2015年09月13日

2軍のドンケツくん/ゆかい盗五面相

赤塚不二夫の生誕80周年を勝手に記念して、40数年前の雑誌から赤塚不二夫と「フジオ・プロ」周辺の隠れた作品を紹介するシリーズの第4弾。そろそろネタも息も切れてきたので、今回はごくごく簡単に。

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取り出しましたるは『中一コース』1975年9月号と『中一時代』1976年9月号。
『中一コース』の方は表紙が欠落しているため、当時の「ヤング・アイドル」豊川誕、山本明、草川祐馬の姿がおがめる。

なぜ年度違いで『中一』雑誌が2冊あるかというと、別に留年したわけではなく、1975年の方は、小学6年の時に、背伸びして一学年上の雑誌を買ってみただけ(そういうことをしたくなる時期ってありますよね)。

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でもって、まず『中一コース』の方には、フジオ・プロのチーフアシスタントを務めたあだち勉の「2軍のドンケツくん」(本作ではあだち・つとむ名義)。

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このころの低迷していた長嶋巨人軍を思い切りおちょくる内容。この回では連敗続きのジャイアンツに業を煮やした監督の妻が家出してしまう。

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監督は試合終了後のインタビューで、家出した妻に「帰ってきておくれ!」と嘆願(思い切り実名で。今ではこういうギャグも「自主規制」の対象かも知れない)。

この手のブラックな笑いはいかにも当時のフジオ・プロ作品という感じだが、同作品の欄外に気になる一文が。

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あんた“充”のなんなのサ!!」 ←この言い回しで時代がわかります

という読者の質問に対し、

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ワタシャ“充ちゃん”の兄キだよ! 不肖(?)の弟だが、偉大(?)な兄キ同ようヨロシクナ!

との回答が載っている。私はこれを読んで、あだち勉とあだち充という二人の漫画家が兄弟だということを知った。この時期、あだち充もまだ「青の時代」で、同じ『中一コース』に「ヒラヒラくん青春仁義」(原作・佐々木守)を連載していたのだ。

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画風は「レインボーマン」(1972〜73)のころに近い。下は夏休みならではのサービスカット。

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この「賢弟愚兄」の漫画人生については、あだち勉の『実録あだち充物語』(1984年・小学館)に詳しく書かれているようだが、何より驚くのは、1947年生まれで、赤塚不二夫よりひと回りも若いあだち勉が、赤塚より4年も早くこの世を去ってしまったこと。フジオ・プロ黄金期のメインスタッフは、長谷、古谷、高井、とりい、北見と、まだほとんどが存命だというのに…。

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なお、この『中一コース』では、やはりフジオ・プロのアシスタントだったてらしまけいじも、「てらひまロミオとキミのアジャパー狂室」という読者参加ページを担当していた。

一方の『中一時代』には、斉藤あきら(本作では斎藤あきら名義)が「ゆかい盗五面相」を連載。こちらは、ライトに笑える泥棒ギャグで、テイストとしては長谷邦夫の描く世界に近い(勝手な主観です)。

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この人は1934年生まれだから赤塚よりひとつ年上なのだが現在もお元気な様子。杉浦茂を振り出しに、高野よしてる、手塚治虫、横山光輝のアシスタントを務め、その後フジオ・プロに入ったという波乱の経歴(ジャガープロという自身のプロダクションを立ち上げたこともあるらしい)。

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もともとは劇画的な画風だったというが、これを見る限り完全な赤塚タッチで、ここまで似ていると、相当代作もしていたのではないかと考えてしまう。

上記の2冊は1975、76年のもので、この時期、赤塚自身はすでに漫画家としてのピークを過ぎつつあった。連載は多数持っていたが、残念ながら後世に語り伝えられるような傑作は生み出されていない。しかしテレビに目を移せば「元祖天才バカボン」(2回めのアニメ化)が1975年10月から2年間にわたって放送され、赤塚不二夫という存在は、すでにひとつのブランドになっていた。
posted by taku at 13:44| 漫画・アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする