
上は浅丘ルリ子(本名:浅井信子)が「緑はるかに」のルリ子役に応募した時の写真。
読売新聞紙上での募集告知が1954年8月6日、締切は8月31日。この写真も8月に撮影したようで、かなり日焼けしている。
さて、今日、5月8日は、今からちょうど66年前に映画「緑はるかに」がロードショー公開を果たした記念すべき日である。というわけで、いつも以上に画像多めで話を進めていこう。
まずは前回のつづき。『ジュニアそれいゆ』1955年早春号から、中原淳一デザインによるルリ子の衣裳の数々を見ていこう。
この映画の中の衣裳は、中原淳一先生が受け持たれています。ルリコのお母さまとか、他の大人の方たちのも中原先生のデザインですが、ここではルリコのドレスを御紹介しましょう。
「緑はるかに」は日活初のテクニカラー(天然色)の映画なので、ドレスの色彩にも中原先生はいろいろ心をくばられたようです。連載された物語では、ルリコのお父さまは病気の場面しか出ていませんが、映画では幻想の場面が多くあって、ルリコがお父さまと一しょに暮らしていた頃の愉しい美しいシーンが沢山見られるということです。(※実際はほんの少しです)
浅丘さんは、本当は中学二年生なのですが、映画では小学校六年のルリコです。それでこれらのドレスも子供っぽく見えますが、これはスカートをそのまま膝の下位まで長くするだけで中学から高校までの方たちにも似合うデザインです。(後略)
「これはずっと旅をしている時に着ているジャンパー・スカート。下にスウェターを着るのです」……中原先生がデザイン画をかかれて、ルリコさんに説明していられます。或る日の撮影所での打合わせの一コマ。
当時、女学生の憧れだった中原淳一デザインの洋服を着られるというのは、大変な栄誉だったに違いない。浅丘ルリ子自身、『徹子の部屋』で、「(ルリ子役に)受かったことよりも、中原先生のお洋服が着られることの方が嬉しくって。すごく可愛いお服なんですよね」と語っている。
なお、「旅をしている時に着ているジャンパー・スカート」の写真は『ジュニアそれいゆ』には掲載されていないが、要するにこれである。


このキャプチャ画像でわかるように、ジャンパースカートはライトグレー、セーターは薄いピンクなのだが、どういうわけかDVDのジャケット写真では、ジャンパースカートはスカイブルー、セーターはクリーム色になっている。

白黒写真に後から着色したものだが、どうして映画オリジナルのカラーリングにしなかったのだろう。
ピンクのウールで作ったこのワンピースは、最初の場面に着る普段着です。衿にそった小さな丸いヨークは、可愛いギャザーを両側にちょっととって、胸のふくらみを出しています。ヨークと身頃の境を共布のループで押え、そのギャザーの上に飾られた二つのボウは、蝶々のようで可愛い。


「小さな丸いヨーク」とか「可愛いギャザー」とか「共布のループ」とか、何のことだかさっぱりわからないが、映画だとこんな感じ。
これはまだお父様がお家にいらっしゃった頃、いろいろの花が一杯咲いている春のお庭で遊んでいた時の回想の場面で着る、薄いグレーのジャンパースカートです。胸に飾られた花のアップリケは、ピンク、クリーム、ブルーといった淡い色のものばかりで、ピッタリさせずに、浮き上ったようにつけます。
ということなのだが、この「春のお庭で遊んでいた時の回想の場面」というのは映画本編のどこにも存在しない。撮影したのに尺の関係でカットされたか、それとも撮影さえされなかったのか……。もはや永遠の謎である。
これもやはり楽しかった頃の回想の場面のクリスマスパーティの時に着るものです。真黒で張りのあるタフタで作った、地味な色合いのこの服は、ふっくらふくらんだスカート、ケープ風の肩を覆う様なカラー、スカート丈までの長いビロードのリボンによって、ジュニアらしい可愛いカクテルドレスとなりました。


はいはい、このシーンはたしかにあったのだけど、座っている姿が引きで一瞬映っただけで、バストアップのショットは人形やプレゼントを抱えているためドレスはほとんど見えず。素敵なデザインなのに、実にもったいない。もう少し撮り方を考えて欲しかった。井上梅次監督はこれら一連の衣裳が、天下の中原淳一デザインだということを本当にわかっていたのだろうか?
美しいスミレ色の薄手のウールでつくったこの服は、最後の場面で、お父様が無事にお帰りになって、一家揃って愈々ルリコに幸わせが訪れた時に着るものです。胸に飾ったボウは、濃い紫のグログランリボンです。後も前も浮いてつけられた肩幅一杯の真白いカラーは、取りはずしが出来るようにしてもいいでしょう。


やっとまともにフルショットで見えるワンピースが……、と言いたいところだが、これも、映ったのはごくごく短い時間(ちなみに、白黒スチールでは胸元の大きなリボンがポイントだが、劇中ではかなり細身なものに変更されている)。
以上が中原淳一デザインによるルリ子衣裳のすべてである。1着1着コンセプチュアルに、丁寧にデザインされているのに、それがあまりうまく映画に活かされていないのはいささか残念に思う。
『ジュニアそれいゆ』には「ルリコ人形」の作り方も載っている。

中原淳一いわく、
「緑はるかに」のルリコは、苦しさの中にもやさしい美しい気持を失わない、本当に良い少女です。さしえを画く時も、いつもそういう少女をあらわしたいと思っていました。(後略)
たしかに原作のルリ子は、映画の何倍も苦しい目、辛い目に遭ってきた。原作のストーリーを8ヶ月間追いかけてきた中原は、映画のルリ子が迎えた甘すぎるラストをどう感じたのだろう。
さて、日活の記録によると、映画「緑はるかに」は1954年のクリスマスイブ(12月24日)にクランクインし、1955年2月12日にクランクアップしたとのこと。90分という尺の割に撮影が長期間なのは、いかなる理由によるのだろう。撮影終了間際、読売新聞には次のような記事が載った。
日活 緑はるかに 完成迫る
本紙に連載され好評を得た北条誠作「緑はるかに」は、日活初の色彩作品として最後の追い込みに入っているが、井上梅次監督の配慮から、子供たちに美しい夢を誘うようなみなみならぬ努力がつづけられている。(中略)
中原淳一考証の衣装、木村威夫の美術も国産色彩のコニカラー・フィルムに美しくうつるよう研究された。森の中、ルリ子の家、ショウ乳ドウ(鍾乳洞)内の科学研究所、幻想に出てくる月の世界、サーカスの内部セットなど文字通り目もまばゆい色のシンフォニーで、しかもうやわらかい感じが出るよう原色に白をまぜたハーフ・トーン(中間色の調子)が使われた。父親のとじこめられる科学研究所や幻想の月の世界もすべてこれビニールとナイロン製といったきらびやかなもので、おとぎの国にまよいこませようと努力している。
こうして去年の十二月末撮影に入ってからすでに五ステージ二十四セットを使い、セット数だけでも日活撮影所再開以来の最高記録といわれる。
読売新聞1955年2月10日夕刊
これを読む限り、美術セットの作り込みや組み替えに時間を取られたことが、長丁場の理由のように思われるが、水の江滝子は後年、こんなことを語っている。
小西六(コニカ)で出したカラーフィルムを初めて使うことになったんだけど、それが今のフィルムとは全然違うんですよ。三原色フィルムといって、フィルムを三本使って、それを一緒に回して撮るわけ。だから、カメラもものすごく大きくて、それが三色の色がうまーく重なって出るととってもきれいな色になるんだけど、試作品みたいなものでしたからね、三本のフィルムがしょっちゅうからまるの。そうなると撮影は中止になって、機械を小西六へ持って行って、向こうで全部ばらして直してくれて、「もう大丈夫です」って持って来て、撮影を再開するとまた二、三日でからまっちゃう。そういうことばっかりやってたの。結局あの時は撮影が一ヵ月半ぐらい遅れたのかな。
『ひまわり婆っちゃま』水の江滝子(1988年・婦人画報社)
というわけで、実際には、開発途上中のコニカラー・システム(※)のトラブル多発が最大の原因のようだ。それに加え、メインの出演者5人がすべて義務教育期間中である(基本的に平日昼間は学校に行かなくてはいけない)ことも、少なからず進行に影響したと思われる。
※コニカラー・システム…1台の大型カメラの中に3本のフィルムを入れ、プリズムで赤・緑・青の3色に分光露光し、3色分解ネガを作り、最終的に1本のポジフィルムに焼き付ける方法

こちらは同時期の「家庭よみうり」の記事。水の江滝子おばさん、という呼び方がおかしい。

貴重な現場スチール。洞窟で初めてルリ子と三人組(チビ真、デブ、ノッポ)が出会うシーンを演出する井上梅次監督(後姿)。「キネマ旬報」3月上旬号より。
年度が代わり、4月9日の夕刊児童欄には、ついに映画の完成を知らせる記事が。
美しい色、楽しい物語
えい画になった「緑はるかに」
日活でさつえいしていました、本紙連さいの「緑はるかに」(北条誠作)のえい画ができ上がりました。総天然色で、あらすじは、お父さまの研究のひみつが入っているオルゴールを中心に(中略)、ついに悪ものたちはつかまって、ルリ子は、お父さまとお母さまにめぐりあい、チビ真たちにも、幸福な日がおとずれます。
読売新聞1955年4月9日夕刊
公開1ヶ月前にもかかわらず、ネタバレ全開である。この時代はあまりそういうことは気にしなかったのだろうか。
約1週間後の4月17日には、「子供の日記念・児童映画会」の囲みで、試写会開催の告知記事。
5月1日(日)午前10時、午後0時半、3時
池袋 豊島公会堂
◇招待方法◇ 小・中学校生徒に限り一校5名以上、20名以下まで招待します。申込み希望者は各校引率教員が往復ハガキに学校名、参加人数記入のうえ京橋局区内読売新聞社企画部あて申込んで下さい。締切(4月)22日までに必着のこと。抽選により各回900名計2,700名を招待します。
対象が小・中学校生のため、生徒個人ではなく、引率する教師が応募するという形になっている。これは言うまでもなくクチコミ宣伝のための一般試写なのだが、それにしても2,700名を招待というのは、結構な太っ腹である。

5月4日の夕刊広告。左には大映のカラー映画「楊貴妃」が。大女優・京マチ子vs新人女優・浅丘ルリ子という構図。この時点では「緑はるかに」は5月10日からの公開を予定していたようだ。

5月6日の夕刊広告。スペースの関係か、チビ真がハブられている。

5月7日、公開前日の夕刊広告。今度はデブがハブられてしまう。メインのルリ子以外に4人も配置するのは難しかったのだろうか。

よく見ると、ノッポの足元に「漫画本 トモブックス社」の文字が。


なんと、公開に先立つ4月5日には、トモブック社より「映画物語シリーズ1 緑はるかに」と題したコミカライズも刊行されていたのである(画・わちさんぺい)。

この漫画版、表紙と裏表紙、そして中扉まで映画版のスチールを使っているため、てっきり映画版のストーリーかと思いきや……

中原淳一の魅力的な挿絵とは似ても似つかぬ、なんとも牧歌的なタッチの絵にまず軽いめまいを覚え……

しかもあろうことか、ストーリーは完全に新聞連載の原作版を踏襲しているのだ!
これは、ルリ子とマミ子が「スミレ劇団」で悲惨な巡業生活を送っているところ。
映画版を期待して手に取った多くの少年少女も、これには肩透かしを食らった気分になったのではないだろうか。

さて、話を映画版に戻そう。今も昔も興行界の慣例は変わらないようで、初日の8日には早速、「満員御礼」「スゴイ爆発的人気で日活系上映中!」の広告(追いパブ)が。個人的にはお隣りの資生堂の香水の広告も気になる。余白の美と呼ぶべきか…(値段が150円から18,000円ていうのも幅がすごいね)。
時を同じくして読売新聞系列の「週刊読売」に映画評が載るが、これが、思ったよりも辛口だった。
緑はるかに 日活作品 児童向きの色彩編
読売新聞に連載された北条誠作、中原淳一画のコドモ向き読物を原作として、女性プロデューサーに再生した水の江滝子がコニ・カラーを使用して製作した天然色作品。だから、あくまで観客の対象を小学校低学年に向けて、井上梅次脚本・監督も、つとめてその線を守ろうと努力している。(中略)
主役に選ばれた浅丘ルリ子も達者な児童劇団のワキ役に助けられ、まずまず、さしたる破たんはみせない。むしろおとなの俳優のまずさ、わざとらしさの方が目ざわりになるくらいである。ただ、前後の貝谷バレー団が出演する夢の場面は、コドモたちの幻想をさそうよりも、音楽にマッチしない動きや、白っぽけた色彩が、かえってブチこわしになりはしまいかと思うのだが、どんなものであろう。コドモたちの目もディズニー・プロ作品で案外こえているのではあるまいか。
コニ・カラーも前作の東映作品「日輪」とくらべたら大進歩のあとを、その技術的な所置にみとめるが、大映のイーストマン・カラーを念頭におくと、まだまだ研究の余地は十分にある。
週刊読売 1955年20号
ひとつ気になったのが、カラー作品としてどうか、という視点が前面に出ていること。しかし、これは当時の状況を考えるとやむを得ないのかも知れない。同年3月上旬の「キネマ旬報」の作品紹介記事にも、
この映画は今日本を風靡しているイーストマンカラーを使用せず、コニカラーシステムを使用して撮影されるが、国産カラーシステムの成果を知る意味で、作品そのものとはちがった大きな興味が持たれる作品である。
という一文があり、この時期、日本映画界は白黒からカラーへと、大きな時代の転換期を迎えていたことがわかる。
ちなみに、日本における映画会社ごとの最初のカラー作品は以下のとおり。
松竹 「カルメン故郷に帰る」(1951.3.21公開 フジカラー)
東宝 「花の中の娘たち」(1953.9.15公開 フジカラー)
大映 「地獄門」(1953.10.31公開 イーストマンカラー)
東映 「日輪」(1953.11.18公開 コニカラー)
新東宝 「ハワイ珍道中」(1954.9.14公開 イーストマンカラー)
日活 「緑はるかに」(1955.5.8公開 コニカラー)
ただ、日活は「緑はるかに」の前年の1954年に「白き神々の座」という山岳記録映画をイーストマンカラーで撮影、11月23日に公開している。だから、厳密に言えば、日活初のカラーは「白き神々の座」ということになるのだが、劇映画というカテゴリにおいては、「緑はるかに」が第一作で間違いはない。


ここからは「緑はるかに」関連ビジュアル。まずはポスター2種。


劇場配布用のチラシ。

プレスシート(報道関係や業界向けの配布資料)。

このプレスシートには、井上梅次監督の「コニ・カラーについて」という文章が掲載されているが、内容はまさに題名のごとしで、
その色の調子は、イーストマンよりはずっとハーフ・トーン(中間色)が出ます。つまりどぎつい色よりも自然の儘の調子が出るわけです。などと、映画の内容はそっちのけ、ほぼテクニカルな説明に終始している。カメラマンや照明、美術などの技術スタッフではなく、監督みずからがこういう文章を書いていることからも、当時のカラー映画への関心の高さがうかがわれる。


「緑はるかに」パンフレット(一般販売用)。
井上監督みずからが、「コニカラーはハーフ・トーン(中間色)が…」「どぎつい色よりも自然の調子が…」と書いているのに、それをまったく顧みない着色センス。特にこのパンフはひどい。ポスターやプレスシートはそれなりだったのに、これはどうしたことだろう。

このまゆげはもはやギャグの域。
こうして次世代の期待を集めたコニカラーだったが、間もなく、1本で三原色を再現できるカラーフィルムが主流となり、1950年代終盤には映画の世界から姿を消してしまう。そのためコニカラー独自の3色分解ネガを処理できる現像所はなくなり、「緑はるかに」も長らくモノクロのプリントしかない状態が続いていたが、1993年に東京国立近代美術館フィルムセンター(現・国立映画アーカイブ)がオリジナルネガからカラー版を復元、そのおかげで現在も、DVDなどで当時の色彩をしのぶことができる。

長々続いた「緑はるかに」小論も、一応次回で完結としたい。最後は、メディアミックスとしての「緑はるかに」、そして、「ルリ子」のその後などについて書いていく予定。