
私がホームページを始めた2001年ごろから顕著になった、いわゆる「昭和レトロブーム」は、想像以上に慢性化、かつ肥大化し、今やその底なし沼のような深みからは誰も抜け出せないようだ。中でも目につくのは特撮やアニメといったジャンルで、すでに何度かサイトのコラムでも触れたが、特撮ものといえば、相も変わらず「ウルトラマン」か「仮面ライダー」、あるいは「ゴレンジャー」に端を発する戦隊ものの焼き直しだし、その一方では、「デビルマン」「キューティーハニー」「キャシャーン」など、私なんかが子ども時代に熱中したアニメが次々と実写映画にリメイクされている。見るもの聞くもの埃をかぶったようなものだらけで、21世紀になって以降、新しいキャラクターと呼べるものが果たして生まれてきたのだろうか、と首を傾げたくなる。
現在テレビや映画の製作の中核をになっているのが30〜40代(私もこの世代だ)であることを考えると、幼少期に多大な影響を受けたこれらの作品を、自分たちの手でリメイクしたい気持ちはわからなくもない。また、認知度が高いからビジネスとして成立しやすいというメリットもある。そういう安易で後ろ向きな態度は、物を作る人間としては大いに問題だと思うが、しかしながら、昨今のあまりに閉塞的な社会情勢は、人間から新しいものを生み出す力を、かなり深刻に失わせていることはたしかだと思う。ある男のセリフを借りるなら、「誰が政治しとるのか!!」ということだ。
そんなこちらの思いに追い討ちをかけるように、今年の正月、さらに2本のアニメ作品の放送が始まった。「墓場鬼太郎」と「ヤッターマン」である。両作品とも実写映画化とリンクしての製作で、メディアミックス的戦略の一環なのは見え見えである。しかし、この2作、スルーさせるにはあまりにも魅力的であるがゆえ、ついつい視聴してしまい、今日に至っている。「ヤッターマン」は4月以降も続くようだが、「墓場鬼太郎」は20日で終わったので、まずはこちらから、作品の感想を思いつくままに書かせてもらうことにする。
ちなみに最初の鬼太郎アニメ(白黒)は、1968年に放送が始まり、その年幼稚園にあがった私はリアルタイムで作品を視聴、同時期に少年マガジンに連載されていた「ゲゲゲの鬼太郎」も読んでいるから、今年で視聴者&読者歴
40年である。当時はかなりの入れ込み方で、お絵描きといえば鬼太郎の妖怪かウルトラマンの怪獣ばかり描いていた。そして大人になってから改めて貸本時代の「墓場鬼太郎」に触れ、青林堂や朝日ソノラマから出た復刻本もあらかた揃えた。そういうオールドファンであるので、少々筆が荒れるかも知れないが、その辺は「のれんの古さ」に免じてご容赦いただきたい。
というわけで今回のアニメ「墓場鬼太郎」である。まず、特筆するべき点から先に書いてしまうと、
@とにもかくにも、初めて鬼太郎の誕生をきっちりアニメ化したということ。それまでのアニメではすべて、鬼太郎はすでにこの世に存在しており、なおかつ人間に味方するヒーローとして描かれている(実は第3期のアニメでも出生譚が回想形式で描かれたが、鬼太郎が人間と幽霊との混血というおかしな設定だった)。これは、アニメと少年マガジンを両方見ていた当時の私にも疑問であり、どうして鬼太郎は妖怪(正確には幽霊族の末裔)なのに、人間に味方するのだろう、と不思議に思ったものである。当時の講談社の単行本の第1巻を立ち読みしたのだが、そこにも誕生の話は出ていない。しかしある時何かの雑誌(多分同じ年の「別冊少年マガジン」)で、墓場で死んだ母親の腹から生まれたという描写や、それに合わせて死んだ父親の遺体から目が溶けて落ちて、例の目玉親父が生まれたというエピソードを読み、子ども心にも、「うえー、おっかねえ」と思ったものである。そして、このグロさはちょっとアニメにはしにくいのだろうなあ、と納得してしまったような記憶がある。その、ある種幻の誕生シーンを、きっちり描くというのはやはり快挙である。そして、
Aオリジナルにこだわった声優陣↓とにかくこのクレジットを見ただけで心が震えた!
鬼太郎 野沢雅子
目玉親父 田の中勇
ねずみ男 大塚周夫 知っている人も多いと思うが、この顔ぶれは、まんま第1期のオリジナルキャストなのである。これはやはり、白黒の第1期(1968-9)、および第2期(1971-2)の「鬼太郎」こそが原点、本物である、と固く信じているわれわれの世代が製作現場の中枢に携わっているからこそのキャスティングだと、私は拍手喝采を送った。もし誰か一人でも、あの世に旅立たれていれば、多分鬼太郎のチャンチャンコを持ってしても絶対に実現できなかった奇跡のキャスティング。だって、あれから40年経ってるんだよ! 大塚周夫氏なんかいったいいくつなんだろうと首を傾げてしまうが、しかしオリジナルに愛着を感じるものとしては、耳になじんだ声優さんの声は本当に嬉しい。実に久しぶりで聞く野沢鬼太郎と大塚ねずみの掛け合い。「ああ、そうなんだよ、これなんだよ!」と、内容はそっちのけですっかり陶酔してしまった。第3期以降の鬼太郎アニメにほとんど魅力が感じられないのは、内容が焼き直しであることももちろんあるが、声優の違いというのも無視できない要因である。戸田恵子の鬼太郎と富山敬のねずみ男という組み合わせはある意味すごいのだが、どうしても素直に入っていけないのだ。そういう意味で、もうひとつの話題作である「ヤッターマン」も、30年の時を経て、三悪プラスドクロベーまでをオリジナルキャストでリメイクしたというのが、大きな魅力になっていると思う。
B原作から原画を書き起こしたオープニングとオリジナル主題歌これは、かなり評判がいいようだ。レトロなタッチの線画が、電気グルーヴの主題歌と相まって、独自の鬼太郎ワールドを創り出していると思う。これまでのアニメ化では、すべて例の「ゲ、ゲ、ゲゲゲのゲ〜」だったが、今回は「墓場」だからあの曲は使えなかったのだろう。しかし、このミスマッチ的な取り合わせは不思議な効果をあげていると思う。音楽ということでいえば、劇中で寝子(声:中川翔子)が歌う「君にメロロン」も、とても昭和時代の歌謡曲とは思えなかったが、単純なメロディーが耳の奥に残っていつまでも離れないインパクトがあった。「有楽町で溶けましょう」という迷曲も登場したし、音楽面ではかなり充実していたのではないか。同じリメイクでも「ヤッターマン」が昔と同じ主題歌を別の人間に歌わせて、ドひんしゅくを買ったのとは正反対である。
続いて
C…、といきたいのだが、残念ながら手放しで絶賛できるのはこのあたりまでである。もちろん、毎回それなりに楽しく見ていたのだが、あれだけボリュームのある原作「墓場鬼太郎」をわずが11回に収めるため、やたら展開があわただしくなり、物語のエッセンスをひととおり入れただけの、味わいの乏しい作品になってしまった印象が否めない。作画や彩色はかなりのクオリティだし、背景の描き方などにも、高度成長期の昭和をきちんと再現しようとするこだわりは感じられるのだが、あの展開の速さが、いかんせん現代的過ぎるのである。怪奇で不可思議、かつ懐しさを誘う水木ワールドは、もう少しゆったりと見せていただきたかったと切に思う。
物語をスピーディーに進めるため、無理に原作を改変した点も多い。たとえば第2話では、金持ちのはずの水木の会社の社長が、夜叉の営む、どうみても怪しげな下宿屋にふらりと泊まっているが、あれはかなり不可解だ(原作で下宿屋に泊るのは、貧乏漫画家の金野なし太)。また、原作では、吸血木のエピソードと寝子&ニセ鬼太郎、そして水神のエピソードまでが並列的に描かれるが、アニメではそれぞれを独立したストーリーに仕立てている。これも展開を早めるためなのだろうが、それによって、原作の醍醐味でもあった大河ドラマ的ダイナミズムが失われたのは大変残念である。さらに言うなら、鬼太郎の初恋の人である寝子が歌手としてデビューし、人気者になるくだりも超特急で、トランプ重井(この名前もなあ。ちなみに原作では「トランク永井」)の前座として「君にメロロン」を歌っているうちに、みるみるスターになってスポットを浴びているという急展開なのだが、その歌の間にニセ鬼太郎とネズミ男が街頭テレビの前で出会い、意気投合するあたりが、説明を省略しすぎてかなりわかりにくい。そしてなおも「君にメロロン」が流れるその中で、ニセ鬼太郎はコンサート会場に侵入、寝子の前でネズミを放し、寝子はそれを見て「哀しい習性」で化け猫になってしまう。さらにそのどさくさでニセ鬼太郎は鬼太郎のチャンチャンコをにせものとすり変えるのだが、その場面もはっきり見せていないため、何が起こったのか不明のまま、ニセ鬼太郎は寝子をそそのかして川に飛び込み無理心中、という、まさに視聴者置いてけぼりの驚愕の展開。実は、「あの世からの旅行者」であることを証明するため、地獄の砂を持ってくることを学者たちから要求されており、すべてはそのための行動だったのだが、そのあたりの状況を時系列で提示している原作と違い、アニメではすべてのタネ明かしを全部次の第5話に先送りしているので、第4話だけ見ている者にはさっぱりわからないのだ(原作を知っている私でも、え、何、どうしたの? と困惑したくらいである)。いくら連続ものとはいえ、その時その時で必要な情報というのはあると思うのだが。寝子をめぐるこのあたりのエピソードは、「鬼太郎夜話」の中でもひときわ光彩を放つ、いわばハイライトなので、もう少し丁寧に寝子と鬼太郎の心情、そしてヒールに徹したニセ鬼太郎とねずみ男の目的と行動を描いて欲しかった。
不満に思える部分は他にも多々ある。第5話と第6話の間に入るべき、ビート族と鬼太郎のエピソードが全部なくなっていたり(ビート族の男は、第5話の中盤、路上で鬼太郎とすれ違うアベックの片割れとしてワンシーンだけ顔出し出演。これは原作ファンへの配慮か?)、第6話で、鬼太郎が物の怪のところに借金取立てに来た時、何故かねずみ男がそこに一緒にいたり(原作はこのあたりも吸血木のエピソードと並列だから、いても当たり前なのだが)、第7話で登場のガマ令嬢が、ねずみ男のとなりの部屋に越してきたと思ったら、それこそあっという間に姿を消したり(原作では、ねずみ男に「おから」をおすそわけし、それでねずみ男が余計に彼女にのぼせるというエピソードもある)、とにかく私が今回のアニメに違和感を覚えるのは、先ほども書いたように、1話の中で、これでもかこれでもかと話を進めているため、原作にあった印象的なエピソードが無惨にそぎ落とされ、物語の骨格だけしか残っていないからだろう。
これは私見だが、後半の4作品は、無理にラインナップに入れる必要はなかったのではないだろうか。第1話「鬼太郎誕生」から第7話「人狼と幽霊列車」までが、原作での「妖奇伝」「墓場鬼太郎」(1959)「鬼太郎夜話」(1960)にあたり、そこまでのストーリーは連続性がある。いわば大河ドラマ的展開で、夜叉、吸血鬼、寝子、ニセ鬼太郎、物の怪などが次々に登場し、エンターテインメントとしての完成度も高い。それに対し、第8話から11話までは、それ以降に書かれた一話完結のものがベースになっており、エピソードに関連性はない。好みの問題もあるだろうが、後半の一連はストーリー的にも今ひとつと思えるものが多く、しかも10話「ブリガドーン」と第11話「アホな男」には、作者の分身のような水木という漫画家(作家)が続けて登場する(鬼太郎を育てた男も水木という名前だからややこしい)。そしてその水木一家が鬼太郎たちとからむという、似たような楽屋落ち的作品である。いくら原作でそういう話が続いているとはいえ、そこまで忠実にやる必要はないだろう。せっかくのアニメ化なのだから、11話全体の構成というかバランスをもっと熟考して欲しかった。個人的には、「鬼太郎夜話」のラストまでを11話かけてやるくらいでちょうどよかったと思う。原作はそこまでですでに1000ページ以上あるので、いずれにしてもかなりのハイペースだが、7話で1000ページよりは余裕がある。そうすればもう少しゆったり、大河ドラマ的元祖鬼太郎ワールドを展開させることができたであろうのにと、心から残念に思う。
それ以外にもうひとつ、どうしても見過ごせない点がある。「鬼太郎」をめぐる物語のすべての発端である「輸血用の血液に幽霊の血が混じっていた」という事件がまったく違うものに変えられていたことだ。輸血ネタは今はまずい、というのは誰の判断なのだろう。多分、ミドリ十字の血液製剤事件で被害に遭った人たちへの配慮ということなのだろうが、この作品の舞台はどうみても昭和30年代の日本なのだから、あの事件をヒントにしたものでないのは明らかだ。「もうすぐ臨月で、しかも病気の夫を抱えている幽霊の女(鬼太郎の母)が、やむを得ぬ手段として自分の血を売った」というのが、この呪わしい物語の始まりなのだから、これは改変するべきではなかった。また、昨日オンエアされた最終回「アホな男」も、原作ではネズミ男の血を輸血されたヤクザの親分が若さを取り戻し、そのため必死になってネズミ男の血を取ろうとする話なのだが、やはり輸血ネタはご法度なのか、ネズミ男の髭を入れた薬を飲んだら…、という設定に変更されていた。こういう、物語の根幹に関わる大切な設定(世の鬼太郎ファンにはほとんど周知といってもいい)をあっさり変更してしまう製作姿勢には、少なからず疑問を感じてしまうのだが、まあいろいろ大人の事情というのがあるのだろう。
かなりネガティブなことばかり書いてしまったが、やはり「鬼太郎」に関する限り、原作にはかなりの愛着があるので、どういう風に料理したものであっても、結局は難くせをつけてしまうようだ。それが原作ファンの性(さが)というものかも知れない。しかしそんな私にも、今回のアニメで、「おお、これは!」と体を乗り出した箇所がふたつほどあった。それを忘れずに書きとめておこう。
まずひとつは、第5話での、寝子と鬼太郎との別れである。先ほど書いたように、寝子は、地獄の砂を持ち帰るというニセ鬼太郎の目論見のため、無理矢理川に飛び込まされ、あえなく絶命した。まあここまでは原作どおりである。その寝子を連れ戻すために目玉の親父が地獄に行き(親父はチャンチャンコがなくても地獄への行き来が自由に出来るらしい)、ニセ鬼太郎を捕まえ、「そのチャンチャンコを寝子の霊に着せて連れて帰るのだ」と、寝子のところに向かう。しかし寝子は、自分はシャバに戻ってもいじめられるだけだからといい、ニセ鬼太郎に、現世に戻ることを勧める。号泣して改心するニセ鬼太郎。このあたりも、ニセ鬼太郎の頭を撫でてやさしく慰めるシーンの美しさに「おっ」と思ったけれど、まあ原作どおり。問題はこの後である。目玉とともに現世に戻ったニセ鬼太郎は、頭を丸めて反省し、チャンチャンコを鬼太郎に返す。寝子が地獄に残ったと聞いた鬼太郎は、半狂乱になって地獄に向かう(チャンチャンコがあるので行けるのだ!)。寝子の家の戸を叩き、「寝子ちゃん! 僕です、鬼太郎です!」と叫ぶ鬼太郎。しかし、寝子はドアを開けない。もうすでに、彼女は心を決めたのだ。打ちひしがれた鬼太郎は、一人現世に戻って街を彷徨い、絶望の中で、幽霊族として生きていくことを誓う…。
この一連のシーンは、原作にはない。シナリオの勝利である。これは、絶対にあってしかるべきシーンだし、何より切なく、美しい。原作で、もう寝子は地獄に残ると言い切っているのだから、それほど大きく内容を変えることは出来ないが、その制約の中で、見事に、鬼太郎との別れの場面を成立させている。しかも、霊魂の寝子が、フラッシュバック的に、現世にいた時の寝子の姿に戻る瞬間があり、切なさを倍加させる。ここは演出の勝利である。「そうだよ、鬼太郎は寝子ちゃんのことが好きだったんだもんな。あっさりあきらめるなんてできないよ」と、こちらも共感する。では原作はどうかといえば、これがすごい。鬼太郎はニセ鬼太郎と間違われ、ねずみ男にバットで「ガン」と殴られる(ここまではアニメにもあった)。そのまま気絶して、一夜明けて目が覚めたあと、いきなり起きあがり「うわっはっは」と大笑い(絶句)。作者は続いて語る。「気が違ったわけではない。ただほんの少しおかしくなっただけなのだ…」余韻もへったくれもない。もともと水木しげる大先生はロマンスを描ける作家ではないので、こういう展開になってしまうのだろう。今から40年前、原作(正確にはリメイクされた鬼太郎「夜話編」)を読んだころの私はまだ鼻たれ小僧だったから、恋する者の別れの辛さなど思いもよらず、原作の展開をシュールとも不思議とも思わなかったが…。寝子のしめくくりのつけ方としては、アニメの方に軍配をあげたいと素直に思う。
もうひとつは、鬼太郎の育ての親、水木の最期である。血液銀行の社員だった水木は(アニメでは微妙に違う)、さきほど書いた幽霊の血の混入事件の調査を社長から依頼され、やがて鬼太郎の両親である幽霊族夫婦とめぐり合うが、不憫に思ったのか会社には報告せず、その上、死んだ母親から生まれた鬼太郎を引き取って小学校にあがる年まで育てる。いわば鬼太郎の大恩人である。しかし、この水木、さんざんな扱われ方で、一度は地獄への片道切符で地獄に流され、それがきっかけとなり母親は発狂(そのあとどうなったか、原作でもアニメでもまったく触れていない。それでいいのか?)、その後、鬼太郎親子のお慈悲(?)でシャバに戻ったものの、ふたたび彼らの養育者となり、金づる呼ばわりされ(アニメのみ)、その後はニセ鬼太郎の扶養義務まで負い、そして最後は、最も悲惨な仕打ち……行方知れずである。そう、にわかには信じられないことだが、原作では、いつの間にか、いなくなっているのだ。寝子にしろ、ニセ鬼太郎にしろ、人狼にしろ、それなりのキャラは、そのラストもきっちり描かれているのだが、水木に関する限り、行方不明としか言いようがない。前後の事情から、怒り狂った水神が東京にやってきて街を水没させた時、その犠牲になったのであろう、ということは察せられるのだが、原作を読んでいた時から、水木の生死は、漠然と気にかかっていた。それだけに、今回のアニメで、どういう風に水木を「消す」かは、かなり興味あるところだったのだ。しかも、スタッフに水木支持者がいたせいか、アニメでの水木は原作より出番が多く、第4話では、出勤前に寝子の頭を撫でたり、鬼太郎が寝子を助けるために川に飛び込んで溺れそうになった時にも助けるなど、かなりの存在感を発揮している。原作のようにフェードアウトすることはまずなかろう。ということで、期待して第6話を見たのだが…。
結論から言うと、「なるほどね」である。先ほどの寝子のラストほどの感激はなかったが、きちんと見せ場を作って消した、という印象であった。豪雨の中水木が帰宅すると、靴を脱ぐ間も与えず、鬼太郎が小遣いをせがむ。一度は断るが、鬼太郎が腹を減らしていることを知った水木は10円硬貨2枚を鬼太郎に渡す。その直後、洪水が押し寄せ、水木の体はあっという間にその渦の中に。一瞬視線を合わせた鬼太郎と水木。鬼太郎は何もなかったような顔をして「じゃあ」と2階に駆けあがっていく。次の瞬間、激流に飲まれて消え失せる水木…。
まあ、このアニメは、原作以上に鬼太郎の非道ぶりを強調しているので、こういうのもありなんだろうが、前の回で寝子との別れに涙した、ある種ヒューマンな鬼太郎を見たあとだと、いささかしっくり来ない。水木が消えるのは規定路線なのだから、あそこではせめて、手を差し伸べて彼を助けようとしてもよかったのでは? 鬼太郎だって、金づるがいなくなれば困るだろうし、何より、これまでの数々の恩を思うと、それくらいしても罰は当たらないだろうと思ってしまうのだが…。しかし、原作が水木のことを完全にシカトして進んでいったのに比べれば、かなり丁寧に最期のシーンを作った方だと思う。余談だが、この水木は一部のネット住人の間ではかなり人気のようで、ニコニコ動画で鬼太郎を見たりすると、水木を応援(?)するコメントが目立つ。イケメンなのに小心者で不遇という設定が共感を呼ぶのだろうか。第8話で、水木とよく似た漫画家が登場した時も、「水木!?」というコメントが書き込まれていた。しかし、残念ながらその後水木が復活することはなく、代わりに、水木しげるの分身のようなさえない漫画家・水木が2週に渡って登場することになるのは前述のとおりである。
以上、かなりとっちらかったまま、アニメ「墓場鬼太郎」についてだらだら書いてきた。何しろ40年もの付き合いがある漫画のアニメ化なので、私も少なからず高揚しており、それだけにまとまりのない雑文になってしまったようで心苦しい。原作と首っ引きで辛口の批評をいろいろ書いてきたわけだが、今改めて「鬼太郎夜話」などを読み返すと、原作そのものも突っ込みどころ満載の珍作であり、ストーリーもところどころで破綻している。世界観も統一されているとは言い難い。これは当時の貸本漫画の性質を考えればやむを得ぬところであろう。そういう、かなりカオスな原作を、ここまでスタイリッシュな作品に仕上げたスタッフ諸氏には素直に敬意を表したいと思う。また、アニメ化というイベントでもなければ、私も実家におもむいて押入れの奥から原作を引っ張り出すこともなかっただろうから、そういう意味では、再会のチャンスをくれたことに感謝したい気持ちである。なお「誰が政治しとるのか!!」という冒頭のセリフは、すでにおわかりのことと思うが、アニメのオープニング画像に出るねずみ男のぼやきである。そしてこれはまた、ここまで過去の漫画やアニメに執心して後ろ向きに生きざるをえない、われわれ現代人の哀しき心の叫びでもあるのだろう。