2021年05月26日

ルリ子をめぐる冒険(10)メディアミックスとしての「緑はるかに」

midori_ruriko.jpg
↑オーディション終了後の記念写真か。右から、まだ髪の毛を切る前の浅井信子(浅丘ルリ子)、その隣りが主題歌を歌う安田祥子、その前がマミ子役の渡辺典子、水の江滝子(ターキー)、安田章子(由紀さおり)、左後ろの女性は不詳(1954年11月)

「緑はるかに」に関する出来事を時系列でまとめると、だいたい以下のとおりである。

1954(昭和29)年

4月12日 読売新聞夕刊にて絵物語(作・北條誠、絵・中原淳一)の連載開始。
5月19日 読売新聞夕刊に映画化決定の記事が掲載。
8月2日 ニッポン放送にて連続放送劇として放送開始(提供は森永製菓)。
8月6日 読売新聞夕刊にヒロイン・ルリ子役募集の告知記事が掲載。
11月23日 ルリ子役の最終面接(調布・日活撮影所にて)。
11月30日 ニッポン放送の連続放送劇、放送終了(全87回)。
12月6日 映画脚本審査。読売新聞夕刊に「ルリ子役」決定の第一報掲載。
12月6日 『ジュニアそれいゆ』1955年早春号発売。「ルリコさん決定」の記事が掲載。
12月14日 読売新聞夕刊の絵物語連載終了(全210回)。
12月24日 映画クランクイン。
?月?日 コロムビアレコードより主題歌発売。

1955(昭和30)年

2月12日 映画クランクアップ。
2月19日 映画ダビング終了。
3月15日 映画完成試写。
3月22日 映画審査試写。
4月5日 トモブック社より「映画物語シリーズ1 緑はるかに」刊行(画・わちさんぺい)。
5月1日 豊島公会堂にて一般試写。2,700人を招待。
5月8日 劇場公開。併映は「天城鴉」「ペンギンの国を訪ねて」。
8月5日 ポプラ社より原作単行本刊行(カバー絵・松本昌美、挿絵・花房英樹)。

という感じで、約1年4ヶ月の間に、

1)新聞連載の絵物語
2)ラジオの連続放送劇
3)レコード
4)コミカライズ
5)劇場映画
6)原作単行本

と、6つのメディア展開がなされたことがわかる。当事としてはかなり多角的と言えるのではないか。これが70年代以降であれば、確実にテレビドラマ化も行われただろうが、この当時はまだテレビは始まったばかりでドラマといえばすべてスタジオでの生放送、まだ主要メディアのひとつとは言えない状態であった。

さて、1954年8月1日の読売新聞夕刊には以下のような記事が載っている。

midori_yomiuri_0801.jpg

緑はるかに を連続ドラマに
ニッポン放送

本紙に連載中の北条誠作「緑はるかに」は、日活入りした水の江滝子プロデューサーのプ第1回作品として映画化されるに先だち、ニッポン放送で、2日から11月末まで87回にわたり、土、日を除く毎夕5時50分から10分間、子供と母親向け、耳できく絵物語風の異色連続ドラマとして放送される。

この放送がきまってから電波にのるまでに、二週間近くしかなかったので、原作者の北条誠は放送の打合せやら台本を書くのにてんてこ舞、盲腸の手術後禁酒していたのを、はじめて破り、アルコールの助けをかりた始末。「おかげでまた酒飲みにされた」とは本人の弁。

テーマ・ソングを作るのに西条八十作詞、米山正夫作曲の案がたてられたものの、短期間のうちに引受けてもらえるかどうか不安が持たれた。それを聞いた水の江プロデューサーは西条八十くどきの役≠買ってでて、気分がのらなければ仕事をしない、わがままな叙情詩人に傑作をものさせた。(中略)米山正夫の作・編曲は、童謡と歌謡曲の中間をゆくロマンチックなメロディーで放送のたびに少年少女ファンをわかすコロムビア専属の童謡歌手安田祥子が歌う。

映画で流れる主題歌は、映画用にではなく、まずはこのラジオドラマのために作られたことがわかる(当初からラジオと映画の両方で使うことになっていたのかも知れないが)。しかしこの「緑はるかに」の主題歌のレコードがいつごろ発売されたのか、そしてどんなジャケットデザインだったのかはまったくわからない。ご存知の方がいたらご教示いただきたいところである。

父母を失い、形見のオルゴールの小箱を求めてさまよう不幸な少女ルリ子役に、児童劇団こけし座の小島くるみが登用された。彼女は映画俳優小島洋々の娘で中学1年生、去年母親と死別した哀しみが小さな胸によみがえるのか「録音中あの子がお母さん、お母さんと呼ぶセリフの時など妙に実感がこもっていて…」と係をはじめ大人の出演者の胸をいためさせている。

不幸な主人公をかばって大活躍する浮浪児チビ真を、これもこけし座の磯部正己(中学2年生)が主演するほか、出演者はほとんど同劇団員の競演である。(中略)悪漢田沢役を元NHK放送劇団の真弓田一夫、解説をこれまた元NHK、現在ニッポン放送所属の石原アナが担当(中略)。

こうした悲喜こもごもの話題を呼んだこのプロ(プログラム=番組)が、これほど急いで製作されたのも映画、レコード、放送と立体的に広報するチャンスをのがさないようにと考えられたからで、いよいよ競争の激化した民放プロの最も理想的な企画の一つのテスト・ケースとして注目を集めている。

この記事の最後には、明らかにマルチメディア戦略を匂わす記述があり、そこには誰か音頭を取る人間がいたことは確実である。そして、西条八十くどきの役≠買って出たのが水の江滝子、という一文からも、一連の仕掛け人が往年の大女優・ターキーであったことはほぼ間違いないと思う(戦前のターキー人気は大変なもので、なんと西条八十も私設後援会「水の江会」の会員だったという)。

それにしても、ラジオドラマ化決定から放送まで2週間しか時間がなかったというのもすごい。このころは今より万事のんびりしていたかと思いきや、とんでもない突貫工事である。また、原作の北條誠が、病みあがりの体で新聞連載と平行してラジオドラマのシナリオも書いていたというのも泣かせる。若いころ熱烈なファンだったというターキーの頼みだけに断れなかったのだろうか。

とにかく、水の江滝子という人は、私の想像のはるか上を行く敏腕プロデューサーだったようだ。今回「緑はるかに」にまつわる記事を書くにあたり、本人のインタビューをまとめた『ひまわり婆っちゃま』と本人および日活関係者の証言をまとめた『みんな裕ちゃんが好きだった』の2冊を読んだのだが、彼女の柔軟な発想や行動力、そして人間を見る目(それらはすべて女優時代に培われたものであろう)には何度も舌を巻いた。浅丘ルリ子を筆頭に、岡田眞澄、フランキー堺、石原裕次郎、和泉雅子、吉永小百合と、彼女が発掘した新人は枚挙にいとまがない。撮影所システムが機能していた時代の記録という意味でも大変興味深く、まさに日本映画が一番元気だったころの息吹きに触れた気分であった。お時間のある方には、ぜひご一読をお勧めする。

さて、水の江滝子が女優業に区切りをつけ、プロデューサーに転身したのは1954年3月、「緑はるかに」の連載が始まるひと月前のことであった。ターキーには当時、マネージャー兼恋人のような存在の兼松廉吉という男がいたのだが、その兼松が2月10日、借金問題を苦に自殺。兼松は読売新聞の企画部長だった深見和夫(後に報知新聞社長)に、「滝子のことをよろしく頼む」という遺書を残しており、深見はそれに応える形で、ターキーを日活に紹介し、プロデューサーの座に据えたのだという。

昭和29年(1954年)の3月に初めて日活に行ったのかな。ところが、会社に行ったって何したらいいのかわからない。(中略)自分の机なんかないから、江森さんていう常務の席の隣にあった応接セットにふんぞり返って、新聞とか雑誌とかいっぱい積んであったのを、手当たり次第読んでたの。

『ひまわり婆っちゃま』水の江瀧子(1988年・婦人画報社)

そんな生活が続く中で、4月に読売新聞で「緑はるかに」の連載が始まり、ターキーがそれに目を止めた、というのがオフィシャルなストーリーのようだ。映画化決定を報じる1954年5月19日の読売新聞夕刊には、

女性プロデューサーとして、また多年の舞台生活の経験から、明るい、そしてロマンチックな音楽映画や喜劇をやわらかいタッチで描く作品を製作すべく、その素材をさがしていたターキーがこれこそ≠ニばかりとびついたのがこの「緑はるかに」だった。

との一文がある。だが、この時のターキーはまだ入社2ヶ月、プロデューサー業務の何たるかもわからなかったはずで、この時点ですべての舵取りを一人で行ったとは考えにくい。そこで浮かんでくるのが先ほども書いた、ターキーを日活に入社させた深見和夫の存在である。深見は当事、読売新聞の企画部長。自社の新聞で連載が始まったばかりの絵物語「緑はるかに」を、ターキーに推薦したことは大いに考えられる。実際、この時期に読売新聞夕刊で、「緑はるかに」と同じページに連載されていた小説「女人の館」(原作・白川渥)も、連載終了後間もなく日活で映画化されている(1954年11月23日公開)。監督は春原政久、主演は三國連太郎と北原三枝、そしてこの映画になんとターキーは役者で出演しているのである。本人の発言によれば、小銭稼ぎのためだったようだが、結果として、新聞小説を映画化するプロセスを体得する場になったようにも思われる。

ちなみに、「緑はるかに」の原作者である北條誠は、今では名前を聞いてもあまりピンとこないが、当事は映画化向けの小説を量産する、文字通りの売れっ子作家であった。以下は松竹のプロデューサーだった山内静夫の『松竹大船撮影所覚え書』(2003年・かまくら春秋社)からの引用である。

1950年代、松竹映画で最も活躍した作家の双璧は、中野実と北条誠である。文芸作品とは言い難いが、中野実の小説には明るさとホームドラマ風の暖かさがあり、女優王国の松竹には向いていたし、北条誠はその若さのもつカラッとした恋愛ドラマで、従来のメロドラマ路線にありながら、戦後の世相を捉えた現代性が観客には好感を与えた。(中略)北条誠は昭和24(1949)年から32(1957)年までの9年間に実に13本の原作を提供した。しかも北条の「この世の花」という作品は2年間(1955年3月〜1956年10月)で第1部から第10部まで作られた。短期間にこれだけ連続して作られた例はあまり見ない。これなどは、映画の反響を受けて、逆に原作の内容が出来ていったと言えなくもない。掲載雑誌とも連動して宣伝効果を高めたり、ロケ地なども土地土地の要望を入れる等、立体的に興行性を高めることに成功した。

これから察するに、読売新聞サイドは、北條誠に連載を依頼した時点で、密かに映画化の機会をうかがっていたのではないだろうか。映画のヒットは当然自社の宣伝にもなる。そこで深見和夫を通じ、これを日活入社間もないターキーに委ねたのではないか、などと勝手な想像を働かせてしてしまうのである。

そしていよいよ8月6日、読売新聞夕刊においてヒロイン・ルリ子役の募集告知がなされた。ひまわり婆っちゃま』には以下の一文がある。

その時も役者がいなくて、「主役を募集しようか」って私が言って、それで選ばれたのがルリちゃん(浅丘ルリ子)だったの。このやり方も結構宣伝になったのかな。

このころはもう、ターキーもプロデューサーとしてエンジンがかかっていたようで、ヒロイン募集のアイデアのみならず、ルリ子を最終的に選んだのもターキー自身だったようだ。いくら中原淳一が猛プッシュしたとしても、彼は衣裳デザイナーの立場、最終決定権を持つのはターキーである。そしてプロデューサーと並んで作品に権限があるとされる監督は、このオーディションにはまったくタッチしていなかった。以下は井上梅次監督の回想である。

僕は新東宝育ちなんですね。その頃、江利チエミがテネシーワルツで大ヒットしたのに対抗して、雪村いづみをスターにしようという話があり、「東京シンデレラ娘」という音楽映画を撮った。(中略)それを水の江さんが日活のプロデューサーとして見ていてくださったんですねぇ。その後別のルートから引き抜きがあり、日活へ移ったんですが、水の江さんとは「緑はるかに」が最初ですね。(中略)「緑はるかに」のヒロインを募集したんですが、私は日活に移る前の東宝の仕事が宝塚でありまして、審査会に出られなかったんです。(中略)浅丘ルリ子という名前は私がつけたんですけどね、選んだのは水の江さん。

『みんな裕ちゃんが好きだった』水の江瀧子(1991年・文園社)

このとおりだとすれば、井上梅次を監督に抜擢したのもターキーだったことになる。井上の「東京シンデレラ娘」(1954年4月26日公開)を見て、これはいけると思ったのだろう。なお、井上は日活に移籍する前、雪村いづみ出演の映画を立て続けに5本撮っているが、そのうちの3本にフランキー堺が出ている。ターキーの著書では、フランキー堺について、「数寄屋橋のライブハウスでドラムを叩いているのを見つけて、映画に出ないかとスカウトした」という話になっているが、実際にはターキーが日活に入社する1年以上前からフランキー堺は映画に出ているので、このエピソードは少し事実と違っているように思う。どちらかといえばフランキーは井上梅次人脈という印象が強い。ついでに言うと、「東京シンデレラ娘」につづく「乾杯!女学生」(1954年6月29日公開)では、ターキーは雪村いづみの母親役で出演している。この映画の撮影時はすでに日活に在籍していたはずで、もしかすると井上梅次監督の演出を見聞するために出演を引き受けたのかも知れない。

なお、この「緑はるかに」がターキーの初プロデュース作品と喧伝されることが多いようだが、実際の第1作は、1955年1月8日公開の「初恋カナリヤ娘」(58分)である。ただ、これは田中絹代監督作品「月は上りぬ」(102分) との併映で、SP(Sister Picture=2本立て興行用の中編)として製作されたため、正式な長編作品としては「緑はるかに」ということになるのだろう。このあたりは前回書いた、「日活初の総天然色映画」と位置づけが似ているように感じる(実際の第1作は「白き神々の座」だが、記録映画であったため、劇映画作品としては「緑はるかに」が最初)。ちなみに「初恋カナリヤ娘」には、ターキーが1本釣りしてデビューさせた岡田眞澄と、前述のフランキー堺がメインで出演、このつながりで「緑はるかに」にもカメオ出演をすることになる。

さて、こうして製作され、メディアミックス的な展開も試みられた「緑はるかに」だったが、実際のところ、どれくらいヒットしたのかはよくわからない。ターキーはこの映画について「それがまた偶然あたってね。それからプロデューサーってのがやったら面白くなってきたんです」と書いているから、そこそこの数字をはじき出しはしたのだろう。しかし、私などは生まれていなかったせいもあるかもしれないが、この映画がそれ程の大ヒットを飛ばしたとは考えられないし、「ルリ子カットが巷で大流行」などと言われても、それはごく限られた年齢層の女学生にアピールしただけで、世代を超えた、社会現象的なうねりを生み出すには至らなかったように思われる。
実際、1955年の邦画配給収入トップ10を見ても、日活作品でランクインしているのは「力道山物語 怒濤の男」だけである(第9位)。

しかしこの「緑はるかに」が、浅丘ルリ子のデビュー作であり、水の江滝子のプロデューサー第1作であるのはまぎれもない事実である。この2つの芽が、やがて一連の裕次郎映画という大木に育ち、日活の黄金時代を築くことになるわけで、そういう意味ではまことに眩しい「緑」が茂っていくきっかけとなった忘れがたい作品だと思う。

この作品でヒロインの名を与えられ日活専属となった浅丘ルリ子は、「緑はるかに」公開から4ヵ月後の9月14日に公開された「銀座二十四帖」で、銀座の花売り娘・ルリ子(通称ルリちゃん)を演じる。

ginza_ruriko.jpg

物語に直接からむ役ではなかったが、その分気負いもなくのびのびと演じており、「緑はるかに」よりも明るい表情が多いのが印象的だった。この時のルリ子は戦災孤児という設定。そして1956年1月3日公開の「裏町のお転婆娘」でも、またしても銀座の花売り娘で孤児のルリ子役。しかもこの時彼女がいる孤児院は「光の家」といい、「緑はるかに」に出てくる孤児院とまったく同じ名前。役名が毎度「ルリ子」なのは、浅丘ルリ子の名前を観客に早く覚えてもらうための日活の配慮だと思うが、どうしてこう似たような設定が続くのか(映画「緑はるかに」でもルリ子は物語終盤まで孤児という扱いだった)。やはり古今東西、ヒロインには幸福よりも不幸が似つかわしいということなのだろうか。

さて、「銀座二十四帖」と同じ1955年夏の銀座に、今ひとりの「ルリ子」が降誕しようとしていた。彼女もやはり花売り娘。父親を戦争で亡くし、花を売って暮らしを助けるけなげな少女。その声はカナリアのように美しく、いつか日本一の少女歌手になることを夢見ている。

rikiya_ruriko01.jpg

rikiya_ruriko02.jpg

彼女こそ、梶原一騎・原作、吉田竜夫・画による絵物語「少年プロレス王 鉄腕リキヤ」(『冒険王』1955年3月号〜1957年12月号)に登場するヒロイン・ルリ子である。

○ルリ子という名前と可憐な容姿
○銀座の花売り娘(「銀座二十四帖」「裏町のお転婆娘」と同じ)
○孤児ではないが母子家庭(父親のみ死亡という設定は原作の「緑はるかに」と同じ)
○歌の才能がある(これも原作の「緑はるかに」と同じ)

これら属性の類似はただの偶然なのか?それとも? ルリ子をめぐる冒険は、次回から新章に突入します!(いつか書くと思うので気長にお待ちください)

midori_dress09.jpg
posted by taku at 21:02| 映画 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする