2021年04月21日

ルリ子をめぐる冒険(8)創造主・中原淳一

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読売新聞夕刊で絵物語「緑はるかに」(作・北條誠 絵・中原淳一)の連載が始まったのが1954年4月12日。約1ヶ月後の5月19日夕刊には映画化決定の記事が載り、そして8月6日夕刊においてヒロイン・ルリ子役募集の告知がなされる。

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読売新聞1954年8月6日夕刊

「緑はるかに」のルリ子*を一般募集

プロデューサー水の江滝子で映画化される本紙連載「緑はるかに」の主演ルリ子役を一般から募集する。応募要項次の通り。
十三歳から十五歳までの少女で、身長、体重を記入した簡単な履歴書一通、手札型以上の正面、横顔、正面全身の三種の写真(裏に住所氏名明記)を、東京都千代田区有楽町一の一日活株式会社宣伝部あて、八月三十一日までに送ること。

前にも書いたが、事前の宣伝を兼ねてヒロインを募集する、という手法は角川映画の「野性の証明」を完全に先取りしている。少なくとも私の知る範囲では、この作品以前にヒロインを一般公募した日本映画は思い当たらない。そういう意味では、「緑はるかに」は、「日活初の総天然色(コニカラー)映画」とともに、「日本初のヒロイン公募映画」という冠をつけてもいいのではないだろうか。

では、これ以降のヒロイン公募映画にはどんなものがあっただろう。ざっと以下のようなものが思い出される(漏れがあったらごめんなさい)。

1978年「野性の証明」 応募者 1,224人 薬師丸ひろ子
1980年「四季・奈津子」 応募者 9,500人 烏丸せつこ・佳那晃子・影山仁美・太田光子
1982年「伊賀忍法帖」 応募者 57,480人 渡辺典子 特別賞・原田知世
1983年 「アイコ十六歳」 応募者 127,000人 富田靖子

「野性の証明」の応募者が1,000人ちょっとと、知名度の割に少ないのが少々意外で、逆に「アイコ十六歳」は多すぎてよくわからない。「緑はるかに」は新聞報道によると「二千数百名」とのこと。

ちなみに、こうした公募の選考方法だが、今も昔もそれほど変わらず、だいたい以下の流れで進むことが多い。

1次審査(書類審査)
2次審査(面接審査T 何人かまとめてのグループ面接)
3次審査(面接審査U 個別面接)
4次審査(最終審査)

「緑はるかに」の場合も、2,000人以上の応募があったとしても、その全部をオーディションに呼んだとは考えられず、おそらく1次の書類審査で、100〜200人程度に絞り込んだものと思われる。そして東京・日比谷の日活本社でグループ面接と個別面接を(おそらく複数日で)行い、さらなる絞り込みがなされ、日を変えて、東京・調布の日活撮影所で、候補者7人から1人を選ぶ最終審査(カメラテスト)が行われたと推察される。

募集告知からちょうど4ヶ月後の12月6日夕刊には次のような記事が掲載された。

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読売新聞1954年12月6日夕刊

ルリ子*に浅井信子
「緑はるかに」主役当選決る

本紙に連載中の北條誠原作、中原淳一絵「緑はるかに」は日活で水の江滝子プロデューサーの第一回作品として、天然色による映画化の準備がつづけられ、さきほどからその主演の少女ルリ子役を一般から募集審査していたが、応募した二千数百名のなかからこのほど浅井信子(写真)が決定した。彼女は昭和十五年七月生れの十四歳で、千代田区今川中学二年に在学、小さいときから日本舞踊、歌謡曲を習ってきたひとみのきれいな少女で、執筆の作者と画家も交えた審査員は文句なく彼女を主役に迎えることを決定した。
なお、第四次の最終カメラテストまで残った高城瑛子(10)、山東昭子(10 ※正しくは12)、田村まゆみ(12)、斎藤みゆき(12)、久保田紀子(15)、味田洋子(13 ※正しくは12)の六名も本人の事情が許せば主演外の役で出演する。

見出しの「主役当選決る」には違和感を覚えるが(「当選」というと懸賞か何かに当たったような印象を受ける)、とにかくこうして、浅井信子がルリ子役に決まったことが、世間に示されたのであった。

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最終選考に残った方々と浅井信子。その後女優として活躍した方多数。

久保田紀子(15歳)
斎藤みゆき(桑野みゆき・12歳)
田村まゆみ(田村奈巳・12歳)
高城瑛子(滝瑛子・10歳)
山東昭子(12歳)
味田洋子(榊ひろみ・12歳)
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浅井信子(14歳)

しかし、この写真の浅井信子は、中原淳一の描くルリ子とはずいぶん雰囲気が異なっている。そこで、原作のビジュアルに合わせるべく、肩まであった長髪は大胆にカットされることになるのだが、それにまつわるエピソードがなかなかに興味深い。

浅丘ルリ子本人は、当時のことをこう回想している。

父は4姉妹のうち1人くらいは芸能界に進んで欲しいと願っていた。そこで私はダメ元≠ナオーディションを受けてみることにした。向かったのは会場となった東京・日比谷の日活本社。応募者はなんと二千数百人。のっけから人数の多さに圧倒された。
私には当時、面接で着る上等な服がなかった。そこで学校の友人からセーラー服を借りて受験した。セーラー服など着てくる応募者はいない。それが目立ってかえってよかったのかもしれない。
1次審査、2次審査……。候補者がどんどん絞られていく。最終のカメラテストに残ったのは私を含めて7人。(中略)

最終のカメラテスト会場は日活の調布撮影所。私は4年かけて伸ばした長い髪を三つ編みにして水玉のリボンで結んでいた。すると審査員でプロデューサーだった水の江滝子さんからこう聞かれた。
「あなた、受かったらその髪を切る勇気がありますか」
「はい、大丈夫です」
私はきっぱりと答えた。主人公のルリ子は前髪から耳元まで緩いカーブに切りそろえたショートカットが特徴。髪をバッサリと短く切るのに何のためらいもなかった。
カメラテストの直前。私はなぜか中原先生に呼ばれてメーク室に入った。大きな鏡の前に座った私の目元に先生がサラリと目張りを入れる。するとどうだろう。瞳がみるみる輝き始めたのだ。自分の変貌ぶりに私は息をのんだ。

(2015年7月5日『日本経済新聞』「私の履歴書」より)

ここでは、「受かったら切ります」というやり取りをした、と書かれているが、別な媒体ではいささかニュアンスが異なる。

浅丘「中学2年生のとき、読売新聞の連載小説『緑はるかに』の映画化で、主人公のルリ子役の募集があったんです。(中略)私の家は貧乏だったから、自分のセーラー服はヨレヨレ。裕福な友人に頼んで、きれいなセーラー服を1日だけ借りて、最終オーディションへ行きました。そこで、されるがまま、腰に届くくらいの長い髪を勝手にバッサリ切られて、カメラテストをしたら、『この子しかいない!』って私に決まったの」
中山「勝手に髪の毛を切るなんて、当時は荒っぽいですよね(笑)」

(2015年5月5日『女性自身』「中山秀征の語り合いたい人」より)

https://jisin.jp/entertainment/entertainment-news/1611929/

ここでは「勝手に」髪の毛を切られ、カメラテストをして、その結果自分に決まった、と語っているのだ。また、つい最近の「徹子の部屋」(2021年2月2日放送)でも、以下のように、ほぼ同じ内容を語っている。

「あたし、背中まであったんですね、髪の毛が。それをバサッと、(中原淳一先生が)すごい切り方なさって、びっくりしました。何するの?、と思ったら、……あ、でも、髪を切られるってことは、あたしに決まっていいのかなって思って、それで黙って……、そしたら私に目張りを描いてくださって……見たら、うわー、すごい、こんなに目が大きく、綺麗になるんだ、と思って、それからずっと、(中原先生がやってくださったとおりに)目張りを入れてます」

さて、このエピソードをどうとらえればいいのだろうか。どうやら浅丘ルリ子の記憶の中では、髪は映画スタッフサイドの要望により、「オーディションの最中(カメラテスト直前)」「勝手に」「バサッと」切られた、ということになっているようだ。そしてDVDのライナーノーツも、この本人の記憶を元に、

11月23日の最終選考は、井上梅次、北条誠、中原淳一らの前でのキャメラテストだったが、その前に、中原は信子の前髪を切りショートカットにしたという。

と記述されているのだが、このエピソードが、私にはどうしても納得できなかった。インパクトのある話ではあるが、いくらワイルドな映画界とはいえ、堅気の、それもまだ14歳の女子の髪を、本人のきちんとした同意を得ないでいきなり切り落とすなどということが、果たしてあり得るだろうか。しかも、あれだけ繊細な「美の追求者」であった中原淳一が、4年もかけて伸ばした乙女の黒髪に無造作に鋏を入れるとは……。

人間の記憶というのは時間とともに変容するものである。時間が経つほど、何度も思い返すほどに、変容の度は高くなるという。したがって、本人の体験談といっても、100パーセント現実に起きたこととは断定できない(もちろん、本人は意識して記憶を書き換えているわけではないので、決して責めるべきことではないのだが)。

こういう時は、なるべく当時に近い資料に当たるのが、解決の早道と思い、中原みずからが編集兼発行人を務めていた『ジュニアそれいゆ』の1955年早春号を紐解いてみた。すると、浅丘の証言とはかなり異なる当時の状況が詳述されていた(どういうわけか、この誌面ではすべて「ルリ子」ではなく「ルリコ」と表記されている)。

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『ジュニアそれいゆ』1955年早春号。表紙ももちろん中原淳一

ルリコに決定した浅井信子さんは、浅丘ルリコという名前をつけられました。これからは浅丘ルリコさんと呼ぶことにしましょう。
さて、その浅丘ルリコさんは応募された始めから、長い長いおさげがまず人眼をひきました。中原先生の画かれているルリコは、あのルリコ・カットと最近云われている、前髪から横に続いて短い髪が後に少しカーヴして長くなっているのが第一の特徴なので、水の江さん始め審査員の人たちが「若しルリコにきまったらその髪を切ってしまう勇気がありますか?」と心配して尋ねられたところ、浅丘さんはすぐに「ハイ」とお返事されたということです。
ところで、いよいよ浅丘さんがルリコにきまりました。それから何度も皆が集まって打合わせの度に、浅丘さんの髪が問題になりました。水の江さんも「折角ここまで長くしたのにねェ、長くとかすと何かの精のように綺麗で惜しいわ。長い髪のルリコにしましょうか」ともおっしゃったそうですが、やっぱり新聞のさしえでルリコ・カットに親しんでいる読者の方たちのためにも、短い髪にしようということにきまりました。そこで、ルリコさんの断髪式が始まりました。鋏はルリコ・カットを始められた中原先生が持たれ、水の江さん始め出演するチビ真たちに囲まれて、その長い長いおさげの髪はみるみるこんなに可愛いルリコ・カットに変わりました。
「あんなに長くするまでに、四年もかかったっていうことをふっと思い出したら、耳許にブツッと鋏を入れる時、なんだか少しふるえてしまいましたよ」と中原先生は後で語っていられました。
浅丘さんは、その後人に会う度に「まァ、すっかり変ってしまったのね。でも、まるで中原先生の画にそっくりよ。画が動いているみたい……」と云われています。

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「いよいよ切っちゃうとなると惜しいだろうなア」「ルリコさん、平気かい?」チビ真、デブ、ノッポたちが心配そう。「だって前から切ってみたいと思っていたのよ」

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「本当に綺麗な髪ね。よく見ておきなさい」と水の江さん。「ルリコのような髪になるんだったら、私切りたいのよ」とルリコさん。

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「いよいよ切るとなるとなんだか急にこわくなった……」と、ルリコさんは鋏を入れる瞬間、ギュッと目をつぶってしまいましたが……だんだん髪は切られていきます。

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いかがだろうか。
髪をカットしたのは「オーディションの最中(カメラテスト直前)」ではなくヒロインに決定した後で、「勝手に」ではなく複数回の協議の結果であり、中原は「バサッと」ではなく、「ふるえながら」鋏を入れたということだ。共演者(チビ真、デブ、ノッポ)も立ち会って「断髪式」と称して行い、しかも取材のカメラまで入っているのだから、もはや外部に向けた映画宣伝の一環というべきで、関係者だけで行われたヒロイン選考とは性質を異にするものであることは明白だ。

しかし、こういう記憶の変容は、少なからずあることで、時間とともに、実際の出来事よりも、その時の感情が強く心に刻印される傾向があるように思う。やはり浅丘にとって、あの長い髪を切ることは、表向き納得した(させられた)とはいえ、内心は相当な葛藤、抵抗があったのだろう。それが長い歳月を経て、「自分の気持ちを無視して、勝手に切られた」というエピソードに書き換えられたと考えれば納得がいく。

さて、浅丘の証言には、カメラテストにおいて、中原が目張り(アイライン)を入れた、という印象的なエピソードも登場したが、上で引用した『ジュニアそれいゆ』にはその話は見当たらなかった。しかし、これについては、「緑はるかに」公開から2年後、1957年9月の『ジュニアそれいゆ』第17号において、中原と浅丘の対談が掲載されており、そこで以下のように語られている。

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ルリ子ちゃんと云うと、今から三年前の丁度今頃、「緑はるかに」の映画の主役のルリ子を募集した時のことを思い出す。その時、僕(中原)も審査員の一人だったが、あの時、沢山集った可愛い少女達の中で、一番美しく目立っていた少女がルリ子ちゃんだった。(中略)
「緑はるかに」の審査の時、沢山の少女がいる控室をちょっとのぞいたら、セーラーの制服を着たルリ子ちゃんがチラッと僕の方を向いたのを僕は覚えている。それで、
「審査の時、僕が控室を見たのを知ってた?」と聞くと、
「ええ、覚えています、でも私ね、初め全然知らなかったのよ、先生のこと。あの時先生にお化粧していただいたでしょう?」とルリ子ちゃんは云う。
そうそう、と僕も思い出した。
沢山の少女の中から最後に七人の少女が残り、カメラテストの時だった。はじめてドーラン化粧をする人たちのために撮影所のひとたちが手伝ってあげた時に、僕も手伝ってルリ子ちゃんのお化粧をしたのだった。その時も僕は、カメラテストでもルリ子ちゃんが一番だろうと思った事を又思い出していると、ルリ子ちゃんは、
「私ね、お化粧をして下さったのが中原先生だっていうこと、その時全然知らなかったのよ。この方誰だろうなんて思ってたの。そしたら後で中原淳一先生だったって知って、ウワー、だったらもっと顔を良く見ておくんだった――なんて云ったのよ」
と、例のクルッとした瞳をして云う。
あの時のルリ子ちゃんは、前髪を綺麗にカールして、長い長い髪を二つに分けて三つ編みにしたものを又くるっと輪にして白いリボンで結び、今のルリ子ちゃんよりも、もっと大人っぽい感じだった――と思い出してそのことを云うと、ルリ子ちゃんも大きくうなずいて、
「私がルリ子にきまって、先生が私の髪を切って下さったでしょう? それから急に子供っぽくなったって、自分でも思ったのよ」ということだ。

浅丘の記憶では、カメラテスト直前に、自分だけが特に中原に呼ばれてメイク室に入った、ということになっているが、実際は、7人の少女たちにカメラテスト用のメイクを施すために撮影所のメイクスタッフが駆り出されたが、人手が足りなかったようで、中原もヘルプとしてメイク室に入り、浅丘のメイクを担当した、というのが真相のようだ(そしてこの時点では、浅丘はメイクをしたのが中原だとわからなかったというのも面白い)。ただ、この時すでに中原は浅丘に注目していたようなので、「あ、この子は僕がやるから」という感じで浅丘のそばに陣取り、アイラインを引いたのだろう。もともとは人形製作者だった(すなわち立体造形から始めた)中原は、そのメイク技術も非凡なものがあったのは間違いなく、もし、浅丘以外の6人のメイクもすべて彼が担当していたら、もしかしたら歴史は大きく変わっていたのかも知れない(まあ、カメラテスト以前から、中原は浅丘を気に入っていたようなので、どちらにしろ浅丘が選ばれていたのだろうが)。
ちなみに、上の引用文の最後の2行を読むと、1957年の時点では浅丘本人も、ルリ子役に決まった後で髪を切ったことを認識している。

髪とメイクの話の検証がずいぶん長くなってしまったが、さて、めでたく断髪式を終えた写真がこれ。

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ただ、ひとつ気になるのは、原作のルリ子が右分けなのに対して、映画のルリ子が左分けであること。原作に合わせて右分けにすることも検討されたとは思うが、おそらく、浅丘のもともとの髪の分け方が、カット前の写真を見る限り左分けのようなので、それを尊重したということなのだろう。

ためしに原作の絵を左右反転して、写真と比較してみるとこんな感じ。

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絵を描いた本人がヘアカットをしているだけあって、絵の中のルリ子がそのまま抜け出てきたような印象を受ける。

これは中原も嬉しかったのではないだろうか。自分の描いた紙の上の存在に過ぎなかったルリ子が、こうして肉体を持ったヒロインとなったのだから。言ってみれば、ギリシャ神話のピグマリオン(彫刻の名人。自分の理想とする女性の像を彫り、その像に恋をし、ついにはアフロディーテの力で人間となったその女性と結ばれる)の心境を味わったわけだ。「ルリ子」というヒロイン名は北條誠の創案だが、ルリ子の原作ビジュアルを作り出し、そして映画化に際し、ルリ子に新たな命を吹き込んだ中原淳一こそ、ルリ子の創造主というにふさわしいだろう。

中原は絵物語「緑はるかに」の原作者のひとりとしてオーディションに立ち会い、ヒロインのヘアカットも手がけたわけだが、それだけにとどまらず、衣裳デザイナーとしても、映画「緑はるかに」と関わることになる。これは最初から決まっていたことなのか、あるいは、浅丘ルリ子という素晴らしい「素材」を発見した中原が、自分の「美」の体現者たりうる浅丘とのコラボを望んで、自ら衣裳デザインを買って出たのか……。今となっては定かでないが、『ジュニアそれいゆ』に掲載された一連のグラビアを見ると、中原が相当な思い入れを持ってこの仕事に臨んだことが伝わってくる。

次回は、中原淳一デザインによるルリ子の衣裳の数々、そして映画「緑はるかに」の製作から公開までの軌跡を追っていきたい。

いやあ、なかなか「緑はるかに」から離れませんねえ。「鉄腕リキヤ」や「チャンピオン太」のルリ子の話になるのはいつのことやら……。
posted by taku at 19:29| レトロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2021年04月17日

ルリ子をめぐる冒険(7)絵物語「緑はるかに」(後)

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大変お待たせしました。絵物語「緑はるかに」完結編でございます。

前回までのカオスなあらすじ

片山ルリ子は、1年前から北海道に出張している父に会うため、父の会社の同僚・田沢とともに旅立つ。その途中、ルリ子は汽車の中で、チビ真という浮浪児と知り合いになる。北海道に着き、病気で衰弱した父と再会するルリ子。父は、「田沢は悪人で私の研究の秘密を盗もうとしている」とルリ子に告げ、秘密を隠したオルゴールをルリ子に託して息を引き取る。ルリ子は逃げ出す間もなく田沢に監禁され、連日、容赦ない責めを受けるが、東京に戻る途中の汽車の中でチビ真の手助けで逃亡する。だが難を逃れたのもつかの間、父の訃報を知り北海道に向かっていたルリ子の母が、青函連絡船の事故で死亡したという新聞記事が。今やみなし児となったルリ子は、東京郊外の防空壕で、チビ真と仲間の浮浪児・デブとノッポと共同生活を始める。しかし、秘密を隠したオルゴールはくず屋に持ち去られ売られてしまい、また、田沢とその手下の執拗な追跡に、ルリ子と三人組は離ればなれに。
やがてルリ子は縁あってとある資産家の養女となり京都に移り住む。マミ子という少女も養女になり、妹のできたルリ子は明るさを取り戻すが、「あなたの歌」という公開番組に出演して歌を歌ったことから所在が田沢一味に知られ、養母、マミ子ともども淡路島に身を隠す。しかし一時京都に帰った養母は田沢の子分に幽閉され、養母が戻らないため宿泊代の払えないルリ子とマミ子は、宿屋のホールの演芸ショーに出て歌を歌う。その様子を見ていた「スミレ劇団」の上野という男にスカウトされるが、その実態は場末の旅回り一座で、上野はとんでもない悪党だった。ルリ子とマミ子はいつ果てるともない流浪の日々を送ることに……。
一方、チビ真たち三人組も、ルリ子の姿を求めて京都に向かっていたが、そこでルリ子の母とめぐり会う。母は事故を起こした青函連絡船に乗っていなかったのだ。また、行方がわからないと思われていたオルゴールも、母が古道具屋で買い求めていたと判明する。

三人組とルリ子の母は、ルリ子にめぐり会えないまま京都を離れるが、その帰途、汽車の中でオルゴールメーカーの社長・三谷と知り合いになる。三谷は、ルリ子の母が持っていたオルゴールに目をつけ、「これはうちの会社の製品だが、少し音程が狂っている」と気になることを言い、自分の名刺を渡す。

東京に戻った三人組は警察に行き、田沢たちの悪事を告げる。警察は田沢のアジトを捜索、しかし大入道とビッコは捕まったものの、田沢はアジトを放棄して逃走する。

さて、「スミレ劇団」で旅回りを続けるルリ子は、楽団のピアノ弾きのじいさんと仲良くなる。
あの鬼畜な上野も、このピアノじいさんだけには、あまり強く物が言えないのだ。

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ルリ子とマミ子には歌の才能があると見抜き、個人レッスンを施すピアノじいさん。「あなたの歌」での歌唱、淡路島の宿屋のホールでの歌唱、そしてこの個人レッスンと、映画版よりもこの原作の方が、ルリ子が歌を歌う場面が多い。この流れで、最後はルリ子とマミ子がプロの歌手をめざすという展開になるのか? と期待したが、そうはならなかった。

じいさんの名前は田沢春吉。若いころは名の知れたピアニストだった(え、田沢??)。しかし、たった一人の息子が不良になってしまったために世の中が嫌になり、旅の一座暮らしにまで身を落としてしまったという。

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長年の不摂生がたたったか、ピアノじいさんはみるみる病気が悪化して危篤状態に。

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じいさんは「生き別れになっている息子に渡して欲しい」と、財布とメダルをルリ子に託して息を引き取る。じいさんは、下足番のばあさんを丸めこむなど、ルリ子が劇団から逃げ出すための段取りをつけてくれており、そのおかげでルリ子とマミ子はどうにか劇団を脱出、東京に向かう汽車に乗り込む(じいさんの遺体は放置)。

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この車内に、またしてもオルゴールメーカーの社長・三谷の姿が。ルリ子は三谷から、三人組やルリ子の母のことを聞き、マミ子とともに三谷の家に厄介になることに(あまりに都合のよすぎる展開)。

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三谷の家にチビ真が訪ねてきて、ルリ子とチビ真、4ヵ月ぶりの再会。

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お母様とも、感動の再会。

三谷は、一同の前でいきなり名探偵みたいな口調になって、オルゴールの謎を解く。

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「この円筒の針を、誰かがいじったのです。あちこち、ほら、抜けているでしょ。短くしてしまったのもある。どうも、聞いていて、あっちこっち、メロディーやテンポが狂ってると思いましたが、そのせいですよ」

そして、「ブラームスの子守唄」の歌詞を書いた紙の、調子の狂っている音に赤い丸をつけると……
ねむれよあこ なをめぐりて うるわしはなさけば ねむれいまはいとやすけく あしたまどにといくるまで」

ねむのした まど

ルリ子は、北海道での記憶をたどり、父が入院していた病室の窓から、ねむの木が見えたことを思い出す。その木の下に、研究の秘密が埋められているのだ。「これでやっとすべてが明らかになる」と奮い立つ面々。しかし、田沢がその話を家の外で盗み聞きしていた。

田沢は、警察から釈放された大入道とビッコをふたたび仲間に引き入れ、ルリ子たちを追うように北海道へと向かう。ルリ子たちと田沢たちは現場で鉢合わせ、田沢はルリ子とチビ真を人質にして秘密を渡すよう迫る。しかし、ルリ子にはある「確信」があった。

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ルリ子が持っていた財布とメダルから、田沢こそピアノじいさんの息子だったことが判明。最初は否定した田沢だが、じいさんの臨終の様子を語るルリ子の言葉に涙を流し、ついに改悛の情を示す。そしてこれまでの償いにと、すでにかなり雪に埋もれている地面を懸命に堀り、凍傷になりながら、ついにルリ子の父が隠した箱を発見する。中には化学方程式が書かれた1枚の紙が入っていた。

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映画の田沢はただの悪党で終わったが、原作では、罪を悔い改め人間性を回復するまでをじっくり描いたのが印象的。

さて、ついに来ました、映画との最大の相違点。ルリ子の父の研究とは、果たしていかなるものだったのか?

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なんという、すばらしい発明でしょう。お父さまの発明した薬品によると、たった1ガロンで、東京から大阪まで、飛行機がとべるのです。それを畑にまけば、いままでの三倍もよけいに、お米がとれるのです。貧乏な日本にとって、これ以上の発明があるでしょうか……

最初にこれを読んだ時は、「いかにも子供だましだなあ。燃料にもなれば肥料にもなるなんて…」と失笑したのだが、念のためネットで調べてみたところ、最新(2020年)の研究として、海藻やミドリムシからバイオ燃料と肥料を生成したというレポートがあったので、あながち荒唐無稽とは言い切れない(ただ、日本の場合、米は畑ではなく田んぼで作るものが大半だと思うが…)。

そして一同は父の墓参りに行き、
「お父さまはいつも、あのきれいな空から、見ててくださるのね……」
とルリ子が空を見上げ、全員で「緑はるかに」の歌(映画の主題歌のことか?)を歌っておしまい。

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以上は新聞連載のラストで、物語の中盤、大入道に監禁された「京都のおばさま」のことは、きれいさっぱり忘れられている。一時はルリ子とマミ子の母代わりとなっていた人物なのに……。

たぶん、作者本人も新聞の担当者も本当に忘れていたのだろうが、さすがに単行本化の際、これはまずい、と気づいたのだろう。1955年8月刊行のポプラ社版では、父の研究が広く世間に知れ渡ったという説明のあと、しれっと以下のような場面が書き足してある。

そんなある日、また一つすばらしいニュースです。
あの、しんせつな京都のおばさまが、
「新聞でよみました」
といって、はるばる訪ねてきてくださったのです。
「おばさま、生きててくださったのね(おいおい)」
ルリ子がうれし涙にくれれば、
「逢いたかったわ……」
マミちゃんも、おばさまにしがみついて……そして、お母さまは、おばさまの前に手をついて、心からお礼をいうのでした。

まあ、大団円という感じで、こういうのはあった方がいいよね。

さて、原作版を超駆け足で追ってきたが、4つの疑問点はどうなっただろう。

1)川に落としたオルゴールが何故か古道具屋の店先に(あまりに唐突)

原作では、川に落とすという場面がそもそもなく、ルリ子→くず屋→古道具屋A→ある客→古道具屋B→ルリ子の母 というルートでめぐっていった。
一応理解できる範囲の移動ではあるが、逆に物語後半、オルゴールの争奪戦がまったくないのが少々物足りない。

2)ルリ子の両親の生死(死んだはずなのに生きていたという理不尽)

原作では、「父のみ冒頭で死亡、母は一時死亡が伝えられるも誤報で、実際は存命」という結果だった。
これも、理解できる範疇といった感じ。

3)オルゴールに秘密を隠した方法(鏡の裏というのは安易すぎる)

原作では、オルゴールの円筒の針に細工をして部分的に音程を狂わせ、その音で暗号文字を作るという、かなり巧妙な方法で秘密を隠していたことが判明(よくこんな方法を思いついたものだと素直に感心してしまう)。

4)研究の秘密とは何だったのか(最後まで明らかにされず書類が燃やされる)

原作では、「燃料にもなれば肥料にもなる薬品」というかなり画期的なもので、実用化も示唆されていた。

以上である。

なお、それ以外にも原作と映画の相違点は思った以上に多く、映画ではマミ子の母は存命で最後には母子再会を果たすが、原作ではマミ子は孤児という設定なので、母親は登場しない。また原作では田沢がサーカス団を経営していたという描写も一切ない。逆に、原作にあった、ルリ子が公開番組や宿屋のステージで歌うという、それこそミュージカル的な要素が映画ではまったく見られないし、ラストにおける田沢の改心もない。はっきり言うと、両者は(特に後半は)ほとんど別個のストーリーで、むしろ共通点を探すのが難しいくらいである。

時間が進むにつれ、映画のストーリーが原作から離れていったのは、前にも書いたように、原作の連載と映画化が並行して進んでおり、映画の脚本が完成した方が、連載の完結よりも早かったためであろう(したがって、原作の途中までしか参照できなかったということ)。荒唐無稽の度合いという点では、どちらも甲乙つけがたいところだが、ルリ子と三人組が力を合わせて悪に立ち向かう、ジュブナイル的な要素は、映画の方が明確だったと思うし、その一方、ドラマとしての収め方は、原作の方が納得のいくものだったように感じる。

いやはや、今年の初めに映画版を観た時には、まさかこんなに長い時間、この作品と関わるとは思わなかった。しかし、どんなものでも関わる時間の長さに比例して愛着が涌くもので、もはや「緑はるかに」に関しては、あまり突き放して語ることができなくなってしまった。ことにこの新聞連載の絵物語は、物語の展開はさておき、毎回の中原淳一の挿絵がとても魅力的で、これをながめているだけで何ともしあわせな気持ちになってくる。当時の読者の多くも、毎日この挿絵を楽しみにしていたのではないだろうか。
前々回にも書いたが、当時の中原は『それいゆ』『ジュニアそれいゆ』の編集兼発行人として多忙を極めていたのに、これだけクオリティの高い挿絵を毎日3点、アシスタントも使わず仕上げていたのだから頭が下がる。しかも大変残念なことに、これらの挿絵は、1955年のポプラ社版単行本にも収載されておらず、その後、印刷物として世に出た形跡もなく、ほぼ幻のイラスト群となっている。幸い、原画は残っているらしいから(2009年、茨城県天心記念五浦美術館で開催の「大正ロマン 昭和モダン 大衆芸術の時代展 〜竹久夢二から中原淳一まで」で展示されたとの情報あり)、ぜひ、いずれかの機会にオリジナルの画質で世に出していただきたいと思う(今回紹介した画像は、それなりに修正を加えてはいるが、何しろ元が70年近く前の新聞で紙も印刷状態も悪く、細部がかなりつぶれており、オリジナルの繊細なタッチを伝えられないのが大変残念である)。

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さて、映画版と原作版の両方のストーリーを把握した上で、次回は今一度映画版に目を向け、中原淳一描くところの絵物語キャラクターだった2次元ルリ子が、いかにして浅丘ルリ子演じる3次元ルリ子に進化を遂げたのかを見ていくことにしたい。
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2021年03月30日

ルリ子をめぐる冒険(6)絵物語「緑はるかに」(中)

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前回までのあらすじ

片山ルリ子は、1年前から北海道に出張している父に会うため、父の会社の同僚・田沢とともに旅立つ。その途中、ルリ子は汽車の中で、チビ真という浮浪児と知り合いになる。北海道に着き、病気で衰弱した父と再会するルリ子。父は、「田沢は悪人で私の研究の秘密を盗もうとしている」とルリ子に告げ、秘密を隠した小箱をルリ子に託して息を引き取る。ルリ子は逃げ出す間もなく田沢に監禁され、連日、容赦ない責めを受けることに……

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ある朝、田沢はルリ子を連れて汽車で東京に向かう(「北海道にいるといろいろうるさいから」とのこと)。

一方、父の急逝を知った母は北海道に向かっていた(ルリ子が電報で知らせたらしいが、ずっと田沢に監視されていたのにどうやって電報を打てたのかは不明)。

ルリ子は駅弁の包み紙で鶴を折って窓から飛ばす。すると、それをたまたま駅の近くにいたチビ真が拾い上げ、汽車の中にいたルリ子に気づき、汽車に飛び乗り、「あ、いつかのお嬢さんだ!」と確認し、「一緒にいるのは悪い奴なんだな」と超速理解し、「火事だ!」と車内で叫び、その騒ぎに乗じてルリ子を連れ、走っている汽車から飛び降りる。こうしてルリ子は田沢の毒牙から逃れたのであった。

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すごい展開でしょ? これに比べると映画版なんて可愛いもんですよ。

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飛び降りたところは畑で、大した怪我もなかったが、ルリ子は足をくじいてしまう。また、飛び降りた拍子に落とした小箱のふたが開き「ブラームスの子守唄」が流れてきて、ルリ子は例の小箱がオルゴールであることを知る(ちなみにオルゴールの色は、映画では「緑はるかに」のタイトルにちなんで緑だが、原作では赤となっている)。

○ブラームスの子守唄(youtube)

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ちなみに、こちらが映画におけるルリ子とチビ真。

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一方、原作におけるルリ子とチビ真がこれ。

チビ真は、その名のとおり「チビ」という設定なのだが、中原淳一の描くチビ真はどうもそうは見えず(ルリ子とほぼ同身長)、しかもかなりの美少年。普通にお似合いの美男美女カップルに見える。このあたりの一連の挿絵を見ていると、もう、あとのガキ2人(チビとノッポ)はなしで、この美男美女の冒険物語にした方がいいんじゃないかという気がしてくる(残念ながら話はそれとは真逆な方向に進んでしまうのだが)。

その晩は「親切なお百姓さんの家」に泊めてもらい、2人はオルゴールをいろいろ調べるが何も発見できない。とにかく東京へ帰ろうと、ヒッチハイクで東京方面に向かうトラックに同乗。するとその中で、トラック助手が読んでいた新聞に「青函連絡線、機雷に触れて沈没!」の大見出し。死亡者欄にはルリ子の母の名前が……。

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まさに怒涛の展開。谷ゆき子の漫画みたいですが、この時代の少女小説って、こういう不幸のオンパレードが常套手段だったんでしょうね。

悲嘆に暮れるルリ子。チビ真はそんなルリ子を励まし、東京郊外の隠れ家(防空壕)に連れていく。待っていたのは仲間のデブとノッポだった。
彼らはすべて孤児だが、映画とは違い、孤児院から脱走したわけではなく、最初から自立生活を営んでいる様子(学校に行っているかどうかは不明)。

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こちらが映画のデブとノッポ。

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原作はこれ。
先ほどのチビ真もそうだったが、中原淳一の描くデブとノッポは、それほど「デブ」でも「ノッポ」でもなく、おまけにかなり整った顔立ちなので、3人ともほとんど見分けがつかない。

一方、田沢は東京のアジトで、2人の手下、「メッカチの大入道」と「松葉杖をついた、小人のように背の低い男=ビッコ」に、ルリ子奪還の指令を出していた。うーん。いろいろと時代を感じさせる表現ですな。

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映画の大入道とビッコはコミカルな風体だったが、

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中原淳一の描く2人の手下は、とにかく不気味で恐ろしい(石原豪人の絵に通じるものを感じる。美少女や美少年以外のキャラはこうなってしまのだろうか)。

大入道とビッコは、紙芝居屋に5万円の賞金をかけてルリ子を探させたり、ピエロの扮装をして町を探索したりする(このあたりの描写は映画にも取り入れられている)。

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ピエロの扮装をした大入道とビッコ。映画だとコミカルなのに、

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中原の描くこの2人は、夢に見そうな凄まじい形相である。

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この不気味な悪人コンビは、一度は三人組と一緒に縄跳びをしていたルリ子を発見するのだが、チビ真は「この子はルリ子じゃなくて『トン子』」だと言ってシラを切る(思いつきにしてもすごい名前)。大入道とビッコはルリ子の顔を正確に知らないため、その場は引き下がるが、チビ真は「もうここは危険だ」と、すぐに隠れ家を変えることを決める。原作のチビ真は大変なリーダーシップの持ち主。

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引越しの準備に取りかかる三人組。ルリ子は三人組の、「ボロは着てても心は錦」的な魂の美しさに感激し涙を流す。

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上は連載30回、5月17日の紙面だが、その翌々日の5月19日、物語のすぐ右横に、「緑はるかに」の映画化を報じる記事が。

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「緑はるかに」映画化
ターキーの初製作で
作者・北條氏も協力申出る


本紙に連載中の北條誠と中原淳一のコンビによる「緑はるかに」は、この種の絵物語として始めての純情ものとして好評を博しているが、近く日活で映画化と決定、プロデューサーに転向したターキー・水の江滝子のプロデュース第一回作品として製作されることになった。(中略)その素材をさがしていたターキーがこれこそ≠ニばかりとびついたのがこの「緑はるかに」だった。たまたま原作者北條氏はSSK時代からのターキー・ファンで、学生時代は容ぼうもそっくりというのでターキーばりのヘアー・スタイルをしたというほど…。それだけに、映画化に際しては脚色協力を申出てターキーを感激させている。


結局この北條のラブコールは実を結ばず、脚本は井上梅次監督が担当することになるのだが。それにしても連載開始わずか1ヶ月にして映画化決定とは、ずいぶん段取りがいいような…。この記事では、映画の素材を探していた水の江滝子がたまたまこの絵物語を見つけた、ということになっているが、もしかしたら初めから映画化ありきの、いわゆる「メディアミックス作品」として企画されたのではないだろうか(同年8月からはニッポン放送でラジオドラマも始まるし、いろいろと手回しがよすぎるのだ)。

彼らの新しい隠れ家は、隅田川にかかる新大橋沿いに並んだ倉庫の影にある、半分壊れた掘っ立て小屋だった。その屋根の修繕のため、小屋にある物を全部外に出していたところ、通りかかったくず屋のじいさんが、そこにあったオルゴールを見つけ、無断で持ち去ってしまう。帰宅したじいさんはそれを孫たちに見せるが、孫たちに「おまんじゅうの方がいい」と言われ、古道具屋に30円で売り払う。

くず屋のじいさんがオルゴールを持ち去ったことに気づいた三人組はじいさんを見つけて詰問、古道具屋に売ったことを聞き出しそこに向かうが、オルゴールは売れたあとだった。その話を立ち聞きしていた大入道がチビ真を拉致してアジトに監禁、田沢はルリ子の居場所を言わせようとリンチを加えるが、チビ真は口を割らない。デブとノッポはチビ真を奪還しようとするが逆に捕まってしまい、ついにルリ子のいる隠れ家まで案内させられることになる。

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大入道たちに引っ立てられた三人組はその途中でくず屋のじいさんと遭遇、事情を察したじいさんは「こないだの罪ほろぼし」にと、あわてて隠れ家にいるルリ子にそのことを知らせ、ルリ子を川岸に停まっている小型船に隠す。ところがその船は出航してしまい羽田に着く。ルリ子は船の船頭さんに事情を話し、その家に2週間ほど厄介になることに。

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ここからルリ子と三人組は完全に離ればなれになる。連載開始が1954年4月で、このあたりの展開は6月。ようやく再会するのは10月下旬。物語は12月に完結なので、原作でのルリ子と三人組は、全体の半分以上一緒に行動していないのだ!

さて、チビ真たち3人は田沢たちのもとから何とか脱出。やがて古道具屋の店先で例のオルゴールを発見する(前の古道具屋で買った人が転売したということか)。三人組は靴磨きをして代金の1500円を貯め、買い戻しに店に行くが、すでにオルゴールは売れてしまっていた。買ったのは「35、6歳の女性」だと言う(このあたりの展開は映画でも踏襲されているが、原作では、ルリ子は靴磨きに参加していない)。

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一方のルリ子は、世話になった船頭さんのお得意様(かなりの資産家)の奥様がルリ子を引き取りたい、と言い出したため、京都に行くことに(まさかの展開。養子縁組など、法的な手続きはどうしたのか)。

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舞台は一転し、京都での豪邸暮らしが始まる。

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おばさま(養母)はやさしい人で、おじさま(養父)は海外赴任中で長期不在。

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愛犬のシェパード「ジュピター」と散歩した帰り、みなし児のマミ子と出会う。ルリ子のたっての希望で、マミ子もおばさまの家で一緒に暮らすことになる(もう何が何だか…)。

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ちなみにこちらが映画のマミ子。くりくりっとした髪型など、かなり原作に忠実な姿。

急に「妹」ができたルリ子は「お姉さん」としてバタバタしながらも充実した日々。

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ある日ルリ子は、マミ子にせがまれ、弥栄会館で行われていた視聴者参加の公開番組「あなたの歌」(NHKの「のど自慢」が元ネタか)に飛び入りで出演。赤面しつつマミ子とともに「子鹿のバンビ」を歌い、見事合格して賞品をもらう。

ちなみに日本におけるテレビ放送はこの前年、1953年に始まったばかり。放送局はNHKと日本テレビの2局だけだった。力道山、木村政彦組対シャープ兄弟のプロレス中継が行われ、何万という観衆が街頭テレビに群がったのはこの年2月の出来事。まさにテレビの黎明期である。掲載紙である読売新聞は日本テレビの関係会社なので、テレビの宣伝普及のため、こういう場面を入れることを奨励したのかも知れない。

なお、この物語では、ルリ子とマミ子が歌う様子が全国に流れたようなことが書かれているが、この当時はまだNHKは東京、大阪、名古屋の3局しか開局していない。 仙台、広島、福岡などの局が放送を始めたのが1956年、全国ネットの放送体制が整うのはそれよりさらに4年ほど先のことである。

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賞品をもらってご満悦のマミ子。ところが東京の喫茶店では大入道が、また、街頭テレビでは三人組が「あなたの歌」を見ていたからさあ大変。ルリ子が京都にいるとわかり、大入道たちも三人組も京都に向かう。

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三人組には京都に行く旅費などは当然なかったが、飛行場で映画スターの「石狩浩一郎」と遭遇し、彼に頼み込んで飛行機に乗せてもらう。

この「石狩浩一郎」、何かしら物語の展開に絡みそうな雰囲気を漂わせていたが、実際はただの捨てキャラであった。ただ気になるのは、そのネーミングがどうしても「石原裕次郎」を彷彿させること(しかもこの「緑はるかに」は水の江滝子の第一回プロデュース作品)。しかし、1954年には、裕次郎どころか、兄の石原慎太郎も、まだ作家デビューしていないので、ただの偶然ということになってしまうのだが……。

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テレビの反響は凄まじく、ルリ子とマミ子に関する問い合わせが放送局に殺到。

きのうのテレビで、かわいらしい、ルリ子とマミちゃんのすがたを見て
「一つ、うちの会社の専属スターにしようじゃないか」
と思ったのでしょうか。けさは早くから、ひっきりなしに、各映画会社、レコード会社の人が、つぎからつぎへと、住所をたずねてくるのでした。


これは記念すべき連載第100回(1954年8月6日掲載)なのだが、そんな物語のすぐ下に、

「緑はるかに」のルリ子役≠一般募集

の記事が載っているのが実に興味深い。

「一般人のルリ子がテレビで注目を浴び、映画会社などから問い合わせ殺到」というエピソードとシンクロするかのような「映画のルリ子役募集」の記事。あまりに出来すぎたタイミングで、映画製作サイドから原作サイドへ、何らかの要望があったように感じられる。先ほどの記事にあったように、原作の北條誠は学生時代からのターキーファンとのことなので、プロデューサー・水の江滝子のリクエストに、ノリノリで応えた、といったところだろうか。それにしても、こうした一連の流れをすべて水の江が画策したのだとしたら、話題作りにたけた、実に有能なプロデューサーとしか言いようがない。原作→映画化決定→ヒロイン募集、というプロセスは、角川映画の「野性の証明」(1978年)を20年以上先取りしている。

このヒロイン募集の反応は大きく、2千数百人の応募があったという。審査は第4次まで行われ、最終オーディション(カメラテスト)には「原作者」北條誠と中原淳一も審査員として参加、中原の目にとまった浅井信子がルリ子役に選ばれ、中原はヒロインのヘアカットや衣裳考証など、映画にも深く関わることになるのだが、そのあたりのお話は次々回以降に。

さて、京都に着いた三人組は、ルリ子の住所を訊くために訪ねた放送局の事務所で、何とルリ子の母と出会う(死んだはずなのに生きていた??)。

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実はルリ子の母は、乗船直前に腹痛になり、事故を起こした青函連絡線には乗っていなかったのだ。しかしすでに切符を買っていたため船客名簿に名前が載っており、それで死亡者扱いにされてしまったという(どうでもいい話だが、挿絵における京都のおばさまとルリ子の母のビジュアルが、顔も髪型も服装もまったく同じため、いささか混乱してしまう。せめて片方は着物でなく洋服にしてくれるとありがたかったのだが……)。

母は東京に戻ってからずっとルリ子を探し続けていたが、テレビでその姿を見て、急ぎ京都に来たのであった。そしてまた、古道具屋からオルゴールを買ったのがルリ子の母だったことも判明する。ルリ子の母と三人組は京都に逗留し、手分けしてルリ子を探すが、その行方は杳として知れない。

一方、当のルリ子は、そんなことは露ほども知らず……

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「変な男(大入道とビッコ)がお宅の住所を聞きにきました」と放送局から電話を受けたおばさまは、難を逃れるため和歌山&九州への旅行を思い立ち、ルリ子とマミ子を連れて出かけたが、その途中で車窓から淡路島を見たルリ子が、
「行ってみたいわ、あの島に……」
とつぶやいたことで行き先を淡路島に変更、有名な鳴門の渦潮をのんきに見物しているのだった(このあたりの行き当たりばったり感がすごい!)。

それなりの日数が経ち、旅費もそろそろ心細くなったため、おばさまは単身、京都の豪邸に戻るが、張り込んでいた大入道たちによって、使用人もろとも監禁されてしまう。

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「やい、いわねえな。どうしても強情はるんなら、一ついたいめを見せてやろうか?」

ルリ子の居場所を言わせようと、和服のおばさまに鞭を振るう大入道。ああ、これぞ「伊藤晴雨の責め絵」的世界。映画におけるお母様の鞭打ちはここから発想されたのか…?

一方、淡路島の宿屋に居残ったルリ子とマミ子は、おばさまが一向に戻って来ないため宿代も払えず、その支払いのため宿屋のホールの演芸ショーに出て歌を歌う。

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恥ずかしがりのルリ子にはかなりの苦行だったが、目立つことの大好きなマミ子はノリノリ。

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そしてこれが評判を呼び「スミレ劇団」の上野という男にスカウトされる。

「宿代は肩代わりする、全国各地を回れる、学校にも通わせる、君たちはたちまちスターだ」
などの甘言に惑わされ、「スミレ劇団」入りを承知するルリ子とマミ子。だが「スミレ劇団」の実態は場末の旅回り一座で、上野はとんでもない悪党だった。

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哀れ、ルリ子とマミ子はいつ果てるともない流浪の日々を送ることに……。

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よろよろと立ち上がって、またばったり……
「ふん、大げさなやつだ。いくらそんなことして見せたって、だまされんぞ。さあ歩け、歩かなけりゃこれだぞ」
ビュンと、ムチをふって見せました。

あ〜、またしてもこの展開。どうでもいいけど、悪漢が女を鞭打つっていう描写が多すぎません? まさに無限地獄の如し。
哀れルリ子の運命やいかに??

つづく(次で完結の予定)
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2021年03月15日

ルリ子をめぐる冒険(5)絵物語「緑はるかに」(前)

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前回まで3回にわたり、映画「緑はるかに」の作品レビューをしてきたが、観る前の期待を大きく裏切る、まさに突っ込みどころ満載の作品で、正直、どう受け止めればいいのか困惑してしまった。ライナーノーツによると、井上梅次監督は当時公開されたばかりの「オズの魔法使」にインスパイヤされたらしい。たしかに、「オズの魔法使」も可憐な少女と3人の間抜けなお供が繰り広げる娯楽作品である。しかし、あちらがファンタスティックミュージカルとしての統一性を備えているのに対し、こちらは、冒頭とラストのみミュージカル風、話の序盤(ルリ子が逃げ出すまで)はミステリー風、そこから先は子供向けコメディ風という具合で、どうにも一貫性に乏しい。
「1955年当時の児童映画としては、これでOKだったのだろうか?」などと考えつつネット検索してみると、やはり、同じように感じた人が多かったようで、辛口のレビューが大半を占めている。

「死ぬほど期待してたのにあまりのつまらなさに泣きそうになる。お遊戯会レベル」
「完全にお子様ランチ。実験的カラーと浅丘ルリ子と言う逸材を使いながら、こんな内容かと思うと残念。物語の展開はご都合主義」

中には、
「原作は読売新聞に連載されたというから、脚本の責任が大きいのかもしれない。ストーリーは、リアリズムなどあまり気にしないつくりである…」
https://scienceportal.jst.go.jp/explore/review/20100811_01-2/

というものもあった。たしかに、
「原作は新聞の連載小説なのだから、こんなにハチャメチャなはずはない。すべては脚本の問題であろう」
と考えるのも無理はない。私も同意見である。

そこで、この映画のいくつかの問題点、すなわち、

1)川に落としたオルゴールが何故か古道具屋の店先に(あまりに唐突)
2)ルリ子の両親の生死(死んだはずなのに生きていたという理不尽)
3)オルゴールに研究の秘密を隠した方法(鏡の裏というのは安易すぎる)
4)研究の秘密とは何だったのか(最後まで明らかにされず書類が燃やされる)

以上4点と、それ以外にも、全体に場当たり的と思われるストーリー展開が、原作ではどのようになっているか、確かめてみようと考えた。

しかし、事は思ったほど簡単ではなかった。映画の「緑はるかに」は、DVDになっていたからすぐに手に入ったが、映画化と同じ1955年にポプラ社から刊行された単行本はとうの昔に絶版になっており、Amazon、日本の古本屋などのネットショップ、ヤフオク、公共図書館などで検索してもまったく見つからない。国会図書館での収蔵は確認できたが、これは最終手段である。

次に、新聞連載時のものを縮刷版で読むことを考えたが、なんと、読売新聞はまだこの時代には縮刷版を出していない。マイクロフィルムの状態で保存している図書館まで行って読むしか方法はなさそうだ(収蔵館はかなり限られている)。
しかし、どうにも原作の内容が気になって仕方がないので、緊急事態宣言のさなか、C県立中央図書館とF市総合市民図書館をハシゴして、マイクロフィルムを数回に分けて閲覧、そして最後に国会図書館で単行本を読み返してきた(単行本にはラストなど若干の加筆がある)。

おそらく、「緑はるかに」の映画と原作を対比した記事は他にないと思うので、お時間の許す範囲でお付き合いいただければと思う。

原作は読売新聞夕刊に「少年少女向け絵物語」として1954年4月12日から12月14日まで全210回にわたって連載。作は北條誠(北条誠とも表記)、絵は中原淳一。この2人は、中原が編集長を務めた『ひまわり』の連載小説などですでにコンビを組んでおり、その年代の読者にはおなじみの顔合わせであった。

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『ひまわり』1950年2月号

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長編少女小説「病める薔薇」より。「エス」の香りが漂ってきます。

少々前置きが長くなったが、ではいよいよ本題に。まずは連載開始前日(1955年4月11日)夕刊に載った告知文。

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ながらくご愛読していただいた「バシリカの宝刀」にかわって、明日から新しく、絵物語「緑はるかに」を連さいいたします。作者は、みなさんおなじみの北条誠先生。絵は、美しい少女をえがいて有名な中原淳一先生です。
物語の主人公は、ルリ子というやさしい心と、すがたのなかに、しっかりした性格をもっている少女です。ルリ子のお父さんは科学者でした。お父さんののこされたある鉱物のひみつをさぐろうと、悪者がルリ子を苦しめますが、ルリ子は、けなげにたたかい、こ児の少年真平君も、ルリ子を助けてくれます。そしてひみつは、あれやこれやと、深いなぞにつつまれて行く面白いお話です。題名の「緑はるかに」は、こうした美少女ルリ子の苦難のはてに、ひろびろとつづく希望と、いのりをこめたものです。ではみなさんも、ルリ子といっしょに「緑はるかに」をご期待ください。

わかったようなわからないような紹介文である。ルリ子は「やさしい心と、すがたのなかに、しっかりした性格をもっている少女」で、「ひみつは、あれやこれやと、深いなぞにつつまれて行く面白いお話」だそうだが、日本語としてだいぶ怪しいような…。本当にこれは当時の読売新聞の記者が書いたのだろうか?

まあ、連載が始まる前は細かいことは決まっていないだろうし仕方ないだろう、と思いつつ本文を読み進めてみたのだが、これがまた、映画とどっこいどっこい、いや、その斜め上を行くカオスな展開で、正直何度も腰を抜かしそうになった。
「新聞の連載小説なのだから、ハチャメチャなはずはない」という予想は完全に裏切られたのである。

百聞は一見にしかず。まずは最初の数回をご覧いただこう。絵物語というだけあって、毎回、中原淳一のイラストが3点も入るというゴージャスさ。話の内容はどうあれ、これはファンにはたまらなかっただろう。このころの中原は『それいゆ』『ジュニアそれいゆ』の編集長として多忙を極めていたはずだが、毎回きっちり3点、挿絵を執筆していたのだから恐れいる。ちなみに、単行本にはこの中原淳一のイラストは一切収載されていない。その後ほかの書籍に掲載されたという話も聞かないので、かなりレアなイラスト群だと思う。

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ルリ子の家に田沢が来て父のいる北海道に誘うところまではほぼ映画と同じなのだが、原作では田沢と出かけるのはルリ子だけで、しかも車で奥多摩、ではなく、ちゃんと汽車と青函連絡線を乗り継いで北海道まで行く。また、父と田沢は同じ会社の同僚という設定。なお、映画ではルリ子の苗字は「木村」だったが、原作では「片山」である。

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青森に向かう汽車の中で、田沢の持っていたリンゴを取ろうとして捕まりそうになった浮浪児(チビ真)をルリ子が助け、チビ真は「いつか、きっとお礼するよ」と言って姿を消す(東京の浮浪児であるチビ真がなぜ青森行きの汽車に乗っていたかは永遠の謎)。

映画の田沢は多少ユーモラスな面もあったが、中原の描く田沢はただただ恐ろしげ。不精ひげがまた怪しさを倍加させている。

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ルリ子は病院で衰弱した父と再会。父は「田沢は悪人で研究の秘密を盗もうとしている」とルリ子に告げる。

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父の病状は日を追うごとに悪化、父は田沢の目を盗んでルリ子に小箱(オルゴール)を渡し、「それを持って、にげておくれ」と言い残して息を引き取る(本当に死ぬ)。

しかし、ルリ子は映画のようにスピーディーに逃げ出すことができず、田沢とその一味に監禁され、朝から晩まで責め立てられるのであった。

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「かくさずいえ。いわなきゃ、こうしてやるぞ!」
と、きょうもまた、田沢の子分たちに、ひどいめにあわされて……ぐったり、床(とこ)の上にたおれて、とろとろまどろめば、その夢(ゆめ)の中に
「ルリ子、にげておくれ、早く!」
ああ、お父さまのお声。神さま! ルリ子は、格子(こうし)のはまった窓(まど)にすがって、ぽろっと、涙(なみだ)をこぼしました。

いやあ、映画ではお母様が鞭打たれていましたが、原作では、ルリ子本人が「ひどいめにあわされて……ぐったり」していたんですねえ。当時の新聞小説は思った以上にエグイ。これをこのまま映像化しなかったのは、井上監督の良心か、はたまた日活サイドの自主規制か…。さすがに、何も知らない14歳の新人女優にそんなシーンをあてがうことは憚られたということでしょう(どうせなら鞭打たれ悶絶するルリ子の姿も見てみたかったような気もしますが…)。してみると、原作の方が映画よりも容赦ないということになり、はてさて、これからのルリ子を待ち受ける過酷な運命は??

つづく
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2017年12月10日

レストアに挑戦

『現代コミクス版 ウルトラマン』の刊行がらみで、昨年以来、復刊ドットコム編集部とやりとりしていたという話はこちらに書いたが、本当に近年のレストア(修復)技術の進歩には目を見張るものがある。しかし、感心してばかりいるのも能がないので、自分にもその真似事ができないものか、少し前、手持ちのソフトを使って挑戦してみた。

課題はこちら。

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鎌倉アカデミアの演劇科第一回公演「春の目ざめ」(1948年)のポスター。絵とデザインは、この作品の演出を務めた村山知義(演劇科長)。さすが多芸多才の人である。1枚もののイラストとしても秀逸で、今見ても古さを感じないが、残念なことに4ツ折りの状態で保存されていたため、タテとヨコに線が入り、その周辺が変色している。

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どうにかレストアしてみたのがこちら。

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ふたたびレストア前(大きな画像でどうぞ)。

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レストア後。元はこうであったのではないか、という想像で、少しピンク色を鮮やかにしてみた。

何てことないようだが、実際の作業には3〜4時間を要している(不慣れなせいもあるだろう)。

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ちなみにこのレストア画像は、『鎌倉アカデミア 青の時代』のチラシ裏面でも使用している(作業をしたのは今年の2月)。

画像の修復作業というのは、面倒くさいし目も疲れるが、やり終えた時の達成感には独特のものがあると思う。言うまでもないが、こうしたレストアは、漫画やイラストだけでなく、写真画像でも行われる。

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上は以前こちらで紹介した、撮影スタジオでの記念写真だが、この時の一連の画像は『特撮秘宝』への掲載が決まったため、オリジナルの白黒ネガから再度スキャンしている。しかし、スキャンしただけでは編集部に渡すことはできない。なぜなら、

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スキャンした直後はこんな状態だから。

階調も整っていないし、古いネガのため、ゴミや傷がひどい。明暗やコントラストを調整し、ゴミや傷をひとつずつ消していくわけである。

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元のネガがハーフサイズのため、かなり粒子が気になるが、一応レストアしたのがこちら。

実に地味で地道だが、ついつい深みにはまってしまう作業である(ちなみに私が使っているソフトは10年も前のPhotoshopで、最近のものはもっと進化しているのだろう)。
posted by taku at 18:53| レトロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年03月13日

さらばJR黒姫駅

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早春の黒姫山

長野と金沢を結ぶ北陸新幹線があす(14日)開業する。
これにともなって、長野以北の信越本線・長野−妙高高原間(長野、北長野、三才、豊野、牟礼、古間、黒姫、妙高高原の8駅)はJR東日本から切り離され、第3セクターのしなの鉄道がその経営を引き継ぐことになった。新名称は「北しなの線」で、私が毎年夏を過ごす山荘がある黒姫もその中に入っている。これにはさすがに一抹の淋しさを感じずにいられない。

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北しなの線(長野・妙高高原間)路線図

黒姫駅は、長野駅と同じ1888年の開業で、実に120年以上の歴史がある。当初は柏原という駅名で、1968年に現在の黒姫に改名している。

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ちなみにうちの山荘は、私が生まれる数年前に亡父・青江舜二郎が、「南洋のデパート王」の異名を持つ岡野繁蔵氏から購入したものである(岡野氏は戦前、インドネシアのスラバヤで「トコ・千代田」という百貨店を経営し、貿易商として大成功を収めた立志伝中の人物)。
1963年生まれの私は、その年以降毎年山荘に連れて来られていたから、柏原時代の記憶もうっすら残っている。そして駅名が変わった時、5歳の私は、「何となくかっこいい名前になったなあ」という印象を抱いたものだ。

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黒姫(柏原)は俳人・小林一茶の生誕地としても知られる(駅から徒歩5分の小丸山公園にて)

駅名変更の少し前から、当時の国鉄は黒姫山周辺を冬はスキー場として、夏は高原や湖(野尻湖)のある快適な避暑地として、大々的に宣伝し始めた。そうした広告戦略もあり、1970〜80年代の黒姫は、上野始発の特急あさま号や白山号で、都心から乗り換えなしで到着できる、大変メジャーな北信濃の駅だったのである(80年代には新宿発着の特急もあった)。

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夏の黒姫高原(黒姫童話館からの眺望)

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晩秋の野尻湖。中央に見える鳥居の島が弁天島

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雪に覆われた真冬の黒姫山

しかしそれも今は昔。1997年の長野新幹線開通とともに、特急が停車することもなくなり、黒姫駅は信越本線の一ローカル駅に「降格」となった(すでにこの時点で、ゆくゆくはJR東日本から経営分離されることは規定路線だったようである)。それからはまさに雪山を転げ落ちるような「寂れ方」で、静かな環境を好む私でさえ、最近の夏の黒姫駅周辺、野尻湖周辺の人の少なさにはため息がこぼれる。JRからの分離で、今後さらに乗降客が減っていくようなことになれば、観光地としては死活問題ではないだろうか。

なお、2008年公開の映画『凍える鏡』はドラマの主要部分をこの黒姫で撮影したのだが、その中で以下のようなやりとりが出てくる(シナリオより抜粋)。

○香澄の山荘・リビングダイニング

  由里子(冨樫真)と香澄(渡辺美佐子)が話をしている。
由里子「……長野までの新幹線は早かったんだけど、そのあとの各駅が全然来なくて」
香澄「そうよ、あの電車、一時間に一本だもん」
由里子「前はここも特急が停まってたのに」
香澄「そんなのずいぶん前の話じゃない」

このあたりのセリフは、私自身のぼやきでもある。

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『凍える鏡』の一場面。左から田中圭、冨樫真、渡辺美佐子

明日、黒姫駅では「北しなの線」の開業記念列車の到着に合わせてイベントを予定しているという。9時55分の記念列車到着を「お出迎え」するという主旨だ。
私がその場に立ち会うことは恐らくないと思うが、今年の夏、黒姫駅に降り立った時、自分はその変化をどのように感じるのだろう。何がどう変わって、何が変わっていないか―そういうことををきちんと見届けるのも、長く生きて来た人間の務めのような気がしている。

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古間を出て黒姫に向かう信越本線(2002年12月撮影)
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2014年11月19日

フランス映画社破産

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大学のころから、このマークがオープニングに入った映画をどのくらい観ただろう。ハリウッド映画に代表される、いわゆる大作映画にほとんど魅力を感じなかった自分にとって、一番肌に合ったのが、フランス、ドイツ、イタリアなどのヨーロッパ映画だった。そしてそれらの多くが、この会社の配給だったのだ。

ミニシアターブームの終焉と言われて久しいが、確実にひとつの時代が幕を閉じたのを感じる。

フランス映画社が破産 「勝手にしやがれ」配給

フランスなど欧州で製作された映画の老舗配給会社、フランス映画社(東京)が東京地裁から破産手続きの開始決定を受けていたことが19日、分かった。負債総額は約3,800万円。

1968年に設立。「ベルリン・天使の詩」「勝手にしやがれ」「ストレンジャー・ザン・パラダイス」など往年の名作を国内のミニシアターを中心に配給してきた。(中略)

しかし近年は映画ファンがハリウッド大作や国内の娯楽映画に傾斜し、苦戦を強いられていた。ことし8月末から事業を停止していたという。

2014年11月19日13時27分 共同通信
posted by taku at 14:24| レトロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年07月11日

ゲームとルパンと特製ネクタイ

前回は、押入れに眠っていた物たちの中から、特撮関係に絞り込んでご紹介しましたが、今回は、それ以外のジャンルのガラクタ、もしくはお宝をお目にかけることにいたしましょう。

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「ゲゲゲの鬼太郎」のプレイパズル(エポック社)
ジグソーパズルの簡略版みたいなものです。わが家では「絵パズル」をもじって「絵ばっちょる」などと呼び、夕食後のお楽しみのひとつでした。

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同じく「ファイトだ!!ピュー太」のプレイパズル(エポック社)
私は当時「鬼太郎」以上にこの「ピュー太」にハマッてまして、DVD-BOXが出ているというのを最近知り、今年になってついにヤフオクでゲットしました(現在17話まで視聴済みですが、やっぱり面白い!)。

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裏面はこんな感じ。悪役ワルサーのご先祖さまが大好きで、よくこうやって書いていたものです。

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ほんものそっくり!!スマートボール(バンダイ)
小学校低学年のころ、パチンコとかコリントゲームとか、やたらそういった玉入れゲームに凝り、このたぐいのおもちゃをいくつか持っていました。今でも動くかどうかは不明。

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箱の正面イラスト。ガキどものドヤ顔がたまりません。

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箱の側面。正面とは異なり、こちらのガキは何やらサイケなタッチ。

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トリップル(エポック社)とニューレーダー作戦ゲーム(タカラ)
トリップルはオセロの進化版のようで難易度が高く、ほとんどやりませんでした。レーダー作戦ゲームの方は結構盛り上がった記憶あり。

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こどものせかい(至光社)
通園していたカリタス幼稚園で定期購読していたもの。いわさきちひろの「あかちゃんのくるひ」と「あめのひのおるすばん」。

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怪盗ルパンシリーズ(ポプラ社ほか)
小学校4〜5年にかけて激しくハマッたルパンシリーズ。コンプリートとはいきませんでしたが、ピーク時は1日1冊のハイペースでシリーズの半分以上を読破しました。なぜかホームズにはそれほど熱くならず。

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小学校時代の教科書(光村図書出版ほか)
中学、高校、大学のものもほとんど残っています。こういうのは、皆さん処分してるんでしょうか?

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特製雉(きじ)ネクタイ(北海道上士幌町振興公社)
中学1年の夏、黒姫の山荘近くのロッヂのお土産売り場で発見してひと目惚れ。夏休みの間、毎日井戸の水汲みをすることを条件に3,000円(だったか?)を親から前借りしてゲットした思い出の逸品。しかしあまり着用の機会はありませんでした。この商品、ネットで検索しても数件しかヒットせず、しかも「気持ち悪い」「リサイクルショップでも引き取りを拒否された」など評判はさんざんのようです。

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とても丁寧に作られていると思うのですが…

いかがでしたでしょうか。
押入れの整理は、当分終わる気配がありませんので、また何か面白いものが出てきたら、適宜ご紹介していきたいと思います。
posted by taku at 21:03| レトロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月10日

サザエさんをさがして「火星の土地を買う」

本日(5月10日)、朝日新聞beの名物コラム「サザエさんをさがして」に、かつて実際に行われていた火星の土地分譲と、そこから着想を得て製作した映画『火星のわが家』のことが取り上げられています。私のコメントも、取材に応える形で掲載されました。

また、亡父(青江舜二郎)が1957年に実際に購入した証拠である「火星土地分譲予約受付証」も紙面を飾っています。

宇宙時代の到来に沸き立っていたあの時代の息吹きを感じたい方は、是非ご一読下さい。
記事は、朝日新聞のウェブページでもお読みいただけます(無料登録が必要)。
posted by taku at 20:13| レトロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年11月02日

ムーランルージュと中村屋

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新宿K's cinemaで「ムーランルージュの青春」を観る。

芝居とレビューを提供する常設劇場として1931年に開館し、戦後日本のエンターテインメントの礎を築いたムーランルージュ新宿座の実像や歴史に迫るドキュメンタリー。戦争を挟み20年間にわたってオリジナルのドラマを発信し続けた伝説の劇場の全ぼうを、延べ20人に及ぶ劇場出身者や関係者の貴重な証言とともに再構築。(「シネマトゥデイ」解説ページより)

実際に舞台に立っていた俳優やスタッフ、その家族などをコツコツ訪ね歩くインタビューと、当時の舞台の再現で構成されており、場面転換の際にはジオラマによる赤い風車の外観も登場。大変丁寧に作られたドキュメンタリー作品だった。

宣伝文によると「バラエティ」という言葉はこの劇場から始まったそうだが、現在テレビでたれ流されている白痴的なバラエティ番組よりは、はるかに娯楽性と多様性に富んだものが上演されていたようだ。

この作品の最大の見せ場は、何と言っても劇場のトップアイドルとして一世を風靡した明日待子のインタビューだろう。90歳を過ぎてなお矍鑠(かくしゃく)としており、現在も札幌で日舞の師匠を続けているという。お弟子さんの発表会で踊りを披露する場面も収録されていた。女は強し、である(公開初日には1人で札幌から上京し舞台挨拶をされたとのこと。その時に行けばよかった!)。

なお、ムーランルージュ新宿座のあった場所は現在の国際劇場付近(下写真参照)。ピンク映画の常設館で、紳士淑女にとっては、立ち止まったりするのが少々はばかられるところではある。作品中、当時の関係者5人がそこを訪ねてみるのだが、現在の建物の前で一同困惑したような表情を浮かべ、ある元女優は「悲しい…」と、本当に悲しそうな声をあげる。その悲しみは、思い出の場所が成人映画館になっていたからか、それとも、街全体の変貌ぶりによるものなのか…。

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ついでに言うと、この映画が上映されているK's cinemaはその国際劇場からわずか100メートル。まさに「ご当地」でのロードショーなのである。私はこの近くの高校に通っていたので、毎日のように歩いていた場所なのだが、そんな歴史に名を残す劇場がこの界隈にあったとは知る由もなかった。最近はこういう歴史の発見に胸をときめかすことが多くなった。そういう年代になってきたということなのだろう。

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新宿通りに出てみると、中村屋は建て替えのため休業中。戦後の昭和史とともに生きてきたこの建物も、ついにその役目を終えたということか。
レストランが店を閉めるのは知っていたが、カリーパンやピロシキなどの販売もすべて休止するとは思わなかった(中華まん同様、どこかで作って売るとばかり…)。私は中村屋のカリーパン&ピロシキの隠れ愛好者だっただけに、これは結構「悲しい」出来事であった。
posted by taku at 14:08| レトロ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする