2018年06月12日

森田童子の訃報

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森田童子が4月に亡くなっていたという。引退宣言をするでもなく姿を消し、「高校教師」で話題を集めた際にもカムバックせず、ついに本名も素顔も明らかにすることなく静かにこの世を去った。最後までおのれの美意識に忠実な人生を送った人という印象を受ける。

かつて1度だけ、彼女のコンサートを聴きに行ったことがある。1981年の12月、冷たい雨の降る夜だった。場所は両国だったか(当時の日記を見ればはっきりするのだが)、駅前広場に特設テントをしつらえての公演だった。

当時の私は高校3年生。大学受験の2ヵ月前だが、もはや現役合格はなかば諦めていた。何も面白いことが見出せず、鬱々と日を送っており、そんな当時の心情に彼女の切ないボーカルがマッチしたのだろう。そのころ増え始めていたレンタルレコード店(まだレンタルビデオ店はなかった)でアルバム4枚を借り、カセットテープに録音して繰り返し聴いていた。

さて、そのコンサートだが、残念ながら、細かい記憶はほとんど抜け落ちている。本物の森田童子を間近かで見たという胸の高鳴りも、感じたのか感じなかったのか…。もっとも、曲が曲なので、観客も全体にテンションは低めであり、公演は淡々と始まり、淡々と進行していった。数曲ごとにぽつりぽつりとMCをはさんで…、という流れは、アルバム「カテドラル聖マリア大聖堂録音盤」と同じ感じで、代表曲というべき「さよならぼくのともだち」「ぼくたちの失敗」「セルロイドの少女」「雨のクロール」などはすべて歌われたはずだ。そして、終盤ではそれなりに盛り上がって、アンコールも2曲くらいはあったような気がする(そのうちの1曲は「ぼくと観光バスに乗ってみませんか」だったような…。この時は観客一同手拍子をして会場も結構盛り上がった)。大変寒かった日で、私はコンサートの中盤ごろから尿意を催しており、さりとて中座するのはもったいなく、何とか終演までガマンしたのだが、アンコールあたりはかなり辛く、早く終わってほしいという生理的欲求と、もっと聴いていたいという文化的欲求が大いに葛藤していた。そして終演後、駅のトイレに駆け込んだ時は、人間の膀胱はこんなに広がるものかと驚くほど、とめどなく放尿が続いたことを鮮明に覚えている(追悼文なのにこんな内容ですみません)。

その翌年、私は予想通り大学受験に失敗、その翌年も失敗し、計2年間の浪人生活を送ることとなり、一方、森田童子はその間(1983年)に活動を休止してしまうので、まさにその夜のコンサートは「一期一会」であった。彼女は、たしかこの時に、「私たちのコンサートができなくなる様を観てほしい」というような意味深なことを言っていたが、実際そのとおりになってしまったのである。早いもので、あれから37年の歳月が流れ去っていった。

森田童子の歌の魅力については、すでに多くの人が語っているし、またこれからも語られていくだろうから、あえて口をはさまずにおきたい。ただ、ひとつだけ特筆しておきたいことがある。
私は当時、フォークギターをかじっていたので、お気に入りの「かぐや姫」や「風」を弾くのに飽きると、少し趣向を変えて、森田童子のナンバーの弾き語りに手を染めたりしていた。彼女の歌はメロディもコード進行もシンプルなので、楽譜がなくても割と楽に音を拾うことができたのである。
しかし、湧き水のように冷えびえと透き通ったあの「歌声」、そして、その底に流れる「諦観」は、真似ようとしても真似られるものではなかった。1度、カセットデッキ2台を駆使して、ある曲のコピーに挑戦したのだが、仕上がりを聞いて、そのお粗末さに嘆息したことがある。心象風景は、コピーのしようがないのだ。

報道によれば、森田童子は1952年生まれ。当時はまだ20代だったはずなのに、すでに人生におけるあらゆる戦いに敗れたような疲労感や絶望感、悲哀などを幾重にも身にまとっている印象だった。彼女の歌には「悲しい」「淋しい」という単語が割と頻繁に登場するが、そんな言葉など使わなくても、ただあの声で歌われるだけで、充分に人生の哀感は伝わるように感じたものだ。
今回の訃報に接して、「まだ生きていたのが意外だった」という声が少なからずあるようだが、自分もある意味で同感だ。森田童子は青春のただなかにいながら、すでにして人生の終わりの淵に腰を降ろし、そこで歌をうたい、ギターを奏でていたのである。
「若さは必ずしも生の躍動と結びつくものではない、そしてまた、若さゆえに絶望は鮮血を噴き出す…」
そんなことを教えてくれた不世出のシンガーソングライターに、あらためて哀悼の意を表したい。
posted by taku at 18:58| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする