2018年12月26日

「砂の香り」@TCC試写室

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去る23日、岩内克己監督を囲む集い「砂の香り」にゲストとして参加してきた。岩内監督の教え子であるライターの高畠正人さんが主催する催しで、今回が31回。1994年以来、もう24年も続いているという。いつもがどういう形なのかよく知らないのだが、今回は新橋のTCC試写室を借りて、岩内監督が出演した『鎌倉アカデミア 青の時代』を上映、そのあとで岩内監督と私とがトークを行うという段取りだった。参加者は30人弱。TCC試写室にはこれまでずいぶん足を運んでいるが、こんなに人口密度が高いのは初めてだった気がする。

トークは50分ほどで終了。映画もトークも、大変好意的に受け取っていただいて嬉しい限り。岩内監督とお会いするのは、昨年のケイズシネマでの公開初日以来だったが、変わらずお元気で頼もしい限り。岩内監督と、鎌倉アカデミア同級生の加藤茂雄さんとは、ともに大正14(1925)年の生まれで93歳。大正生まれも少なくなってきたとはいえ、まだまだご健在な方も多くいらっしゃるのだ。

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会場には、「若大将シリーズ」で長年にわたって若大将(加山雄三)の妹・照子役を演じた中真千子さんのお姿も。この照子というキャラクター、何を隠そう、結構私のお気に入りなのである。物語のクライマックスで若大将が何かの試合に出る時には、だいたいおばあちゃん(飯田蝶子)と照子が一緒に観客席で応援するのだが、その際、さりげなく年配のおばあちゃんを気遣う仕草が、演技と言うよりも本当に孫が祖母を思いやっている感じで、そういうナチュラルさが好印象であった。マネージャー江口(江原達怡)とのロマンスの進展も、シリーズの清涼剤といった感じで微笑ましかったし。余談ではあるが、若大将とヒロインの澄ちゃん(星由里子)との関係は、1作ごとにリセットされて毎回初対面の他人になってしまうのに、照子&江口のロマンスは継続していたというのも考えてみれば不思議である(まあ、メインの男女の恋愛は、常に出会いから描かないと新鮮味がないということなのだろうが…)。

さらに中さんといえば、私のような特撮愛好家にとっては、「ウルトラセブン」第2話「緑の恐怖」でのメインゲスト(箱根に向かう小田急ロマンスカーの中で、隣りに座っていた夫・石黒が突然ワイアール星人に変貌してしまうというトラウマ必至の恐怖体験をした若妻)、そして「兄弟拳バイクロッサー」での水野兄弟(金子哲、土家歩)の母親役も忘れがたい。
「僕は当時大学生でしたけど、『バイクロッサー』結構見てたんですよ」
と、お話ししたら、
「そうでしたか。あれは東映の俳優センターに所属していたころで、大泉でずっと撮影していたんです。お母さん役でしたから、出番はセットが多かったかしら」
などと懐かしそうに当時のことを語ってくださった。しかしそのうち、
「……でも、あれに出ていた、中原(ひとみ)さんの息子さん、ずいぶん早くに亡くなって……」
と、うつむいて淋しそうな顔をされたので「はっ」とした。そう、弟役の土家歩さんは「バイクロッサー」出演から5年後の1990年、まだ26歳という若さで、不慮の自動車事故で亡くなったのだ。
「バイクロッサー」での中さんは、「若大将〜」の照子と同様に自然体で、どこからどうみても水野兄弟のよき母親といった趣だった。私生活では独身を貫いた中さんだが、「自分にもし男の子がいたらこんな感じなのかな?」とイメージをふくらませつつ、撮影中は本当の母親のように土屋さんたちに接していたのだろう。それだけに、土屋さんが亡くなった時には、まるで自分の息子が亡くなったような淋しさを味わったのではないのだろうか。……などと想像をたくましくしてしまった。いずれにせよ、ご壮健なお姿を拝することができ、大変に嬉しいひとときだった。

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これは「砂の香り」の参加者のみに配布される豪華パンフレット。テキストぎっしり、読み応え充分の大力作。忙しい年末に毎回これを作っている高畠さんの情熱にはほんと、頭が下がります。30人前後の参加者に配るだけというのはもったいなさすぎ。もっと広く配布なり販売なりした方がいいんじゃ……。
posted by taku at 12:35| 鎌倉アカデミア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年10月15日

鎌倉「つるや」で昼食会

ブログやツイッター、フェイスブックなどにおいて、「こんなもの食べました」ネタはある意味鉄板だが、私はブログでその手の話はほとんど書いたことがない。理由は簡単、普段ろくなものを食べていないからである。しかし一昨日(10/13)は珍しく、いわゆる老舗といわれるお店で昼食を取ったので、その話をさらっと書いておこう。

行ったのは、鎌倉・由比ガ浜にある「つるや」。1929年創業で、来年90年を迎えるとのこと。川端康成、里見クなどの鎌倉文士、小津安二郎、田中絹代といった映画人も愛した由緒あるうなぎの店である。そして、われらが鎌倉アカデミア演劇科のOBたちも、かつては年に1度この「つるや」で「うなくう会」という同窓会を開いていた。

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上は「うなくう会」のスナップ(2000年ごろ。前列中央に前田武彦、前列左に加藤茂雄、勝田久、津上忠、岡喜一、川久保潔、若林一郎、小池榮ら各氏の顔が揃う)。加藤さん、勝田さんなど、この中の何人かの方には、映画『鎌倉アカデミア 青の時代』でインタビュー出演していただいているが、すでに全体の半数近くが故人となられたのは残念だ。

そんなわけで、以前から名前だけは知っていて、大変気になっていたお店だが、私自身はこれまで一度も訪れる機会がなかった(ひとりでは敷居が高かったというのもある)。しかし今回、鎌倉を舞台にしたあるプロジェクトがひと段落したということもあり、このプロジェクトの立役者である加藤茂雄さん(知る人ぞ知る俳優兼漁師にして鎌倉アカデミア演劇科の卒業生。上の写真にも写っているし、このブログにもこれまでずいぶん登場しているから詳しい説明は省略)を囲む昼食会を、この「つるや」で行うことにした。

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それにしても93歳になる加藤さんのお元気なことといったら! 翌日(10/14)は某大学の先生から大部屋俳優時代の仕事についてインタビューを受けるというし、次の週末(10/20)は、早朝に地引き網漁に参加して船から網を撒き、午後からは2年に一度の東宝の集まりに出席するというから驚きだ。当然、日々の食事や片付けなど身の回りのことはすべてご自分でやられており、買い物に行く際には今でも自転車に乗っているという。

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そんな加藤さんの身辺の話をうかがっているうちに、鎌倉彫の重厚な器が運ばれてきた。

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うなぎは身が実に柔らかく、たれの味も控えめで口当たりが優しい。母の実家が三島なので、やはり老舗といわれる「桜家」のうなぎはしばしば食べに行くのだが、桜家のきりっと塩辛いたれに比べると、かなりマイルドである。好みの分かれるところだろうが、この優しい味つけが鎌倉文士のお好みであったらしい。

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この日の昼食会には、加藤さんと私、そして妙齢の女性2人(20代と30代)が参加、4人で2階席の座卓を囲み、土曜の午後のひととき、ゆったりと伝統の味を堪能したのであった。

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それにしても、この顔ぶれは一体……。90代の加藤さん、50代の私、そして20代と30代の女子〜ズ。年代はバラバラ、しかも、私と加藤さん以外は、ほんのひと月前までは、まったく知らない同士であった。勘のいい方なら、前回や少し前のブログ記事から何かピンと来るかも知れないが、もうしばらくプロジェクトの詳細は伏せておくことにしよう(今回の写真は女子〜ズのひとりが撮影)。

とにかく、大変おいしく、楽しい会食でありました。

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自転車で浜に出てきた加藤さん。先ほどと洋服が違うのは、一度別れてから再び合流したため。
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2018年03月20日

『鎌倉アカデミア 青の時代』上映会

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すっかりブログの更新が滞ってしまい、申し訳ありません。地元・生田の河津桜も満開を過ぎ、ようやく春の足音が聞こえてまいりました(ここ数日は、また冬に戻ったような気候ですが)。

さて、きたる3月31日、横浜の学術系出版社・春風社主催による『鎌倉アカデミア 青の時代』の上映会が、下記の要領で開催されます。上映後には、春風社の三浦衛代表と監督の私(大嶋拓)による対談も行われます。どうぞお誘いあわせの上ご来場ください。

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(クリックで拡大します)

日時:2018年3月31日(土)
●本編上映 13:00〜15:00(開場 12:30)
●対  談 15:10〜16:10 三浦 衛(春風社代表)×大嶋 拓(監督)
会場:横浜市教育会館 4Fホール(JR桜木町駅北口より徒歩10分)アクセス
料金:全席自由 500円

お申し込み・お問い合わせ:春風社 mail:info@shumpu.com
TEL:045-261-3168(平日10:00〜18:00)
主催:春風社 協賛:(一財) 横浜市教育会館

http://kamakura-ac.blue/shumpu.html
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2017年11月17日

『鎌倉アカデミア 青の時代』@鎌倉芸術祭

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11月11日、鎌倉生涯学習センターのホールにて、『鎌倉アカデミア 青の時代』の上映会が行われました。主催してくださったのは、30年以上の活動実績を持つ「鎌倉・映画を観る会」の方々です。

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第12回鎌倉芸術祭参加イベントということで、筆書きの看板も飾られていました。

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ホールのロビーには、「鎌倉アカデミアを伝える会」のご協力によるパネル展示も。

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13時30分からの回の上映後には、加藤茂雄さん(俳優・演劇科1期)とのトークショー。加藤さんとは、5月の川喜多映画記念館、新宿K's cinema、9月の小田原映画祭とすでに何度もトークでご一緒しているので、初めからリラックスムードでしたが、その一方、さすがに以前聞いたことのある話がほとんどだろうと考えていました。しかし、その予想はいい意味で裏切られ、終戦後の鎌倉のリアルな食料事情、鎌倉大学の入学試験の具体的な内容(作文のテーマは「光明寺の印象」で、加藤さんは小さいときから毎年通っていた「御十夜」の思い出を記したとのこと)、1年生の時の学費は、今では行われていない「あぐり網」という漁法で、魚が吹き上がるくらい取れた時の日当でまかなったことなど、私も初めて聞くエピソードが多数披露されました。やはりご当地でのトークは、ローカルな話を理解してもらいやすいからでしょうか、加藤さんの語りはいつも以上に滑らかで、説明も文字通り「微に入り細を穿つ」という感じでした。

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さらに、開校初年の前半だけ教えにきていた千田是也の強烈な印象、課外授業の一環として、1946年6月に帝国劇場で上演された新劇人合同公演の『真夏の夜の夢』や9月上演の『どん底』の本番前総稽古を見学し、それが演劇への思いを掻き立てる原動力となった話など、飢えていたけれど熱かった時代のエネルギーが伝わってくるようでした。『どん底』の稽古を見た翌日には、音楽の担当教授だった関忠亮から「夜でも昼でも 牢屋は暗い」という劇中歌を習い、学生みんなしてその歌を歌いながら鎌倉の町を練り歩いたというエピソードも。歌の一部を加藤さんが朗々と披露されたのには少々びっくりしました(加藤さんの歌というのはあまり聴いたことがなかったので)。

1時間近くがあっという間に過ぎ、最後に、会場においでくださった関係者の方たちにひとことずつご挨拶をしていただき閉幕となりました。教授講師では服部之總のお孫さん4人、吉田謙吉のお嬢さんの塩澤珠江さん、学生では沼田陽一氏(作家・文学科1期)の妹さん、若林泰雄氏(文学科1期)のお嬢さんらにお言葉を頂戴しました。ご来場いただいた大勢のお客様に心より御礼申し上げます。

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5月に出版された加藤さんの絵本『茂さん』も販売していました(完売御礼)。右は光明寺で11月26日に行われる『リトルボートストーリー』というお芝居のチラシ。なんと加藤さんはこれにも俳優として出演されます。

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92歳にして漁師と俳優の二足のわらじ。加藤茂雄さん、生涯現役の「浜役者」として、これからもますますお元気で!

※今回の写真は、最後の1枚をのぞき、ライターの友井健人さんが撮影したものです(一部動画からのキャプチャあり)。どうもありがとうございました。
posted by taku at 18:15| 鎌倉アカデミア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月10日

横浜市立大学ホームカミングデー

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先週の土曜日(11/4)、横浜市立大学のホームカミングデーに行ってまいりました。

「ホームカミングデー」という名称、私が学生のころには耳にしたことがなかったのですが、最近はいろいろな大学で、卒業生を「お帰りなさい」とお迎えするイベントとして行われているようです。

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横浜市立大学は学園祭(浜大祭)の真っ最中(例年ホームカミングデーは浜大祭期間中に行われるそう)。

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今年のテーマは「SPACE」とのことで、それにちなんで宇宙人やスペースシャトルのオブジェが飾られています。

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大学のマスコットキャラクター・ヨッチーもいました(キャンパスのイチョウ並木から生まれたイチョウの精、という設定。今年のゆるキャラグランプリにもエントリーしているとのこと)。

さて、横浜市立大学の卒業生でもない私がどうしてここに来たかというと、

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このカメリアホールで、映画『鎌倉アカデミア 青の時代』が上映されるからなのでした。

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なんと入場無料! 浜大卒業生担当は太っ腹です。

そもそも、どうして浜大のホームカミングデーに鎌倉アカデミアの映画を上映するかといえば、このふたつの大学は、非常に深い関わりがあるからなんですね(詳しくはこちら)。端的にいうと、鎌倉アカデミアの校長を務めた三枝博音(1892-1963)が、横浜市立大学の学長も務めていたということ。ほかにも5人の教授講師が、アカデミアから浜大に横滑りしています。

そういうご縁もあり、今回めでたく上映の運びとなりました。神奈川の「大学」を扱った映画を、神奈川の大学で上映するというのはなかなか素敵な企画だと思います。

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ホール内には、三枝学長がみずから刻んだ扁額も飾られていました。鎌倉アカデミアの扁額は、
「幾何学を学ばざるもの、この門を入るべからず」
でしたが、こちらは哲人セネカの、
「もろもろの技術は生活に奉仕し、知恵が命令する」
という言葉です。

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約160名の卒業生・関係者が来場されたのこと。開会にあたって学長のご挨拶と、応援団、チアリーダー部、管弦楽団による校歌の斉唱が行われました。

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映画上映のあとにはトークセッションも(写真左から同大学の高橋寛人教授、私、本宮一男教授)。

本宮教授は鎌倉アカデミアと横浜市立大学のつながりや時代状況、三枝学長が鶴見事故(1963)のため現職のまま亡くなったことなどを述べられ、高橋教授は、鎌倉アカデミア以前の三枝学長の学者としての活動・業績などをお話しになりました。私は作品の成立過程などを、とりとめもなく話しましたが、三枝学長を直接知る卒業生の方たちにこの映画を観ていただけたことを大変嬉しく思いました。

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これはある卒業生の方が持参していた1963年の学園祭プログラム(コピーを頂戴しました)。

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冒頭に三枝学長の挨拶文が。新校舎落成もこの年であったことがわかります。そしてこのわずか半月後の11月9日に、三枝学長は鶴見事故で不帰の客となられます。昨日で、あの事故からちょうど54年が過ぎました。1963年は私の生まれた年でもあり、いろいろと感慨深いものがあります。

上映が終わったあとは、食堂で行われた同窓会にも参加させていただき、何人かの卒業生の方から、半世紀以上前の浜大の様子をお聞きすることができました。

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こちらは、今年(2017年)の浜大祭プログラム。1963年のものと比べるとずいぶんデジタルな感じですが、

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飾りつけなどは手作り感満載で、「ああ、学園祭ってこういう感じだったなあ」と懐かしい気持ちで帰路に着きました。
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2017年08月31日

『鎌倉アカデミア 青の時代』今後の上映予定

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映画『鎌倉アカデミア 青の時代』の今後の上映予定をお知らせします。

まず9月は、23日(土・祝)に第11回小田原映画祭にて1回だけの特別上映。小田原は鎌倉アカデミア演劇科1期生の廣澤榮(脚本家)の出身地であり、ご当地ゆかりの映画として上映されることになりました。会場は小田原コロナシネマワールド、13:30からです。上映後には、生前の廣澤と半世紀におよぶ交流があった加藤茂雄さん(俳優)と私(大嶋拓)のトークもあります。

また、同じ9月23日(土・祝)から29日(金)まで、名古屋シネマテークにて、連日12:35からの上映となります。公開2日目の24日(日)には、上映後の舞台挨拶に参加する予定です。

つづいて10月7日(土)から13日(金)までは、横浜シネマ・ジャック&ベティにて、連日11:15からの上映となります。こちらは初日の7日(土)と12日(木)に舞台挨拶にうかがう予定です。

そして11月11日(土)には第12回鎌倉芸術祭にて、ご当地鎌倉でのイベント上映。会場は鎌倉駅東口から徒歩3分の鎌倉生涯学習センターホール、10:00/13:30/18:00 と、3回上映されます。2回目の上映後、15:40からは加藤茂雄さん(俳優)と私(大嶋拓)のトークが行われる予定です。

今のところ、年内の上映は以上です。ご来場を心よりお待ちしています。
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2017年07月23日

イベントレポート完成!

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早いもので、『鎌倉アカデミア 青の時代』の東京公開から2ヵ月が過ぎ、大阪シネ・ヌーヴォ神戸アートビレッジセンターでの上映も無事終了しました。上映もひと段落といったところですが、また9月以降、名古屋シネマテーク横浜シネマ・ジャック&ベティなどで公開していきますのでどうぞお楽しみに。また、9/23には小田原映画祭でも上映が予定されています。

さて、大変大変遅くなってしまいましたが、新宿K's cinemaで公開中連日行ったイベントの模様をレポートにまとめましたので、徒然にお読みいただければ幸いです。劇場で回していたビデオを元にして書いていますが、逐語起こしではなく、適宜編集が加わっていることをご了解ください。また、臨場感を出す意味もあり、イベントが行われた日付でアップしてあります。

『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(1)ゲスト:勝田久、加藤茂雄、岩内克己(5/20)
『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(2)ゲスト:川久保潔、若林一郎(5/21)
『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(3)ゲスト:高橋寛人(5/22)
『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(4)ゲスト:山口正介(5/23)
『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(5)ゲスト:澤田晴菜(5/24)
『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(6)ゲスト:田中じゅうこう(5/25)
『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(7)ゲスト:加藤茂雄、若林一郎(5/26)
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2017年05月27日

『鎌倉アカデミア 青の時代』東京公開終了

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映画『鎌倉アカデミア 青の時代』、新宿K's cinemaでの公開は、昨日(5/26)、盛況のうちに終了しました。

時期はずれの猛暑(1〜3日目)や雨模様(最終日)にも関わらず、ご来場くださいました多くのお客様(鎌倉アカデミアゆかりの方も大勢いらっしゃいました)、ご登壇いただいたゲストの方々、そしてスタッフ不足を細やかな配慮でカバーしてくださったK's cinemaの皆様に、心より御礼申し上げます。

おかげさまで、これまで劇場公開した映画の中で、もっとも「作ってよかった」と感じた作品になりました。これも、『鎌倉アカデミア 青の時代』という作品を取り巻くすべての方々の熱い思いの賜物です。本当にありがとうございました。

新宿での公開は終わりましたが、大阪では6/9まで上映、その後、神戸、名古屋、横浜とまだまだ公開は続きます。これからも、どうぞよろしくお願いいたします。

■『鎌倉アカデミア 青の時代』上映情報
posted by taku at 17:18| 鎌倉アカデミア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月26日

『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(7)

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東京公開最終日は、朝からあいにくの雨。外出には不向きな天候でしたが、それでも、ありがたいことに多くのお客様にご来場いただきました。

この日のゲストは、初日にもいらした演劇科1期生・加藤茂雄さんと、2日めにお越しの同2期生・若林一郎さんです。お二人とも2回めの登壇、そして最終日ということもあって、いつにもましてフリートークの度合いが強くなりました。

加藤さんは改めて映画をご覧になって、
「鎌倉アカデミアが二松學舎と合併するプランがあったという話のところで思い出したんだけど、1949年にアカデミアがやっていた二松學舎での夜間講座に、女優の左幸子さんが通っていたんだよね、後からわかったことなんだけど。つまり、同じ時代に同じ先生から授業を受けていたわけ。僕は左さんとは増村保造監督の『曽根崎心中』(1976)で共演しているんだけど、その時にはそういう話は一切出なかった。お互いそういう経歴だってことを知らなかったからね。もしそれがわかっていたら、いろいろ語り合えただろうに、今思うと残念だったね」
とのこと。実は『曽根崎心中』は、ごく最近DVDで観たのですが、たしかに左幸子(宇崎竜童の母親役)と加藤さん(宇崎竜童の本家の主人役)とはがっつり共演しています(さらに、別の場面で映画科1期の山本廉も出演)。気がつかないうちに、アカデミア出身者同士が同じ現場で仕事をしていた、というのも、少なからずあったことかも知れません。

また、加藤さんは初日の舞台挨拶の時から右手の指に包帯を巻いていたので、それについてお尋ねしたところ、ボタンエビを網からはずす仕事をしている時、爪の間に菌が入って、それがなかなか治らない、とのこと。92歳の「現役漁師」ならではの名誉(?)の負傷といえるでしょう。前の日も網をやってきた、とのことだったので、
「ずばり、その元気の源、健康の秘訣は?」
とお聞きしたところ、
「いや、いろいろ病気はしてるんですよ。大腸がんもやったし、脳梗塞もやったし。その時診てもらったお医者さんがよかったのかね。今でも『オレの薬飲んでたからこの程度ですんだ』とかお医者に言われるけど、実際、10年経ったけどどっちも再発してないからね。余計なものが体から去っていって、身が軽くなったからかな」
と、いろいろと意外なお答え。
「長生きの秘訣はよく笑うこと、と言われますけど、加藤さん、いつも楽しそうにしてらっしゃって、よく笑うじゃないですか。そういうのが体にいい影響を与えるんじゃないでしょうか。私も、加藤さんと会って話すと元気が出ますよ」
私は、思ったままを話しました。実際、人間の一生というのは、いいことと悪いことがだいたい半々で起こるようになっているようですが、それを楽観的に受け取るか、悲観的に受け取るかで、人生そのものが大きく変わってくるように思います。そして、この日のゲスト2人は、いずれも人生を楽観的に、ポジティブに受け取って今日までほがらかに生きてきた方のように見受けられました。

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「若林さんも、加藤さんに負けず劣らず、実際には割と逆境続きだったのかも知れませんが、いつも明るくお元気でいらっしゃいますよね」
と、若林さんに水を向けると、
「最初にアカデミアを受験した時に、『演劇では喰えませんよ』と言われてますからね。最初から逆境は覚悟の上でしたけれど、そう言われて入ったアカデミアのおかげで、はしなくも一生文筆で喰うことができました」
と、人生に希望が持てる嬉しい話が。

日本でテレビ放送が始まったのは1953年ですが、そのころ嘱託として日本テレビの開局に関わっていた青江舜二郎(私の父です)に呼ばれて、試験放送用番組の台本を何本も書いたそうです(ドラマではなく、「パトカーの1日」などというフィルム撮りのルポルタージュ作品だったとのこと)。
また、劇団かかし座がアカデミアの演劇サークル「小熊座」から生まれたというのは前述したとおりですが、NHKのテレビ放送開始直後、連続影絵劇の台本を書いていた前田武彦さんがほかの仕事で忙しくなったため、アカデミアつながりで、若林さんがその後任として台本を書くことになりました(それから60余年、今でもかかし座には台本を提供されています)。
この2つのことから、放送業界にコネクションができ、以来、若林さんは多くのテレビ台本を手がけることになるのですが、さらに、前進座の文芸部長だった津上忠さん(演劇科1期生)の勧めで、青少年劇場(児童劇)の台本にも手を染めるようになります。まさに、アカデミアのご縁で花開いた作家人生と言っていいでしょう。

奇しくも、この日は津上忠さんのご息女も会場にいらしており、加藤さんからは、当時だいぶ年長だった津上さんのことを、当時16歳だったいずみたくさんの母親が、学校の先生だと思って丁重に挨拶したという逸話などが披露されました。

他にも加藤さんからは、在学中に2回、演劇の巡回公演で大日本紡績工場(ユニチカ)の工場を回り、その売り上げが学校の運営資金に充てられたという、映画では語られなかったエピソードなどが披露されました。その公演に加わった学生は、ギャラこそなかったものの、学費免除という特典があったそうで、加藤さんは2、3年生の時には学費を払わなかったとのこと。まさに、既成の大学の枠には収まらない学校であったことがしのばれます。

最後に若林さんが、
「光明寺で私の人生は始まりました。入学の時に見た、光明寺の桜は忘れられません。この映画で、その光景にもう一度出会えたことを本当に嬉しく思います」
としめくくられました。

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2017年05月25日

『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(6)

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公開6日めのゲストは、『ムーランルージュの青春』監督の田中じゅうこうさん。実は、『ムーラン〜』こそ、『鎌倉アカデミア 青の時代』を完成へと導いてくれた大切な里程標(マイルストーン)であり、それを作った田中さんはまさに大恩人、どうしてもトークゲストとしてお呼びしたい人物なのでした。やっとそれが実現するとあってでしょうか、劇場に向かう小田急線の中で、『ムーラン〜』のパンフレットをめくっているうち、今から6年前のことがいろいろ頭をよぎり、自然と涙があふれてとまらなくなってしまいました(これは恥ずかしい!)。

当然、トークの最初は、そのあたりの事情を説明するところからスタート。田中さんとの出会いは、2011年秋、『ムーランルージュの青春』が、この新宿K's cinemaで公開され、私が一観客として観たことから始まりました。普段は映画を観ても、いちいちそれをブログに書くなどほとんどしない私ですが、この作品はいろいろ感じるところがあって ブログに感想をしたためたところ、次の日、私のyoutubeチャンネルに田中さんから書き込みがありました。そこからメールのやりとりが始まって、忘れもしない11月10日、かつてムーランルージュ新宿座があった場所(その時には国際劇場というピンク映画館、現在は建て替え中で、パチンコとドン・キホーテになる予定)の前で初めてお会いし、初対面にも関わらず、喫茶店から飲み屋へと場所を移しつつ、終電時刻まで話に花を咲かせたのでした。

「『ムーランルージュの青春』には、アカデミア演劇科1期生の津上忠さんがインタビュー出演していて、明日待子さんにまつわる印象的なお話をされるんですよね。それで、津上さんは僕もアカデミアのつながりで何度もお会いしたことがあって……というような話を最初に会った時にしましたよね。田中さんは、鎌倉アカデミアのことは以前からご存じでしたか?」
と、私が質問すると、
「名前だけはね。『ムーラン〜』の公開のプロモーションで永六輔さんのラジオ番組にゲストで出たんですけど、その時永さんが『日本のテレビの礎を作ったのはムーラン、アカデミア、トリロー(三木鶏郎)グループだ』っておっしゃったんです。それで、鎌倉アカデミアっていう学校のことを知ったんですけど、ムーランにしても、アカデミアにしても、そこの出身者が全盛期のテレビや映画に実に多く関わっている。そういう作品にわれわれの世代は大変な刺激を受けたわけですよ。たとえば『全員集合』なんかにしても、コントがあって、歌があって、という構成は、まんまムーランの舞台でやってたことですからね。そういう、自分たちが影響を受けた作品のルーツを探るっていうのは面白いですよ」
とのお答え。
「そういうお考えをお持ちだったからでしょうね。田中さんは、僕が、鎌倉アカデミアのドキュメンタリーを作ろうかどうしようか、結構迷ってる、みたいなことを言ったら、『絶対やった方がいい』と。それで、すごく具体的なアドバイスを、精神的なところから実務的なところまで、本当に丁寧にお話ししてくださったんですよ」

私は、その時に田中さんがお話になった内容のメモ(翌日、記憶を頼りに書き起こしたもの)を持参してご本人に見せました。
「こんなこと話したっけ? ほとんど覚えてないなあ」
とのことでしたが、ノンフィクションは初めてだった私が、『影たちの祭り』『鎌倉アカデミア〜』という2本の記録映画を世に出すことができたのは、間違いなく田中さんのアドバイスのおかげです。
その内容の一部を紹介しますと、

●5人くらい会って話を聞けば、だいたいの輪郭というか、それ以降の方向性がおのずと見えてくる(トータル20人に会った)。

●何度か困ったと思った時があったが、そういう時には決まって救いの手が差し伸べられる。「ムーラン」というと、ありがたいことに関係者が手を貸してくれる。

●『ムーラン〜』は家族のつながりの映画。親から子、孫への継承…

●記録映画を撮ることで、生身の人間を観察する。それは、劇映画の演出にも必ず活かされる。ベンダースもトリュフォーも、劇映画の合間にノンフィクションを撮っている。

最初のアドバイスにしたがい、2012年以降、どうにか5人の関係者にインタビューを行ったところ、たしかに、おおよその方向性が見えたような感じがして、そして、最終的には『ムーランルージュの青春』と同じ20人の方のインタビューを行うことになりました。また、舞台の再現映像やゆかりの場所への再訪、というシークエンスを入れたのも、明らかに『ムーランルージュの青春』の影響です。困った時には、「アカデミア」のことなら、と何人もの人が助け船を出してくれましたし(劇団かかし座の方たちがいい例)、ご本人だけでなく、家族の方にも協力をしていただきました。

ちなみに、『鎌倉アカデミア〜』は、創立60周年記念祭をビデオで記録することから始まっており、そのあとのことはかなり漠然としていたのですが、『ムーランルージュの青春』もまた、最初から映画にするつもりはなかったそうです。もともとは『カッパノボル』という劇映画(かつてムーランの芸人だった老人を主役にしたドラマ)を作るための取材で記録映像を回していたところ、美術の中村さんという元ムーランのスタッフが亡くなり、その葬儀の席で関係者から、「若い監督(田中さんのこと)が今、ムーランの映画を作っています」と紹介をされたため、後に引けなくなったのだとか。一方こちらのアカデミアも、伝える会のスタッフから、「いつかは撮影しているものをまとめて発表するんでしょ?」などと粉をかけられ、いつまでもお茶を濁すわけにもいかなくなって奮起したような経緯があります。年長者のアドバイスによって、やらざるを得なくなったところは、この映画と似ているように思いました。

トークの後半では、かなりのシニア世代の方々にインタビューした経験を持つ者同士ならではの苦労話も出ました。
「インタビューでは、基本的にみなさんすごく若々しく喋ってて、80〜90代のおじいちゃんおばあちゃんていう感じがしないんですよね。若いころの話をしているうちに、心もそのころに戻るからなんでしょうけど、その一方で、やっぱり年齢相応というか、話が噛み合わなかったり、ちょっと認知症が入ってて、同じ話が反復しちゃうとか、そういう方はいませんでしたか?」
と私が聞くと、
「ああ、そういうのはどうしてもね。喫茶店に入ると、カメラを回す前からいきなり喋りだすとか。もう話したくて仕方ないんですよね。『あ、ちょっと待ってください』って、そういう時はこっちが慌てちゃうんだけど。あとはそう、若干認知症が入ってて、一定の時間でループしちゃう人はいましたね。でも、そういうのは仕方ないですよ。ループするまでで使える話がひとつでもふたつでもあればいいわけで、あとは、こっちが聴きたい話が出るまではひらすら待つ」
田中さんはどっしり構えた感じの方なので、あまり現場での動揺はなかったのかも知れませんが、せっかちな私は、つい、自分が答えて欲しい方向に話を誘導しようとしたことが一度ならずあった気がして、反省しきりでした。
また、
「テレビのドキュメンタリーなんかは基本的に二段構えなんですよ。最初に、リサーチャーと言われるスタッフが話を聞きにいって、それをもとに構成台本を作って、それから改めてクルーを連れてインタビューを撮りにいく。でも、『ムーラン〜』なんかでは、2回以上インタビューしたこともあるんだけど、すべて最初のインタビューを使っています。やっぱり人間てのは、一番伝えたいことを最初に喋りますからね」
と、大変納得のいくお話もうかがいました。私の場合も、インタビューはすべて「一期一会」の精神で臨み、ナビゲーター的な役割の加藤茂雄さん以外、複数回の収録は行っていません。録音状態が悪かったりして、撮り直したい箇所もいくつかありましたが、「もう一度あの話をしてください」とお願いしたとしても、どうしても鮮度が落ちるように思えたからです。

トークの最後には、今年の2月に亡くなった鈴木清順さんのお話も出ました。最初に新宿で会った時から、「清順さんのインタビューは、多少の困難はあったとしても絶対に撮った方がいい。清順さんが出てるのと出てないのとでは、作品の厚みが全然違うから」と力説していた田中さんにとっては、やはりひときわ印象的な場面だったようです。

「清順さんについては、それほど裏技を使ったわけではなくて、とにかく、ダメもとで交渉して、そしたら、今の奥様が電話で、『このごろは相手がNHKでも朝日新聞でも一切お断りしています』とおっしゃるんで、『それじゃあしょうがないですね』と、あっさり引き下がったんですが、それから数時間後にメールが来て、「短い時間なら受けてもいいと申してます」と書いてあったんですぐにまた電話して、その3日後くらいにご自宅にうかがったんです。どういうご心境の変化だったかは、もはや永遠の謎なんですが」
と、私が2015年当時のことを思い起こすと、田中さんは、
「やはり、通った期間は短くても、清順さんにとってそれだけアカデミアは特別な存在だったんだと思いますよ」
と推測され、続けて、
「アカデミアの箴言に『幾何学を学ばざるもの…』っていうのがあるでしょう。幾何学っていうのは数学ですよ、数学っていうのはすなわちお金。これは僕の解釈ですけど、その幾何学っていうのが、清順さんの場合、奥さんだったんじゃないかな? ずいぶん年上の奥さんで、アカデミアの同級生ですよね。その奥さんが、新宿で『かくれんぼ』っていうバーをやって、清順さんの不遇時代(日活を解雇されてからの約10年)を支えたんですよ。そのころ調布に住んでた清順さんは毎日車で送り迎えをして…。もしも、清順さんがあの奥さんにアカデミアで会っていなければ、『ツィゴイネルワイゼン』も『ピストルオペラ』もなかったかも知れない」
うーん。そこまでは考えつきませんでした。でも、おしどり夫婦として知られた清順さんと最初の奥様との出会いの場所が、鎌倉アカデミアなのは紛れもない事実です。
「奥様のどこに魅かれたのですか?」
という私の質問に、
「まあ、いい女だったんだよね」
とはにかみながら答えていた笑顔が目に浮かびます。
清順さんは、昨年、映画の完成をご報告した時にはお元気だったのに、年末から体調を崩され、公開を待たずに亡くなるという、大変残念な結果となりました。ほかにもインタビューに答えてくださった数人のアカデミア出身者が亡くなっていますし、それはムーラン関係者も同様だそうです。でも、記録された姿と声は、そのありし日を確実に後世に伝えてくれます。映像の持つ大きな力というべきでしょう。

最後に田中さんは、
「最近ムーランについて若い人が興味を持って本を出したり(映画公開後5冊の関連本が出版)、今年の半年だけで3本の芝居が上演されたりしています。記録映画はある意味テキストで、次の世代の人の研究材料になればいいと思っています。これは『ムーラン〜』公開時(2011年)のことですが、海城学園の中学生がムーラン研究をしたいと申し出たので、ムーランの元踊り子さんを紹介して、彼らがインタビューをして、学校の機関紙に特集記事を掲載しました。80歳の元踊り子さんの話を14歳が聞いたわけで、70年後、その子が84歳になった時、『俺はムーランの踊り子の話を聞いたことがある』と人に言える。ムーランは2011年の時点で生誕80年なので、70+80=150年前の話をできる人ができたということです。それは、まるで北斎の晩年(1840年代)に14歳の子どもが話を聞いているとして、その子が80歳代になる大正時代に「俺は北斎に会った」と言える。もし大正生まれの森繁久彌さんや明日待子さんがまたそのおじいさんに会っていると、『私は、北斎に会ったという人に北斎の話を聞いた』と言える。さらに80年。70+80+80=230年後の僕らが森繁さんや明日さんから、北斎の実像を聞くことができるんです。これはすごいことです。こういう風に、若い人に伝えてゆくことが、一つの文化の継承になるということです」
と、大変に含蓄に富んだ言葉でトークをしめくってくださいました。
昔のことを語るのは、一見回顧的なようですが、実は、文化を次世代に伝え、よき未来へとつなげていく、大変建設的な作業なのです。田中さんは、『ムーラン〜』の取材テープは、ゆくゆくは早稲田の演劇博物館に寄贈するつもりで、後世の資料になればいい、とのこと。苦労して集めた資料や取材テープというのは、とかく自分の手元に囲い込みたいものですが、田中さんはもっと視野を広くお持ちで、公共性ということを常に念頭に置かれており、その姿勢には、深く頭を垂れるばかりです。

トーク終了後は、田中さん、そしてそのパートナーであるカメラマンの本吉修さんと恒例の「らんぶる」でロングトーク。本吉さんとは帰りも同じ小田急線だったのですが、清順さんとは何本もテレビの仕事でご一緒したとのことで、ロケ先でのエピソードもいろいろとうかがいました。やはり広いようで狭い業界です。
posted by taku at 21:06| 鎌倉アカデミア | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする