2021年05月31日

『バイクロッサー』の台本が…

先日、なぜか『兄弟拳バイクロッサー』のことを思い出し、ネット検索をしていたところ、大変にショッキングなものを発見。なんとヤフオクに、潮建磁(潮健児)の使用した『バイクロッサー』の台本が出品されていたのである。しかも、わずか1,500円という信じられない金額で、競り合うこともないままに落札されていたのだ。オークション開始は4月11日で終了は17日。つい先月のことではないか。気づかなかった自分が呪わしい。

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表紙の書き込みから、5月11日にクランクインで20日にアップ、25日にアフレコが行われたらしいこともわかる(もっともこれは決定稿が配布された時点での予定で、変更された可能性もあるが)。

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潮建磁みずからが描いたと思われる似顔絵も。

正直、これにはかなり凹んだ。この27話「善人になったドン」というのは、『バイクロッサー』全34話の中でも屈指の名作であり、そして唯一といっていい、潮建磁の完全主役回なのである。そんな貴重な回の台本が、こんな形で市場に出ていたとは……。

まずはこの「善人になったドン」を、簡単にご紹介していこう。

1985年7月11日放送。脚本:杉村のぼる 監督:奥中惇夫

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秘密結社デスターの首領(ドン)・ドクターQは、携帯縮小式のフライングマシンを発明し、みずからその試験飛行に出発。

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ここでタイトルコール。ドクターQを演じる潮建磁はこの時60歳だが、嬉々としてピアノ線につられている。

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シルクハットにタキシードといういでたちは、かつて『悪魔くん』で演じたメフィスト役へのオマージュか?

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大空の散歩を楽しむドクターQだったが、カラスに纏わりつかれ、バランスを失い、

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あえなく地面に落下。

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救急車で病院にかつぎ込まれるが、頭を打ったショックで記憶喪失になり、自分が誰なのか思い出せない。

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同じ病室には雪子という女の子が入院中。

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雪子は事故で足を痛め、今はもう完治しているのだが、恐怖心が先に立って歩くことができない。

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ドクターQは、タキシードの内ポケットに入っていたフライングマシンを見つけ、雪子に着用を促す。「歩けなくても、これで空を飛べば、行きたいところへ行ける」と(記憶喪失のはずのドクターQが、どうしてフライングマシンの操作を覚えていたかという野暮な突っ込みはなしで)。

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本来、ドクターQは子どもが大嫌いなひねくれた性格なのだが、雪子の境遇が自分の今の境遇と重なったからか、あるいは頭を打ったショックからか、素直に雪子と心を通わせていく。父親がいない雪子も、ドクターQを「おじいちゃん」と呼んでなつく。

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しかし、ドクターQを本部に連れ戻そうとするデスターの面々が襲ってきて、それをバイクロッサーが撃退するなどの騒ぎがあり……(ドクターQの深層意識に、これまでさんざんバイクロッサーにやられてきたという記憶が残っていたようで、バイクロッサーには激しい嫌悪感を示す)

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これ以上雪子を危険な目に遭わせるわけには行かないと、そっと病院から去ろうとするドクターQだったが、雪子も、「おじいちゃんと一緒に行く」と聞かない。

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ドクターQは雪子の母親に、「雪ちゃんは必ずお返しします」という置手紙を残して(悪の首領とは思えぬ紳士的な行為)、ひととき、雪子との道行きを楽しむが……

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またも、ドクターQとフライングマシンの奪還をもくろむデスター一味。今度は、デスターロボがドクターQそっくりに化けて雪子に近づく。

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これがデスターロボが化けたドクターQ。潮建磁の演じ分けに注目。

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この時は本物のドクターQが雪子にそれを知らせ、雪子は駆けつけたバイクロッサーの助けもあって難を逃れる。そして雪子は、乱闘に巻き込まれて倒れているドクターQの身を案じ、ついに自分の足で立って歩く。

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それを見つめるドクターQ。まあ、この辺は「クララが立った」的な王道展開なのだが、潮建磁の演技に思わず見入ってしまう。

雪子が歩けるようになったのを見届けたドクターQはその場に倒れ、その時に頭を打ったショックで、元のドクターQに戻る(ほぼ同時に雪子もつまずいて倒れ意識を失っており、ドクターQの変貌は見ていない)。

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記憶を取り戻したと同時に、雪子と過ごした日々のことをすべて忘れてしまったドクターQ。デスターの首領として戦線に復帰し、バイクロッサーとの戦いが始まる。この後はルーティンワークなので省略するが、ラストは、無事退院することになったユキ子が、病棟の方を振り返り、優しかったおじいちゃん(ドクターQ)はどこに行ってしまったのかしら、と思いを馳せる場面で終わる。

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いかがだったろうか。
60〜80年代のテレビ特撮作品を思い返しても、悪の組織の首領が、一時的とはいえ、完全に善人キャラに変貌するというエピソードは他に思い当たらない。そういう意味では、大変な異色作といえるだろう。
「どんなエゴイスティックな人間でも、その根底には善の心がある」というテーマは、ディケンズの「クリスマス・キャロル」にも通じるものがあり、放送当時に視聴した時にも大いに感心したものである。脚本の杉村のぼるは同時期に『スケバン刑事』のメインライターも務めていたのだが、あちらではかなり陰惨なエピソードを連発していたのに対し、こちらはどこまでもハートウォーミングな作劇で、その書き分けの妙にも舌を巻いたものだ。そしてまた、悪の首領と人のよい初老の男を見事に演じ分けた潮建磁の名演も忘れがたい(彼自身も大層気合いを入れて撮影に臨んだように思われる)。以上の2つの理由により、今でも深く記憶に焼きついている一作なのである。

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そんな作品の台本が、しかも、実質的な主役である潮建磁が使用した台本が、こんな形で売買の対象になってしまう。これもまた時代の流れということであろうか。昭和時代を彩った俳優たちが次々世を去っていく今、「遺品の整理」という名目で、こうした出品は、これからも増えていくことだろう。
posted by taku at 22:04| 特撮 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年05月26日

ルリ子をめぐる冒険(10)メディアミックスとしての「緑はるかに」

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↑オーディション終了後の記念写真か。右から、まだ髪の毛を切る前の浅井信子(浅丘ルリ子)、その隣りが主題歌を歌う安田祥子、その前がマミ子役の渡辺典子、水の江滝子(ターキー)、安田章子(由紀さおり)、左後ろの女性は不詳(1954年11月)

「緑はるかに」に関する出来事を時系列でまとめると、だいたい以下のとおりである。

1954(昭和29)年

4月12日 読売新聞夕刊にて絵物語(作・北條誠、絵・中原淳一)の連載開始。
5月19日 読売新聞夕刊に映画化決定の記事が掲載。
8月2日 ニッポン放送にて連続放送劇として放送開始(提供は森永製菓)。
8月6日 読売新聞夕刊にヒロイン・ルリ子役募集の告知記事が掲載。
11月23日 ルリ子役の最終面接(調布・日活撮影所にて)。
11月30日 ニッポン放送の連続放送劇、放送終了(全87回)。
12月6日 映画脚本審査。読売新聞夕刊に「ルリ子役」決定の第一報掲載。
12月6日 『ジュニアそれいゆ』1955年早春号発売。「ルリコさん決定」の記事が掲載。
12月14日 読売新聞夕刊の絵物語連載終了(全210回)。
12月24日 映画クランクイン。
?月?日 コロムビアレコードより主題歌発売。

1955(昭和30)年

2月12日 映画クランクアップ。
2月19日 映画ダビング終了。
3月15日 映画完成試写。
3月22日 映画審査試写。
4月5日 トモブック社より「映画物語シリーズ1 緑はるかに」刊行(画・わちさんぺい)。
5月1日 豊島公会堂にて一般試写。2,700人を招待。
5月8日 劇場公開。併映は「天城鴉」「ペンギンの国を訪ねて」。
8月5日 ポプラ社より原作単行本刊行(カバー絵・松本昌美、挿絵・花房英樹)。

という感じで、約1年4ヶ月の間に、

1)新聞連載の絵物語
2)ラジオの連続放送劇
3)レコード
4)コミカライズ
5)劇場映画
6)原作単行本

と、6つのメディア展開がなされたことがわかる。当事としてはかなり多角的と言えるのではないか。これが70年代以降であれば、確実にテレビドラマ化も行われただろうが、この当時はまだテレビは始まったばかりでドラマといえばすべてスタジオでの生放送、まだ主要メディアのひとつとは言えない状態であった。

さて、1954年8月1日の読売新聞夕刊には以下のような記事が載っている。

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緑はるかに を連続ドラマに
ニッポン放送

本紙に連載中の北条誠作「緑はるかに」は、日活入りした水の江滝子プロデューサーのプ第1回作品として映画化されるに先だち、ニッポン放送で、2日から11月末まで87回にわたり、土、日を除く毎夕5時50分から10分間、子供と母親向け、耳できく絵物語風の異色連続ドラマとして放送される。

この放送がきまってから電波にのるまでに、二週間近くしかなかったので、原作者の北条誠は放送の打合せやら台本を書くのにてんてこ舞、盲腸の手術後禁酒していたのを、はじめて破り、アルコールの助けをかりた始末。「おかげでまた酒飲みにされた」とは本人の弁。

テーマ・ソングを作るのに西条八十作詞、米山正夫作曲の案がたてられたものの、短期間のうちに引受けてもらえるかどうか不安が持たれた。それを聞いた水の江プロデューサーは西条八十くどきの役≠買ってでて、気分がのらなければ仕事をしない、わがままな叙情詩人に傑作をものさせた。(中略)米山正夫の作・編曲は、童謡と歌謡曲の中間をゆくロマンチックなメロディーで放送のたびに少年少女ファンをわかすコロムビア専属の童謡歌手安田祥子が歌う。

映画で流れる主題歌は、映画用にではなく、まずはこのラジオドラマのために作られたことがわかる(当初からラジオと映画の両方で使うことになっていたのかも知れないが)。しかしこの「緑はるかに」の主題歌のレコードがいつごろ発売されたのか、そしてどんなジャケットデザインだったのかはまったくわからない。ご存知の方がいたらご教示いただきたいところである。

父母を失い、形見のオルゴールの小箱を求めてさまよう不幸な少女ルリ子役に、児童劇団こけし座の小島くるみが登用された。彼女は映画俳優小島洋々の娘で中学1年生、去年母親と死別した哀しみが小さな胸によみがえるのか「録音中あの子がお母さん、お母さんと呼ぶセリフの時など妙に実感がこもっていて…」と係をはじめ大人の出演者の胸をいためさせている。

不幸な主人公をかばって大活躍する浮浪児チビ真を、これもこけし座の磯部正己(中学2年生)が主演するほか、出演者はほとんど同劇団員の競演である。(中略)悪漢田沢役を元NHK放送劇団の真弓田一夫、解説をこれまた元NHK、現在ニッポン放送所属の石原アナが担当(中略)。

こうした悲喜こもごもの話題を呼んだこのプロ(プログラム=番組)が、これほど急いで製作されたのも映画、レコード、放送と立体的に広報するチャンスをのがさないようにと考えられたからで、いよいよ競争の激化した民放プロの最も理想的な企画の一つのテスト・ケースとして注目を集めている。

この記事の最後には、明らかにマルチメディア戦略を匂わす記述があり、そこには誰か音頭を取る人間がいたことは確実である。そして、西条八十くどきの役≠買って出たのが水の江滝子、という一文からも、一連の仕掛け人が往年の大女優・ターキーであったことはほぼ間違いないと思う(戦前のターキー人気は大変なもので、なんと西条八十も私設後援会「水の江会」の会員だったという)。

それにしても、ラジオドラマ化決定から放送まで2週間しか時間がなかったというのもすごい。このころは今より万事のんびりしていたかと思いきや、とんでもない突貫工事である。また、原作の北條誠が、病みあがりの体で新聞連載と平行してラジオドラマのシナリオも書いていたというのも泣かせる。若いころ熱烈なファンだったというターキーの頼みだけに断れなかったのだろうか。

とにかく、水の江滝子という人は、私の想像のはるか上を行く敏腕プロデューサーだったようだ。今回「緑はるかに」にまつわる記事を書くにあたり、本人のインタビューをまとめた『ひまわり婆っちゃま』と本人および日活関係者の証言をまとめた『みんな裕ちゃんが好きだった』の2冊を読んだのだが、彼女の柔軟な発想や行動力、そして人間を見る目(それらはすべて女優時代に培われたものであろう)には何度も舌を巻いた。浅丘ルリ子を筆頭に、岡田眞澄、フランキー堺、石原裕次郎、和泉雅子、吉永小百合と、彼女が発掘した新人は枚挙にいとまがない。撮影所システムが機能していた時代の記録という意味でも大変興味深く、まさに日本映画が一番元気だったころの息吹きに触れた気分であった。お時間のある方には、ぜひご一読をお勧めする。

さて、水の江滝子が女優業に区切りをつけ、プロデューサーに転身したのは1954年3月、「緑はるかに」の連載が始まるひと月前のことであった。ターキーには当時、マネージャー兼恋人のような存在の兼松廉吉という男がいたのだが、その兼松が2月10日、借金問題を苦に自殺。兼松は読売新聞の企画部長だった深見和夫(後に報知新聞社長)に、「滝子のことをよろしく頼む」という遺書を残しており、深見はそれに応える形で、ターキーを日活に紹介し、プロデューサーの座に据えたのだという。

昭和29年(1954年)の3月に初めて日活に行ったのかな。ところが、会社に行ったって何したらいいのかわからない。(中略)自分の机なんかないから、江森さんていう常務の席の隣にあった応接セットにふんぞり返って、新聞とか雑誌とかいっぱい積んであったのを、手当たり次第読んでたの。

『ひまわり婆っちゃま』水の江瀧子(1988年・婦人画報社)

そんな生活が続く中で、4月に読売新聞で「緑はるかに」の連載が始まり、ターキーがそれに目を止めた、というのがオフィシャルなストーリーのようだ。映画化決定を報じる1954年5月19日の読売新聞夕刊には、

女性プロデューサーとして、また多年の舞台生活の経験から、明るい、そしてロマンチックな音楽映画や喜劇をやわらかいタッチで描く作品を製作すべく、その素材をさがしていたターキーがこれこそ≠ニばかりとびついたのがこの「緑はるかに」だった。

との一文がある。だが、この時のターキーはまだ入社2ヶ月、プロデューサー業務の何たるかもわからなかったはずで、この時点ですべての舵取りを一人で行ったとは考えにくい。そこで浮かんでくるのが先ほども書いた、ターキーを日活に入社させた深見和夫の存在である。深見は当事、読売新聞の企画部長。自社の新聞で連載が始まったばかりの絵物語「緑はるかに」を、ターキーに推薦したことは大いに考えられる。実際、この時期に読売新聞夕刊で、「緑はるかに」と同じページに連載されていた小説「女人の館」(原作・白川渥)も、連載終了後間もなく日活で映画化されている(1954年11月23日公開)。監督は春原政久、主演は三國連太郎と北原三枝、そしてこの映画になんとターキーは役者で出演しているのである。本人の発言によれば、小銭稼ぎのためだったようだが、結果として、新聞小説を映画化するプロセスを体得する場になったようにも思われる。

ちなみに、「緑はるかに」の原作者である北條誠は、今では名前を聞いてもあまりピンとこないが、当事は映画化向けの小説を量産する、文字通りの売れっ子作家であった。以下は松竹のプロデューサーだった山内静夫の『松竹大船撮影所覚え書』(2003年・かまくら春秋社)からの引用である。

1950年代、松竹映画で最も活躍した作家の双璧は、中野実と北条誠である。文芸作品とは言い難いが、中野実の小説には明るさとホームドラマ風の暖かさがあり、女優王国の松竹には向いていたし、北条誠はその若さのもつカラッとした恋愛ドラマで、従来のメロドラマ路線にありながら、戦後の世相を捉えた現代性が観客には好感を与えた。(中略)北条誠は昭和24(1949)年から32(1957)年までの9年間に実に13本の原作を提供した。しかも北条の「この世の花」という作品は2年間(1955年3月〜1956年10月)で第1部から第10部まで作られた。短期間にこれだけ連続して作られた例はあまり見ない。これなどは、映画の反響を受けて、逆に原作の内容が出来ていったと言えなくもない。掲載雑誌とも連動して宣伝効果を高めたり、ロケ地なども土地土地の要望を入れる等、立体的に興行性を高めることに成功した。

これから察するに、読売新聞サイドは、北條誠に連載を依頼した時点で、密かに映画化の機会をうかがっていたのではないだろうか。映画のヒットは当然自社の宣伝にもなる。そこで深見和夫を通じ、これを日活入社間もないターキーに委ねたのではないか、などと勝手な想像を働かせてしてしまうのである。

そしていよいよ8月6日、読売新聞夕刊においてヒロイン・ルリ子役の募集告知がなされた。ひまわり婆っちゃま』には以下の一文がある。

その時も役者がいなくて、「主役を募集しようか」って私が言って、それで選ばれたのがルリちゃん(浅丘ルリ子)だったの。このやり方も結構宣伝になったのかな。

このころはもう、ターキーもプロデューサーとしてエンジンがかかっていたようで、ヒロイン募集のアイデアのみならず、ルリ子を最終的に選んだのもターキー自身だったようだ。いくら中原淳一が猛プッシュしたとしても、彼は衣裳デザイナーの立場、最終決定権を持つのはターキーである。そしてプロデューサーと並んで作品に権限があるとされる監督は、このオーディションにはまったくタッチしていなかった。以下は井上梅次監督の回想である。

僕は新東宝育ちなんですね。その頃、江利チエミがテネシーワルツで大ヒットしたのに対抗して、雪村いづみをスターにしようという話があり、「東京シンデレラ娘」という音楽映画を撮った。(中略)それを水の江さんが日活のプロデューサーとして見ていてくださったんですねぇ。その後別のルートから引き抜きがあり、日活へ移ったんですが、水の江さんとは「緑はるかに」が最初ですね。(中略)「緑はるかに」のヒロインを募集したんですが、私は日活に移る前の東宝の仕事が宝塚でありまして、審査会に出られなかったんです。(中略)浅丘ルリ子という名前は私がつけたんですけどね、選んだのは水の江さん。

『みんな裕ちゃんが好きだった』水の江瀧子(1991年・文園社)

このとおりだとすれば、井上梅次を監督に抜擢したのもターキーだったことになる。井上の「東京シンデレラ娘」(1954年4月26日公開)を見て、これはいけると思ったのだろう。なお、井上は日活に移籍する前、雪村いづみ出演の映画を立て続けに5本撮っているが、そのうちの3本にフランキー堺が出ている。ターキーの著書では、フランキー堺について、「数寄屋橋のライブハウスでドラムを叩いているのを見つけて、映画に出ないかとスカウトした」という話になっているが、実際にはターキーが日活に入社する1年以上前からフランキー堺は映画に出ているので、このエピソードは少し事実と違っているように思う。どちらかといえばフランキーは井上梅次人脈という印象が強い。ついでに言うと、「東京シンデレラ娘」につづく「乾杯!女学生」(1954年6月29日公開)では、ターキーは雪村いづみの母親役で出演している。この映画の撮影時はすでに日活に在籍していたはずで、もしかすると井上梅次監督の演出を見聞するために出演を引き受けたのかも知れない。

なお、この「緑はるかに」がターキーの初プロデュース作品と喧伝されることが多いようだが、実際の第1作は、1955年1月8日公開の「初恋カナリヤ娘」(58分)である。ただ、これは田中絹代監督作品「月は上りぬ」(102分) との併映で、SP(Sister Picture=2本立て興行用の中編)として製作されたため、正式な長編作品としては「緑はるかに」ということになるのだろう。このあたりは前回書いた、「日活初の総天然色映画」と位置づけが似ているように感じる(実際の第1作は「白き神々の座」だが、記録映画であったため、劇映画作品としては「緑はるかに」が最初)。ちなみに「初恋カナリヤ娘」には、ターキーが1本釣りしてデビューさせた岡田眞澄と、前述のフランキー堺がメインで出演、このつながりで「緑はるかに」にもカメオ出演をすることになる。

さて、こうして製作され、メディアミックス的な展開も試みられた「緑はるかに」だったが、実際のところ、どれくらいヒットしたのかはよくわからない。ターキーはこの映画について「それがまた偶然あたってね。それからプロデューサーってのがやったら面白くなってきたんです」と書いているから、そこそこの数字をはじき出しはしたのだろう。しかし、私などは生まれていなかったせいもあるかもしれないが、この映画がそれ程の大ヒットを飛ばしたとは考えられないし、「ルリ子カットが巷で大流行」などと言われても、それはごく限られた年齢層の女学生にアピールしただけで、世代を超えた、社会現象的なうねりを生み出すには至らなかったように思われる。
実際、1955年の邦画配給収入トップ10を見ても、日活作品でランクインしているのは「力道山物語 怒濤の男」だけである(第9位)。

しかしこの「緑はるかに」が、浅丘ルリ子のデビュー作であり、水の江滝子のプロデューサー第1作であるのはまぎれもない事実である。この2つの芽が、やがて一連の裕次郎映画という大木に育ち、日活の黄金時代を築くことになるわけで、そういう意味ではまことに眩しい「緑」が茂っていくきっかけとなった忘れがたい作品だと思う。

この作品でヒロインの名を与えられ日活専属となった浅丘ルリ子は、「緑はるかに」公開から4ヵ月後の9月14日に公開された「銀座二十四帖」で、銀座の花売り娘・ルリ子(通称ルリちゃん)を演じる。

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物語に直接からむ役ではなかったが、その分気負いもなくのびのびと演じており、「緑はるかに」よりも明るい表情が多いのが印象的だった。この時のルリ子は戦災孤児という設定。そして1956年1月3日公開の「裏町のお転婆娘」でも、またしても銀座の花売り娘で孤児のルリ子役。しかもこの時彼女がいる孤児院は「光の家」といい、「緑はるかに」に出てくる孤児院とまったく同じ名前。役名が毎度「ルリ子」なのは、浅丘ルリ子の名前を観客に早く覚えてもらうための日活の配慮だと思うが、どうしてこう似たような設定が続くのか(映画「緑はるかに」でもルリ子は物語終盤まで孤児という扱いだった)。やはり古今東西、ヒロインには幸福よりも不幸が似つかわしいということなのだろうか。

さて、「銀座二十四帖」と同じ1955年夏の銀座に、今ひとりの「ルリ子」が降誕しようとしていた。彼女もやはり花売り娘。父親を戦争で亡くし、花を売って暮らしを助けるけなげな少女。その声はカナリアのように美しく、いつか日本一の少女歌手になることを夢見ている。

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彼女こそ、梶原一騎・原作、吉田竜夫・画による絵物語「少年プロレス王 鉄腕リキヤ」(『冒険王』1955年3月号〜1957年12月号)に登場するヒロイン・ルリ子である。

○ルリ子という名前と可憐な容姿
○銀座の花売り娘(「銀座二十四帖」「裏町のお転婆娘」と同じ)
○孤児ではないが母子家庭(父親のみ死亡という設定は原作の「緑はるかに」と同じ)
○歌の才能がある(これも原作の「緑はるかに」と同じ)

これら属性の類似はただの偶然なのか?それとも? ルリ子をめぐる冒険は、次回から新章に突入します!(いつか書くと思うので気長にお待ちください)

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2021年05月08日

ルリ子をめぐる冒険(9)映画「緑はるかに」公開まで

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上は浅丘ルリ子(本名:浅井信子)が「緑はるかに」のルリ子役に応募した時の写真。
読売新聞紙上での募集告知が1954年8月6日、締切は8月31日。この写真も8月に撮影したようで、かなり日焼けしている。

さて、今日、5月8日は、今からちょうど66年前に映画「緑はるかに」がロードショー公開を果たした記念すべき日である。というわけで、いつも以上に画像多めで話を進めていこう。

まずは前回のつづき。『ジュニアそれいゆ』1955年早春号から、中原淳一デザインによるルリ子の衣裳の数々を見ていこう。

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この映画の中の衣裳は、中原淳一先生が受け持たれています。ルリコのお母さまとか、他の大人の方たちのも中原先生のデザインですが、ここではルリコのドレスを御紹介しましょう。
「緑はるかに」は日活初のテクニカラー(天然色)の映画なので、ドレスの色彩にも中原先生はいろいろ心をくばられたようです。連載された物語では、ルリコのお父さまは病気の場面しか出ていませんが、映画では幻想の場面が多くあって、ルリコがお父さまと一しょに暮らしていた頃の愉しい美しいシーンが沢山見られるということです。(※実際はほんの少しです)
浅丘さんは、本当は中学二年生なのですが、映画では小学校六年のルリコです。それでこれらのドレスも子供っぽく見えますが、これはスカートをそのまま膝の下位まで長くするだけで中学から高校までの方たちにも似合うデザインです。(後略)

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「これはずっと旅をしている時に着ているジャンパー・スカート。下にスウェターを着るのです」……中原先生がデザイン画をかかれて、ルリコさんに説明していられます。或る日の撮影所での打合わせの一コマ。

当時、女学生の憧れだった中原淳一デザインの洋服を着られるというのは、大変な栄誉だったに違いない。浅丘ルリ子自身、『徹子の部屋』で、「(ルリ子役に)受かったことよりも、中原先生のお洋服が着られることの方が嬉しくって。すごく可愛いお服なんですよね」と語っている。

なお、「旅をしている時に着ているジャンパー・スカート」の写真は『ジュニアそれいゆ』には掲載されていないが、要するにこれである。

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このキャプチャ画像でわかるように、ジャンパースカートはライトグレー、セーターは薄いピンクなのだが、どういうわけかDVDのジャケット写真では、ジャンパースカートはスカイブルー、セーターはクリーム色になっている。

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白黒写真に後から着色したものだが、どうして映画オリジナルのカラーリングにしなかったのだろう。

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ピンクのウールで作ったこのワンピースは、最初の場面に着る普段着です。衿にそった小さな丸いヨークは、可愛いギャザーを両側にちょっととって、胸のふくらみを出しています。ヨークと身頃の境を共布のループで押え、そのギャザーの上に飾られた二つのボウは、蝶々のようで可愛い。

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「小さな丸いヨーク」とか「可愛いギャザー」とか「共布のループ」とか、何のことだかさっぱりわからないが、映画だとこんな感じ。

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これはまだお父様がお家にいらっしゃった頃、いろいろの花が一杯咲いている春のお庭で遊んでいた時の回想の場面で着る、薄いグレーのジャンパースカートです。胸に飾られた花のアップリケは、ピンク、クリーム、ブルーといった淡い色のものばかりで、ピッタリさせずに、浮き上ったようにつけます。

ということなのだが、この「春のお庭で遊んでいた時の回想の場面」というのは映画本編のどこにも存在しない。撮影したのに尺の関係でカットされたか、それとも撮影さえされなかったのか……。もはや永遠の謎である。

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これもやはり楽しかった頃の回想の場面のクリスマスパーティの時に着るものです。真黒で張りのあるタフタで作った、地味な色合いのこの服は、ふっくらふくらんだスカート、ケープ風の肩を覆う様なカラー、スカート丈までの長いビロードのリボンによって、ジュニアらしい可愛いカクテルドレスとなりました。

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はいはい、このシーンはたしかにあったのだけど、座っている姿が引きで一瞬映っただけで、バストアップのショットは人形やプレゼントを抱えているためドレスはほとんど見えず。素敵なデザインなのに、実にもったいない。もう少し撮り方を考えて欲しかった。井上梅次監督はこれら一連の衣裳が、天下の中原淳一デザインだということを本当にわかっていたのだろうか?

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美しいスミレ色の薄手のウールでつくったこの服は、最後の場面で、お父様が無事にお帰りになって、一家揃って愈々ルリコに幸わせが訪れた時に着るものです。胸に飾ったボウは、濃い紫のグログランリボンです。後も前も浮いてつけられた肩幅一杯の真白いカラーは、取りはずしが出来るようにしてもいいでしょう。

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やっとまともにフルショットで見えるワンピースが……、と言いたいところだが、これも、映ったのはごくごく短い時間(ちなみに、白黒スチールでは胸元の大きなリボンがポイントだが、劇中ではかなり細身なものに変更されている)。

以上が中原淳一デザインによるルリ子衣裳のすべてである。1着1着コンセプチュアルに、丁寧にデザインされているのに、それがあまりうまく映画に活かされていないのはいささか残念に思う。

『ジュニアそれいゆ』には「ルリコ人形」の作り方も載っている。

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中原淳一いわく、

「緑はるかに」のルリコは、苦しさの中にもやさしい美しい気持を失わない、本当に良い少女です。さしえを画く時も、いつもそういう少女をあらわしたいと思っていました。(後略)

たしかに原作のルリ子は、映画の何倍も苦しい目、辛い目に遭ってきた。原作のストーリーを8ヶ月間追いかけてきた中原は、映画のルリ子が迎えた甘すぎるラストをどう感じたのだろう。

さて、日活の記録によると、映画「緑はるかに」は1954年のクリスマスイブ(12月24日)にクランクインし、1955年2月12日にクランクアップしたとのこと。90分という尺の割に撮影が長期間なのは、いかなる理由によるのだろう。撮影終了間際、読売新聞には次のような記事が載った。

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日活 緑はるかに 完成迫る

本紙に連載され好評を得た北条誠作「緑はるかに」は、日活初の色彩作品として最後の追い込みに入っているが、井上梅次監督の配慮から、子供たちに美しい夢を誘うようなみなみならぬ努力がつづけられている。(中略)
中原淳一考証の衣装、木村威夫の美術も国産色彩のコニカラー・フィルムに美しくうつるよう研究された。森の中、ルリ子の家、ショウ乳ドウ(鍾乳洞)内の科学研究所、幻想に出てくる月の世界、サーカスの内部セットなど文字通り目もまばゆい色のシンフォニーで、しかもうやわらかい感じが出るよう原色に白をまぜたハーフ・トーン(中間色の調子)が使われた。父親のとじこめられる科学研究所や幻想の月の世界もすべてこれビニールとナイロン製といったきらびやかなもので、おとぎの国にまよいこませようと努力している。
こうして去年の十二月末撮影に入ってからすでに五ステージ二十四セットを使い、セット数だけでも日活撮影所再開以来の最高記録といわれる。
読売新聞1955年2月10日夕刊

これを読む限り、美術セットの作り込みや組み替えに時間を取られたことが、長丁場の理由のように思われるが、水の江滝子は後年、こんなことを語っている。

小西六(コニカ)で出したカラーフィルムを初めて使うことになったんだけど、それが今のフィルムとは全然違うんですよ。三原色フィルムといって、フィルムを三本使って、それを一緒に回して撮るわけ。だから、カメラもものすごく大きくて、それが三色の色がうまーく重なって出るととってもきれいな色になるんだけど、試作品みたいなものでしたからね、三本のフィルムがしょっちゅうからまるの。そうなると撮影は中止になって、機械を小西六へ持って行って、向こうで全部ばらして直してくれて、「もう大丈夫です」って持って来て、撮影を再開するとまた二、三日でからまっちゃう。そういうことばっかりやってたの。結局あの時は撮影が一ヵ月半ぐらい遅れたのかな。
『ひまわり婆っちゃま』水の江滝子(1988年・婦人画報社)

というわけで、実際には、開発途上中のコニカラー・システム(※)のトラブル多発が最大の原因のようだ。それに加え、メインの出演者5人がすべて義務教育期間中である(基本的に平日昼間は学校に行かなくてはいけない)ことも、少なからず進行に影響したと思われる。

※コニカラー・システム…1台の大型カメラの中に3本のフィルムを入れ、プリズムで赤・緑・青の3色に分光露光し、3色分解ネガを作り、最終的に1本のポジフィルムに焼き付ける方法

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こちらは同時期の「家庭よみうり」の記事。水の江滝子おばさん、という呼び方がおかしい。

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貴重な現場スチール。洞窟で初めてルリ子と三人組(チビ真、デブ、ノッポ)が出会うシーンを演出する井上梅次監督(後姿)。「キネマ旬報」3月上旬号より。

年度が代わり、4月9日の夕刊児童欄には、ついに映画の完成を知らせる記事が。

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美しい色、楽しい物語
えい画になった「緑はるかに」

日活でさつえいしていました、本紙連さいの「緑はるかに」(北条誠作)のえい画ができ上がりました。総天然色で、あらすじは、お父さまの研究のひみつが入っているオルゴールを中心に(中略)、ついに悪ものたちはつかまって、ルリ子は、お父さまとお母さまにめぐりあい、チビ真たちにも、幸福な日がおとずれます。
読売新聞1955年4月9日夕刊

公開1ヶ月前にもかかわらず、ネタバレ全開である。この時代はあまりそういうことは気にしなかったのだろうか。

約1週間後の4月17日には、「子供の日記念・児童映画会」の囲みで、試写会開催の告知記事。

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5月1日(日)午前10時、午後0時半、3時
池袋 豊島公会堂

◇招待方法◇ 小・中学校生徒に限り一校5名以上、20名以下まで招待します。申込み希望者は各校引率教員が往復ハガキに学校名、参加人数記入のうえ京橋局区内読売新聞社企画部あて申込んで下さい。締切(4月)22日までに必着のこと。抽選により各回900名計2,700名を招待します。

対象が小・中学校生のため、生徒個人ではなく、引率する教師が応募するという形になっている。これは言うまでもなくクチコミ宣伝のための一般試写なのだが、それにしても2,700名を招待というのは、結構な太っ腹である。

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5月4日の夕刊広告。左には大映のカラー映画「楊貴妃」が。大女優・京マチ子vs新人女優・浅丘ルリ子という構図。この時点では「緑はるかに」は5月10日からの公開を予定していたようだ。

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5月6日の夕刊広告。スペースの関係か、チビ真がハブられている。

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5月7日、公開前日の夕刊広告。今度はデブがハブられてしまう。メインのルリ子以外に4人も配置するのは難しかったのだろうか。

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よく見ると、ノッポの足元に「漫画本 トモブックス社」の文字が。

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なんと、公開に先立つ4月5日には、トモブック社より「映画物語シリーズ1 緑はるかに」と題したコミカライズも刊行されていたのである(画・わちさんぺい)。

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この漫画版、表紙と裏表紙、そして中扉まで映画版のスチールを使っているため、てっきり映画版のストーリーかと思いきや……

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中原淳一の魅力的な挿絵とは似ても似つかぬ、なんとも牧歌的なタッチの絵にまず軽いめまいを覚え……

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しかもあろうことか、ストーリーは完全に新聞連載の原作版を踏襲しているのだ!
これは、ルリ子とマミ子が「スミレ劇団」で悲惨な巡業生活を送っているところ。

映画版を期待して手に取った多くの少年少女も、これには肩透かしを食らった気分になったのではないだろうか。

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さて、話を映画版に戻そう。今も昔も興行界の慣例は変わらないようで、初日の8日には早速、「満員御礼」「スゴイ爆発的人気で日活系上映中!」の広告(追いパブ)が。個人的にはお隣りの資生堂の香水の広告も気になる。余白の美と呼ぶべきか…(値段が150円から18,000円ていうのも幅がすごいね)。

時を同じくして読売新聞系列の「週刊読売」に映画評が載るが、これが、思ったよりも辛口だった。

緑はるかに 日活作品 児童向きの色彩編

読売新聞に連載された北条誠作、中原淳一画のコドモ向き読物を原作として、女性プロデューサーに再生した水の江滝子がコニ・カラーを使用して製作した天然色作品。だから、あくまで観客の対象を小学校低学年に向けて、井上梅次脚本・監督も、つとめてその線を守ろうと努力している。(中略)
主役に選ばれた浅丘ルリ子も達者な児童劇団のワキ役に助けられ、まずまず、さしたる破たんはみせない。むしろおとなの俳優のまずさ、わざとらしさの方が目ざわりになるくらいである。ただ、前後の貝谷バレー団が出演する夢の場面は、コドモたちの幻想をさそうよりも、音楽にマッチしない動きや、白っぽけた色彩が、かえってブチこわしになりはしまいかと思うのだが、どんなものであろう。コドモたちの目もディズニー・プロ作品で案外こえているのではあるまいか。
コニ・カラーも前作の東映作品「日輪」とくらべたら大進歩のあとを、その技術的な所置にみとめるが、大映のイーストマン・カラーを念頭におくと、まだまだ研究の余地は十分にある。
週刊読売 1955年20号

ひとつ気になったのが、カラー作品としてどうか、という視点が前面に出ていること。しかし、これは当時の状況を考えるとやむを得ないのかも知れない。同年3月上旬の「キネマ旬報」の作品紹介記事にも、

この映画は今日本を風靡しているイーストマンカラーを使用せず、コニカラーシステムを使用して撮影されるが、国産カラーシステムの成果を知る意味で、作品そのものとはちがった大きな興味が持たれる作品である。

という一文があり、この時期、日本映画界は白黒からカラーへと、大きな時代の転換期を迎えていたことがわかる。

ちなみに、日本における映画会社ごとの最初のカラー作品は以下のとおり。

松竹 「カルメン故郷に帰る」(1951.3.21公開 フジカラー)
東宝 「花の中の娘たち」(1953.9.15公開 フジカラー)
大映 「地獄門」(1953.10.31公開 イーストマンカラー)
東映 「日輪」(1953.11.18公開 コニカラー)
新東宝 「ハワイ珍道中」(1954.9.14公開 イーストマンカラー)
日活 「緑はるかに」(1955.5.8公開 コニカラー)

ただ、日活は「緑はるかに」の前年の1954年に「白き神々の座」という山岳記録映画をイーストマンカラーで撮影、11月23日に公開している。だから、厳密に言えば、日活初のカラーは「白き神々の座」ということになるのだが、劇映画というカテゴリにおいては、「緑はるかに」が第一作で間違いはない。

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ここからは「緑はるかに」関連ビジュアル。まずはポスター2種。

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劇場配布用のチラシ。

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プレスシート(報道関係や業界向けの配布資料)。

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このプレスシートには、井上梅次監督の「コニ・カラーについて」という文章が掲載されているが、内容はまさに題名のごとしで、

その色の調子は、イーストマンよりはずっとハーフ・トーン(中間色)が出ます。つまりどぎつい色よりも自然の儘の調子が出るわけです。

などと、映画の内容はそっちのけ、ほぼテクニカルな説明に終始している。カメラマンや照明、美術などの技術スタッフではなく、監督みずからがこういう文章を書いていることからも、当時のカラー映画への関心の高さがうかがわれる。

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「緑はるかに」パンフレット(一般販売用)。

井上監督みずからが、「コニカラーはハーフ・トーン(中間色)が…」「どぎつい色よりも自然の調子が…」と書いているのに、それをまったく顧みない着色センス。特にこのパンフはひどい。ポスターやプレスシートはそれなりだったのに、これはどうしたことだろう。

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このまゆげはもはやギャグの域。

こうして次世代の期待を集めたコニカラーだったが、間もなく、3色を1本のフィルムで感光できる、いわゆるカラーフィルムが開発されたことにより、1950年代終盤には映画の世界から姿を消してしまう。そのため、コニカラー独自の3色分解ネガを処理できる現像所はなくなり、「緑はるかに」も長らくモノクロのプリントしかない状態が続いていたが、1993年に東京国立近代美術館フィルムセンター(現・国立映画アーカイブ)がオリジナルネガからカラー版を復元、そのおかげで現在も、DVDなどで当時の色彩をしのぶことができる。

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長々続いた「緑はるかに」小論も、一応次回で完結としたい。最後は、メディアミックスとしての「緑はるかに」、そして、「ルリ子」のその後などについて書いていく予定。
posted by taku at 14:45| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする