
原作の「タイガーマスク」には、初めて「虎の穴」の魔神像と支配者の姿が描かれた8月号の巻頭をはじめ、単行本に収録されていないページがいろいろある、それはなぜか?
――というところまで前回書いたので、今回はそのつづきを。
今一度確認すると、
『ぼくら』1969年8月号の巻頭13ページ
同 1969年9月号の中間12ページ
同 1969年10月号(最終号)の後半1ページ
の計26ページが単行本未収録となっている(『ぼくらマガジン』については後述の予定)。
ではその理由だが、これは割合に単純な、物理的問題であると思われる。
当時の漫画の単行本は約200ページで1巻というのが一般的で、KCコミックスにおける「タイガーマスク」も、1〜4巻までそのページ数であった。「タイガー」は連載開始当初より1回50ページだったので、計算も簡単である。すなわち、
第1巻 1968年1〜4月号連載分(悪役として日本に登場→ブラック・バイソン戦→正義派に転向)
第2巻 1968年5〜8月号連載分(ゴリラマン戦、覆面ワールドリーグ戦参戦)
第3巻 1968年9〜12月号連載分(覆面ワールドリーグ戦優勝)
第4巻 1969年1〜4月号連載分(ウルトラ・タイガー・ドロップ完成、スター・アポロン戦、アジア王座決定戦出発)
という流れで、4ヶ月分を1冊にまとめる形が常態化していた。おおよそひとつのストーリーが決着するところで1冊が終わるという感じで、単行本としてとても読みやすくまとめられていたと思う。ところがここにきて、『ぼくら』が10月号で休刊となる。同誌一番の人気作で、アニメもスタートすることになった「タイガー」の連載は、後続誌の『ぼくらマガジン』に引き継がれることは規定路線であったが、一応『ぼくら』10月号で物語は「第1部完結」という形を取っており、そうなると単行本も、ここまででひとつの区切りとしなくては収まりが悪い。ということで、これまでは4ヶ月分で1冊だったものを、5巻だけ、5〜10月の6ヶ月分(アジア王座決定戦参戦→優勝、赤き死の仮面戦)を1冊に収めるというかなり強引な編集を行うことになったのである。すべてを収録すると単純計算で300ページ。実際には各号の表紙や前回ラストとのだぶり、半ページの広告や告知等があるので、それらを抜けば20ページぐらいは減らせるが、それでもまだ280ページ近くある。そこで、せめてあと30ページ程度は減らさなければ、と、編集サイドがあれこれ知恵をしぼった結果が先ほどの26ページのカット、ということではなかったか。
8月号の未収録部分は前回ご紹介したように、「虎の穴」の本部の場面。これはたしかにインパクトも強く、ファンとしては是非とも何度も読み返したい部分だが、クールな目で作品を概観してみると、物語の進行には何ら寄与していない。すなわち、この部分がなくてもストーリーの展開上、まったく不都合はないのである。雑誌連載においては、赤き死の仮面の召還の手紙うんぬんは次の号への強烈な「引き」になるが、単行本ではその効果はない。むしろ、前振りなしでいきなりプロレス会場に「赤い悪魔」が現れた方が衝撃度が大きい。これは、当時としてはまっとうな決断だったと思う(しかし、私などは「虎の穴」の支配者がかなりのお気に入りキャラなので、かえすがえすこの未収録は残念に思う)。
では、もうひとつの大幅カットというべき、9月号の中間12ページには、一体何が描かれていたのか。やはり、物語の進行には直接関わっていないゆえに削られたと思われるが、これこそが前回の「虎の穴」魔神像と支配者の初登場、にまさるともおとらない、特筆すべきシーンなのである。


「虎の穴」の最終兵器ともいうべき赤き死の仮面の挑戦を受けたタイガー(=伊達直人)。しかし必殺技なしで勝てる自信はなく、死をも覚悟する。ここら辺は原作もアニメも同じだが、単行本化された原作では、タイガーは割とあっさりと状況を受け入れるのに対し、アニメにおけるタイガーはかなりの時間、「生か死か」の葛藤を繰り返す(実際、1970年7月16日放送の42話「明日なき虎」はほぼ全編がそれに費やされる)。
そしてこの42話の後半に出てくる「海水浴のシーン」は、アニメオリジナルとして評価が高く、それゆえ「アニメは原作より人間ドラマとして優れている」などと喧伝される原因にもなっているのだが、私は原作の名誉のために、この場を借りて声を大にして言いたい。
「あの場面は、原作にもちゃんとあったのだ!」と。

直人は、ひとときの心の安らぎを求めて「ちびっこハウス」に車を走らせる。ちびっこたちは水着姿で直人を迎える。今日はハウスのプール開きの日だったのだ(このプールは1年前に直人の資金提供で作られたもの。原作のみの設定でアニメには登場しない)。




ちびっこたちは直人に一緒に水に入ろうと誘うが、直人は「プロレスできたえたごっついきんにくやすごいきずあとがばれ」るのを恐れ、泳げないと言い逃れる。そんな直人を水に突き落とすちびっこ集団。一方、ルリ子は赤系のビキニを着て現われ、ナイスなプロポーションと華麗な泳ぎを披露する。健太をのぞくちびっこたちも水遊びに興じる。



ちびっこたちがはしゃぐ姿を一人見つめる直人。
「力およばなかったそのときは……死のう! リングで…… このみんなのよろこぶすがたをまぶたにやきつけて まんぞくして……わらって死のう」
そしてそんな直人の心中を推し量り、ルリ子もまた、
「なぜ すべてをうちあけてルリ子にも…… ルリ子にも いっしょになかせてくれないの……?」
と涙をこぼす。

一方、こちらはアニメ版。直人、ルリ子と海にやってきたハウスの面々。はしゃぐちびっこたち(健太をのぞく)。

「泳げない」と言う直人だが、ちびっこたちにかつぎ上げられ、

海に落とされてしまう。

直人を気にするルリ子に、チャッピーが「泳ぎましょうよ」と誘い、



ルリ子はパーカーを脱いでオレンジ色のビキニを披露。

思わず「素敵!」と声を上げるチャッピー。同感です。

インドア派に思われたルリ子だが、意外にもアスリート体形で腹筋も凛々しい。

すいすい海を泳ぐルリ子。ちびっこたちにビーチボールを投げかえしたりもする。

一方の直人は砂浜で物思いにふける。
「あの子たちの笑顔を、ひとりひとりの笑顔を、(まぶたに)焼きつけておくのだ」といった心の声もほぼ原作どおり。

水辺からその様子を見つめるルリ子。
いかがだろう。海とプールの違いはあるものの、ほとんど原作と同じではないか。
「あの海水浴はアニメだけの名シーンで、原作には存在しない」
などと吹聴していた方々には、ぜひ認識を改めていただきたいものである(まあ、単行本に収載されていれば、こういう誤認も起きなかったのだが…)。
ただし、アニメの方はこの後にまだ続きがある。

なんと、ルリ子はおもむろに海から上がると、

濡れた水着のままで直人に抱きつき、「赤き死の仮面との戦いはやめて」と、体を張った懇願までしてしまうのだ。

直人ならずともびっくりの超展開である。何故なら、この時点ではまだ「直人=タイガー」だというのはルリ子の思い込みに過ぎず、決定的な証拠を彼女は何ひとつつかんでいないからだ。そんな不確かな状況でここまでやるというのは唐突すぎる。何より、ほかのちびっこも大勢いる海水浴場で、保護者的立場のルリ子が、このような常軌を逸した行動を取るとは到底考えられない。原作のように、離れた場所で涙を流す方がはるかに自然である。
ちなみにこれから約1年後、アニメ最終回間際の102話「『虎の穴』の真相」(1971年9月9日放送)において、直人はついにルリ子の前でマスクを脱ぎ、それを見たルリ子は感極まって「直人さん!」と、その胸に飛び込む(ちなみに場所は直人の宿泊するクラウンホテルの一室であった)。この場面においては、状況的にも心情的にも、ルリ子がそうすることはとても自然であり、何ら唐突さはない。しかも、互いの愛情は揺らぎがないにも関わらず、決して結ばれることが許されないという切なさもあり、アニメ版「タイガーマスク」の中でも屈指の名シーンに仕上がっている。この抱擁シーンを際立たせる意味でも、海岸での抱きつきは自重して欲しかったところである。
……と書いてみたものの、改めてアニメ42話「明日なき虎」を見返してみると、これはこれでなかなか素晴らしい。何が素晴らしいかと言って、作画がいい。「タイガー」といえば作画監督では真っ先に小松原一男が思い浮かぶが、この回を担当した森利夫も、正確なデッサンと丁寧な作画が好印象である。

ふだん筋骨隆々のレスラーの裸ばかり描いているアニメーターにしてみたら、こういう女性の柔らかい体のラインを描くのはかなり新鮮だったのではないだろうか。森利夫は何かのインタビューで「僕は絵を描いてることが楽しいんです」と語っているが、この一連のルリ子の水着も、きっと楽しみながら描いていたのだろう(そういう絵はこちらも見ていて楽しい)。

それにしても、改めてながめてみると、幼稚園児や小学生が見るアニメで、ここまでやっていいのだろうか、と少々心配になるアダルトな雰囲気である。辻なおきの丸っこい描線とは違うリアルなタッチのせいか、ルリ子の水着姿からは、明らかに女の色香が漂っている。
せっかくなので、ルリ子の抱きつきアクションをコマ送りで。








徐々に目を閉じていくところが実に悩ましい。
真夏の太陽の下、いきなりこんな風に迫られたら、この時代なら間違いなく鼻血ブーとなりそうだが…

そこは子ども番組の限界というべきか、直人は「やめてください」とだけ言ってルリ子から体を離すと、何もなかったかのようにその場から立ち去る。完全に置いてけぼりのルリ子が何とも悲しい。

それでいて、帰りの車の中で直人の頭に浮かぶのは、ルリ子の水着姿ばかり(これじゃ事故るぞ)。
当時、このアニメを見ていたちびっこたちは、ルリ子ねえちゃんの水着姿での「ご乱行」をどう受け止めたのだろう。いささか気になるところだが、実際のところ、ほとんど関心は持たれなかったのかも知れない。私も、リアルタイムでこの回を見ていたはずだが、あまり印象には残らず、「何か2人で深刻な話をしていたな」と思った程度であった。まあ子どもたちの多くはプロレスのシーン目当てで番組を見ているわけで、それ以外の場面は割とどうでもいいのである(これが思春期以降であれば話は違うのだろうが)。
いつの間にか原作から離れ、アニメの、というかルリ子の水着ネタになってしまった。何しろルリ子さんの水着回は、後にも先にもこれだけなので……。
しかし、こうして原作とアニメのワンシーンを見比べてみると、アニメの方が人気のある理由がなんとなくわかるような気もする。原作はすべてにおいて実に牧歌的というか、どこまでも児童漫画であろうとしているのに対し、アニメは意識的にリアルなタッチを採用し、もう少し上の年齢層にまでアピールを試みている、というか。これは、購読層がかなり限定されている「雑誌」というメディアと、誰が見るかわからない「テレビ」というメディアの違いも影響しているのかも知れない。
では今回はこの辺で(気が向いたら続きを書きます)。
【おまけ情報】

今回紹介した未収録ページは『ぼくら』1969年9月号に掲載されたものだが、同じ9月号には「100億の怪物」という16ページの読み切り漫画が掲載されている。作者は新人の「野口まさる」、後年の野口竜である。戦隊シリーズ、宇宙刑事シリーズなどで知られる野口竜のキャラクターデザインの原型が垣間見られるという点で貴重な作品だと思うが、ほかにも注目に値する理由がある。

流星群が地球に接近し、それとともにおびただしい数の怪物が出現。実はそれらの怪物は、流星群の発した高周波の影響により人間が変身した姿で、それにより人類がパニックを起こすという、原作版「デビルマン」におけるデーモン無差別合体のようなストーリー。

「あなたのとなりの人にきをつけましょう、怪物はすぐそばにいます」というアナウンサーの警告も「デビルマン」におけるテレビ出演時の飛鳥了の発言とダブる。

主人公の勇は怪物化する家族の元を離れ、車で叔父のところに向かうが、途中で怪物に襲われ、同時に体に異変を覚える。

怪物の出現とともに、怪物にはならずに超能力者(ミュータント)となる者も地球に生まれ出ていた(勇もそのひとり)。だが、普通の人間はすべて死に絶える。そして次世代の地球の覇権を競う「最終戦争」が、怪物族と超能力者族との間で繰り広げられる展開を予感させて作品は終わる。
このあたりの設定も、人類が死に絶え、デーモン軍団とデビルマン軍団が「最終戦争」に突入する「デビルマン」後半の展開と共通するものを感じる(描かれたのはこちらの方が3年以上早い)。なおこの当時、永井豪は『ぼくら』に「アラ〜くん」を連載中だったから、この「100億の怪物」を読んだ可能性はかなり高い。ここから、何かしらインスパイアされるものがあったのでは…と考えるのは飛躍のしすぎだろうか(なお、永井豪と野口竜は、デビュー前の同じ時期、石ノ森章太郎のアシスタントをしていたとのこと)。