公開6日めのゲストは、
『ムーランルージュの青春』監督の田中じゅうこうさん。実は、『ムーラン〜』こそ、『鎌倉アカデミア 青の時代』を完成へと導いてくれた大切な里程標(マイルストーン)であり、それを作った田中さんはまさに大恩人、どうしてもトークゲストとしてお呼びしたい人物なのでした。やっとそれが実現するとあってでしょうか、劇場に向かう小田急線の中で、『ムーラン〜』のパンフレットをめくっているうち、今から6年前のことがいろいろ頭をよぎり、自然と涙があふれてとまらなくなってしまいました(これは恥ずかしい!)。
当然、トークの最初は、そのあたりの事情を説明するところからスタート。田中さんとの出会いは、2011年秋、『ムーランルージュの青春』が、この新宿K's cinemaで公開され、私が一観客として観たことから始まりました。普段は映画を観ても、いちいちそれをブログに書くなどほとんどしない私ですが、この作品はいろいろ感じるところがあって ブログに感想をしたためたところ、次の日、私のyoutubeチャンネルに田中さんから書き込みがありました。そこからメールのやりとりが始まって、忘れもしない11月10日、かつてムーランルージュ新宿座があった場所(その時には国際劇場というピンク映画館、現在は建て替え中で、パチンコとドン・キホーテになる予定)の前で初めてお会いし、初対面にも関わらず、喫茶店から飲み屋へと場所を移しつつ、終電時刻まで話に花を咲かせたのでした。
「『ムーランルージュの青春』には、アカデミア演劇科1期生の津上忠さんがインタビュー出演していて、明日待子さんにまつわる印象的なお話をされるんですよね。それで、津上さんは僕もアカデミアのつながりで何度もお会いしたことがあって……というような話を最初に会った時にしましたよね。田中さんは、鎌倉アカデミアのことは以前からご存じでしたか?」
と、私が質問すると、
「名前だけはね。『ムーラン〜』の公開のプロモーションで永六輔さんのラジオ番組にゲストで出たんですけど、その時永さんが『日本のテレビの礎を作ったのはムーラン、アカデミア、トリロー(三木鶏郎)グループだ』っておっしゃったんです。それで、鎌倉アカデミアっていう学校のことを知ったんですけど、ムーランにしても、アカデミアにしても、そこの出身者が全盛期のテレビや映画に実に多く関わっている。そういう作品にわれわれの世代は大変な刺激を受けたわけですよ。たとえば『全員集合』なんかにしても、コントがあって、歌があって、という構成は、まんまムーランの舞台でやってたことですからね。そういう、自分たちが影響を受けた作品のルーツを探るっていうのは面白いですよ」
とのお答え。
「そういうお考えをお持ちだったからでしょうね。田中さんは、僕が、鎌倉アカデミアのドキュメンタリーを作ろうかどうしようか、結構迷ってる、みたいなことを言ったら、『絶対やった方がいい』と。それで、すごく具体的なアドバイスを、精神的なところから実務的なところまで、本当に丁寧にお話ししてくださったんですよ」
私は、その時に田中さんがお話になった内容のメモ(翌日、記憶を頼りに書き起こしたもの)を持参してご本人に見せました。
「こんなこと話したっけ? ほとんど覚えてないなあ」
とのことでしたが、ノンフィクションは初めてだった私が、『影たちの祭り』『鎌倉アカデミア〜』という2本の記録映画を世に出すことができたのは、間違いなく田中さんのアドバイスのおかげです。
その内容の一部を紹介しますと、
●5人くらい会って話を聞けば、だいたいの輪郭というか、それ以降の方向性がおのずと見えてくる(トータル20人に会った)。
●何度か困ったと思った時があったが、そういう時には決まって救いの手が差し伸べられる。「ムーラン」というと、ありがたいことに関係者が手を貸してくれる。
●『ムーラン〜』は家族のつながりの映画。親から子、孫への継承…
●記録映画を撮ることで、生身の人間を観察する。それは、劇映画の演出にも必ず活かされる。ベンダースもトリュフォーも、劇映画の合間にノンフィクションを撮っている。
最初のアドバイスにしたがい、2012年以降、どうにか5人の関係者にインタビューを行ったところ、たしかに、おおよその方向性が見えたような感じがして、そして、最終的には『ムーランルージュの青春』と同じ20人の方のインタビューを行うことになりました。また、舞台の再現映像やゆかりの場所への再訪、というシークエンスを入れたのも、明らかに『ムーランルージュの青春』の影響です。困った時には、「アカデミア」のことなら、と何人もの人が助け船を出してくれましたし(劇団かかし座の方たちがいい例)、ご本人だけでなく、家族の方にも協力をしていただきました。
ちなみに、『鎌倉アカデミア〜』は、創立60周年記念祭をビデオで記録することから始まっており、そのあとのことはかなり漠然としていたのですが、『ムーランルージュの青春』もまた、最初から映画にするつもりはなかったそうです。もともとは『カッパノボル』という劇映画(かつてムーランの芸人だった老人を主役にしたドラマ)を作るための取材で記録映像を回していたところ、美術の中村さんという元ムーランのスタッフが亡くなり、その葬儀の席で関係者から、「若い監督(田中さんのこと)が今、ムーランの映画を作っています」と紹介をされたため、後に引けなくなったのだとか。一方こちらのアカデミアも、伝える会のスタッフから、「いつかは撮影しているものをまとめて発表するんでしょ?」などと粉をかけられ、いつまでもお茶を濁すわけにもいかなくなって奮起したような経緯があります。年長者のアドバイスによって、やらざるを得なくなったところは、この映画と似ているように思いました。
トークの後半では、かなりのシニア世代の方々にインタビューした経験を持つ者同士ならではの苦労話も出ました。
「インタビューでは、基本的にみなさんすごく若々しく喋ってて、80〜90代のおじいちゃんおばあちゃんていう感じがしないんですよね。若いころの話をしているうちに、心もそのころに戻るからなんでしょうけど、その一方で、やっぱり年齢相応というか、話が噛み合わなかったり、ちょっと認知症が入ってて、同じ話が反復しちゃうとか、そういう方はいませんでしたか?」
と私が聞くと、
「ああ、そういうのはどうしてもね。喫茶店に入ると、カメラを回す前からいきなり喋りだすとか。もう話したくて仕方ないんですよね。『あ、ちょっと待ってください』って、そういう時はこっちが慌てちゃうんだけど。あとはそう、若干認知症が入ってて、一定の時間でループしちゃう人はいましたね。でも、そういうのは仕方ないですよ。ループするまでで使える話がひとつでもふたつでもあればいいわけで、あとは、こっちが聴きたい話が出るまではひらすら待つ」
田中さんはどっしり構えた感じの方なので、あまり現場での動揺はなかったのかも知れませんが、せっかちな私は、つい、自分が答えて欲しい方向に話を誘導しようとしたことが一度ならずあった気がして、反省しきりでした。
また、
「テレビのドキュメンタリーなんかは基本的に二段構えなんですよ。最初に、リサーチャーと言われるスタッフが話を聞きにいって、それをもとに構成台本を作って、それから改めてクルーを連れてインタビューを撮りにいく。でも、『ムーラン〜』なんかでは、2回以上インタビューしたこともあるんだけど、すべて最初のインタビューを使っています。やっぱり人間てのは、一番伝えたいことを最初に喋りますからね」
と、大変納得のいくお話もうかがいました。私の場合も、インタビューはすべて「一期一会」の精神で臨み、ナビゲーター的な役割の加藤茂雄さん以外、複数回の収録は行っていません。録音状態が悪かったりして、撮り直したい箇所もいくつかありましたが、「もう一度あの話をしてください」とお願いしたとしても、どうしても鮮度が落ちるように思えたからです。
トークの最後には、今年の2月に亡くなった鈴木清順さんのお話も出ました。最初に新宿で会った時から、「清順さんのインタビューは、多少の困難はあったとしても絶対に撮った方がいい。清順さんが出てるのと出てないのとでは、作品の厚みが全然違うから」と力説していた田中さんにとっては、やはりひときわ印象的な場面だったようです。
「清順さんについては、それほど裏技を使ったわけではなくて、とにかく、ダメもとで交渉して、そしたら、今の奥様が電話で、『このごろは相手がNHKでも朝日新聞でも一切お断りしています』とおっしゃるんで、『それじゃあしょうがないですね』と、あっさり引き下がったんですが、それから数時間後にメールが来て、「短い時間なら受けてもいいと申してます」と書いてあったんですぐにまた電話して、その3日後くらいにご自宅にうかがったんです。どういうご心境の変化だったかは、もはや永遠の謎なんですが」
と、私が2015年当時のことを思い起こすと、田中さんは、
「やはり、通った期間は短くても、清順さんにとってそれだけアカデミアは特別な存在だったんだと思いますよ」
と推測され、続けて、
「アカデミアの箴言に『幾何学を学ばざるもの…』っていうのがあるでしょう。幾何学っていうのは数学ですよ、数学っていうのはすなわちお金。これは僕の解釈ですけど、その幾何学っていうのが、清順さんの場合、奥さんだったんじゃないかな? ずいぶん年上の奥さんで、アカデミアの同級生ですよね。その奥さんが、新宿で『かくれんぼ』っていうバーをやって、清順さんの不遇時代(日活を解雇されてからの約10年)を支えたんですよ。そのころ調布に住んでた清順さんは毎日車で送り迎えをして…。もしも、清順さんがあの奥さんにアカデミアで会っていなければ、『ツィゴイネルワイゼン』も『ピストルオペラ』もなかったかも知れない」
うーん。そこまでは考えつきませんでした。でも、おしどり夫婦として知られた清順さんと最初の奥様との出会いの場所が、鎌倉アカデミアなのは紛れもない事実です。
「奥様のどこに魅かれたのですか?」
という私の質問に、
「まあ、いい女だったんだよね」
とはにかみながら答えていた笑顔が目に浮かびます。
清順さんは、昨年、映画の完成をご報告した時にはお元気だったのに、年末から体調を崩され、公開を待たずに亡くなるという、大変残念な結果となりました。ほかにもインタビューに答えてくださった数人のアカデミア出身者が亡くなっていますし、それはムーラン関係者も同様だそうです。でも、記録された姿と声は、そのありし日を確実に後世に伝えてくれます。映像の持つ大きな力というべきでしょう。
最後に田中さんは、
「最近ムーランについて若い人が興味を持って本を出したり(映画公開後5冊の関連本が出版)、今年の半年だけで3本の芝居が上演されたりしています。記録映画はある意味テキストで、次の世代の人の研究材料になればいいと思っています。これは『ムーラン〜』公開時(2011年)のことですが、海城学園の中学生がムーラン研究をしたいと申し出たので、ムーランの元踊り子さんを紹介して、彼らがインタビューをして、学校の機関紙に特集記事を掲載しました。80歳の元踊り子さんの話を14歳が聞いたわけで、70年後、その子が84歳になった時、『俺はムーランの踊り子の話を聞いたことがある』と人に言える。ムーランは2011年の時点で生誕80年なので、70+80=150年前の話をできる人ができたということです。それは、まるで北斎の晩年(1840年代)に14歳の子どもが話を聞いているとして、その子が80歳代になる大正時代に「俺は北斎に会った」と言える。もし大正生まれの森繁久彌さんや明日待子さんがまたそのおじいさんに会っていると、『私は、北斎に会ったという人に北斎の話を聞いた』と言える。さらに80年。70+80+80=230年後の僕らが森繁さんや明日さんから、北斎の実像を聞くことができるんです。これはすごいことです。こういう風に、若い人に伝えてゆくことが、一つの文化の継承になるということです」
と、大変に含蓄に富んだ言葉でトークをしめくってくださいました。
昔のことを語るのは、一見回顧的なようですが、実は、文化を次世代に伝え、よき未来へとつなげていく、大変建設的な作業なのです。田中さんは、『ムーラン〜』の取材テープは、ゆくゆくは早稲田の演劇博物館に寄贈するつもりで、後世の資料になればいい、とのこと。苦労して集めた資料や取材テープというのは、とかく自分の手元に囲い込みたいものですが、田中さんはもっと視野を広くお持ちで、公共性ということを常に念頭に置かれており、その姿勢には、深く頭を垂れるばかりです。
トーク終了後は、田中さん、そしてそのパートナーであるカメラマンの本吉修さんと恒例の「らんぶる」でロングトーク。本吉さんとは帰りも同じ小田急線だったのですが、清順さんとは何本もテレビの仕事でご一緒したとのことで、ロケ先でのエピソードもいろいろとうかがいました。やはり広いようで狭い業界です。