2015年09月07日

赤塚不二夫 生誕80周年

前回のブログでは渡辺宙明卆寿(生誕90年)記念コンサートを取り上げたが、今年はあの赤塚不二夫の生誕80周年の年でもあり(9月14日が誕生日)、いろいろとイベントも企画されているようだ。

赤塚不二夫公認サイト|赤塚不二夫生誕80周年

赤塚不二夫といえば、私のような1960年代生まれにとっては、まさにその時代を代表するギャグ漫画家のひとりで、幼稚園から小学校時代には、「おそ松くん」「天才バカボン」「もーれつア太郎」など、ずいぶん夢中になって読んだものである。ただ70年代以降は、正統派のギャグは影を潜め、かなり毒の強い内容のものが多くなってしまったため、作品とは徐々に距離を置くようになっていったのだが…。
しかしながら赤塚不二夫は、手塚治虫とならび漫画の世界に「スターシステム」を導入したまさにパイオニアであり、彼が考案した数多くのキャラクターは、生涯記憶から消え去ることはないであろう。

ということで、生誕80年を記念してのお蔵出しはこちら。

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今では絶対に手に入らない赤塚不二夫の直筆サイン色紙で、書かれているのはベラマッチャ。

『週刊少年サンデー』に「レッツラゴン」が連載されていた当時のもの(1972か73年)。
どうしてこれを私が持っているかと言えば、ある日突然、サンデーの編集部から自宅に郵送されてきたのである。そのころ「レッツラゴン」の似顔絵をサンデーに投稿したことがあったのだが、どうやらそれが採用されたようで、色紙は賞品という意味らしい。「らしい」というのは、私は小学校時代はずっと「マガジン派」で、サンデーはほんのたまにしか買っていなかったため、いまだに実際の掲載誌を見ていないのだ(たまにしか買っていない雑誌にどうして似顔絵などを送ったのかは今でも謎)。いつか時間があったら、国会図書館か都立多摩図書館で、バックナンバーを確認してみようと思っている。

赤塚不二夫という漫画家とその作品については、すでに多くの人が語り、関連書もかなりの数出ているから、私などがあれこれ言う余地はないのだが、私の所有する1960〜70年代の雑誌などには、今ではあまり目に触れることのない赤塚不二夫と「フジオ・プロ」周辺の作品がいろいろと散見されるため、今後何回かにわけて、それらを紹介してみたいと思う。
posted by taku at 20:09| 漫画・アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年08月25日

似てる?似てない?

このところ世間では、あるデザインが「オリジナル」なのか、そうでないのかがずいぶん取り沙汰されている。この手の事象に関しては、元ネタとの関係について、「モチーフ」「オマージュ」「リスペクト」「パロディ」「パクリ」「トレース」「完全に一致」などさまざまな単語が飛び交うが、ここではこれ以上立ち入るのはやめておく(そもそも例の件のデザイナー氏は、「元ネタと言われるデザインは見たことがない」と語っているし)。

さて、今回ご紹介したいのは、先日黒姫に滞在した折、道の駅しなのの「お食事処 天望」で昼食を取った際、待ち時間に手に取ったこの本。

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世界のふくろう(2003年・里文出版)

題名のとおり、実際のふくろうから、ふくろうをモチーフにした絵画、古代の工芸品、最近のグッズなど、600点以上の図版が紹介されている。そんな中で、思わず手をとめたのが下の写真。

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解説によれば、「パチャママ(南アメリカのインディオに伝承されてきた神話の中で、大地の肥沃を象徴する女神)の祭り用の土偶」とのこと。

わかる人にはすぐわかる、わからない人には絶対わからない、これはもしかして、横山光輝の『マーズ』に出てくる、六神体の四番手「シン」の元ネタでは??

そう思って、当時の「週刊少年チャンピオン」(1976年38号)を引っ張り出してみたのだが…

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うーん。ちょっと苦しかったかなあ。

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「シン」の元ネタに関しては、こちらのブログで紹介されているように、大阪の国立民族学博物館に展示されていた南アメリカの石像ではないかという説もあり、たしかに全体の形状はよく似ているのだが、丸い目玉や腹にも大きな目があるところなどは、このふくろうの土偶の方がイメージに近いような気もするのだが…。

この両者の類似は単なる偶然かも知れない。だが仮に、この土偶が「シン」の元ネタだったとしても、これを盗用と呼ぶ人はまずいないだろう。横山光輝の「シン」にはたしかなオリジナリティが感じられるからだ。既存のモチーフを用いた場合であっても、そこに作家の「個性」や「創意」が明確に投影されていれば、それは新しいデザインと呼んで差し支えないと思う。
posted by taku at 14:18| 漫画・アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年12月06日

四貫目の名言

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ダイエー、フランス映画社と、このところ当ブログでは、なじみ深い企業の「終焉」ネタが続いた。50年以上生きていると、こういう事態に遭遇する機会が増えてくるのもやむを得ないことなのだろう。そして、そうした「栄枯盛衰」を目の当たりにするたび、必ず頭に浮かぶセリフがある。

「どうして○○なんてものがこの世にあるんだろう……」
「世の中が必要としたからさ。必要がなくなれば消えてゆくのさ……」


出典は白土三平の漫画『サスケ』第9巻「無角の巻」。最初に読んだのはアニメが放送されていた幼稚園時代で、その後も小学校時代に何度か読み返していたため、かなり細かいところまで記憶に残っている。これもこの夏、実家の押入れからコンパクトコミックス全15巻(集英社)が欠落なしで出てきた。

ここで、上記のセリフがどういう流れで発せられたか簡単に説明しておこう。
父親の大猿と離れ、一人で旅を続けるサスケは、ある出来事がきっかけで「木こり」の部落に逗留し、請われるまま若い衆に忍術を指南する。「木こり」たちが忍術の習得を望んだのは、長年山の中で対立してきた「狩人(またぎ)」の部落に対抗するためであった。しかし、その「狩人」部落では、サスケの好敵手である四貫目(第8巻より登場)が、同じように雇われて忍術指導を行っていた。このまま戦えば、同等の力と技を蓄えた部落同士が衝突し、共倒れになる恐れがある。そこで双方から代表を一人選んで決闘させ、負けた方はよその土地に移ることになるのだが、奇しくも、部落を越えて禁断の恋に落ちていた隼人と百合(隼人は「狩人」部落の頭目の息子、百合は「木こり」部落の村長の娘で、サスケは密かに百合を慕っていた)が代表に選ばれ、吹雪の中で二人は、相手が誰かもわからぬままに戦い、「技がまったく同じだったので一歩も近づけずに、にらみあったまま」凍死してしまう。
「木こり」と「狩人」の部落の人々は「人間の樹氷」となって立ち尽くす二人の屍を前にがっくり肩を落とし、それを見た四貫目は、

「またいがみあうようなときがあったら、ここへきてこのふたりをみて頭をひやすんだな……」

と諭すように言う。人々は深い失意の中、山を降りていく。

sasuke02.jpg (C)白土三平

その後で、先ほどのセリフである。サスケは、自分が「木こり」部落の人々に忍術を教えたりしなければ、こんな悲劇は起こらなかったのではないかと自問し、そして、

「どうして忍者なんてものがこの世にあるんだろう……」

とつぶやくのだ。それに対して四貫目が、

「世の中が必要としたからさ。必要がなくなれば消えてゆくのさ……」

と、さらりと答える。偉そうでもなく、悲しそうでもなく、あくまで淡々と。

あまり長い引用ははばかられるが、私のこれまで読んだ漫画の中でも屈指の名場面なので、見開き画像で6ページ分を紹介させていただく(クリックで拡大→再クリックでさらに拡大)。

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sasuke05.jpg (C)白土三平

こういうのを幼稚園とか小学校低学年の時に読んでわかるのかと言えば、さすがに深いところまでは理解が及ばないとは思うが、全体を覆う無常観のようなものは、鼻たらしの小僧だった私の心にも沁みるものがあった。だから、今でも折にふれてこのやりとりが頭に甦ってくるのだ。

上の引用部分では、かなり普遍的な真理が2つ、語られていると思う。

1)冒頭でも書いたが、「栄枯盛衰」は人の世の常。必要があったから存在するのであり、必要がなくなれば滅びる。そして、それが必要であるかそうでないかは、世の中(その時代の人間)が判断する

大変わかりやすい考え方である。ダイエーがなくなるのも、フランス映画社が破産したのも、世の中が、それを求めなくなったから、というわけである。ダイエーの98円とか49,800円などという価格設定は、ある時代には大変珍しがられ喜ばれたが、もはやそれが当たり前となり、誰も新鮮味を覚えなくなったということ。フランス映画社配給の数々の映画にしても、ある時代の観客の好みにはぴったりとはまったかも知れないが、今や、それを楽しんで見る人間の数は、ゼロとは言わないけれどかなり減少し、世間一般の要求とは乖離してしまったということ。大変厳しい現実だが、もはやそれを受け入れていくしかないのだ。
しかし、こういうのは「平家物語」冒頭の「祇園精舎の…」や鴨長明「方丈記」冒頭の「ゆく河の流れは絶えずして…」などと根本的には同じ諦観思想であり、実はそれほど目新しいものではない。今回わざわざ『サスケ』を引用したのは、今ひとつ、看過できない真理が語られているからだ。それは、

2)特殊技能者は、(たとえ世の中から必要とされなくなっても、何とか)その技能を使って生活を成り立たせていく以外に道はない。そしてその技能を磨くことが人生の目的そのものになっていく

ということである。

忍者は戦乱の時代には大いに重用されたようだが、『サスケ』は、関が原の合戦で徳川家康が勝利し、江戸に幕府を開いてからの物語である。第1巻で大阪夏の陣が描かれ、この時点で豊臣方(真田家)の忍者だった猿飛一族は主君を失い、サスケ親子も流浪の生活を強いられる。つまり全15巻におよぶ『サスケ』という長編漫画は、太平の世の中で忍者という特殊技能者が次第に居場所を失い、やがて滅びに向かうプロセスを追った物語なのである。そんな時代設定であるから、白土漫画にはなじみ深い四貫目のような手練れの忍びであっても、生活のために「狩人(またぎ)」部落の傭兵的な仕事を引き受けざるを得ないのだ。

「もういくさもなくなった。だがあいにくわしは忍者よ。こいつでめしをくっていくいがいにないわさ……」

という四貫目の言葉は重い。そしてそれを飄々と言うところがまた実に胸に迫る。その後のサスケとのやりとりでも深い話がさらっと語られるがここはあえて飛ばし、196ページの最後のコマで四貫目が、以前サスケに披露した「陽炎の術」の仕掛けを知りたくないか、と訊ねると、サスケの顔色が変わる。四貫目はそれを目ざとく指摘し、

「忍(しのび)はおのれの技の練磨、新しい術にひかれる心をおさえることはできぬものじゃ。そうしてそれいがいのことは、だんだんどうでもよくなってくるものよ……」

と続ける。
サスケは「知りたい」と答え、かつて何度となく死闘を繰り広げた二人の忍者は、相並んで静かに雪山を去っていく。

「かなしいものよ、忍(しのび)はのう……」

私などが、このやりとりにことさら心を動かされるのは、恐らく自分自身も、ある種の特殊技能といえる「映像製作」に関わって生きてきたからではないかと思う。そしてその「映像製作」が、現在、『サスケ』における「忍者」と同じくらい危機的な状況なのである。

フランス映画社の破産はすでに述べたとおりだが、他にもここ数年で、私の作品のDVDを販売していた複数のメーカーが廃業もしくは業種転換をし、また、以前企画を進めたことのあるいくつかの製作会社、配給宣伝会社もその看板を降ろした。かつて「カナカナ」を公開した中野武蔵野ホールも、「火星のわが家」や「凍える鏡」を公開した渋谷のミニシアター(シブヤ・シネマ・ソサエティ→シネマ・アンジェリカ)も、特別オールナイトをやってくれたシネマ(アートン)下北沢も今はない。淡々と書いているフリをしているが、事態はかなり深刻なのだ。

しかし、何度も書いたように、世の中の流れには逆らうことは不可能だ。ここは四貫目風に、

「もうニーズもなくなった。だがあいにくわしは映像製作者よ。こいつでやっていくいがいにないわさ……」

と開き直るしかないのかも知れない。そして、

「映像製作者はおのれの撮影技術の練磨、新しい編集技術にひかれる心をおさえることはできぬものじゃ。そうしてそれいがいのことは、だんだんどうでもよくなってくるものよ……」

などとつぶやきつつ、ビデオカメラを手に、新たな被写体を求めて外に出てみることにしようか。

【付記】
『サスケ』はこれまで私が読んできた漫画作品の中で、間違いなくベスト3に入る傑作である。今回紹介した話以外にも、人間や動物、社会の姿などについて教えられたり、剋目させられるエピソードが多いが、ただ、12巻や15巻の最後などは、過酷な運命に翻弄されるサスケが可哀想すぎて、今では読み返すのが辛い。この作品を雑誌『少年』に連載していた時、白土三平はまだ二十代後半から三十代前半。その若さでどうしてここまで突き放した人間描写が可能だったのか不思議だったが、最近その波乱の経歴を知って納得した。当然のことだが、作品の背景には作者自身の生い立ちや生活がある。厳しい生活からは厳しい作品がおのずと生まれ、生ぬるい生活からは生ぬるい作品しか生まれない。これもまた大いなる真理である。
posted by taku at 20:02| 漫画・アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年11月12日

ナゾー様に捧ぐ

今年の夏、実家の改築工事に伴い、押入れの中のものの整理と移動を行ったところ、40年以上前のお宝(もしくはガラクタ)が大量に出てきたのは以前書いたとおりです。かなり珍しいアイテムもあるので、シリーズ化してご紹介するつもりだったのですが、雑事に取り紛れてそれきりになってしまっていました(改築工事というのは、着工してからも、壁や天井のクロスを決めたり、カーテンや家具を選んだり、いろいろ面倒なことがあるのですよ!)。
その工事もそろそろ終わりが見えてきたので、久しぶりに御蔵出しの逸品をご披露いたしましょう。

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ページをめくるとあの高笑いがよみがえる!「黄金バット」絵本3冊!(少年画報社)

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新しい(笑)「黄金バット」大判ブロマイド集!(コダマプレス)

両方とも、今やほとんど市場に出回っていないようです。大判ブロマイド集の方は、これと別バージョンの、「新しい」と銘打たれていないもの(発行元は同じコダマプレス)が、まんだらけで10,000円で販売されているようですが。


アニメ版「黄金バット」は1967年4月1日に放送開始で、ちなみにその8日後の4月9日(「ウルトラマン」の最終回の日)に、私の一家は現在改築中の家に引っ越しています。当時の私はまだ4歳で幼稚園にあがる前でしたが、再放送ではなくリアルタイムで欠かさず視聴していた記憶があります。当時放送されていた特撮ドラマやアニメのなかでもかなりのお気に入りだったことは、上記のような複数のアイテムを所有(他にも小出信宏社の「黄金バット」かるたもありましたが残念ながら紛失)していたことでも明らかです。

ではそのアニメ版「黄金バット」のどこにそんなに魅かれたかと言えば、ヒーローである黄金バットの活躍、などではまったくなく(黄金バットは、ナレーションでも「強い、絶対に強い!」と言い切っているとおり、強すぎて面白味がないのです)、これはもう敵側の首領「ナゾー様」をおいてほかにありません。私はそのころ、お絵描きといえばナゾー様、ノートや絵本の自分の名前を書く欄にも「なぞーさま」などとしきりに書いていました。もはや完全なナゾー様フェチです。

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これがナゾー様のお姿だ!(C)第一動画

ではその「ナゾー様」のどこにそんなに魅かれたかと言えば、言葉で説明するのは難しく、この魅力はもうアニメを見ていただくしかないありません。しかし、現在「黄金バット」は(DVD-BOXが販売されたことはあるものの)、多くの人が気軽に見られる作品ではないしなあ…、などと思いつつ、「ナゾー様(あくまで様づけ)」で検索してみると、これが意外なほど多くヒットしてくるではありませんか。画像検索すると、ナゾー様の萌え系キャラのイラストまで上がってくる程で、
「どうしてこんな事態に?」
「いつの間にナゾー様人気がここまで過熱したの?」
と、47年前からのファンとしては少なからず胸がざわめきます。

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なぜ今ナゾー様なのか?(C)第一動画

理由はすぐにわかりました。何と、2011年4月から、ニコニコ動画の「フルアニMAX」で、「黄金バット」が毎週月曜日に1話ずつ、1年にわたって配信されていたのです。それを見た往年のファンは、(黄金バットの活躍というより)ナゾー様の一挙手一投足に大喜び、そして年若いアニメファンの心をも鷲掴みにしたことは、いくつか残存しているまとめ動画のコメントなどを見ても明らかです。

というわけで、今さらではありますが、その偉大なる悪の科学者ナゾー様の魅力について、私の考えるところをここでまとめてみたいと思います。

1)デザインの秀逸さ

子どもが夢中になるキャラクターのデザインというのは、概してシンプルで、それでいてインパクトがあるもの。ナゾー様のデザインがまさにそれで、割と単純な描線で成立しているものの、目が4つでそれぞれ色が違い、しかも左手は鉄の爪で下半身は円盤という、「異形」にしてミステリアスな存在。大変なインパクトです。

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かっこよすぎるナゾー様!(C)第一動画

2)正体が不明

上記のとおりの姿かたちなので、人間なのか怪物なのか宇宙人なのかサイボーグなのかわからないという不気味さがあります。アニメの第3話でヤマトネ博士は、
「先の大戦争の時に世界を征服しようとした国(多分ナチスドイツ)のために働き、その時死んだと思われていた科学者エーリッヒ・ナゾーが生きていたのです」
と、国際会議の席で発言していますが、最終回では怪獣に変身したような描写があったり、またヤマトネ博士も、第3話での発言などすっかり忘れたように、
「(ナゾー様は)人間ではなかったかも知れないねえ」
などと語ったり、結局よくわかりません(ナゾー様の正体については、紙芝居、絵物語、映画などによって設定が異なるようです。詳しく書くと長いので、ご興味のある方はこちらをお読み下さい)。でも、正体のわからなさが、その黒ずくめの姿と相俟って、独特の魅力を醸していたように思います。

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紙芝居版のナゾー様。目は2つだが、左右の指が3本と2本。これはこれで怪しい

3)「ロ〜ンブローゾ〜」

実はナゾー様の「魅力」というか「魔力」に取りつかれた人というのは、そのほとんどがこの謎(ナゾー)の呪文にやられてしまったのじゃないかと本気で思います。もし、アニメのナゾー様が、この「ロ〜ンブローゾ〜」という言葉を発しなかったとしたら、彼はここまで歴史に残るキャラクターとなり得たかどうか(今やネットではRBZという略称まで出来ているのですから驚くばかりです)。これ以降も、
「ルロロロロロロロ〜」(「超人バロム1」のドルゲ)や、
「バ〜ラバラバラバラバンバ」(「イナズマン」の帝王バンバ)など、
悪の首領が意味不明な呪文を唱えるケースはいくつか出てきますが、いずれも不気味さだけが強調されていて、「ロ〜ンブローゾ〜」の内包する文学性には遠くおよばないと感じます(「ロ〜ンブローゾ〜」の意味については、イタリアの精神科医で犯罪心理学の研究をしていたチェーザレ・ロンブローゾの名前から取ったとする説が有力で、このあたりのセンスもナイス!)。

4)その美声

しかし、そのように文学性に彩られた呪文も、ここまで効果を上げたのは、演じる島宇志夫の、一度聞いたら忘れられない知的な美声あってのものだと思います。もし、ナゾー様の声優が島宇志夫以外の人物であったとしたら、これほど多くのナゾーファンが21世紀にまで沸いて出たでしょうか。島宇志夫は「特別機動捜査隊」のナレーションで有名ですが、もっともっとアニメや吹き替えなどでも活躍して欲しかったと思います(「マジンガーZ」の生みの親の兜十蔵博士も演じていましたが、プロローグだけの出演で残念でした)。

5)マゾとの掛け合い

ナゾー様は組織のトップなので、外に出ることはほとんどなく、移動可能な無敵の城「ナゾータワー」の中で作戦を考え、命令を下します。そしてその命令を実行するのが忠実な部下のマゾ(今考えるとすごい名前)で、このマゾとナゾー様との毎回の掛け合いが、まあ、マンネリズムではあるのですが、とにかく面白くて目が離せないわけです。正体不明の容姿で威厳あふれる声のナゾー様と、やさ男で高めの声のマゾとのコントラストも絶妙の一語に尽きます。作戦に失敗した部下は容赦なく処刑するナゾー様ですが、なぜかマゾに対しては寛大であるあたりも微笑ましいのです(この2人の掛け合いの魅力については、ニコニコ動画の視聴者の方たちが的確なコメントを多数投稿していました)。マゾを演じたのは先年亡くなった内海賢二で、「黄金バット」と同時期には「魔法使いサリー」でサリーのパパ(魔法の国の王様)を演じていました。私は「魔法使いサリー」は好きなアニメでしたがサリーのパパだけはなぜか怖くて、パパが登場するたびに、テレビから顔をそむけていました。だからサリーのパパとマゾが同じ声優だと知った時は、何とも不思議な気がしたものです(それだけ演じ分けが巧みだったということなのでしょう)。

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まさに名コンビ!マゾとナゾー様(C)第一動画

6)おそらくは本邦初の悪役キャラソン

これはいささかこじつけかも知れませんが、1967年当時、「ナゾーのうた」というキャラクターソングが作られていたという事実。この曲がおそらく日本では初の悪役のキャラソンであるらしいと知って、あらためてナゾー様の偉大さを再認識しました。言い方を変えるなら、アニメの制作スタッフがキャラソンを作りたくなってしまうほど、ナゾー様という存在は魅力的だったということです。同時期にオンエアの(実写ですが)「マグマ大使」のゴアや、「ジャイアントロボ」のギロチン帝王は、どちらも私の大変愛する悪の組織の首領ですが、彼らにさえキャラソンは存在しませんでした。1970年代に入ってやっと、「宇宙猿人ゴリ」や「レインボーマン」「コンドールマン」などで敵側の歌が登場してきますが、「黄金バット」はそれらにかなり先んじていたわけです。


文句なしの名曲! あの「ロ〜ンブローゾ〜」も聞けますよ!

まあそんなわけで、ナゾー様崇拝歴47年の私としては、この世に同胞が思いがけず多くいて嬉しく思う反面、自分だけのナゾー様が大衆化してしまっていることに対し、一抹の寂しさを感じたりもするのでした(地下アイドルを応援していたはずが、いつの間にかメジャーになってて複雑、みたいな心境でしょうか)。

今回のブログにちなんで、すごく久しぶりでナゾー様のイラストを書いてみました。

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心からの敬意を表し、お手本なしの下書きなし。マッキーで一発勝負。

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全体を黒く塗って、目に色をつけたらナゾー様の出来上がり。鉄の爪の形が今イチでしたが、まあ何とか格好がついたような…。

今後も不定期で、お宝もしくはガラクタをご紹介していく予定ですのでどうぞお楽しみに。
posted by taku at 20:11| 漫画・アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月20日

寅年の終わりに虎が来た

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とにかく伊達直人である。
第一報は昨年の12月28日。前橋市の児童相談所の前に置かれていたランドセル10個からこの「物語」は始まった。もっとも、最初は発見した職員も、署名のカードに書かれていた「伊達直人」が何を意味するのかわからず、51歳の相談所次長が朝礼で職員たちにその出来事を報告したところ、アニメの「タイガーマスク」の再放送を見ていた36歳の職員が「伊達直人=タイガーマスク」ではないかと思い当たり、ネットで確認して次長に伝えたという(年齢からいえば、51歳の次長が真っ先に気がついてしかるべきだと、今年48歳の私は思う)。それからは、あれよあれよと話が広がり、いつの間にか、「タイガーマスク現象」とか「タイガーマスク運動」とか名前もついて、わずか半月で、NPO法人でも結成されそうな勢いである。

この騒ぎについては、すでにいろいろな人がいろいろなことを言っているし、寄付の是非とか、すぐ右にならえ的に動く国民性とか、パチンコメーカーの宣伝じゃないかとか、そういった社会問題的な視点で語るつもりは毛頭ない。ただ、元祖「タイガーマスク」世代の私としては、辻なおきの書いた「タイガー」のひとコマが新聞の一面に掲載されたり、連日ワイドショーでネタにされたりと、あのころ以上に「タイガー」が社会全体の注目を集めるこの不思議な現実を目にして、呆然とするばかりだ。

梶原一騎原作のスポ根ものといえば、「巨人の星」「あしたのジョー」のふたつがまず挙がって、その次に「タイガー」というのが永遠不変の番付という感じで、まあ、それはそれで仕方がないとも思うが、私は個人的には「タイガー」こそ梶原作品の最高峰だと思っている。
原作は1968年に月刊誌「ぼくら」で連載開始。そのころ「ウルトラセブン」のグラビアと漫画(画・一峰大二)が目当てで毎月「ぼくら」を買っていた私は必然的に「タイガー」も読むようになった。最初は悪役レスラーだったタイガーマスク(=伊達直人)は、あるきっかけから正統派に転身、また自分の育った「ちびっこハウス」などの養護施設に寄付を続けるため悪役レスラー養成機関「虎の穴」への上納金を拒否し、そのため裏切り者としてつけ狙われるようになる。人知れず慈善を行い、その一方で孤独な血みどろの戦いを続けるという直人のストイックな生き方は、当時幼稚園児だった私にも強く訴えかけるものがあった。やがて「ウルトラセブン」の連載は終わるが、「タイガー」目当てで「ぼくら」の購読は続き、その後「ぼくらマガジン」「少年マガジン」と掲載誌が変わっても基本的にはラストまで読み続けた(単行本は現在も全巻手元にある)。また1969年に始まったアニメも、全105話を本放送と再放送で全話視聴(後半はVHSで愛蔵)している。

 では「タイガーマスク」の最大の魅力とは何だろうか。あえて言うなら、試合の場面はもちろん見せ場の連続で手に汗握ること間違いなしだが、それ以上に、試合後の描写(会話)が素晴らしいのだ。覆面ワールドリーグ戦の最終戦でグレート・ゼブラとして参戦し、タイガーを優勝に導いたジャイアント馬場が、控え室でタイガーにかけた暖かい言葉。必殺技ウルトラタイガードロップに敗れた強豪スター・アポロンとタイガーとの友情の芽生え。そしてインドの太陽王グレート・ズマの、ギブアップ後の王者らしい態度(と、捨石になってタイガーを支えた大木金太郎の献身)。もう、何度読んでも号泣号泣である。戦いが育んだ男と男の友情とはかくも美しいものかと読むたびに恍惚とする。これほど魂を震わせながら読んだ漫画は、後にも先にも「タイガー」だけじゃないだろうかと本気で思っている。それらの名場面は、原作に敬意を表する意味で引用は控えるので、是非この機会に読んでみて欲しい(今挙げたエピソードは講談社コミックスだと3〜5巻)。

とまあこんな感じで、タイガーについて書き始めると、もう止まらない。読む人は完全な置いてけぼりである。だから、この辺でやめておくが、せっかくなので、最終回についてひとことだけ言わせてほしい。一般に、評判がいいのは言うまでもなくアニメの方である。「虎の穴」ラスボスのタイガー・ザ・グレートとの最終決戦中、マスクを剥がされたものの、
「虎の穴からもらったものを叩き返してやる。それでおれは伊達直人に帰るのだ!」
の名セリフとともにそれまで封印していた反則を「解禁」、ラフファイトの限りを尽くしてグレートを倒し、虎の穴を壊滅に追い込む。しかし正体をちびっこハウスの子どもたちに知られてしまった直人は、彼らに別れを告げることもなく一人外国へと旅立つ…。いいラストである。長きに渡ってグレート(=虎の穴)に痛めつけられていたタイガーが、最後の最後に反撃に転じて相手を倒すという展開はまさにヒーローものの王道で、見ている方も大変なカタルシスを体験できる。しかもその後に辛い別れまであっては、見る者のハートはズキンズキンうずき続けである(リアルタイムで見た小学2年当時は、見終わってしばらく、本当に放心状態だった)。

それに対して原作版。ちなみにアニメは1971年9月末に終了したが、原作の方はその後もしばらく連載が続いていた。アニメの最終戦がラスボスとの直接対決という大変ドラマチックなものだったのに対し、原作の最終戦はドリー・ファンク・ジュニアとのタイトルマッチ。実在するレスラーが相手という時点で、何となく盛り上がりに欠けていた。アニメスタッフにあれだけのことをやられたので、梶原御大も、創作意欲が失われていたのではないかという気もする。最終回、試合会場に向かうタイガーは、ひと目を避けるためにマスクを外し、伊達直人として裏通りを歩く。その時、自転車に乗った少年がダンプにはねられそうになるのを助け、自分がはねられて絶命(その間わずか2ページ)。息絶える寸前、ポケットに入っていたマスクをドブ川に投げ捨てたため、タイガーの正体はわからずじまいで、試合はドリー・ファンク・ジュニアの不戦勝。…いやあ、こう書いていても盛り下がるし、実際に原作を読んでも、読むたびに盛り下がる。心なしか、画もやる気がない感じで、おまけに「少年マガジン」掲載時には、ラストの星空に浮かんだタイガーの姿が印刷ミスで白黒反転になっていたりして、どうにも尻つぼみの印象は否めなかった。

しかし、である。何かで読んだのだが、梶原御大はタイガーの最期に力道山の死を重ねたかったらしい。リングでは無敵の男が、リングではないところで、あっけなく死んでしまう…。そうした生の無情さも、カタルシスこそないが、別な意味でドラマチックではある。伊丹十三の遺作となった「マルタイの女」の中に、
「人生とは中途半端な、道端のドブのようなところで突然終わるものだ」
というセリフがあるが、まさに原作版「タイガー」に通じる死生観である。そしてまた、直人=タイガーということがわからないまま終わっていくという、一見何の救いもない幕切れ。アニメでは、直人=タイガーだと明らかになったことで、ちびっこハウスの子どもたちは彼の隠れた善行も同時に知ることになるのだが、原作にそうしたフォローはない。直人に思いを寄せる若月ルリ子との関係にしても、アニメでは、タイガーは試合の前にホテルの一室でみずからマスクを脱いで直人の素顔をルリ子にさらし、二人は切なく抱擁するのだが(このあたりは子ども番組とは思えぬ演出)、原作ではそういった描写も一切なし。ルリ子は物語の初期から直人=タイガーではないかと感じてはいたものの、それを確信する機会はついになかった。
このように、原作では直人の善行は、最後までこの世の中の誰にも知られることはなかったのである。ただ、当の直人本人は、それを残念とも思わなかったに違いない。それまでの行動を見る限り、彼はおそらく、「真の善行とは、人知れずこっそり行うもの」という信念を持っていたように思えるのだ。

原作の「タイガーマスク」のラストは、爽快感がない代わりに、「善行」「施し」とはいかにあるべきかということをじんわり考えさせてくれる。昨今の「タイガーマスク運動」が原作の伊達直人の「遺志」を継ぐものとして続くこと、「善行」の皮をかぶった売名や着服行為に化けないことを祈るばかりである。
posted by taku at 18:59| 漫画・アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年04月17日

「ヤッターマン」OP変更

先日(14日放送)の「ヤッターマン」、オープニング曲とエンディング曲がいきなり変更に。ワンクールでってのは早すぎるような気もするが、例のアコギサウンドが不評だったためか? それとも規定路線? 今度の曲も何だか今いちで、おとなしく山本正之御大のオリジナルにすればいいと思うのだが。

しかし、サビの部分でヤッターペリカンの勇姿が登場したのには思わず「おっ」と叫んでしまった。遠からず本編にも登場するということだろう。そうなるといずれはアンコウも? そしてワンからキングへと進むのか? 今回の放送では、ドロンジョが一瞬ガンちゃんにクラッとなる描写もあり、オリジナル版で後半の目玉のひとつだった、ドロンジョのガンちゃんへの秘めたる(?)思いが、平成版でも再現される可能性が出てきた。この辺はオリジナルのファンに配慮していると考えるべきなのか。

それにしても、今のドロンジョの声は、さすがに24歳ってのは無理があるなあ…(声優さん70過ぎだし)。
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2008年03月23日

「墓場鬼太郎」私考

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私がホームページを始めた2001年ごろから顕著になった、いわゆる「昭和レトロブーム」は、想像以上に慢性化、かつ肥大化し、今やその底なし沼のような深みからは誰も抜け出せないようだ。中でも目につくのは特撮やアニメといったジャンルで、すでに何度かサイトのコラムでも触れたが、特撮ものといえば、相も変わらず「ウルトラマン」か「仮面ライダー」、あるいは「ゴレンジャー」に端を発する戦隊ものの焼き直しだし、その一方では、「デビルマン」「キューティーハニー」「キャシャーン」など、私なんかが子ども時代に熱中したアニメが次々と実写映画にリメイクされている。見るもの聞くもの埃をかぶったようなものだらけで、21世紀になって以降、新しいキャラクターと呼べるものが果たして生まれてきたのだろうか、と首を傾げたくなる。

現在テレビや映画の製作の中核をになっているのが30〜40代(私もこの世代だ)であることを考えると、幼少期に多大な影響を受けたこれらの作品を、自分たちの手でリメイクしたい気持ちはわからなくもない。また、認知度が高いからビジネスとして成立しやすいというメリットもある。そういう安易で後ろ向きな態度は、物を作る人間としては大いに問題だと思うが、しかしながら、昨今のあまりに閉塞的な社会情勢は、人間から新しいものを生み出す力を、かなり深刻に失わせていることはたしかだと思う。ある男のセリフを借りるなら、「誰が政治しとるのか!!」ということだ。

そんなこちらの思いに追い討ちをかけるように、今年の正月、さらに2本のアニメ作品の放送が始まった。「墓場鬼太郎」と「ヤッターマン」である。両作品とも実写映画化とリンクしての製作で、メディアミックス的戦略の一環なのは見え見えである。しかし、この2作、スルーさせるにはあまりにも魅力的であるがゆえ、ついつい視聴してしまい、今日に至っている。「ヤッターマン」は4月以降も続くようだが、「墓場鬼太郎」は20日で終わったので、まずはこちらから、作品の感想を思いつくままに書かせてもらうことにする。
ちなみに最初の鬼太郎アニメ(白黒)は、1968年に放送が始まり、その年幼稚園にあがった私はリアルタイムで作品を視聴、同時期に少年マガジンに連載されていた「ゲゲゲの鬼太郎」も読んでいるから、今年で視聴者&読者歴40年である。当時はかなりの入れ込み方で、お絵描きといえば鬼太郎の妖怪かウルトラマンの怪獣ばかり描いていた。そして大人になってから改めて貸本時代の「墓場鬼太郎」に触れ、青林堂や朝日ソノラマから出た復刻本もあらかた揃えた。そういうオールドファンであるので、少々筆が荒れるかも知れないが、その辺は「のれんの古さ」に免じてご容赦いただきたい。

というわけで今回のアニメ「墓場鬼太郎」である。まず、特筆するべき点から先に書いてしまうと、

@とにもかくにも、初めて鬼太郎の誕生をきっちりアニメ化した

ということ。それまでのアニメではすべて、鬼太郎はすでにこの世に存在しており、なおかつ人間に味方するヒーローとして描かれている(実は第3期のアニメでも出生譚が回想形式で描かれたが、鬼太郎が人間と幽霊との混血というおかしな設定だった)。これは、アニメと少年マガジンを両方見ていた当時の私にも疑問であり、どうして鬼太郎は妖怪(正確には幽霊族の末裔)なのに、人間に味方するのだろう、と不思議に思ったものである。当時の講談社の単行本の第1巻を立ち読みしたのだが、そこにも誕生の話は出ていない。しかしある時何かの雑誌(多分同じ年の「別冊少年マガジン」)で、墓場で死んだ母親の腹から生まれたという描写や、それに合わせて死んだ父親の遺体から目が溶けて落ちて、例の目玉親父が生まれたというエピソードを読み、子ども心にも、「うえー、おっかねえ」と思ったものである。そして、このグロさはちょっとアニメにはしにくいのだろうなあ、と納得してしまったような記憶がある。その、ある種幻の誕生シーンを、きっちり描くというのはやはり快挙である。そして、

Aオリジナルにこだわった声優陣

↓とにかくこのクレジットを見ただけで心が震えた!

鬼太郎 野沢雅子
目玉親父 田の中勇
ねずみ男 大塚周夫


知っている人も多いと思うが、この顔ぶれは、まんま第1期のオリジナルキャストなのである。これはやはり、白黒の第1期(1968-9)、および第2期(1971-2)の「鬼太郎」こそが原点、本物である、と固く信じているわれわれの世代が製作現場の中枢に携わっているからこそのキャスティングだと、私は拍手喝采を送った。もし誰か一人でも、あの世に旅立たれていれば、多分鬼太郎のチャンチャンコを持ってしても絶対に実現できなかった奇跡のキャスティング。だって、あれから40年経ってるんだよ! 大塚周夫氏なんかいったいいくつなんだろうと首を傾げてしまうが、しかしオリジナルに愛着を感じるものとしては、耳になじんだ声優さんの声は本当に嬉しい。実に久しぶりで聞く野沢鬼太郎と大塚ねずみの掛け合い。「ああ、そうなんだよ、これなんだよ!」と、内容はそっちのけですっかり陶酔してしまった。第3期以降の鬼太郎アニメにほとんど魅力が感じられないのは、内容が焼き直しであることももちろんあるが、声優の違いというのも無視できない要因である。戸田恵子の鬼太郎と富山敬のねずみ男という組み合わせはある意味すごいのだが、どうしても素直に入っていけないのだ。そういう意味で、もうひとつの話題作である「ヤッターマン」も、30年の時を経て、三悪プラスドクロベーまでをオリジナルキャストでリメイクしたというのが、大きな魅力になっていると思う。

B原作から原画を書き起こしたオープニングとオリジナル主題歌

これは、かなり評判がいいようだ。レトロなタッチの線画が、電気グルーヴの主題歌と相まって、独自の鬼太郎ワールドを創り出していると思う。これまでのアニメ化では、すべて例の「ゲ、ゲ、ゲゲゲのゲ〜」だったが、今回は「墓場」だからあの曲は使えなかったのだろう。しかし、このミスマッチ的な取り合わせは不思議な効果をあげていると思う。音楽ということでいえば、劇中で寝子(声:中川翔子)が歌う「君にメロロン」も、とても昭和時代の歌謡曲とは思えなかったが、単純なメロディーが耳の奥に残っていつまでも離れないインパクトがあった。「有楽町で溶けましょう」という迷曲も登場したし、音楽面ではかなり充実していたのではないか。同じリメイクでも「ヤッターマン」が昔と同じ主題歌を別の人間に歌わせて、ドひんしゅくを買ったのとは正反対である。

続いてC…、といきたいのだが、残念ながら手放しで絶賛できるのはこのあたりまでである。もちろん、毎回それなりに楽しく見ていたのだが、あれだけボリュームのある原作「墓場鬼太郎」をわずが11回に収めるため、やたら展開があわただしくなり、物語のエッセンスをひととおり入れただけの、味わいの乏しい作品になってしまった印象が否めない。作画や彩色はかなりのクオリティだし、背景の描き方などにも、高度成長期の昭和をきちんと再現しようとするこだわりは感じられるのだが、あの展開の速さが、いかんせん現代的過ぎるのである。怪奇で不可思議、かつ懐しさを誘う水木ワールドは、もう少しゆったりと見せていただきたかったと切に思う。

物語をスピーディーに進めるため、無理に原作を改変した点も多い。たとえば第2話では、金持ちのはずの水木の会社の社長が、夜叉の営む、どうみても怪しげな下宿屋にふらりと泊まっているが、あれはかなり不可解だ(原作で下宿屋に泊るのは、貧乏漫画家の金野なし太)。また、原作では、吸血木のエピソードと寝子&ニセ鬼太郎、そして水神のエピソードまでが並列的に描かれるが、アニメではそれぞれを独立したストーリーに仕立てている。これも展開を早めるためなのだろうが、それによって、原作の醍醐味でもあった大河ドラマ的ダイナミズムが失われたのは大変残念である。さらに言うなら、鬼太郎の初恋の人である寝子が歌手としてデビューし、人気者になるくだりも超特急で、トランプ重井(この名前もなあ。ちなみに原作では「トランク永井」)の前座として「君にメロロン」を歌っているうちに、みるみるスターになってスポットを浴びているという急展開なのだが、その歌の間にニセ鬼太郎とネズミ男が街頭テレビの前で出会い、意気投合するあたりが、説明を省略しすぎてかなりわかりにくい。そしてなおも「君にメロロン」が流れるその中で、ニセ鬼太郎はコンサート会場に侵入、寝子の前でネズミを放し、寝子はそれを見て「哀しい習性」で化け猫になってしまう。さらにそのどさくさでニセ鬼太郎は鬼太郎のチャンチャンコをにせものとすり変えるのだが、その場面もはっきり見せていないため、何が起こったのか不明のまま、ニセ鬼太郎は寝子をそそのかして川に飛び込み無理心中、という、まさに視聴者置いてけぼりの驚愕の展開。実は、「あの世からの旅行者」であることを証明するため、地獄の砂を持ってくることを学者たちから要求されており、すべてはそのための行動だったのだが、そのあたりの状況を時系列で提示している原作と違い、アニメではすべてのタネ明かしを全部次の第5話に先送りしているので、第4話だけ見ている者にはさっぱりわからないのだ(原作を知っている私でも、え、何、どうしたの? と困惑したくらいである)。いくら連続ものとはいえ、その時その時で必要な情報というのはあると思うのだが。寝子をめぐるこのあたりのエピソードは、「鬼太郎夜話」の中でもひときわ光彩を放つ、いわばハイライトなので、もう少し丁寧に寝子と鬼太郎の心情、そしてヒールに徹したニセ鬼太郎とねずみ男の目的と行動を描いて欲しかった。

不満に思える部分は他にも多々ある。第5話と第6話の間に入るべき、ビート族と鬼太郎のエピソードが全部なくなっていたり(ビート族の男は、第5話の中盤、路上で鬼太郎とすれ違うアベックの片割れとしてワンシーンだけ顔出し出演。これは原作ファンへの配慮か?)、第6話で、鬼太郎が物の怪のところに借金取立てに来た時、何故かねずみ男がそこに一緒にいたり(原作はこのあたりも吸血木のエピソードと並列だから、いても当たり前なのだが)、第7話で登場のガマ令嬢が、ねずみ男のとなりの部屋に越してきたと思ったら、それこそあっという間に姿を消したり(原作では、ねずみ男に「おから」をおすそわけし、それでねずみ男が余計に彼女にのぼせるというエピソードもある)、とにかく私が今回のアニメに違和感を覚えるのは、先ほども書いたように、1話の中で、これでもかこれでもかと話を進めているため、原作にあった印象的なエピソードが無惨にそぎ落とされ、物語の骨格だけしか残っていないからだろう。

これは私見だが、後半の4作品は、無理にラインナップに入れる必要はなかったのではないだろうか。第1話「鬼太郎誕生」から第7話「人狼と幽霊列車」までが、原作での「妖奇伝」「墓場鬼太郎」(1959)「鬼太郎夜話」(1960)にあたり、そこまでのストーリーは連続性がある。いわば大河ドラマ的展開で、夜叉、吸血鬼、寝子、ニセ鬼太郎、物の怪などが次々に登場し、エンターテインメントとしての完成度も高い。それに対し、第8話から11話までは、それ以降に書かれた一話完結のものがベースになっており、エピソードに関連性はない。好みの問題もあるだろうが、後半の一連はストーリー的にも今ひとつと思えるものが多く、しかも10話「ブリガドーン」と第11話「アホな男」には、作者の分身のような水木という漫画家(作家)が続けて登場する(鬼太郎を育てた男も水木という名前だからややこしい)。そしてその水木一家が鬼太郎たちとからむという、似たような楽屋落ち的作品である。いくら原作でそういう話が続いているとはいえ、そこまで忠実にやる必要はないだろう。せっかくのアニメ化なのだから、11話全体の構成というかバランスをもっと熟考して欲しかった。個人的には、「鬼太郎夜話」のラストまでを11話かけてやるくらいでちょうどよかったと思う。原作はそこまでですでに1000ページ以上あるので、いずれにしてもかなりのハイペースだが、7話で1000ページよりは余裕がある。そうすればもう少しゆったり、大河ドラマ的元祖鬼太郎ワールドを展開させることができたであろうのにと、心から残念に思う。

それ以外にもうひとつ、どうしても見過ごせない点がある。「鬼太郎」をめぐる物語のすべての発端である「輸血用の血液に幽霊の血が混じっていた」という事件がまったく違うものに変えられていたことだ。輸血ネタは今はまずい、というのは誰の判断なのだろう。多分、ミドリ十字の血液製剤事件で被害に遭った人たちへの配慮ということなのだろうが、この作品の舞台はどうみても昭和30年代の日本なのだから、あの事件をヒントにしたものでないのは明らかだ。「もうすぐ臨月で、しかも病気の夫を抱えている幽霊の女(鬼太郎の母)が、やむを得ぬ手段として自分の血を売った」というのが、この呪わしい物語の始まりなのだから、これは改変するべきではなかった。また、昨日オンエアされた最終回「アホな男」も、原作ではネズミ男の血を輸血されたヤクザの親分が若さを取り戻し、そのため必死になってネズミ男の血を取ろうとする話なのだが、やはり輸血ネタはご法度なのか、ネズミ男の髭を入れた薬を飲んだら…、という設定に変更されていた。こういう、物語の根幹に関わる大切な設定(世の鬼太郎ファンにはほとんど周知といってもいい)をあっさり変更してしまう製作姿勢には、少なからず疑問を感じてしまうのだが、まあいろいろ大人の事情というのがあるのだろう。

かなりネガティブなことばかり書いてしまったが、やはり「鬼太郎」に関する限り、原作にはかなりの愛着があるので、どういう風に料理したものであっても、結局は難くせをつけてしまうようだ。それが原作ファンの性(さが)というものかも知れない。しかしそんな私にも、今回のアニメで、「おお、これは!」と体を乗り出した箇所がふたつほどあった。それを忘れずに書きとめておこう。

まずひとつは、第5話での、寝子と鬼太郎との別れである。先ほど書いたように、寝子は、地獄の砂を持ち帰るというニセ鬼太郎の目論見のため、無理矢理川に飛び込まされ、あえなく絶命した。まあここまでは原作どおりである。その寝子を連れ戻すために目玉の親父が地獄に行き(親父はチャンチャンコがなくても地獄への行き来が自由に出来るらしい)、ニセ鬼太郎を捕まえ、「そのチャンチャンコを寝子の霊に着せて連れて帰るのだ」と、寝子のところに向かう。しかし寝子は、自分はシャバに戻ってもいじめられるだけだからといい、ニセ鬼太郎に、現世に戻ることを勧める。号泣して改心するニセ鬼太郎。このあたりも、ニセ鬼太郎の頭を撫でてやさしく慰めるシーンの美しさに「おっ」と思ったけれど、まあ原作どおり。問題はこの後である。目玉とともに現世に戻ったニセ鬼太郎は、頭を丸めて反省し、チャンチャンコを鬼太郎に返す。寝子が地獄に残ったと聞いた鬼太郎は、半狂乱になって地獄に向かう(チャンチャンコがあるので行けるのだ!)。寝子の家の戸を叩き、「寝子ちゃん! 僕です、鬼太郎です!」と叫ぶ鬼太郎。しかし、寝子はドアを開けない。もうすでに、彼女は心を決めたのだ。打ちひしがれた鬼太郎は、一人現世に戻って街を彷徨い、絶望の中で、幽霊族として生きていくことを誓う…。
この一連のシーンは、原作にはない。シナリオの勝利である。これは、絶対にあってしかるべきシーンだし、何より切なく、美しい。原作で、もう寝子は地獄に残ると言い切っているのだから、それほど大きく内容を変えることは出来ないが、その制約の中で、見事に、鬼太郎との別れの場面を成立させている。しかも、霊魂の寝子が、フラッシュバック的に、現世にいた時の寝子の姿に戻る瞬間があり、切なさを倍加させる。ここは演出の勝利である。「そうだよ、鬼太郎は寝子ちゃんのことが好きだったんだもんな。あっさりあきらめるなんてできないよ」と、こちらも共感する。では原作はどうかといえば、これがすごい。鬼太郎はニセ鬼太郎と間違われ、ねずみ男にバットで「ガン」と殴られる(ここまではアニメにもあった)。そのまま気絶して、一夜明けて目が覚めたあと、いきなり起きあがり「うわっはっは」と大笑い(絶句)。作者は続いて語る。「気が違ったわけではない。ただほんの少しおかしくなっただけなのだ…」余韻もへったくれもない。もともと水木しげる大先生はロマンスを描ける作家ではないので、こういう展開になってしまうのだろう。今から40年前、原作(正確にはリメイクされた鬼太郎「夜話編」)を読んだころの私はまだ鼻たれ小僧だったから、恋する者の別れの辛さなど思いもよらず、原作の展開をシュールとも不思議とも思わなかったが…。寝子のしめくくりのつけ方としては、アニメの方に軍配をあげたいと素直に思う。

もうひとつは、鬼太郎の育ての親、水木の最期である。血液銀行の社員だった水木は(アニメでは微妙に違う)、さきほど書いた幽霊の血の混入事件の調査を社長から依頼され、やがて鬼太郎の両親である幽霊族夫婦とめぐり合うが、不憫に思ったのか会社には報告せず、その上、死んだ母親から生まれた鬼太郎を引き取って小学校にあがる年まで育てる。いわば鬼太郎の大恩人である。しかし、この水木、さんざんな扱われ方で、一度は地獄への片道切符で地獄に流され、それがきっかけとなり母親は発狂(そのあとどうなったか、原作でもアニメでもまったく触れていない。それでいいのか?)、その後、鬼太郎親子のお慈悲(?)でシャバに戻ったものの、ふたたび彼らの養育者となり、金づる呼ばわりされ(アニメのみ)、その後はニセ鬼太郎の扶養義務まで負い、そして最後は、最も悲惨な仕打ち……行方知れずである。そう、にわかには信じられないことだが、原作では、いつの間にか、いなくなっているのだ。寝子にしろ、ニセ鬼太郎にしろ、人狼にしろ、それなりのキャラは、そのラストもきっちり描かれているのだが、水木に関する限り、行方不明としか言いようがない。前後の事情から、怒り狂った水神が東京にやってきて街を水没させた時、その犠牲になったのであろう、ということは察せられるのだが、原作を読んでいた時から、水木の生死は、漠然と気にかかっていた。それだけに、今回のアニメで、どういう風に水木を「消す」かは、かなり興味あるところだったのだ。しかも、スタッフに水木支持者がいたせいか、アニメでの水木は原作より出番が多く、第4話では、出勤前に寝子の頭を撫でたり、鬼太郎が寝子を助けるために川に飛び込んで溺れそうになった時にも助けるなど、かなりの存在感を発揮している。原作のようにフェードアウトすることはまずなかろう。ということで、期待して第6話を見たのだが…。

結論から言うと、「なるほどね」である。先ほどの寝子のラストほどの感激はなかったが、きちんと見せ場を作って消した、という印象であった。豪雨の中水木が帰宅すると、靴を脱ぐ間も与えず、鬼太郎が小遣いをせがむ。一度は断るが、鬼太郎が腹を減らしていることを知った水木は10円硬貨2枚を鬼太郎に渡す。その直後、洪水が押し寄せ、水木の体はあっという間にその渦の中に。一瞬視線を合わせた鬼太郎と水木。鬼太郎は何もなかったような顔をして「じゃあ」と2階に駆けあがっていく。次の瞬間、激流に飲まれて消え失せる水木…。
まあ、このアニメは、原作以上に鬼太郎の非道ぶりを強調しているので、こういうのもありなんだろうが、前の回で寝子との別れに涙した、ある種ヒューマンな鬼太郎を見たあとだと、いささかしっくり来ない。水木が消えるのは規定路線なのだから、あそこではせめて、手を差し伸べて彼を助けようとしてもよかったのでは? 鬼太郎だって、金づるがいなくなれば困るだろうし、何より、これまでの数々の恩を思うと、それくらいしても罰は当たらないだろうと思ってしまうのだが…。しかし、原作が水木のことを完全にシカトして進んでいったのに比べれば、かなり丁寧に最期のシーンを作った方だと思う。余談だが、この水木は一部のネット住人の間ではかなり人気のようで、ニコニコ動画で鬼太郎を見たりすると、水木を応援(?)するコメントが目立つ。イケメンなのに小心者で不遇という設定が共感を呼ぶのだろうか。第8話で、水木とよく似た漫画家が登場した時も、「水木!?」というコメントが書き込まれていた。しかし、残念ながらその後水木が復活することはなく、代わりに、水木しげるの分身のようなさえない漫画家・水木が2週に渡って登場することになるのは前述のとおりである。

以上、かなりとっちらかったまま、アニメ「墓場鬼太郎」についてだらだら書いてきた。何しろ40年もの付き合いがある漫画のアニメ化なので、私も少なからず高揚しており、それだけにまとまりのない雑文になってしまったようで心苦しい。原作と首っ引きで辛口の批評をいろいろ書いてきたわけだが、今改めて「鬼太郎夜話」などを読み返すと、原作そのものも突っ込みどころ満載の珍作であり、ストーリーもところどころで破綻している。世界観も統一されているとは言い難い。これは当時の貸本漫画の性質を考えればやむを得ぬところであろう。そういう、かなりカオスな原作を、ここまでスタイリッシュな作品に仕上げたスタッフ諸氏には素直に敬意を表したいと思う。また、アニメ化というイベントでもなければ、私も実家におもむいて押入れの奥から原作を引っ張り出すこともなかっただろうから、そういう意味では、再会のチャンスをくれたことに感謝したい気持ちである。なお「誰が政治しとるのか!!」という冒頭のセリフは、すでにおわかりのことと思うが、アニメのオープニング画像に出るねずみ男のぼやきである。そしてこれはまた、ここまで過去の漫画やアニメに執心して後ろ向きに生きざるをえない、われわれ現代人の哀しき心の叫びでもあるのだろう。
posted by taku at 13:11| 漫画・アニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする