2017年11月17日

『鎌倉アカデミア 青の時代』@鎌倉芸術祭

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11月11日、鎌倉生涯学習センターのホールにて、『鎌倉アカデミア 青の時代』の上映会が行われました。主催してくださったのは、30年以上の活動実績を持つ「鎌倉・映画を観る会」の方々です。

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第12回鎌倉芸術祭参加イベントということで、筆書きの看板も飾られていました。

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ホールのロビーには、「鎌倉アカデミアを伝える会」のご協力によるパネル展示も。

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13時30分からの回の上映後には、加藤茂雄さん(俳優・演劇科1期)とのトークショー。加藤さんとは、5月の川喜多映画記念館、新宿K's cinema、9月の小田原映画祭とすでに何度もトークでご一緒しているので、初めからリラックスムードでしたが、その一方、さすがに以前聞いたことのある話がほとんどだろうと考えていました。しかし、その予想はいい意味で裏切られ、終戦後の鎌倉のリアルな食料事情、鎌倉大学の入学試験の具体的な内容(作文のテーマは「光明寺の印象」で、加藤さんは小さいときから毎年通っていた「御十夜」の思い出を記したとのこと)、1年生の時の学費は、今では行われていない「あぐり網」という漁法で、魚が吹き上がるくらい取れた時の日当でまかなったことなど、私も初めて聞くエピソードが多数披露されました。やはりご当地でのトークは、ローカルな話を理解してもらいやすいからでしょうか、加藤さんの語りはいつも以上に滑らかで、説明も文字通り「微に入り細を穿つ」という感じでした。

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さらに、開校初年の前半だけ教えにきていた千田是也の強烈な印象、課外授業の一環として、1946年6月に帝国劇場で上演された新劇人合同公演の『真夏の夜の夢』や9月上演の『どん底』の本番前総稽古を見学し、それが演劇への思いを掻き立てる原動力となった話など、飢えていたけれど熱かった時代のエネルギーが伝わってくるようでした。『どん底』の稽古を見た翌日には、音楽の担当教授だった関忠亮から「夜でも昼でも 牢屋は暗い」という劇中歌を習い、学生みんなしてその歌を歌いながら鎌倉の町を練り歩いたというエピソードも。歌の一部を加藤さんが朗々と披露されたのには少々びっくりしました(加藤さんの歌というのはあまり聴いたことがなかったので)。

1時間近くがあっという間に過ぎ、最後に、会場においでくださった関係者の方たちにひとことずつご挨拶をしていただき閉幕となりました。教授講師では服部之總のお孫さん4人、吉田謙吉のお嬢さんの塩澤珠江さん、学生では沼田陽一氏(作家・文学科1期)の妹さん、若林泰雄氏(文学科1期)のお嬢さんらにお言葉を頂戴しました。ご来場いただいた大勢のお客様に心より御礼申し上げます。

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5月に出版された加藤さんの絵本『茂さん』も販売していました(完売御礼)。右は光明寺で11月26日に行われる『リトルボートストーリー』というお芝居のチラシ。なんと加藤さんはこれにも俳優として出演されます。

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92歳にして漁師と俳優の二足のわらじ。加藤茂雄さん、生涯現役の「浜役者」として、これからもますますお元気で!

※今回の写真は、最後の1枚をのぞき、ライターの友井健人さんが撮影したものです(一部動画からのキャプチャあり)。どうもありがとうございました。
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2017年11月10日

横浜市立大学ホームカミングデー

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先週の土曜日(11/4)、横浜市立大学のホームカミングデーに行ってまいりました。

「ホームカミングデー」という名称、私が学生のころには耳にしたことがなかったのですが、最近はいろいろな大学で、卒業生を「お帰りなさい」とお迎えするイベントとして行われているようです。

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横浜市立大学は学園祭(浜大祭)の真っ最中(例年ホームカミングデーは浜大祭期間中に行われるそう)。

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今年のテーマは「SPACE」とのことで、それにちなんで宇宙人やスペースシャトルのオブジェが飾られています。

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大学のマスコットキャラクター・ヨッチーもいました(キャンパスのイチョウ並木から生まれたイチョウの精、という設定。今年のゆるキャラグランプリにもエントリーしているとのこと)。

さて、横浜市立大学の卒業生でもない私がどうしてここに来たかというと、

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このカメリアホールで、映画『鎌倉アカデミア 青の時代』が上映されるからなのでした。

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なんと入場無料! 浜大卒業生担当は太っ腹です。

そもそも、どうして浜大のホームカミングデーに鎌倉アカデミアの映画を上映するかといえば、このふたつの大学は、非常に深い関わりがあるからなんですね(詳しくはこちら)。端的にいうと、鎌倉アカデミアの校長を務めた三枝博音(1892-1963)が、横浜市立大学の学長も務めていたということ。ほかにも5人の教授講師が、アカデミアから浜大に横滑りしています。

そういうご縁もあり、今回めでたく上映の運びとなりました。神奈川の「大学」を扱った映画を、神奈川の大学で上映するというのはなかなか素敵な企画だと思います。

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ホール内には、三枝学長がみずから刻んだ扁額も飾られていました。鎌倉アカデミアの扁額は、
「幾何学を学ばざるもの、この門を入るべからず」
でしたが、こちらは哲人セネカの、
「もろもろの技術は生活に奉仕し、知恵が命令する」
という言葉です。

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約160名の卒業生・関係者が来場されたのこと。開会にあたって学長のご挨拶と、応援団、チアリーダー部、管弦楽団による校歌の斉唱が行われました。

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映画上映のあとにはトークセッションも(写真左から同大学の高橋寛人教授、私、本宮一男教授)。

本宮教授は鎌倉アカデミアと横浜市立大学のつながりや時代状況、三枝学長が鶴見事故(1963)のため現職のまま亡くなったことなどを述べられ、高橋教授は、鎌倉アカデミア以前の三枝学長の学者としての活動・業績などをお話しになりました。私は作品の成立過程などを、とりとめもなく話しましたが、三枝学長を直接知る卒業生の方たちにこの映画を観ていただけたことを大変嬉しく思いました。

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これはある卒業生の方が持参していた1963年の学園祭プログラム(コピーを頂戴しました)。

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冒頭に三枝学長の挨拶文が。新校舎落成もこの年であったことがわかります。そしてこのわずか半月後の11月9日に、三枝学長は鶴見事故で不帰の客となられます。昨日で、あの事故からちょうど54年が過ぎました。1963年は私の生まれた年でもあり、いろいろと感慨深いものがあります。

上映が終わったあとは、食堂で行われた同窓会にも参加させていただき、何人かの卒業生の方から、半世紀以上前の浜大の様子をお聞きすることができました。

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こちらは、今年(2017年)の浜大祭プログラム。1963年のものと比べるとずいぶんデジタルな感じですが、

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飾りつけなどは手作り感満載で、「ああ、学園祭ってこういう感じだったなあ」と懐かしい気持ちで帰路に着きました。
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2017年08月31日

『鎌倉アカデミア 青の時代』今後の上映予定

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映画『鎌倉アカデミア 青の時代』の今後の上映予定をお知らせします。

まず9月は、23日(土・祝)に第11回小田原映画祭にて1回だけの特別上映。小田原は鎌倉アカデミア演劇科1期生の廣澤榮(脚本家)の出身地であり、ご当地ゆかりの映画として上映されることになりました。会場は小田原コロナシネマワールド、13:30からです。上映後には、生前の廣澤と半世紀におよぶ交流があった加藤茂雄さん(俳優)と私(大嶋拓)のトークもあります。

また、同じ9月23日(土・祝)から29日(金)まで、名古屋シネマテークにて、連日12:35からの上映となります。公開2日目の24日(日)には、上映後の舞台挨拶に参加する予定です。

つづいて10月7日(土)から13日(金)までは、横浜シネマ・ジャック&ベティにて、連日11:15からの上映となります。こちらは初日の7日(土)と12日(木)に舞台挨拶にうかがう予定です。

そして11月11日(土)には第12回鎌倉芸術祭にて、ご当地鎌倉でのイベント上映。会場は鎌倉駅東口から徒歩3分の鎌倉生涯学習センターホール、10:00/13:30/18:00 と、3回上映されます。2回目の上映後、15:40からは加藤茂雄さん(俳優)と私(大嶋拓)のトークが行われる予定です。

今のところ、年内の上映は以上です。ご来場を心よりお待ちしています。
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2017年07月23日

イベントレポート完成!

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早いもので、『鎌倉アカデミア 青の時代』の東京公開から2ヵ月が過ぎ、大阪シネ・ヌーヴォ神戸アートビレッジセンターでの上映も無事終了しました。上映もひと段落といったところですが、また9月以降、名古屋シネマテーク横浜シネマ・ジャック&ベティなどで公開していきますのでどうぞお楽しみに。また、9/23には小田原映画祭でも上映が予定されています。

さて、大変大変遅くなってしまいましたが、新宿K's cinemaで公開中連日行ったイベントの模様をレポートにまとめましたので、徒然にお読みいただければ幸いです。劇場で回していたビデオを元にして書いていますが、逐語起こしではなく、適宜編集が加わっていることをご了解ください。また、臨場感を出す意味もあり、イベントが行われた日付でアップしてあります。

『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(1)ゲスト:勝田久、加藤茂雄、岩内克己(5/20)
『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(2)ゲスト:川久保潔、若林一郎(5/21)
『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(3)ゲスト:高橋寛人(5/22)
『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(4)ゲスト:山口正介(5/23)
『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(5)ゲスト:澤田晴菜(5/24)
『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(6)ゲスト:田中じゅうこう(5/25)
『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(7)ゲスト:加藤茂雄、若林一郎(5/26)
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2017年05月27日

『鎌倉アカデミア 青の時代』東京公開終了

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映画『鎌倉アカデミア 青の時代』、新宿K's cinemaでの公開は、昨日(5/26)、盛況のうちに終了しました。

時期はずれの猛暑(1〜3日目)や雨模様(最終日)にも関わらず、ご来場くださいました多くのお客様(鎌倉アカデミアゆかりの方も大勢いらっしゃいました)、ご登壇いただいたゲストの方々、そしてスタッフ不足を細やかな配慮でカバーしてくださったK's cinemaの皆様に、心より御礼申し上げます。

おかげさまで、これまで劇場公開した映画の中で、もっとも「作ってよかった」と感じた作品になりました。これも、『鎌倉アカデミア 青の時代』という作品を取り巻くすべての方々の熱い思いの賜物です。本当にありがとうございました。

新宿での公開は終わりましたが、大阪では6/9まで上映、その後、神戸、名古屋、横浜とまだまだ公開は続きます。これからも、どうぞよろしくお願いいたします。

■『鎌倉アカデミア 青の時代』上映情報
posted by taku at 17:18| 鎌倉アカデミア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月26日

『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(7)

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東京公開最終日は、朝からあいにくの雨。外出には不向きな天候でしたが、それでも、ありがたいことに多くのお客様にご来場いただきました。

この日のゲストは、初日にもいらした演劇科1期生・加藤茂雄さんと、2日めにお越しの同2期生・若林一郎さんです。お二人とも2回めの登壇、そして最終日ということもあって、いつにもましてフリートークの度合いが強くなりました。

加藤さんは改めて映画をご覧になって、
「鎌倉アカデミアが二松學舎と合併するプランがあったという話のところで思い出したんだけど、1949年にアカデミアがやっていた二松學舎での夜間講座に、女優の左幸子さんが通っていたんだよね、後からわかったことなんだけど。つまり、同じ時代に同じ先生から授業を受けていたわけ。僕は左さんとは増村保造監督の『曽根崎心中』(1976)で共演しているんだけど、その時にはそういう話は一切出なかった。お互いそういう経歴だってことを知らなかったからね。もしそれがわかっていたら、いろいろ語り合えただろうに、今思うと残念だったね」
とのこと。実は『曽根崎心中』は、ごく最近DVDで観たのですが、たしかに左幸子(宇崎竜童の母親役)と加藤さん(宇崎竜童の本家の主人役)とはがっつり共演しています(さらに、別の場面で映画科1期の山本廉も出演)。気がつかないうちに、アカデミア出身者同士が同じ現場で仕事をしていた、というのも、少なからずあったことかも知れません。

また、加藤さんは初日の舞台挨拶の時から右手の指に包帯を巻いていたので、それについてお尋ねしたところ、ボタンエビを網からはずす仕事をしている時、爪の間に菌が入って、それがなかなか治らない、とのこと。92歳の「現役漁師」ならではの名誉(?)の負傷といえるでしょう。前の日も網をやってきた、とのことだったので、
「ずばり、その元気の源、健康の秘訣は?」
とお聞きしたところ、
「いや、いろいろ病気はしてるんですよ。大腸がんもやったし、脳梗塞もやったし。その時診てもらったお医者さんがよかったのかね。今でも『オレの薬飲んでたからこの程度ですんだ』とかお医者に言われるけど、実際、10年経ったけどどっちも再発してないからね。余計なものが体から去っていって、身が軽くなったからかな」
と、いろいろと意外なお答え。
「長生きの秘訣はよく笑うこと、と言われますけど、加藤さん、いつも楽しそうにしてらっしゃって、よく笑うじゃないですか。そういうのが体にいい影響を与えるんじゃないでしょうか。私も、加藤さんと会って話すと元気が出ますよ」
私は、思ったままを話しました。実際、人間の一生というのは、いいことと悪いことがだいたい半々で起こるようになっているようですが、それを楽観的に受け取るか、悲観的に受け取るかで、人生そのものが大きく変わってくるように思います。そして、この日のゲスト2人は、いずれも人生を楽観的に、ポジティブに受け取って今日までほがらかに生きてきた方のように見受けられました。

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「若林さんも、加藤さんに負けず劣らず、実際には割と逆境続きだったのかも知れませんが、いつも明るくお元気でいらっしゃいますよね」
と、若林さんに水を向けると、
「最初にアカデミアを受験した時に、『演劇では喰えませんよ』と言われてますからね。最初から逆境は覚悟の上でしたけれど、そう言われて入ったアカデミアのおかげで、はしなくも一生文筆で喰うことができました」
と、人生に希望が持てる嬉しい話が。

日本でテレビ放送が始まったのは1953年ですが、そのころ嘱託として日本テレビの開局に関わっていた青江舜二郎(私の父です)に呼ばれて、試験放送用番組の台本を何本も書いたそうです(ドラマではなく、「パトカーの1日」などというフィルム撮りのルポルタージュ作品だったとのこと)。
また、劇団かかし座がアカデミアの演劇サークル「小熊座」から生まれたというのは前述したとおりですが、NHKのテレビ放送開始直後、連続影絵劇の台本を書いていた前田武彦さんがほかの仕事で忙しくなったため、アカデミアつながりで、若林さんがその後任として台本を書くことになりました(それから60余年、今でもかかし座には台本を提供されています)。
この2つのことから、放送業界にコネクションができ、以来、若林さんは多くのテレビ台本を手がけることになるのですが、さらに、前進座の文芸部長だった津上忠さん(演劇科1期生)の勧めで、青少年劇場(児童劇)の台本にも手を染めるようになります。まさに、アカデミアのご縁で花開いた作家人生と言っていいでしょう。

奇しくも、この日は津上忠さんのご息女も会場にいらしており、加藤さんからは、当時だいぶ年長だった津上さんのことを、当時16歳だったいずみたくさんの母親が、学校の先生だと思って丁重に挨拶したという逸話などが披露されました。

他にも加藤さんからは、在学中に2回、演劇の巡回公演で大日本紡績工場(ユニチカ)の工場を回り、その売り上げが学校の運営資金に充てられたという、映画では語られなかったエピソードなどが披露されました。その公演に加わった学生は、ギャラこそなかったものの、学費免除という特典があったそうで、加藤さんは2、3年生の時には学費を払わなかったとのこと。まさに、既成の大学の枠には収まらない学校であったことがしのばれます。

最後に若林さんが、
「光明寺で私の人生は始まりました。入学の時に見た、光明寺の桜は忘れられません。この映画で、その光景にもう一度出会えたことを本当に嬉しく思います」
としめくくられました。

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2017年05月25日

『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(6)

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公開6日めのゲストは、『ムーランルージュの青春』監督の田中じゅうこうさん。実は、『ムーラン〜』こそ、『鎌倉アカデミア 青の時代』を完成へと導いてくれた大切な里程標(マイルストーン)であり、それを作った田中さんはまさに大恩人、どうしてもトークゲストとしてお呼びしたい人物なのでした。やっとそれが実現するとあってでしょうか、劇場に向かう小田急線の中で、『ムーラン〜』のパンフレットをめくっているうち、今から6年前のことがいろいろ頭をよぎり、自然と涙があふれてとまらなくなってしまいました(これは恥ずかしい!)。

当然、トークの最初は、そのあたりの事情を説明するところからスタート。田中さんとの出会いは、2011年秋、『ムーランルージュの青春』が、この新宿K's cinemaで公開され、私が一観客として観たことから始まりました。普段は映画を観ても、いちいちそれをブログに書くなどほとんどしない私ですが、この作品はいろいろ感じるところがあって ブログに感想をしたためたところ、次の日、私のyoutubeチャンネルに田中さんから書き込みがありました。そこからメールのやりとりが始まって、忘れもしない11月10日、かつてムーランルージュ新宿座があった場所(その時には国際劇場というピンク映画館、現在は建て替え中で、パチンコとドン・キホーテになる予定)の前で初めてお会いし、初対面にも関わらず、喫茶店から飲み屋へと場所を移しつつ、終電時刻まで話に花を咲かせたのでした。

「『ムーランルージュの青春』には、アカデミア演劇科1期生の津上忠さんがインタビュー出演していて、明日待子さんにまつわる印象的なお話をされるんですよね。それで、津上さんは僕もアカデミアのつながりで何度もお会いしたことがあって……というような話を最初に会った時にしましたよね。田中さんは、鎌倉アカデミアのことは以前からご存じでしたか?」
と、私が質問すると、
「名前だけはね。『ムーラン〜』の公開のプロモーションで永六輔さんのラジオ番組にゲストで出たんですけど、その時永さんが『日本のテレビの礎を作ったのはムーラン、アカデミア、トリロー(三木鶏郎)グループだ』っておっしゃったんです。それで、鎌倉アカデミアっていう学校のことを知ったんですけど、ムーランにしても、アカデミアにしても、そこの出身者が全盛期のテレビや映画に実に多く関わっている。そういう作品にわれわれの世代は大変な刺激を受けたわけですよ。たとえば『全員集合』なんかにしても、コントがあって、歌があって、という構成は、まんまムーランの舞台でやってたことですからね。そういう、自分たちが影響を受けた作品のルーツを探るっていうのは面白いですよ」
とのお答え。
「そういうお考えをお持ちだったからでしょうね。田中さんは、僕が、鎌倉アカデミアのドキュメンタリーを作ろうかどうしようか、結構迷ってる、みたいなことを言ったら、『絶対やった方がいい』と。それで、すごく具体的なアドバイスを、精神的なところから実務的なところまで、本当に丁寧にお話ししてくださったんですよ」

私は、その時に田中さんがお話になった内容のメモ(翌日、記憶を頼りに書き起こしたもの)を持参してご本人に見せました。
「こんなこと話したっけ? ほとんど覚えてないなあ」
とのことでしたが、ノンフィクションは初めてだった私が、『影たちの祭り』『鎌倉アカデミア〜』という2本の記録映画を世に出すことができたのは、間違いなく田中さんのアドバイスのおかげです。
その内容の一部を紹介しますと、

●5人くらい会って話を聞けば、だいたいの輪郭というか、それ以降の方向性がおのずと見えてくる(トータル20人に会った)。

●何度か困ったと思った時があったが、そういう時には決まって救いの手が差し伸べられる。「ムーラン」というと、ありがたいことに関係者が手を貸してくれる。

●『ムーラン〜』は家族のつながりの映画。親から子、孫への継承…

●記録映画を撮ることで、生身の人間を観察する。それは、劇映画の演出にも必ず活かされる。ベンダースもトリュフォーも、劇映画の合間にノンフィクションを撮っている。

最初のアドバイスにしたがい、2012年以降、どうにか5人の関係者にインタビューを行ったところ、たしかに、おおよその方向性が見えたような感じがして、そして、最終的には『ムーランルージュの青春』と同じ20人の方のインタビューを行うことになりました。また、舞台の再現映像やゆかりの場所への再訪、というシークエンスを入れたのも、明らかに『ムーランルージュの青春』の影響です。困った時には、「アカデミア」のことなら、と何人もの人が助け船を出してくれましたし(劇団かかし座の方たちがいい例)、ご本人だけでなく、家族の方にも協力をしていただきました。

ちなみに、『鎌倉アカデミア〜』は、創立60周年記念祭をビデオで記録することから始まっており、そのあとのことはかなり漠然としていたのですが、『ムーランルージュの青春』もまた、最初から映画にするつもりはなかったそうです。もともとは『カッパノボル』という劇映画(かつてムーランの芸人だった老人を主役にしたドラマ)を作るための取材で記録映像を回していたところ、美術の中村さんという元ムーランのスタッフが亡くなり、その葬儀の席で関係者から、「若い監督(田中さんのこと)が今、ムーランの映画を作っています」と紹介をされたため、後に引けなくなったのだとか。一方こちらのアカデミアも、伝える会のスタッフから、「いつかは撮影しているものをまとめて発表するんでしょ?」などと粉をかけられ、いつまでもお茶を濁すわけにもいかなくなって奮起したような経緯があります。年長者のアドバイスによって、やらざるを得なくなったところは、この映画と似ているように思いました。

トークの後半では、かなりのシニア世代の方々にインタビューした経験を持つ者同士ならではの苦労話も出ました。
「インタビューでは、基本的にみなさんすごく若々しく喋ってて、80〜90代のおじいちゃんおばあちゃんていう感じがしないんですよね。若いころの話をしているうちに、心もそのころに戻るからなんでしょうけど、その一方で、やっぱり年齢相応というか、話が噛み合わなかったり、ちょっと認知症が入ってて、同じ話が反復しちゃうとか、そういう方はいませんでしたか?」
と私が聞くと、
「ああ、そういうのはどうしてもね。喫茶店に入ると、カメラを回す前からいきなり喋りだすとか。もう話したくて仕方ないんですよね。『あ、ちょっと待ってください』って、そういう時はこっちが慌てちゃうんだけど。あとはそう、若干認知症が入ってて、一定の時間でループしちゃう人はいましたね。でも、そういうのは仕方ないですよ。ループするまでで使える話がひとつでもふたつでもあればいいわけで、あとは、こっちが聴きたい話が出るまではひらすら待つ」
田中さんはどっしり構えた感じの方なので、あまり現場での動揺はなかったのかも知れませんが、せっかちな私は、つい、自分が答えて欲しい方向に話を誘導しようとしたことが一度ならずあった気がして、反省しきりでした。
また、
「テレビのドキュメンタリーなんかは基本的に二段構えなんですよ。最初に、リサーチャーと言われるスタッフが話を聞きにいって、それをもとに構成台本を作って、それから改めてクルーを連れてインタビューを撮りにいく。でも、『ムーラン〜』なんかでは、2回以上インタビューしたこともあるんだけど、すべて最初のインタビューを使っています。やっぱり人間てのは、一番伝えたいことを最初に喋りますからね」
と、大変納得のいくお話もうかがいました。私の場合も、インタビューはすべて「一期一会」の精神で臨み、ナビゲーター的な役割の加藤茂雄さん以外、複数回の収録は行っていません。録音状態が悪かったりして、撮り直したい箇所もいくつかありましたが、「もう一度あの話をしてください」とお願いしたとしても、どうしても鮮度が落ちるように思えたからです。

トークの最後には、今年の2月に亡くなった鈴木清順さんのお話も出ました。最初に新宿で会った時から、「清順さんのインタビューは、多少の困難はあったとしても絶対に撮った方がいい。清順さんが出てるのと出てないのとでは、作品の厚みが全然違うから」と力説していた田中さんにとっては、やはりひときわ印象的な場面だったようです。

「清順さんについては、それほど裏技を使ったわけではなくて、とにかく、ダメもとで交渉して、そしたら、今の奥様が電話で、『このごろは相手がNHKでも朝日新聞でも一切お断りしています』とおっしゃるんで、『それじゃあしょうがないですね』と、あっさり引き下がったんですが、それから数時間後にメールが来て、「短い時間なら受けてもいいと申してます」と書いてあったんですぐにまた電話して、その3日後くらいにご自宅にうかがったんです。どういうご心境の変化だったかは、もはや永遠の謎なんですが」
と、私が2015年当時のことを思い起こすと、田中さんは、
「やはり、通った期間は短くても、清順さんにとってそれだけアカデミアは特別な存在だったんだと思いますよ」
と推測され、続けて、
「アカデミアの箴言に『幾何学を学ばざるもの…』っていうのがあるでしょう。幾何学っていうのは数学ですよ、数学っていうのはすなわちお金。これは僕の解釈ですけど、その幾何学っていうのが、清順さんの場合、奥さんだったんじゃないかな? ずいぶん年上の奥さんで、アカデミアの同級生ですよね。その奥さんが、新宿で『かくれんぼ』っていうバーをやって、清順さんの不遇時代(日活を解雇されてからの約10年)を支えたんですよ。そのころ調布に住んでた清順さんは毎日車で送り迎えをして…。もしも、清順さんがあの奥さんにアカデミアで会っていなければ、『ツィゴイネルワイゼン』も『ピストルオペラ』もなかったかも知れない」
うーん。そこまでは考えつきませんでした。でも、おしどり夫婦として知られた清順さんと最初の奥様との出会いの場所が、鎌倉アカデミアなのは紛れもない事実です。
「奥様のどこに魅かれたのですか?」
という私の質問に、
「まあ、いい女だったんだよね」
とはにかみながら答えていた笑顔が目に浮かびます。
清順さんは、昨年、映画の完成をご報告した時にはお元気だったのに、年末から体調を崩され、公開を待たずに亡くなるという、大変残念な結果となりました。ほかにもインタビューに答えてくださった数人のアカデミア出身者が亡くなっていますし、それはムーラン関係者も同様だそうです。でも、記録された姿と声は、そのありし日を確実に後世に伝えてくれます。映像の持つ大きな力というべきでしょう。

最後に田中さんは、
「最近ムーランについて若い人が興味を持って本を出したり(映画公開後5冊の関連本が出版)、今年の半年だけで3本の芝居が上演されたりしています。記録映画はある意味テキストで、次の世代の人の研究材料になればいいと思っています。これは『ムーラン〜』公開時(2011年)のことですが、海城学園の中学生がムーラン研究をしたいと申し出たので、ムーランの元踊り子さんを紹介して、彼らがインタビューをして、学校の機関紙に特集記事を掲載しました。80歳の元踊り子さんの話を14歳が聞いたわけで、70年後、その子が84歳になった時、『俺はムーランの踊り子の話を聞いたことがある』と人に言える。ムーランは2011年の時点で生誕80年なので、70+80=150年前の話をできる人ができたということです。それは、まるで北斎の晩年(1840年代)に14歳の子どもが話を聞いているとして、その子が80歳代になる大正時代に「俺は北斎に会った」と言える。もし大正生まれの森繁久彌さんや明日待子さんがまたそのおじいさんに会っていると、『私は、北斎に会ったという人に北斎の話を聞いた』と言える。さらに80年。70+80+80=230年後の僕らが森繁さんや明日さんから、北斎の実像を聞くことができるんです。これはすごいことです。こういう風に、若い人に伝えてゆくことが、一つの文化の継承になるということです」
と、大変に含蓄に富んだ言葉でトークをしめくってくださいました。
昔のことを語るのは、一見回顧的なようですが、実は、文化を次世代に伝え、よき未来へとつなげていく、大変建設的な作業なのです。田中さんは、『ムーラン〜』の取材テープは、ゆくゆくは早稲田の演劇博物館に寄贈するつもりで、後世の資料になればいい、とのこと。苦労して集めた資料や取材テープというのは、とかく自分の手元に囲い込みたいものですが、田中さんはもっと視野を広くお持ちで、公共性ということを常に念頭に置かれており、その姿勢には、深く頭を垂れるばかりです。

トーク終了後は、田中さん、そしてそのパートナーであるカメラマンの本吉修さんと恒例の「らんぶる」でロングトーク。本吉さんとは帰りも同じ小田急線だったのですが、清順さんとは何本もテレビの仕事でご一緒したとのことで、ロケ先でのエピソードもいろいろとうかがいました。やはり広いようで狭い業界です。
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2017年05月24日

『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(5)

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今日のトークゲストは劇団かかし座の女優・澤田晴菜さん。映画中の再現映像で「春の目ざめ」のヒロイン・ヴェンドラ役を演じてくれた方です。映画の中でも紹介していますが、劇団かかし座というのは鎌倉アカデミアの演劇サークル「小熊座」から生まれた劇団です。そういうご縁のある劇団と、どうにかコラボできないものかとあれこれ考え、再現映像出演という形でそれが実現したのでした。

ここまでのイベントゲストを振り返ると、初日は90代3人、2日めは80代2人、3、4日めが60代と、全員私より年上でしかも男性です。連日結構緊張してトークに臨んでいました。それが5日めにして一気に若返り、舞台に現れたのは20代の麗しい女性! 砂漠でオアシスを見つけた心境というと大げさですが、ここに来て少し肩の力が抜けた気がしました。
実はこの日は偶然、1948年当時、実際の「春の目ざめ」でヴェンドラを演じた演劇科2期生のMさんが観客席にいらしていて、新旧2人のヴェンドラが同じ場所にいるという、ちょっと不思議なめぐり合わせとなりました。

まずは、この日初めて映画全体を観た感想をうかがいました。澤田さんも2年前までは大学生だったので、当時のアカデミアの学生たちとほぼ同年代です。
「鎌倉アカデミアの名前や概略は知っていたんですが、実際に映像を見て、当事者の方たちのお話をうかがって、ああ、そういうことだったのか、と、初めて全体像がつかめました。楽しい学校だったんだろうなあ、今もしあったら自分も通ってみたかったなあ、などと考えながら観ました」

澤田さんとのトークは、撮影時のことに移ります。2016年1月に再現映像の撮影が正式に決まり、同じ月に劇団内でオーディションが行われたこと。若手俳優約10人に「父帰る」と「春の目ざめ」の抜粋台本が渡され、その時澤田さんは、どちらかといえば「父帰る」のおたね(長女)より「春の目ざめ」のヴェンドラをやりたいと思ったこと、などが語られました。

そしてヴェンドラ役に決まった澤田さんは、最初の稽古の日に、「春の目ざめ」の原作台本を読んでみたい、と私に申し出ました。抜粋台本は数ページですが、原作台本は全部上演すれば3時間近くになる大変長い戯曲です。私自身、かなりしんどい思いをしながら読んだのですが、澤田さんはそれをきっちり読了して稽古に臨みました。

「原作台本をお読みになって、どうでした」
「そうですね。難しい言葉がいっぱいでてきて、時代を感じましたけど、19世紀のドイツの、キリスト教がベースにある物の考え方とか、面白かったですね」

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「春の目ざめ」のワンシーン

たしかに「春の目ざめ」は、キリスト教にもとづく禁欲主義的な倫理観が根底にあり、その大人がふりかざす倫理観を、早熟な青年・メルヒオールが壊していく、ある種の反逆劇であるといえます(そしてヴェンドラは、その犠牲になってしまう)。そして、もう1本の「父帰る」も、家父長的な倫理観に対する長男の反逆を描いたもので、そういった「レジスタンス演劇」を、鎌倉アカデミアの学生が上演したというのは、そのころの時代背景を考え合わせると大変興味深いことに思えます。

「ヴェンドラを演じるに当たって苦心したことってありますか?」
「通常の舞台ではお芝居を通しで(最初から最後まで)演じることが当たり前で、ハイライトシーンだけを、「抜き」で演じるという経験はほとんどなかったので、役作りには苦労しました。演じられていない部分も演じたという前提で、その先を演じなければいけないので、その手助けに、原作を何度も読み返して感情を追いかけたりして…」
メルヒオールを演じた賀來俊一郎さんは劇団の数年先輩で、アドバイスしあうことが多かったとのこと。実際の「春の目ざめ」でも、メルヒオール役はMさんの1年先輩の増見利清さん(俳優座の演出家)でした。
「抜粋台本じゃなくて、オリジナルの台本を読みながら、ここがわからない、ここってどう思うのかな、なんて、全体の稽古が終わった後もスタジオに残って、夜の9時過ぎまで賀來さんと意見交換をしてました。原作台本には、それぞれの親との関係なんかも描かれているので、それをふまえて、うちの親はどうだとか、そういう突っ込んだ話もしましたね」
そんな役の掘り下げまでしていたことは、初めて聞きました。でも、その甲斐あってか、奥行きのあるヒロイン像が出来上がったように思います。もちろん、それは他のキャラクターにも当てはまるでしょう。
この映画における再現映像は、当時演じられた舞台の「本番の様子」を再現したものなので、ある程度芝居がこなれていなくてはなりません。初々しさよりは、ある程度定まった感じ、が必要だと思い、通常の再現映像とは比較にならないくらい時間をかけました。「父帰る」「春の目ざめ」ともに本読み1日、立ち稽古2日、収録(本番)1日という贅沢なスケジュールで、お忙しい中、それだけの時間を捻出してくださった劇団かかし座のみなさんには、この場を借りて、心から御礼を申し上げたいと思います。

「かかし座さんの演目は大半が児童劇なので、当然ラブシーンはありませんよね。ですから澤田さんもそういうシーンは初体験だったはずで、多少ドキドキしたのでは?」
とうかがったところ、
「でも、芝居なので」と、当時の学生さんとまったく同じお答え。
「どうなるんだろう、ちゃんとできるかな、と最初は不安に思ったりしたんですけど、本番の時は冷静に、芝居としてやれましたね」
とのこと。もちろん、メルヒオール役の賀來さんの好リードもあってのことでしょうが…。
「ただ、干草場のシーンでは、藁(わら)が服についてかゆかったですね。動き回ると藁が粉になって舞うから咳込んだりもして…」
「当時を知る方の話によると、実際の公演では、藁は再現映像よりずっと多くて、役者の体が隠れるくらいの量だったそうです」
「それじゃあ、もっと大変だったかも知れませんね」

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撮影終了後にスタッフ・キャストで記念撮影(2016年2月13日)

話題はふたたび、鎌倉アカデミアの校風のことに。
「自由な学校で、毎日楽しかったんだろうと思います。『みんなで作っていく』ということができたのは、時代も環境もよかったからなんでしょうね。私の通っていたのは4年制の女子大の音楽学部で、先生方の指導も親身だったし、実技試験なんかでは男子がいないので、男性役はプロの先生が演じたりして、かなり先生と生徒の関係は親密だったと思うんですけど、やっぱり鎌倉アカデミアとは違いますよね。お寺を間借りした学校、というこじんまりした感じだから可能だったような気がします。規模が大きくなりすぎちゃうと難しいんじゃないでしょうか」

また、ご自身が在籍するかかし座の原点が鎌倉アカデミアの演劇サークル「小熊座」であることに触れ、
「現実には、お客様の要望、観る側の要望で演目が決まってしまうことが多いと思うんですけど、小熊座では学生たちが、自分たちの演じたいものを選んでどんどんお客様の前で演じていた、というお話が印象的でした。でも、そういうのが演劇の原点なのかも知れないですね」
としめくくられました。そういえば、かかし座代表の後藤圭さんも、「まず観る側が楽しんでないとね」とことあるごとにおっしゃっていますが、それはそのまま、鎌倉アカデミアで培われた精神なのかも知れません。

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ロビーで記念写真を撮ると、澤田さんはバタバタと高円寺に移動。これから知人のバレエの公演を観て、その後はすぐ 岐阜県下呂の劇団宿舎に戻るそうです。かかし座は2008年から下呂温泉合掌村の「しらさぎ座」で、影絵劇のレギュラー公演を行っており、澤田さんもこの春からそのメンバーとしてほとんど下呂に駐在しているのですが、今日(水曜)は休演日のため、新宿に来ることができたのです。そして明日から28日まで、また1日3回のステージをこなすとのこと。連日本当にお疲れ様です。また、「しらさぎ座」のほかのメンバーの方々も、お忙しいところご来場ありがとうございました!(今回の写真画像は、井ノ上舜雪さん、 細田多希さんにご提供いただきました)
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2017年05月23日

『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(4)

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今日のゲストは、作家・山口瞳(文学科1期生)の長男でご自身も作家の山口正介さん。山口さんは、ご両親が鎌倉アカデミア出身だっただけでなく、祖父の山口正雄も学校の専務理事(父兄会長)を務めており、先代、先々代がともにアカデミアと深く関わっていらっしゃいます。もちろん、その当時はまだ生まれていないので、詳しいことは知らないとのことでしたが、ファミリーヒストリーともからみあう学校のことだけに、映画も興味深くご覧になったようでした。

祖父・山口正雄については、
「この映画ではずいぶん好人物のように描かれていたけれど、自分の印象では、あのころ学校の理事を引き受けるなんていうのは、『学校経営は儲かる』という計算があってのことだったと思います。若いころから、会社を作ってはつぶし、大儲けしては大損して、という浮き沈みを繰り返していた人のようですから。起業家気質というのかな。だから、自分の子供たちの通う学校だから一肌脱ごうというだけではなく、そろばん勘定も大いにあって引き受けたんだと思いますよ。それが映画では、ずいぶんいい人のように描かれていて、ありがたかったんですが」
とのこと。正雄の破天荒な生き方については、息子の山口瞳が『家族(ファミリー)』『父の晩年』など複数の著書に書き残しています。当時近所だった川端康成から、妻の葬式を理由に借金をして、それを踏み倒したなどという豪快なエピソードも『小説・吉野秀雄先生』の「隣人・川端康成」に出てきますので、ご興味のある方は是非そちらをお読みいただければと思います。

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山口瞳が鎌倉アカデミア時代を綴った『小説・吉野秀雄先生』(1969年・文藝春秋)

そんな山口正雄ですが、正介さんが物心ついたころから中学生くらいまで、同じ家に住んでいたそうです。当時は糖尿病で隠居の身だったそうですが、そのころの思い出をうかがったところ、
「じいさんは映画にも登場した『停電灯』の開発もそうだけど、発明好きでね。ある時、布にスプレーするとその布が燃えなくなる、という薬品を開発したっていうんですよ。それで僕が瓶に入ってた液体をハンカチにつけて、火をつけたら普通に燃えちゃったんで、『おじいちゃんダメだ、これ燃えちゃうよ』って言ったら、何とも不機嫌そうな顔をしてましたね(会場内爆笑)」
停電灯も、アイデアは素晴しかったのに思わぬところで失敗して実用化には至らず、それが災いして山口家は鎌倉の邸宅から去っていくことになります。正雄はどこかツメの甘い性格だったのかも知れません。しかし、戦前の発明では、ドラム缶に車輪をつけて、移動式の簡単なガソリンスタンドを作ったことがあり、これは成功例だったそうです。

正雄のことで思いがけず話がふくらんでしまったので、そろそろ肝心のご両親のお話しも、と水を向けたのですが、正介さんいわく、
「親父は鎌倉アカデミア時代のことを喋るのは嫌みたいでしたね。おふくろと恋愛していたころのことが恥ずかしかったんでしょう。直接話を聞いた記憶はほとんどありません。文章に書くには書くんですがね。一方の母親は、青春の思い出ですから、60周年記念祭や伝える会で鎌倉に行くと、光明寺のそのへんにパパがいたのよ、とか、あそこが最初にデートした場所で、とか、息子としては聞きたくないですよね。もういい加減にしてくれ、って感じで…」
やはり男性は基本的にこういう話題にはシャイなようで、瞳・治子夫妻のなれそめについては、前述の『小説・吉野秀雄先生』や、山口治子さんの『瞳さんと』をひもとくのがいいように思いました。その一方、
「この映画の冒頭に、60周年記念祭のトークの映像が出てきますけど、考えてみると、これがうちの母親の、最後の映像記録なんですよね」
と、2011年に亡くなられた治子さんに思いを馳せるひと幕も。

また、正介さんは最近、『山口瞳電子全集』刊行のため、その全著作にあらためて目を通していた際、生前未発表作品の中に、鎌倉大学における初代学校長解任劇の内情が書かれているものを見つけたということで、その部分のコピーを持参して朗読してくださいました(文中では「湘南大学校」と記述)。

トークではほかにも、瞳・治子夫妻が1949年に結婚した時の仲人は三枝博音校長が務めたこと、引出物はバナナで、それを三枝校長が珍しがった、そのくらい物のない時代であったこと、瞳が一時期、出版社(国土社)に勤めたのも、三枝校長がそこの顧問だったからということ、等々、三枝校長との浅からざる交遊エピソードが披瀝されました。瞳は1948年の秋以降はアカデミアに通っていませんが、その後も吉野秀雄や高見順、三枝校長らとの行き来は続いており、山口瞳にとっても鎌倉アカデミアがまさに、作家としての「原点」であったことがうかがえました。

ここからは余談ですが、正介さんは作家の家の一人息子、私も、知名度はぐんと落ちますが、やはり同じように劇作家の一人息子なので、うまく言えませんが、「作家」という大変やっかいな人種の家族として生きる者に共通の「匂い」のようなものが強く感じられ、お会いするのはまだ2回めなのに、勝手に、大いに親近感を抱いてしまいました。親の個性が強烈だと、次の代はいろいろ苦労するものです。ね、正介さん。
posted by taku at 19:56| 鎌倉アカデミア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月22日

『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(3)

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今日も関東地方は太陽がギラギラと照りつけ、初日以来3日連続の夏日となりました。
「シニア層にも快適にご覧いただけるよう、暑くもなく寒くもない5月に」と、劇場支配人とも相談して5月に決めたというのに、ほとんど真夏の陽気です。どうして暦どおりの気候になってくれないんだとアゴを出しつつ劇場に迎えば、週明けの割には入場者数がそれほど下がっておらず、ほっと胸を撫で下ろしました。

今日のゲストは、横浜市立大学国際総合科学部教授の高橋寛人さん。

実は、鎌倉アカデミアと横浜市立大学とは非常に関係が深く、1952年に横浜市立大学に文理学部が生まれた際、三枝博音、西郷信綱、早瀬利雄、田代三千稔、加藤衛、古沢友吉、以上6人の鎌倉アカデミア教授講師陣が招聘されています。ちなみにこの年三枝博音は60歳、そして同大学の学長になったのは1961年秋、69歳の時でした(その翌々年11月、いわゆる「鶴見事故」に遭い急逝)。

高橋さんいわく、
「私は教育学を専攻していたので、学生の時から鎌倉アカデミアのことは、名前だけは知っていました。戦後の教育史について書かれた本には、鎌倉アカデミアのことが出てくるんです。その後、高瀬善夫さんの書かれた本を読んでさらに関心が深まりまして、ですから、横浜市立大学に奉職が決まった時には、鎌倉アカデミアにゆかりの大学で教えることができるということで、大変光栄に感じたものです」
そして、市立大学が鎌倉に近いということもあって、2006年の「創立60周年記念祭」に参加、その翌年から毎年行われた「伝える会」にも、ほとんど顔を出して来られたとのこと。私よりも出席率が高いというのは驚きです。
「ただ、今の市立大学の教師も学生も、あまりそういうことを知らないんですよ。今から4年前の2013年が、三枝先生の没後50年で、その時に小冊子を作ったり展示と講演を行ったりしたので、鎌倉アカデミアとのつながりは少しは認知されたかと思いますが…」
私は2013年の没後50年イベントには鎌倉市中央図書館の平田恵美さんのお誘いで参加し、そして翌2014年に「伝える会」で高橋さんがスピーチをされたのも聴いています。それらを通じて、鎌倉アカデミアのスポークスマンたるにふさわしい先生と見込んでいたので、この映画の公開が決まった時、高橋さんが担当する授業の中で映画の紹介をさせてもらえないかとご相談し、そして先月下旬の「人間科学論」の授業の際、予告編と本編の一部(前半)を学生さんに観てもらったのですが、その結果は、驚くべきものでした。
「授業のあとに、10分くらい学生に感想文を書いてもらうんですが、みんな、本当にびっちり書いてあるんです。普段は5行くらいなのに」

学生さんたちはほとんどが19〜20歳で、当時の鎌倉アカデミアの学生と同じ年齢だけに、感じるところも多かったのでしょうか。82名の学生さんたちの感想文を、私もすべて読ませていただき、その中の一部を抜粋して、この場で紹介させていただきました。

●学生が「学べる喜び」を感じていたのはもちろんのこと、教授も「教えたいことを教えられる喜び」を感じていたという話に感銘を受けた。

●インタビューに答えていた方々が皆さんとても熱意を持って語られていたことが印象的だった。

●自分が90歳になった時、どれほど大学生活を語ることができるだろうかと思いました。鎌倉アカデミアに出演している方々のように密度が濃く充実した大学生活を送りたいです。

●時代の流れに影響されずに教育を続けていくことは難しい。やはり時代が時代だけに、鎌倉アカデミアのような学校は援助が受けにくかったのだろう。

●壇上に上って、上から指導するような立場でなかった、など、異常なまでに民主化されていた。就職に直結するとはあまり思えないような学問を積極的に学ぼうとしていたことにも驚きました。でもよく考えればこのように民主化され、自分の学びたいことを自由に学べる場こそが、大学のあるべき姿なのだと思います。このような理想的な学びの場が、時代の流れに淘汰されてしまうことは本当に残念です。

●そこに通った人々の学びたいという意欲はとても素晴しく、現在自分たちが当たり前のように大学に通うことができ、授業を受けられていることに感謝しなければいけないと感じました。

「予想以上の教育効果でした。熱を感じましたね。私は、昔の話として、歴史として聞いてもらって、現在、そういう流れを汲む横浜市大に学んでいることに誇りを持って欲しかったんですけど、彼らは、現在の『自分の問題』として、『学べる喜び』を感じてくれたんですよ。受身ではなく、自分たちの学ぶ場所を自分たちで考えるということの大切さに気づいてくれたというのは、何より嬉しいことです」
そう語る高橋さんの口調もまた、熱を帯びていました。

順序が逆になってしましましたが、この日初めて映画をご覧になった高橋さんにご感想をうかがったところ、
「『伝える会』なんかでも、話題になるのは光明寺時代ばかりで、今回、大船時代の話を初めて聞けたのが新鮮でした。大船で入学した3期生たちは、大船時代を案外評価しているんですね。大船というと、ボロ校舎で雨漏りがひどくて…という話ばかり聴かされていたんで、その辺は少し意外でした」
とのこと。たしかに、3期生以降は光明寺時代を知らないので、校舎の状態など比べようがありません。わずか4年半の歴史しかないアカデミアですが、その原風景は、入学年度によって大きく異なるのです。
「三枝先生が、訪ねてきた学生に自らお茶を点ててふるまうという話がありましたね。大変貧しかったが、心は豊かだったという当時の状況が映画から伝わってきました。そうした学生との深い結びつきが、閉校の際、ひとりひとりの学生の転学のために奔走するという三枝先生の行為につながるんだと思います」

また高橋さんは、三枝校長の戦前の経歴にも言及します。三枝は唯物論研究会に関わっていたため1933年に治安維持法で逮捕。1ヵ月拘禁され、釈放後も、大学等の教育機関で教えることができませんでした。それからは在野の学者として執筆や科学技術史書の編纂などを続けていたところ、終戦で世の中が激変。GHQの方針もあって教育現場に戻ることができたものの、制度化された既成の大学に対しては、どこかで批判的なまなざしを注いでいたのではないか――。それが横浜市立大学における入学式の挨拶などからも読み取れる、と高橋さんは指摘します。
「横浜市立大学は、小規模とはいえ大学ですからね。大学として存続するにはいろいろな縛りがあって、鎌倉アカデミアとはだいぶ違います。三枝先生の授業は、アカデミアでは大変人気があったそうですが、市立大学での三枝先生のことを知っている人に話を聞くと、授業も、受講者は案外少なかったそうです」 
とのお話は、鎌倉アカデミア時代の、みんなに慕われ愛された三枝校長の逸話しか知らなかった私には、大層意外なものでした。しかしそれは、貧乏だったがせめて精神は豊かにありたいと願った終戦直後と、物質的繁栄を最優先した高度経済成長期との時代の違いも、無視できない要因のように思えました。

しかし、今や高度経済成長もはるか昔の話で、ふたたび精神の豊かさを求める時代に回帰しているのを感じます。横浜市立大学は、たしかに小規模ながら大学ではありますが、私の印象では、キャンパス全体もこじんまりしており、食堂もたったひとつ。学長も学生もその同じ食堂で昼食を取るところなどは、かなり鎌倉アカデミア的です。通っている学生さんたちも内面重視の落ち着いた感じで、是非、この学び舎でアカデミア的なるものを、継承、発展させていって欲しいと感じました。

高橋さんは最後に、
「最近、人文系の学部学科はなくしてもいいんじゃないかという暴論もあり、文系学部は大変風あたりの強い時代を迎えています。そういう時代だからこそ、鎌倉アカデミアを再検証するのは大いに意義のあることだと思います。大学というのは、すぐ役に立つことばかり勉強するところではないんです。人生も、人間の歴史も長いわけで、今、役に立つものが、10年後にはまったく役に立たなくなっているかもしれないし、反対に、役に立たないと思われていることが、いつか大変役に立つかもしれない。最終的には、内面からの渇望、自発的な学びたいという意欲を信じていくほかはないわけで、それがいかに大切か、考えるきっかけを鎌倉アカデミアは与えてくれると思います」
としめくくられました。
posted by taku at 20:37| 鎌倉アカデミア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする