も昔もそれほど変わらず、だいたい以下の流れで進むことが多い。

1次審査(書類審査)
2次審査(面接審査T 何人かまとめてのグループ面接)
3次審査(面接審査U 個別面接)
4次審査(最終審査)

「緑はるかに」の場合も、2,000人以上の応募があったとしても、その全部をオーディションに呼んだとは考えられず、おそらく1次の書類審査で、100〜200人程度に絞り込んだものと思われる。そして東京・日比谷の日活本社でグループ面接と個別面接を(おそらく複数日で)行い、さらなる絞り込みがなされ、日を変えて、東京・調布の日活撮影所で、候補者7人から1人を選ぶ最終審査(カメラテスト)が行われたと推察される。

募集告知からちょうど4ヶ月後の12月6日夕刊には次のような記事が掲載された。

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読売新聞1954年12月6日夕刊

ルリ子*に浅井信子
「緑はるかに」主役当選決る

本紙に連載中の北條誠原作、中原淳一絵「緑はるかに」は日活で水の江滝子プロデューサーの第一回作品として、天然色による映画化の準備がつづけられ、さきほどからその主演の少女ルリ子役を一般から募集審査していたが、応募した二千数百名のなかからこのほど浅井信子(写真)が決定した。彼女は昭和十五年七月生れの十四歳で、千代田区今川中学二年に在学、小さいときから日本舞踊、歌謡曲を習ってきたひとみのきれいな少女で、執筆の作者と画家も交えた審査員は文句なく彼女を主役に迎えることを決定した。
なお、第四次の最終カメラテストまで残った高城瑛子(10)、山東昭子(10 ※正しくは12)、田村まゆみ(12)、斎藤みゆき(12)、久保田紀子(15)、味田洋子(13 ※正しくは12)の六名も本人の事情が許せば主演外の役で出演する。

見出しの「主役当選決る」には違和感を覚えるが(「当選」というと懸賞か何かに当たったような印象を受ける)、とにかくこうして、浅井信子がルリ子役に決まったことが、世間に示されたのであった。

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最終選考に残った方々と浅井信子。その後女優として活躍した方多数。

久保田紀子(15歳)
斎藤みゆき(桑野みゆき・12歳)
田村まゆみ(田村奈巳・12歳)
高城瑛子(滝瑛子・10歳)
山東昭子(12歳)
味田洋子(榊ひろみ・12歳)
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浅井信子(14歳)

しかし、この写真の浅井信子は、中原淳一の描くルリ子とはずいぶん雰囲気が異なっている。そこで、原作のビジュアルに合わせるべく、肩まであった長髪は大胆にカットされることになるのだが、それにまつわるエピソードがなかなかに興味深い。

浅丘ルリ子本人は、当時のことをこう回想している。

父は4姉妹のうち1人くらいは芸能界に進んで欲しいと願っていた。そこで私はダメ元≠ナオーディションを受けてみることにした。向かったのは会場となった東京・日比谷の日活本社。応募者はなんと二千数百人。のっけから人数の多さに圧倒された。
私には当時、面接で着る上等な服がなかった。そこで学校の友人からセーラー服を借りて受験した。セーラー服など着てくる応募者はいない。それが目立ってかえってよかったのかもしれない。
1次審査、2次審査……。候補者がどんどん絞られていく。最終のカメラテストに残ったのは私を含めて7人。(中略)

最終のカメラテスト会場は日活の調布撮影所。私は4年かけて伸ばした長い髪を三つ編みにして水玉のリボンで結んでいた。すると審査員でプロデューサーだった水の江滝子さんからこう聞かれた。
「あなた、受かったらその髪を切る勇気がありますか」
「はい、大丈夫です」
私はきっぱりと答えた。主人公のルリ子は前髪から耳元まで緩いカーブに切りそろえたショートカットが特徴。髪をバッサリと短く切るのに何のためらいもなかった。
カメラテストの直前。私はなぜか中原先生に呼ばれてメーク室に入った。大きな鏡の前に座った私の目元に先生がサラリと目張りを入れる。するとどうだろう。瞳がみるみる輝き始めたのだ。自分の変貌ぶりに私は息をのんだ。

(2015年7月5日『日本経済新聞』「私の履歴書」より)

ここでは、「受かったら切ります」というやり取りをした、と書かれているが、別な媒体ではいささかニュアンスが異なる。

浅丘「中学2年生のとき、読売新聞の連載小説『緑はるかに』の映画化で、主人公のルリ子役の募集があったんです。(中略)私の家は貧乏だったから、自分のセーラー服はヨレヨレ。裕福な友人に頼んで、きれいなセーラー服を1日だけ借りて、最終オーディションへ行きました。そこで、されるがまま、腰に届くくらいの長い髪を勝手にバッサリ切られて、カメラテストをしたら、『この子しかいない!』って私に決まったの」
中山「勝手に髪の毛を切るなんて、当時は荒っぽいですよね(笑)」

(2015年5月5日『女性自身』「中山秀征の語り合いたい人」より)

https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/1611929/

ここでは「勝手に」髪の毛を切られ、カメラテストをして、その結果自分に決まった、と語っているのだ。また、つい最近の「徹子の部屋」(2021年2月2日放送)でも、以下のように、ほぼ同じ内容を語っている。

「あたし、背中まであったんですね、髪の毛が。それをバサッと、(中原淳一先生が)すごい切り方なさって、びっくりしました。何するの?、と思ったら、……あ、でも、髪を切られるってことは、あたしに決まっていいのかなって思って、それで黙って……、そしたら私に目張りを描いてくださって……見たら、うわー、すごい、こんなに目が大きく、綺麗になるんだ、と思って、それからずっと、(中原先生がやってくださったとおりに)目張りを入れてます」

さて、このエピソードをどうとらえればいいのだろうか。どうやら浅丘ルリ子の記憶の中では、髪は映画スタッフサイドの要望により、「オーディションの最中(カメラテスト直前)」「勝手に」「バサッと」切られた、ということになっているようだ。そしてDVDのライナーノーツも、この本人の記憶を元に、

11月23日の最終選考は、井上梅次、北条誠、中原淳一らの前でのキャメラテストだったが、その前に、中原は信子の前髪を切りショートカットにしたという。

と記述されているのだが、このエピソードが、私にはどうしても納得できなかった。インパクトのある話ではあるが、いくらワイルドな映画界とはいえ、堅気の、それもまだ14歳の女子の髪を、本人のきちんとした同意を得ないでいきなり切り落とすなどということが、果たしてあり得るだろうか。しかも、あれだけ繊細な「美の追求者」であった中原淳一が、4年もかけて伸ばした乙女の黒髪に無造作に鋏を入れるとは……。

人間の記憶というのは時間とともに変容するものである。時間が経つほど、何度も思い返すほどに、変容の度は高くなるという。したがって、本人の体験談といっても、100パーセント現実に起きたこととは断定できない(もちろん、本人は意識して記憶を書き換えているわけではないので、決して責めるべきことではないのだが)。

こういう時は、なるべく当時に近い資料に当たるのが、解決の早道と思い、中原みずからが編集兼発行人を務めていた『ジュニアそれいゆ』の1955年早春号を紐解いてみた。すると、浅丘の証言とはかなり異なる当時の状況が詳述されていた(どういうわけか、この誌面ではすべて「ルリ子」ではなく「ルリコ」と表記されている)。

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『ジュニアそれいゆ』1955年早春号。表紙ももちろん中原淳一

ルリコに決定した浅井信子さんは、浅丘ルリコという名前をつけられました。これからは浅丘ルリコさんと呼ぶことにしましょう。
さて、その浅丘ルリコさんは応募された始めから、長い長いおさげがまず人眼をひきました。中原先生の画かれているルリコは、あのルリコ・カットと最近云われている、前髪から横に続いて短い髪が後に少しカーヴして長くなっているのが第一の特徴なので、水の江さん始め審査員の人たちが「若しルリコにきまったらその髪を切ってしまう勇気がありますか?」と心配して尋ねられたところ、浅丘さんはすぐに「ハイ」とお返事されたということです。
ところで、いよいよ浅丘さんがルリコにきまりました。それから何度も皆が集まって打合わせの度に、浅丘さんの髪が問題になりました。水の江さんも「折角ここまで長くしたのにねェ、長くとかすと何かの精のように綺麗で惜しいわ。長い髪のルリコにしましょうか」ともおっしゃったそうですが、やっぱり新聞のさしえでルリコ・カットに親しんでいる読者の方たちのためにも、短い髪にしようということにきまりました。そこで、ルリコさんの断髪式が始まりました。鋏はルリコ・カットを始められた中原先生が持たれ、水の江さん始め出演するチビ真たちに囲まれて、その長い長いおさげの髪はみるみるこんなに可愛いルリコ・カットに変わりました。
「あんなに長くするまでに、四年もかかったっていうことをふっと思い出したら、耳許にブツッと鋏を入れる時、なんだか少しふるえてしまいましたよ」と中原先生は後で語っていられました。
浅丘さんは、その後人に会う度に「まァ、すっかり変ってしまったのね。でも、まるで中原先生の画にそっくりよ。画が動いているみたい……」と云われています。

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「いよいよ切っちゃうとなると惜しいだろうなア」「ルリコさん、平気かい?」チビ真、デブ、ノッポたちが心配そう。「だって前から切ってみたいと思っていたのよ」

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「本当に綺麗な髪ね。よく見ておきなさい」と水の江さん。「ルリコのような髪になるんだったら、私切りたいのよ」とルリコさん。

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「いよいよ切るとなるとなんだか急にこわくなった……」と、ルリコさんは鋏を入れる瞬間、ギュッと目をつぶってしまいましたが……だんだん髪は切られていきます。

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いかがだろうか。
髪をカットしたのは「オーディションの最中(カメラテスト直前)」ではなくヒロインに決定した後で、「勝手に」ではなく複数回の協議の結果であり、中原は「バサッと」ではなく、「ふるえながら」鋏を入れたということだ。共演者(チビ真、デブ、ノッポ)も立ち会って「断髪式」と称して行い、しかも取材のカメラまで入っているのだから、もはや外部に向けた映画宣伝の一環というべきで、関係者だけで行われたヒロイン選考とは性質を異にするものであることは明白だ。

しかし、こういう記憶の変容は、少なからずあることで、時間とともに、実際の出来事よりも、その時の感情が強く心に刻印される傾向があるように思う。やはり浅丘にとって、あの長い髪を切ることは、表向き納得した(させられた)とはいえ、内心は相当な葛藤、抵抗があったのだろう。それが長い歳月を経て、「自分の気持ちを無視して、勝手に切られた」というエピソードに書き換えられたと考えれば納得がいく。

さて、浅丘の証言には、カメラテストにおいて、中原が目張り(アイライン)を入れた、という印象的なエピソードも登場したが、上で引用した『ジュニアそれいゆ』にはその話は見当たらなかった。しかし、これについては、「緑はるかに」公開から2年後、1957年9月の『ジュニアそれいゆ』第17号において、中原と浅丘の対談が掲載されており、そこで以下のように語られている。

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ルリ子ちゃんと云うと、今から三年前の丁度今頃、「緑はるかに」の映画の主役のルリ子を募集した時のことを思い出す。その時、僕(中原)も審査員の一人だったが、あの時、沢山集った可愛い少女達の中で、一番美しく目立っていた少女がルリ子ちゃんだった。(中略)
「緑はるかに」の審査の時、沢山の少女がいる控室をちょっとのぞいたら、セーラーの制服を着たルリ子ちゃんがチラッと僕の方を向いたのを僕は覚えている。それで、
「審査の時、僕が控室を見たのを知ってた?」と聞くと、
「ええ、覚えています、でも私ね、初め全然知らなかったのよ、先生のこと。あの時先生にお化粧していただいたでしょう?」とルリ子ちゃんは云う。
そうそう、と僕も思い出した。
沢山の少女の中から最後に七人の少女が残り、カメラテストの時だった。はじめてドーラン化粧をする人たちのために撮影所のひとたちが手伝ってあげた時に、僕も手伝ってルリ子ちゃんのお化粧をしたのだった。その時も僕は、カメラテストでもルリ子ちゃんが一番だろうと思った事を又思い出していると、ルリ子ちゃんは、
「私ね、お化粧をして下さったのが中原先生だっていうこと、その時全然知らなかったのよ。この方誰だろうなんて思ってたの。そしたら後で中原淳一先生だったって知って、ウワー、だったらもっと顔を良く見ておくんだった――なんて云ったのよ」
と、例のクルッとした瞳をして云う。
あの時のルリ子ちゃんは、前髪を綺麗にカールして、長い長い髪を二つに分けて三つ編みにしたものを又くるっと輪にして白いリボンで結び、今のルリ子ちゃんよりも、もっと大人っぽい感じだった――と思い出してそのことを云うと、ルリ子ちゃんも大きくうなずいて、
「私がルリ子にきまって、先生が私の髪を切って下さったでしょう? それから急に子供っぽくなったって、自分でも思ったのよ」ということだ。

浅丘の記憶では、カメラテスト直前に、自分だけが特に中原に呼ばれてメイク室に入った、ということになっているが、実際は、7人の少女たちにカメラテスト用のメイクを施すために撮影所のメイクスタッフが駆り出されたが、人手が足りなかったようで、中原もヘルプとしてメイク室に入り、浅丘のメイクを担当した、というのが真相のようだ(そしてこの時点では、浅丘はメイクをしたのが中原だとわからなかったというのも面白い)。ただ、この時すでに中原は浅丘に注目していたようなので、「あ、この子は僕がやるから」という感じで浅丘のそばに陣取り、アイラインを引いたのだろう。もともとは人形製作者だった(すなわち立体造形から始めた)中原は、そのメイク技術も非凡なものがあったのは間違いなく、もし、浅丘以外の6人のメイクもすべて彼が担当していたら、もしかしたら歴史は大きく変わっていたのかも知れない(まあ、カメラテスト以前から、中原は浅丘を気に入っていたようなので、どちらにしろ浅丘が選ばれていたのだろうが)。
ちなみに、上の引用文の最後の2行を読むと、1957年の時点では浅丘本人も、ルリ子役に決まった後で髪を切ったことを認識している。

髪とメイクの話の検証がずいぶん長くなってしまったが、さて、めでたく断髪式を終えた写真がこれ。

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ただ、ひとつ気になるのは、原作のルリ子が右分けなのに対して、映画のルリ子が左分けであること。原作に合わせて右分けにすることも検討されたとは思うが、おそらく、浅丘のもともとの髪の分け方が、カット前の写真を見る限り左分けのようなので、それを尊重したということなのだろう。

ためしに原作の絵を左右反転して、写真と比較してみるとこんな感じ。

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絵を描いた本人がヘアカットをしているだけあって、絵の中のルリ子がそのまま抜け出てきたような印象を受ける。

これは中原も嬉しかったのではないだろうか。自分の描いた紙の上の存在に過ぎなかったルリ子が、こうして肉体を持ったヒロインとなったのだから。言ってみれば、ギリシャ神話のピグマリオン(彫刻の名人。自分の理想とする女性の像を彫り、その像に恋をし、ついにはアフロディーテの力で人間となったその女性と結ばれる)の心境を味わったわけだ。「ルリ子」というヒロイン名は北條誠の創案だが、ルリ子の原作ビジュアルを作り出し、そして映画化に際し、ルリ子に新たな命を吹き込んだ中原淳一こそ、ルリ子の創造主というにふさわしいだろう。

中原は絵物語「緑はるかに」の原作者のひとりとしてオーディションに立ち会い、ヒロインのヘアカットも手がけたわけだが、それだけにとどまらず、衣裳デザイナーとしても、映画「緑はるかに」と関わることになる。これは最初から決まっていたことなのか、あるいは、浅丘ルリ子という素晴らしい「素材」を発見した中原が、自分の「美」の体現者たりうる浅丘とのコラボを望んで、自ら衣裳デザインを買って出たのか……。今となっては定かでないが、『ジュニアそれいゆ』に掲載された一連のグラビアを見ると、中原が相当な思い入れを持ってこの仕事に臨んだことが伝わってくる。

次回は、中原淳一デザインによるルリ子の衣裳の数々、そして映画「緑はるかに」の製作から公開までの軌跡を追っていきたい。

いやあ、なかなか「緑はるかに」から離れませんねえ。「鉄腕リキヤ」や「チャンピオン太」のルリ子の話になるのはいつのことやら……。
posted by taku at 19:29| レトロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月17日

ルリ子をめぐる冒険(7)絵物語「緑はるかに」(後)

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大変お待たせしました。絵物語「緑はるかに」完結編でございます。

前回までのカオスなあらすじ

片山ルリ子は、1年前から北海道に出張している父に会うため、父の会社の同僚・田沢とともに旅立つ。その途中、ルリ子は汽車の中で、チビ真という浮浪児と知り合いになる。北海道に着き、病気で衰弱した父と再会するルリ子。父は、「田沢は悪人で私の研究の秘密を盗もうとしている」とルリ子に告げ、秘密を隠したオルゴールをルリ子に託して息を引き取る。ルリ子は逃げ出す間もなく田沢に監禁され、連日、容赦ない責めを受けるが、東京に戻る途中の汽車の中でチビ真の手助けで逃亡する。だが難を逃れたのもつかの間、父の訃報を知り北海道に向かっていたルリ子の母が、青函連絡船の事故で死亡したという新聞記事が。今やみなし児となったルリ子は、東京郊外の防空壕で、チビ真と仲間の浮浪児・デブとノッポと共同生活を始める。しかし、秘密を隠したオルゴールはくず屋に持ち去られ売られてしまい、また、田沢とその手下の執拗な追跡に、ルリ子と三人組は離ればなれに。
やがてルリ子は縁あってとある資産家の養女となり京都に移り住む。マミ子という少女も養女になり、妹のできたルリ子は明るさを取り戻すが、「あなたの歌」という公開番組に出演して歌を歌ったことから所在が田沢一味に知られ、養母、マミ子ともども淡路島に身を隠す。しかし一時京都に帰った養母は田沢の子分に幽閉され、養母が戻らないため宿泊代の払えないルリ子とマミ子は、宿屋のホールの演芸ショーに出て歌を歌う。その様子を見ていた「スミレ劇団」の上野という男にスカウトされるが、その実態は場末の旅回り一座で、上野はとんでもない悪党だった。ルリ子とマミ子はいつ果てるともない流浪の日々を送ることに……。
一方、チビ真たち三人組も、ルリ子の姿を求めて京都に向かっていたが、そこでルリ子の母とめぐり会う。母は事故を起こした青函連絡船に乗っていなかったのだ。また、行方がわからないと思われていたオルゴールも、母が古道具屋で買い求めていたと判明する。

三人組とルリ子の母は、ルリ子にめぐり会えないまま京都を離れるが、その帰途、汽車の中でオルゴールメーカーの社長・三谷と知り合いになる。三谷は、ルリ子の母が持っていたオルゴールに目をつけ、「これはうちの会社の製品だが、少し音程が狂っている」と気になることを言い、自分の名刺を渡す。

東京に戻った三人組は警察に行き、田沢たちの悪事を告げる。警察は田沢のアジトを捜索、しかし大入道とビッコは捕まったものの、田沢はアジトを放棄して逃走する。

さて、「スミレ劇団」で旅回りを続けるルリ子は、楽団のピアノ弾きのじいさんと仲良くなる。
あの鬼畜な上野も、このピアノじいさんだけには、あまり強く物が言えないのだ。

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ルリ子とマミ子には歌の才能があると見抜き、個人レッスンを施すピアノじいさん。「あなたの歌」での歌唱、淡路島の宿屋のホールでの歌唱、そしてこの個人レッスンと、映画版よりもこの原作の方が、ルリ子が歌を歌う場面が多い。この流れで、最後はルリ子とマミ子がプロの歌手をめざすという展開になるのか? と期待したが、そうはならなかった。

じいさんの名前は田沢春吉。若いころは名の知れたピアニストだった(え、田沢??)。しかし、たった一人の息子が不良になってしまったために世の中が嫌になり、旅の一座暮らしにまで身を落としてしまったという。

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長年の不摂生がたたったか、ピアノじいさんはみるみる病気が悪化して危篤状態に。

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じいさんは「生き別れになっている息子に渡して欲しい」と、財布とメダルをルリ子に託して息を引き取る。じいさんは、下足番のばあさんを丸めこむなど、ルリ子が劇団から逃げ出すための段取りをつけてくれており、そのおかげでルリ子とマミ子はどうにか劇団を脱出、東京に向かう汽車に乗り込む(じいさんの遺体は放置)。

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この車内に、またしてもオルゴールメーカーの社長・三谷の姿が。ルリ子は三谷から、三人組やルリ子の母のことを聞き、マミ子とともに三谷の家に厄介になることに(あまりに都合のよすぎる展開)。

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三谷の家にチビ真が訪ねてきて、ルリ子とチビ真、4ヵ月ぶりの再会。

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お母様とも、感動の再会。

三谷は、一同の前でいきなり名探偵みたいな口調になって、オルゴールの謎を解く。

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「この円筒の針を、誰かがいじったのです。あちこち、ほら、抜けているでしょ。短くしてしまったのもある。どうも、聞いていて、あっちこっち、メロディーやテンポが狂ってると思いましたが、そのせいですよ」

そして、「ブラームスの子守唄」の歌詞を書いた紙の、調子の狂っている音に赤い丸をつけると……
ねむれよあこ なをめぐりて うるわしはなさけば ねむれいまはいとやすけく あしたまどにといくるまで」

ねむのした まど

ルリ子は、北海道での記憶をたどり、父が入院していた病室の窓から、ねむの木が見えたことを思い出す。その木の下に、研究の秘密が埋められているのだ。「これでやっとすべてが明らかになる」と奮い立つ面々。しかし、田沢がその話を家の外で盗み聞きしていた。

田沢は、警察から釈放された大入道とビッコをふたたび仲間に引き入れ、ルリ子たちを追うように北海道へと向かう。ルリ子たちと田沢たちは現場で鉢合わせ、田沢はルリ子とチビ真を人質にして秘密を渡すよう迫る。しかし、ルリ子にはある「確信」があった。

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ルリ子が持っていた財布とメダルから、田沢こそピアノじいさんの息子だったことが判明。最初は否定した田沢だが、じいさんの臨終の様子を語るルリ子の言葉に涙を流し、ついに改悛の情を示す。そしてこれまでの償いにと、すでにかなり雪に埋もれている地面を懸命に堀り、凍傷になりながら、ついにルリ子の父が隠した箱を発見する。中には化学方程式が書かれた1枚の紙が入っていた。

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映画の田沢はただの悪党で終わったが、原作では、罪を悔い改め人間性を回復するまでをじっくり描いたのが印象的。

さて、ついに来ました、映画との最大の相違点。ルリ子の父の研究とは、果たしていかなるものだったのか?

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なんという、すばらしい発明でしょう。お父さまの発明した薬品によると、たった1ガロンで、東京から大阪まで、飛行機がとべるのです。それを畑にまけば、いままでの三倍もよけいに、お米がとれるのです。貧乏な日本にとって、これ以上の発明があるでしょうか……

最初にこれを読んだ時は、「いかにも子供だましだなあ。燃料にもなれば肥料にもなるなんて…」と失笑したのだが、念のためネットで調べてみたところ、最新(2020年)の研究として、海藻やミドリムシからバイオ燃料と肥料を生成したというレポートがあったので、あながち荒唐無稽とは言い切れない(ただ、日本の場合、米は畑ではなく田んぼで作るものが大半だと思うが…)。

そして一同は父の墓参りに行き、
「お父さまはいつも、あのきれいな空から、見ててくださるのね……」
とルリ子が空を見上げ、全員で「緑はるかに」の歌(映画の主題歌のことか?)を歌っておしまい。

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以上は新聞連載のラストで、物語の中盤、大入道に監禁された「京都のおばさま」のことは、きれいさっぱり忘れられている。一時はルリ子とマミ子の母代わりとなっていた人物なのに……。

たぶん、作者本人も新聞の担当者も本当に忘れていたのだろうが、さすがに単行本化の際、これはまずい、と気づいたのだろう。1955年8月刊行のポプラ社版では、父の研究が広く世間に知れ渡ったという説明のあと、しれっと以下のような場面が書き足してある。

そんなある日、また一つすばらしいニュースです。
あの、しんせつな京都のおばさまが、
「新聞でよみました」
といって、はるばる訪ねてきてくださったのです。
「おばさま、生きててくださったのね(おいおい)」
ルリ子がうれし涙にくれれば、
「逢いたかったわ……」
マミちゃんも、おばさまにしがみついて……そして、お母さまは、おばさまの前に手をついて、心からお礼をいうのでした。

まあ、大団円という感じで、こういうのはあった方がいいよね。

さて、原作版を超駆け足で追ってきたが、4つの疑問点はどうなっただろう。

1)川に落としたオルゴールが何故か古道具屋の店先に(あまりに唐突)

原作では、川に落とすという場面がそもそもなく、ルリ子→くず屋→古道具屋A→ある客→古道具屋B→ルリ子の母 というルートでめぐっていった。
一応理解できる範囲の移動ではあるが、逆に物語後半、オルゴールの争奪戦がまったくないのが少々物足りない。

2)ルリ子の両親の生死(死んだはずなのに生きていたという理不尽)

原作では、「父のみ冒頭で死亡、母は一時死亡が伝えられるも誤報で、実際は存命」という結果だった。
これも、理解できる範疇といった感じ。

3)オルゴールに秘密を隠した方法(鏡の裏というのは安易すぎる)

原作では、オルゴールの円筒の針に細工をして部分的に音程を狂わせ、その音で暗号文字を作るという、かなり巧妙な方法で秘密を隠していたことが判明(よくこんな方法を思いついたものだと素直に感心してしまう)。

4)研究の秘密とは何だったのか(最後まで明らかにされず書類が燃やされる)

原作では、「燃料にもなれば肥料にもなる薬品」というかなり画期的なもので、実用化も示唆されていた。

以上である。

なお、それ以外にも原作と映画の相違点は思った以上に多く、映画ではマミ子の母は存命で最後には母子再会を果たすが、原作ではマミ子は孤児という設定なので、母親は登場しない。また原作では田沢がサーカス団を経営していたという描写も一切ない。逆に、原作にあった、ルリ子が公開番組や宿屋のステージで歌うという、それこそミュージカル的な要素が映画ではまったく見られないし、ラストにおける田沢の改心もない。はっきり言うと、両者は(特に後半は)ほとんど別個のストーリーで、むしろ共通点を探すのが難しいくらいである。

時間が進むにつれ、映画のストーリーが原作から離れていったのは、前にも書いたように、原作の連載と映画化が並行して進んでおり、映画の脚本が完成した方が、連載の完結よりも早かったためであろう(したがって、原作の途中までしか参照できなかったということ)。荒唐無稽の度合いという点では、どちらも甲乙つけがたいところだが、ルリ子と三人組が力を合わせて悪に立ち向かう、ジュブナイル的な要素は、映画の方が明確だったと思うし、その一方、ドラマとしての収め方は、原作の方が納得のいくものだったように感じる。

いやはや、今年の初めに映画版を観た時には、まさかこんなに長い時間、この作品と関わるとは思わなかった。しかし、どんなものでも関わる時間の長さに比例して愛着が涌くもので、もはや「緑はるかに」に関しては、あまり突き放して語ることができなくなってしまった。ことにこの新聞連載の絵物語は、物語の展開はさておき、毎回の中原淳一の挿絵がとても魅力的で、これをながめているだけで何ともしあわせな気持ちになってくる。当時の読者の多くも、毎日この挿絵を楽しみにしていたのではないだろうか。
前々回にも書いたが、当時の中原は『それいゆ』『ジュニアそれいゆ』の編集兼発行人として多忙を極めていたのに、これだけクオリティの高い挿絵を毎日3点、アシスタントも使わず仕上げていたのだから頭が下がる。しかも大変残念なことに、これらの挿絵は、1955年のポプラ社版単行本にも収載されておらず、その後、印刷物として世に出た形跡もなく、ほぼ幻のイラスト群となっている。幸い、原画は残っているらしいから(2009年、茨城県天心記念五浦美術館で開催の「大正ロマン 昭和モダン 大衆芸術の時代展 〜竹久夢二から中原淳一まで」で展示されたとの情報あり)、ぜひ、いずれかの機会にオリジナルの画質で世に出していただきたいと思う(今回紹介した画像は、それなりに修正を加えてはいるが、何しろ元が70年近く前の新聞で紙も印刷状態も悪く、細部がかなりつぶれており、オリジナルの繊細なタッチを伝えられないのが大変残念である)。

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さて、映画版と原作版の両方のストーリーを把握した上で、次回は今一度映画版に目を向け、中原淳一描くところの絵物語キャラクターだった2次元ルリ子が、いかにして浅丘ルリ子演じる3次元ルリ子に進化を遂げたのかを見ていくことにしたい。
posted by taku at 20:10| レトロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月01日

世紀の大発見、その後

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前回紹介できなかったもの(1)。成田亨によるドゴラ。『世界大怪獣カード』用に描き下ろされたもの。

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前回紹介できなかったもの(2)。藤尾毅によるジラースとラゴン。『ウルトラマンカード』のための描き下ろし。

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前回紹介できなかったもの(3)。石原豪人による『パノラマ世界大怪獣』の表紙。メフィラス星人、ヒドラ、ケムラーが描かれている。

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前回紹介できなかったもの(4)。井上英沖による生原稿。『現代コミクス ウルトラマン』1月号「ガボラの巻」より。

初代「ウルトラマン」の放映時期(1966〜67年)に、現代芸術社から刊行されていた『現代コミクス ウルトラマン』関連の原稿や原画が、思わぬところで見つかった! という記事を、かなり気合いを入れて書き、「世紀の大発見!」と題して去年の11、12月に投稿したのだが、アクセス解析などを見る限り、ほとんど反響はなかった。

○世紀の大発見!『現代コミクス ウルトラマン』後日譚(1)
○世紀の大発見!『現代コミクス ウルトラマン』後日譚(2)

「今となっては、成田亨や石原豪人の原画といっても、食いついてくる人はいないのか」と少々淋しい気持ちでいたところ、どういうわけか、今年の3月になってから急にツイッターなどで大々的に拡散されたようで、アクセス数がえらいことになってきた。私のブログは、普段は1日に100人程度の訪問者なのだが、それがいきなり1日10,000人を超えたのだ(2008年のブログ開設以来初めての現象)。

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しかし「バズッた」のは1週間程度で、すぐ平常の数字に戻ったが、特撮愛好家の方々にはそれなりに情報が行き渡ったようで、こちらとしても嬉しい限りである。

さて、これら貴重な原画類の収蔵等について、新たな動きがあったのでこの場を借りて報告したい。このブログの「特撮」カテゴリでも紹介してきたように、かねてより私は、この時代の特撮関連書籍や資料をかなり収集保存してきており、どこかでこれらを一括管理、閲覧などもできる施設を運営することを考えてきたが、今回、こうした発見もあったので、長嶋武彦氏のご遺族とも協議した結果、鎌倉において、これら特撮関連資料の公開施設を立ち上げることで意見の一致を見た。コロナ禍がいまだ収まらないため具体的な開設時期は未定だが、名称は「鎌倉20世紀特撮伝承館(仮)」とし、ここ1、2年のうちにスタッフを揃え資料を整理、遠からず愛好家の方が閲覧できる場を提供したいと考えている。

……というのは全部ウソです。勝手な妄想です。今日はエイプリルフールなので、どうかお許しを。長嶋氏宅において発見されたお宝については、今後のことはまだ何も決まっていませんし、また、特に問い合わせも来ていないとのことです。本日、このブログを書くにあたり、ご子息の長嶋竜弘さんに電話で確認したので間違いありません。ツイッターで、某県立美術館に「すぐに連絡を取った方がいいですよ!」と薦めてくださった方もあったようですが、まあ、年度代わりで忙しい時期ですし、そうすぐには動けないですよね。しかしながら、長嶋武彦氏の遺されたものを、鎌倉市内で保管・公開できたら、という希望をご遺族が持たれているのは事実ですので、散逸などせず、なるべくいい形で、貴重な文化財が次世代に継承されていくのを願うばかりです。
posted by taku at 16:46| 特撮 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする