2017年08月12日

密会の映画館

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今月初めに降ってわいた女優S・Y(50歳にして再ブレイク中!)と同世代医師とのW不倫疑惑。「スケバン刑事」世代の自分としては、最近妙にきれいになって往年の輝きを取り戻したかに見えたS・Yに少なからずときめくものを感じ、Eテレの「物理基礎」までチェックするようになっていたのだが、そんな矢先の週刊誌報道である。
「何でだよ〜」というガッカリ感とともに、ああ、ときめく相手がいると、やっぱり女性は美しくなるのね、と妙に納得するものもあった。

S・Yと医師は、果たして一線を越えたのか越えていないのか、みたいなことでワイドショーなどは騒いでいたようだが、実際どこまでの関係になっていたかは、これはもう本人同士にしかわからないことである。ただ、これは私見だが、男女とも五十代ともなると、その辺の行為そのものへの欲求は、若い人たちほど露骨ではなくなるのではないだろうか。私は現在54歳で噂の医師とほぼ同い年なのだが、二十代や三十代のころの性的リビドーの強さと現在のそれとを比較してみると、その低下は圧倒的で、同じ人間でどうしてこうも変わるのかと首を傾げることが多い。生物学的に言っても、生殖年齢を過ぎれば性欲が減退するのは自然の摂理である。異性を求める気持ちは死ぬまで継続すると思うが、加齢とともに、プラトニックなものに回帰していくような気がする。したがって今回の件も、たしかに「恋人つなぎ」はしたかも知れないけれど、それはいわば双方の精神的な結びつき、親愛の情を示すものであり、ただちにドロドロの愛欲行為に直結するものではないように思われるのだ。もちろん、だからといって、既婚者同士がこういう形で密会していいということにはならない。いや実際のところ、瞬発的、火遊び的な激しい一夜の情事よりも、長期間(関係は7年におよぶという報道もあり)の深く静かな精神的結合の方が、双方の夫婦関係に大きなダメージをもたらすものとなるだろう。

S・Yと医師とは、これからどうしていくつもりなのか? それぞれの家庭は今後どうなっていくのか? いろいろと興味は尽きないが、私自身は独身で結婚歴もないため、配偶者以外を好きになる気持ちも、配偶者に裏切られる気持ちもリアルに想像することができない。この問題について論じるのはこの辺にした方がよさそうだ。

さて、この報道で私が興味をそそられたのは、大きく取り沙汰された別宅マンションでの密会ではなく、7月26日夜の「横浜の映画館デート」である。週刊誌によれば「準新作映画を上映する小さな映画館」とのこと。記事には「横浜・伊勢佐木町裏の路地に到着」などと書かれていたため、当初ネットなどでは、この映画館は伊勢佐木町の横浜ニューテアトルではないか、とささやかれていた。しかし、横浜ニューテアトルではその時期、2人が鑑賞したという『光をくれた人』は上映されていない。また、映画を見終わったあと、S・Yが先に劇場の階段を下り、入口でチラシを物色していたと書かれているが、横浜ニューテアトルは劇場が地下にあるので、映画を見終わったあとは、階段を上らなくてはいけない。
以上の2点から、映画館が横浜ニューテアトルでないことは明白である。となるとどこか。その時期に『光をくれた人』を上映していた横浜の映画館はひとつだけだったので、答えはすぐにわかった。それは、『濱マイク』シリーズの舞台になったことでも知られる「横浜日劇」のお隣りで旧「横浜名画座」、すなわち現在のシネマ・ジャック&ベティである。そう当たりをつけた上で例の「恋人つなぎ」写真を見直すと、たしかにチラシ置き場も入口外観も、シネマ・ジャック&ベティ以外の何物でもない。実は、拙作『鎌倉アカデミア 青の時代』が10月にこの劇場で上映されることになっており、最近も何度かここを訪ねて打ち合わせをしているので、チラシ置き場や入り口周辺などは、かなり見慣れた風景なのであった(ちなみに前作『影たちの祭り』は横浜ニューテアトルで上映されている)。

というわけで、私は今、自分の映画が公開される映画館が、時のスキャンダルの舞台となった事実、というより、あのS・Yが、何度となく足を向ける劇場であったという事実に、少なからず胸をときめかせている(チラシを物色するということは、次もまた観に来る意志があるということだ。できるなら『鎌倉アカデミア 青の時代』も観に来て欲しい!)。
最後に宣伝ぽくなってしまい恐縮だが、渦中のS・Yもお忍びで利用する横浜の映画館シネマ・ジャック&ベティにて、『鎌倉アカデミア 青の時代』が10/7〜14に公開となります。横浜近辺の皆様、どうぞお誘い合わせの上ご来場ください。
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2017年07月23日

イベントレポート完成!

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早いもので、『鎌倉アカデミア 青の時代』の東京公開から2ヵ月が過ぎ、大阪シネ・ヌーヴォ神戸アートビレッジセンターでの上映も無事終了しました。上映もひと段落といったところですが、また9月以降、名古屋シネマテーク横浜シネマ・ジャック&ベティなどで公開していきますのでどうぞお楽しみに。また、9/23には小田原映画祭でも上映が予定されています。

さて、大変大変遅くなってしまいましたが、新宿K's cinemaで公開中連日行ったイベントの模様をレポートにまとめましたので、徒然にお読みいただければ幸いです。劇場で回していたビデオを元にして書いていますが、逐語起こしではなく、適宜編集が加わっていることをご了解ください。また、臨場感を出す意味もあり、イベントが行われた日付でアップしてあります。

『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(1)ゲスト:勝田久、加藤茂雄、岩内克己(5/20)
『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(2)ゲスト:川久保潔、若林一郎(5/21)
『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(3)ゲスト:高橋寛人(5/22)
『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(4)ゲスト:山口正介(5/23)
『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(5)ゲスト:澤田晴菜(5/24)
『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(6)ゲスト:田中じゅうこう(5/25)
『鎌倉アカデミア 青の時代』イベントレポート(7)ゲスト:加藤茂雄、若林一郎(5/26)
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2017年06月29日

日下武史さんを偲ぶ会

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昨日(6/28)、「日下武史さんを偲ぶ会」に行ってきた。場所は浜松町から徒歩7〜8分の自由劇場。日下さんが出演する舞台を観に何度も通った場所だ。まさかそこで、最後のお別れをすることになろうとは…。

駅から劇場への道を歩くうちに、明らかにそれとわかる劇団関係の参列者の姿が増えていく。彼ら彼女らが一様にフォーマルな葬儀のいでたちであることに大きな不安を覚えた。会の案内には「平服にてお越しくださいますよう」と書いてあったが、それは建前で、やはりこういう場にはそれにふさわしい格好をしてくるもの、というのが暗黙の了解なのか。案内の言葉を真に受けて、思い切り平服(カジュアルシャツとチノパン)で来てしまった私は、劇場すぐそばの、海岸通りを右に折れる道に進むのをためらい、一度は通りを直進し、そのまま帰ってしまおうとした。
「こんなラフな格好で参列するのは、故人を偲ぶにはふさわしくないのでは? 何より、おごそかな会の調和を乱してしまうのでは?」
通りを行き過ぎたあと、道の片隅で立ち止まって5分弱あれこれ考えたが、やはりせっかく現地まで来たのだからと思い直し、外に出していたカジュアルシャツをチノパンの中に入れ直して劇場に向かった。

すでに一般参列時間の14時を回り、入り口は大勢の参列者でにぎわっている。とは言うものの、一般参列者は少なめで、大半が劇団もしくは芸能界関係者のように見えた。芳名用紙に記入し、それを受付で3ッ折のしおりと引き換えてもらって劇場の中へ。ステージ中央には花で形づくられた劇団四季の竪琴マーク、そしてそれに包み込まれるように、日下さんのご尊影が飾られていた。
参列者は一時客席で待機し、順番が来たら献花するという流れ。会場にはありし日の日下さんの名セリフの数々が流れている。10分弱くらいで順番が来て、白いカーネーションを手渡され、4人1組の列を作って献花。カーネーションを手向け、日下さんに最後のお別れをする。合掌の時間は、1分弱くらいだっただろうか。同じ列の人たちと無言のうちに呼吸を計り、そろって一礼し献花台を離れる(こういう「間合いを読む」という行為は日本人の得意技のように思う)。

こうして、おおやけの場でお別れをすませてしまうと、いよいよ日下さんが遠くに行ってしまったという感じがして、あらためて淋しさがこみあげる。

日下さんの思い出については、先月、こちらに書いたとおりだが、『火星のわが家』に出ていただいた1998年からわずか20年足らずで、劇団四季をめぐる状況も、ずいぶん変わってしまったものだと思う。あの年、四季はJR東日本の広大な敷地に「首都圏初の常設専用劇場」として、四季劇場[春]と[秋](場所は自由劇場の並び)を華々しく開場。同じころ、地方都市にも常設劇場が次々オープンし、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いであった。

それから19年。[春]と[秋]は、竹芝エリア再開発のためという理由で一時休館となり、一方、創立以来劇団のトップを務めた浅利慶太氏は、2014年に経営者の座を離れ新事務所を設立、そして、もうひとりの創立メンバー日下さんは、四季に籍を置いたまま、異国の地でひっそりと旅立った。

世の中に常なるものはないとはよく言われることだが、時の流れは静かで、そして残酷である。

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日下武史さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます。
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2017年05月18日

日下武史さんへ

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『火星のわが家』より。左から鈴木重子、日下武史、ちわきまゆみの各氏

日下武史さんが亡くなった。異国のスペインで、誤嚥性肺炎のために旅立ったという。享年86。

一昨日の帰宅途中、電車の液晶画面ニュースでそれを知った時、反射的に頭に浮かんできたのは、薄暗い病室のパイプベッドに寝かされ、臨終の時を待つ日下さんの姿だった。それは、私が監督した映画『火星のわが家』のラスト近くのワンシーンである。

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1998年8月に撮影されたその作品で、日下さんは、かつて火星の土地を分譲していた、風変わりな初老の科学ジャーナリスト・神山康平を演じていた。妻に先立たれ、一人で暮らす康平のもとに、歌手の次女・未知子(鈴木重子さん)がニューヨークから里帰りしてくるのだが、その数日後に康平は脳梗塞で倒れ、左半身麻痺となってしまう。康平の介護をめぐって未知子と姉・久仁子(ちわきまゆみさん)の意見が対立、居候の青年・透(堺雅人さん)も巻き込んで、家族のドラマが展開し始める。その後いろいろなエピソードをはさみ、最後に康平は風邪をこじらせ入院、免疫力が落ちているところへ緑膿菌に感染して、病院で息を引き取ってしまう(ネタバレ全開で失礼)。その撮影の時の情景が、妙に鮮やかに脳裏によみがえってきたのだ。

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もちろん、ドラマの中のことであるから、実際の日下さんはぴんぴんしていたのだが、ロケでお借りした埼玉の病院の個室が、なんともいえぬじめじめした陰鬱な雰囲気を醸しており(私の父が亡くなった病院の部屋とよく似ていた)、しかも隣室からは、実際に重病の方のうめき声が聞こえてきたりして、何だか本当に、日下さんを看取ろうとしているような重苦しい雰囲気に満ちていた。この時撮影した、臨終間際の康平(日下さん)が、それまで不仲だった久仁子の頭を軽く撫でる場面は、長回しの一発撮りだったのだが、本番中、見ていて不覚にも涙がこぼれそうになってしまった。自分の父の臨終の光景がよみがえったというのもあるが、何より、日下さんという人が、本当にあちらの世界に行ってしまうような淋しさが胸をよぎり、ただの映画の一場面とは思えなかったのである。

それから19年が過ぎて、本当に日下さんを見送る一文を草する日がきてしまった。自分の新作映画があさってから公開という、何ともバタバタした中で、大切な人の追悼文を綴らなければならないのが切ない。しかしこれだけは力説しておきたい。『火星のわが家』は日下武史さんの存在なくしては成立しなかった映画であった。準備稿のアテ書き(実際の俳優を想定してシナリオを書くこと)も日下さんのイメージだったし、最初に出演交渉したのも日下さんだった。どうしてそこまで日下さんに執着したのかといえば、まだ学生のころにNHKの舞台中継で観た「この生命誰のもの」に強い衝撃を受けたからである。この作品で、首から下が麻痺して寝たきりの主人公を演じたのが日下さんだった。ほぼ全身麻痺だから、身体で表現することはできず、武器となるのは表情とセリフだけ。しかしその鬼気迫る表情とナイフのように鋭いセリフ回しで、健常なほかの出演者を次々ねじ伏せていく。その迫力に圧倒され、いつか自分の映画に出てもらいたい、と熱望するようになっていった。その独特の容姿と、歯切れはいいがクセのある語り口は好みの分かれるところかも知れないが、私の中では日下武史という俳優は、その時から大変大きな存在として心に居座ることになったのである。

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晴れて『火星のわが家』に出演していただけることになり(交渉自体は思ったほど難航しなかった)、顔合わせを兼ねて某ホテルのティーラウンジで初めてお目にかかることになった。その時、私が青江舜二郎の息子だと名乗ると、
「ああ、青江先生にはまだ駆け出しのころ、劇評でずいぶん好意的に書いていただいて。今でも感謝しているんですよ」
と、思いがけないひとことが飛び出した。
「そうか、父も日下さんのことがお気に入りだったのか。やはり親子というのは好みが似るものなのだな」
と密かにほくそえみ、それからは、旧知の間柄のような気安さで接することができた。また、『火星のわが家』は全体の約半分が康平の家の場面なのだが、その撮影は、鎌倉アカデミア演劇科2期生の木口和夫さんの横浜のお宅を、約半月お借りして行った。その初日、木口さんはやって来た日下さんに、
「実はそちらの奥様とは鎌倉アカデミアの同窓なんですよ」
と明かし(日下さんの当時の奥様は演劇科の3期生で、木口さんの後輩にあたる)、日下さんもこの偶然にはびっくりしたらしく、ただでさえ大きな目を一層大きくされ、そこから一気にうちうちの関係、という雰囲気になっていった。

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そうしたいくつかの因縁もあってか、お芝居にはきわめてストイックに臨むと思われていた日下さんが、この映画では終始リラックスムードだったのがとても印象的だった。もちろん、演技に対してのこだわりは大変なもので、事前に総合病院のリハビリセンターを訪問して左半身麻痺の症状をつぶさに観察、ご自身でも理学療法士を相手に実演なさり(上写真参照)、回復の過程を5段階に分けて、このシーンではこの段階、と細かくシナリオに書き込むなど、実に緻密な演技プランを立てられていたのだが、現場では気難しい様子は一切なく、毎日うきうきと楽しげに木口宅に通っていらした。

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ロケの休憩時に駐車場にて

家に着いてパジャマに着替えると、もうすっかりその家の主人といった風情で、宅配便の業者が荷物を届けにきた時には玄関まで出ていって業者を驚かせたり、自室のベッドで寝ている場面の撮影中に、実際に眠ってしまったり(そのリアルな寝姿と寝息は、映画の中でそのまま使っている)、しまいには、ご自分の家にある「爪楊枝入れ」が、どうしても見当たらない、と一生懸命探してしまうほど、ご自宅と木口宅とが一体になってしまっていた。これを役作りというのは少し違うと思うが、とにかく日を追うごとに神山康平という役と日下武史という俳優は接近していき、撮影後半では、鈴木さん、ちわきさんとも親密の度を増し、3人が居間で談笑している姿などは、本当の親子にしか見えなくなっていた。日下さんは実際にはお子さんがいなかったので、ドラマの中にしろ、2人の娘に囲まれた生活空間というのは好ましいものだったのかも知れない。

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打ち上げにて、2人のまな娘と

撮影終了後に日下さんが、
「ぼくはこの現場で、生まれて初めて、生活をしながら仕事をしたよ。逆に言えば、仕事をしながら生活をしたということなのかな」
とつぶやいていたのが今でも忘れられない。それまでの劇団四季での日下さんの数々の芝居は、あくまでプロフェッショナルとしての厳然たる「仕事」だった。そこには日常生活の入り込む余地はなく、両者は完全に隔絶していたのだが、『火星のわが家』で初めて、日下さんは、生活(日常)と芝居(非日常)との混交を体験したのだという。天下の日下武史に、生まれて初めての体験をさせたということで、私も監督として、大変誇らしい気持ちになったものである。そして神山康平というキャラクターは、私のこれまで作った映画の中でも一番のお気に入りとなり、一方『火星のわが家』は、日下さんにとって、最後の映画出演作品となった。

先ほども書いたように『火星のわが家』は1998年の8月に撮影されたものだが、その同じ年に、劇団四季は首都圏初の常設専用劇場となる四季劇場[春][秋]を東京・浜松町に開場した(2003年には自由劇場も開場)。そして[春]では大型ミュージカル「ライオンキング」、[秋]や自由劇場では劇団創立初期の「オンディーヌ」「ユリディス」「アンチゴーヌ」といったストレートプレイが次々上演されていくことになる。日下さんは当然のごとく、そうした作品に主要な役でキャスティングされ、私もファンの一人として、かつて父も観たであろうそれらの芝居にいそいそと出かけたのであった。「オンディーヌ」における水界の王の冷徹な存在感、「ユリディス」における死神アンリの知的な狡猾さも記憶に刻まれているが、一番深い感銘を受けたのは「アンチゴーヌ」のクレオンだった。この芝居は大部分がアンチゴーヌとクレオンの二人芝居なのだが、死を覚悟したアンチゴーヌと、どうにかして彼女を助けたい(しかし表立ってそれをすることができない)クレオンとのセリフの応酬がまさに絶品で(これはもちろん戯曲そのものの力もあるが)、公演中涙がとまらず、終演後も興奮冷めやらず、翌日もう一度、母を誘って観にいったというほどの傑作舞台であった。こういう芝居に出会うと、演劇の感動に映画は遠くおよばない、としみじみ感じてしまうのである。ほかにも「スルース(探偵)」「ヴェニスの商人」「鹿鳴館」「エクウス(馬)」など、日下さん見たさに浜松町にはずいぶん通ったものだ。

実は日下さんとは、『火星のわが家』のあと、もう一度一緒に仕事をしている。それは2005年製作の青江舜二郎 生誕百年記念作品「水のほとり」(ボイスドラマ)で、この時は、主役の流離王を日下さん、摩訶南尊者を柳澤愼一さん、 釈迦族長老を川久保潔さんが演じている。吹替えファンの目線で見ると、「アンタッチャブル」のエリオット・ネスと「奥さまは魔女」のダーリン、そしてその義父のモリースの共演なわけで、なかなか豪華な顔ぶれだったと思う。

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「水のほとり」収録風景。左から川久保潔、日下武史、柳澤愼一の各氏

この時日下さんは、
「これはかなり難しい内容の歴史劇ですよ。いきなり本番じゃなくて、リハーサル日を別に設けて欲しいなあ」
と提案され、実際そのとおりにしたのだが、私としてもボイスドラマの演出は初めてだったので、そういう段階を踏んで丁寧に収録に臨めたのはとてもありがたかった。そして無事に収録が終了し、所属事務所から提示されたギャラを振り込んだ数日後、思いがけない現金書留を頂戴した。

そこには、振り込んだギャラがまるまる入っており、そして一枚の便箋が添えてあった。

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青江先生に若い頃、認めて頂いた事が忘れられません。
せめてもの気持ちです。どうぞお修め下さいますよう。
日下武史

さっぱりした文章の間に、日下さんの人柄がにじみ出ているようで、今も大切な私の宝物となっている。

劇団四季の「美女と野獣」札幌公演のあと、合流して一緒にお酒を飲んだ話など、思い出はまだまだあるが、日下さんについての回想はこの辺で終えるのが妥当だろう。

『火星のわが家』のラストは、鈴木重子さん演じる未知子と、堺雅人さん演じる透がベランダで空を見上げ、
「お父さん、もう着いたかなあ」
と、康平の魂が火星に到着したことをイメージするシーンで幕を下ろすのだが、日下さんの魂は、今、どのあたりを彷徨っているのだろう。

私も若いころ、日下さんと映画を作ったことが忘れられません。
どうぞごゆっくりお休みくださいますよう。
大嶋 拓
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2017年03月30日

『石巻片影』

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『石巻片影』(いしのまきへんえい)は写真家・橋本照嵩氏が故郷の石巻で撮影した写真と、その写真にインスパイアされた春風社代表の三浦衛氏の言葉から成り立つ「写真書籍」である(写真集とは少し違う)。先月発売され、内館牧子氏が「週刊朝日」誌上で取り上げるなど、すでに複数のメディアで好意的に紹介されている。

三浦衛氏については、このブログにもずいぶん登場しているから、今さら説明の必要もないだろう。2009年から親しくお付き合いさせていただき、今まで世に出た氏の著書は『出版は風まかせ おとぼけ社長奮闘記』を初めとして、ひととおり拝読している。しかし、今回の本は、正直言って、とても気が重かった。それは、『石巻片影』というタイトルでもわかるように、この本が、あの東日本大震災の被災地にカメラを向けたものだったからである。

2011年3月11日の震災から、この3月で丸6年を迎えたわけだが、未曾有の大災害は、いまだ終息も収束もしていない。原発事故の完全な収束には1,000年も10,000年もかかると言われているし、私自身、あの日を境に、それまでの安寧な生活のすべてが壊され、永遠に失われててしまったという思いから逃れることができない。

14時46分、音もなく静かに始まったわずかな揺れは、やがて大きなうねりとなって部屋の家具の位置を変え、机上のものを次々落下せしめた。永遠に続くように感じられたあの揺れは心底恐ろしかったし、その後テレビに映し出された大津波や原発の爆発なども、すべてが悪い夢のようで、2011年のあのあたりのことは、思い出すだけで目まいを催すほどである。そんなへたれ具合だから、被災地の人たちの苦しみ、絶望はこんなものではなかったと思いながらも、現実にしっかり向き合うということができなかった。知人の中には、時を移さず瓦礫撤去のボランティアに志願して現地に車を飛ばす人道精神にあふれた者もいたが、自分には到底真似のできない行為である。要するに私は、あの大震災を、自分の中で、必死に「なかったこと」にしようとしてきたのだ。このブログでも、2011年5月以降、震災のことにはほとんど触れていない。同じころに新聞の購読も辞め、テレビのニュースもなるべく見ないようにし、情報を意図的に遮断してきた。それが、言い知れぬ不安に対抗し、精神の崩壊を食い止めるための、せめてもの自己防衛だったのである。

それは現在でも続いていて、震災に関連したものは、できるだけ視野の外に置くよう務めてきた。そこへもってきて今回の『石巻片影』である。この一冊は私にとって、ある意味で踏絵であった。しかし、最近読んだ『向上心』(S・スマイルズ著)という本に「逃げてばかりいる人に安住の地≠ヘ永遠にない」という一文があり、それに励まされて、おそるおそるページをめくったのであったが…。

多くは語るまい。人間は有史以前から、こうして数え切れぬほど、自然の猛威に激しくやっつけられ、踏みにじられ、それでもどうにか、また立ち上がり、生の営みを続けて来たのである。私は災害というものの悲惨さばかりを脳内で増殖させてきていたが、現実はそれだけではないことをこの本で教えられた。最初の方のページこそ、心細げな少女や津波の爪跡など、目をつぶりたくなる写真が出てくるものの、後半に行くにつれ、人間の持つバイタリティのようなものが強く感じられ、同時に、生き残ったものが亡くなったものを弔う、鎮魂という行為の荘厳さに圧倒される。そして最後の章を飾るのは、4年ぶりとなる田植えの情景。苦しみに耐えたあとの安らぎ、新たな命を育むことのありがたさが自然に伝わってくる。

ああ、こういうことが、人間の歴史というものなのか、絶望には絶えず希望が付き添うから、人間はどんなに辛くとも、その歴史を紡ぐのを止めなかったのだということを、橋本氏の「むきだし」の写真と、その写真群に新たな命を吹き込もうとする三浦氏の文章との混淆が、静かに、そしてはっきりと教えてくれたのであった。

しかし、こうした激しいエネルギーのぶつかりあいは、想像以上の消耗をもたらすもののようだ。三浦氏はあとがきで、「写真を前にして一時間はあっという間、夜中にガバと起き、明かりをつけて写真に向かったことも一再ならず…」と、写真に「説明文ではない文」を添える作業が思いのほか難航したことを告白しているが、その余波は出版後にも及び、あの元気すぎるぐらいだった三浦氏が、ここ最近まで、1,000年ならぬ10年に一度の体調不良の波をかぶっていたのである(春の訪れとともに本来の健康を取り戻されつつあるのは喜ばしい限り)。

私がひたすら震災の恐怖に脅え、そこから目を背けている6年の間に、三浦氏は、おのれの健康を犠牲にしながらも、それを確かに見据え、こうして心を動かす1冊の本を上梓された。どちらが「表現」にかかわる者としてふさわしい道であるかは、もはや論を待たないであろう。

間もなく「最も残酷な月」(同書4ページより)と呼ばれる4月がやってくるが、この『石巻片影』のおかげで、私もやっと、あの震災を現実と認識し、そこから一歩を踏み出す決心がついた気がする。

石巻片影 -
石巻片影
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2017年01月13日

謹賀新年

気がつけば1月もなかば。正月気分もすっかり消えてしまいましたが、遅ればせながら、今年もよろしくお願いいたします。

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さて、新春にふさわしく、縁起のいい鶴・亀・海老の細工をご覧いただいたが、なんとこれらはすべて正絹(しょうけん)の紐で作られているとのこと。日本の伝統的な結び方を駆使して制作されたそうだ。

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昨年末に、熱海の起雲閣で展示されているものを拝見したのだが、鎧兜や雛人形、四季折々の花など多くの作品があり、いずれも形、色艶ともに美しい。何より、多彩な紐の結び方を作品制作に「結び」つけたその着想に脱帽させられた。制作者の岩澤文子さんの書かれた挨拶文いわく、日本において「紐を結ぶ」という文化は、神事や仏事などの宗教的儀式から発生し、それが公家社会、武家社会の中で発達していった。現代では「結ぶ」という行為は少なくなったが、今日まで伝承されてきた結びの文化には、日本人の精神性や先人の計りしれない知恵、美意識などが内包されており、感心するばかりである とのこと。そこから「ひも遊び」と称する作品づくりが始まったということらしいが、伝統的な「形」が新たな「姿」へと結実した見事な作品郡を間近に見ることができ、とても豊かな気分になった。

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岩澤文子・山田妙子 二人のひも遊び展(1月29日まで)展覧会の詳細はこちら

岩澤さんは着付けと礼法の指導教室を30年以上やって来られた方なので、着付けを通して「結ぶ」という行為には親しみが深いのだろう。着付けといえば、今年初夏に公開の映画『鎌倉アカデミア 青の時代』の中に、菊池寛の「父帰る」の舞台を再現した場面があるのだが、その収録の際、女性出演者の帯の結び方について、あれこれ調べ、思案したことを思い出した。何しろ、思った以上に種類が多いのだ。(参考サイト:帯の結び方

女性の帯の結び方といえば、今では「お太鼓結び」が一般的なようだが、実はその歴史は意外に浅く、江戸時代末期に深川の芸者が考案し、明治40年(1907年)以降、庶民にも広まったものだという。そして「父帰る」の時代設定も、まさにそれと同時期の明治40年(1907年)ごろ。とすれば、関東圏ならともかく、作品の舞台となる南海道の小都市には、まだ「お太鼓」は普及していなかったと考えるのが自然ではないのか。…という判断で、今回の再現映像では、もっと以前から普及していた「貝の口」という結び方を採用することにした。その時にも、「結ぶ」という日本文化の繊細さ、奥深さを垣間見た気がしたものである。

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「父帰る」舞台再現場面より。左の女性の帯の結びが「貝の口」
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2016年09月30日

窓辺のあいつ

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しばらく前から、昼夜を問わず、わが家のキッチンの窓辺にたたずむ「あいつ」。

どうやらヤモリのようである。ヤモリは「家を守る」と書くとおり、昔から縁起のいい生き物だという。実際、蚊や蝿などの害虫を食べてくれるという利点もあるらしい。

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たしかに夜などは、部屋の明かりに誘われて窓辺に集まってくる虫を、一瞬にしてパクリとやるシーンを何度か目撃した。

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一方、昼間はシルエットになるせいか、そのフォルムは造形物のような美しさ(尻尾のカールが絶品!)。

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しかし、いつも窓に貼り付いているせいで、見るのは決まってお腹側、彼(彼女?)の背中側というか、いわゆる一般的な全身像は、まだ一度も見たことがないのであった。

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こちらは『仮面ライダー』に登場したヤモゲラス(たのしい幼稚園新案カードより)。こういう感じで天井にでも貼り付いててくれると全体がよくわかるのだが…。
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2016年07月29日

夏のはじめに

夏のはじめのこんな時分に、あの人は生まれてきたのだなあ、と日が落ちる方角を見ながら思います。今さら、亡くなった人のことについてあれこれ語る必要もないのですが、今朝、このブログのアクセス解析を見たら、「以倉いずみ」さんのお名前で検索してきた方がひとりならずいらっしゃいました。それなら、1年に1度、生まれた日くらいは、彼女のことを思い出してもバチは当たらないだろうと考え直し、手持ちの画像を紹介しつつ彼女を偲びたいと思います。

【関連記事】
 ある訃報(2009年9月9日)
 以倉いずみさんを偲ぶ(2014年7月29日)

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上の写真は、完全に初公開のスナップ。私が初めて撮った以倉さんの写真です。当時の彼女は、某俳優事務所のマネージャー兼女優という立場でしたが、あるご縁からホームページのギャラリー用写真のモデルをお願いすることになり、その打ち合わせで渋谷でお会いした際に写したものです。(2003年3月19日)

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その10日ほど後、鎌倉まで出向いてギャラリー用に撮った2枚。表情の振り幅の大きさに驚かされました。(2003年3月29日)

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映画「いくつもの、ひとりの朝」の衣装合わせ。(2004年3月23日)

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朗読劇「崖」の本番直前、楽屋にて。共演の八幡朋昭氏と。(2005年7月9日)

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以倉さんは、実は結構いろいろなCMにも出ています。上の画像は、2004年オンエアのユザワヤのCMより。旦那と二人でリビングルームに「ベルギー製の素敵なカーテン」を吊るす若奥様の役でした。

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https://www.youtube.com/watch?v=YBG2ANg8ki4

こちらは、最近youtubeで発見した、森永チョコボールのCM。小学生の母親役です。2008年にアップロードされたものですが、オンエアは2007年だったと思います。

これ以外にも2005年ごろ、四国化成の塗り壁のCMに、赤ちゃんを抱いた母親の役で出演していました。「健康や環境にやさしい」ということをアピールするため、母子ともども生まれたままの姿(!)という、ちょっとドキドキするビジュアルでした(こちらはスチールも動画も手元にありません)。

このように、CMなどでは若奥様や若い母親を何度も演じた彼女でしたが、残念ながら現実においては、そうした姿を私たちに見せることなく旅立っていったのでした。

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2016年07月19日

映画『彦とベガ』トークショーレポート

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昨日(7/18)、少し前に告知した、映画『彦とベガ』のトークショーに参加して参りましたので、簡単にそのご報告を。まだ映画をご覧になっていない方のために、ネタバレ部分は白文字にしてあります。

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『彦とベガ』は、認知症の妻(原知佐子)と、彼女を献身的に介護する夫(川津祐介)、そしてその家に訪問介護のため訪れる若い男性(柳谷一成)の織り成す、ひと夏の物語です。脚本・監督は、現役の介護福祉士でもある谷口未央さん。

三連休の最終日、上映館のK's cinemaはほぼ満席。私は去年の夏に一度拝見していましたが、細かいところは記憶が曖昧なため、確認も含めて、今一度客席で鑑賞しました。

皆さん、本当に静かに、真剣にご覧になっていて、上映中は物音ひとつしません。携帯の着信音など、絶対に鳴らないという空気です。こういうおとなしい、日常を切り取った映画の場合、15分を過ぎたくらいから寝息を立て始める不心得者もいたりするのですが、今回はそういう方も皆無でした。それくらいお客様を劇中に引き込んで、ラストまで一気に見せて(魅せて)しまう映画を、谷口未央さんが、映画製作の勉強を始めてからわずか6年で作ったことに心から感嘆しました。

念のため申し添えますと、谷口さんは、2008年4月に関西から上京して、映画監督になるべく、ニューシネマワークショップという映画学校のクリエイターコース「ベーシック」に通い始めるのですが、その時の担当講師が私でした。そういうわけで、前回このブログで告知した時は、偉そうに「教え子」などと書いたのですが、実際には基本的なシナリオの書き方の講義と、個別に書いてきたシナリオの講評、出来上がった短編作品の講評をしたくらいで、手取り足取り映画製作について教えたわけではまったくありません。しかも、その時の講評では、私は彼女の短編について、割と辛口のことを言ったらしいですし…(双方とも、あまり具体的に覚えていないのです)。

そんなことを前フリに、トークは始まったのでした。

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『彦とベガ』のワンシーン

介護をめぐる家族の話、ベテラン俳優相手の演出の工夫、陰影を生かした画面作り、音楽に頼らないストイックな仕上げ、等々、製作準備から完成まで、話は多岐に及びましたが、実はこれらの点は、私がかつて製作した『火星のわが家』と通じるものがあり、また、『彦とベガ』同様『火星のわが家』にも天体観測のシーンが登場し、そこで彦(アルタイル)とベガの話が出てくるなど、思いのほか共通点が多く(製作した時の年齢も三十代なかばとほぼ同じ)、その不思議な「相似」で話は思いのほか盛り上がりました。ただ、お客様は『彦とベガ』はご覧になっていても、『火星のわが家』は見てらっしゃらないので、そのあたりは多少加減しましたが…。それから、実は『火星のわが家』も、初めは一家の主人が脳梗塞で倒れて認知症になってしまうという設定でした。これは実際の私の父のケースを元に最初の脚本を書いたのですが、やはり当事者の目線だと辛すぎて映像化は無理だと判断し、左半身麻痺という設定に変更していたのです。それに対し、谷口さんのご両親はいまだご健在で、今回の『彦とベガ』は、純粋に介護士という第三者の視点で発想したとのこと。だからこそ、認知症としっかり向き合うことができ、暖かさと客観性を併せ持った映画が作れたのでしょう。

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『火星のわが家』のワンシーン

トークの後半では、認知症の病態(ここがどこか、今がいつか、といった見当識の障害は進んでも、善悪の判断や感情は比較的失われない)や、認知症をめぐる周囲のケアのあり方などの話も出ました。家族にとっては、自分が敬愛していた配偶者や親が変貌していく過程を見るのは忍びないもので、ついつい否定的にとらえてしまうのですが、介護職は、それを「肯定」するところから始まる、という谷口さんの言葉には剋目させられました。しかし、それなら介護のプロに任せれば万事解決かといういうと、そういう簡単なものでもなく、介護も映画製作と同じ、正解のない永い永い営みであると痛感させられました。また、『彦とベガ』のラストについて、これはかなり多義的な解釈ができるもののように思えたのですが、谷口さんに言わせると、「お互いがお互いを誰だかわからなくなっても、すぐそばにいる―そういう夫婦の姿を見て欲しかったし、見たかった」とのことです。

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トークは25分ほどでしたが、谷口さんも私もそれでは話し足らず、劇場から歩いて数分のレトロな喫茶店に場所を移し、後半は撮影を担当した佐藤遊さんも加わって、日が落ちるころまで、お互いの作品やこれからの活動のことなどを語り合いました。

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左から私、監督の谷口未央さん、そして特別ゲストのエスパー伊東…ではなく撮影の佐藤遊さん

『彦とベガ』は22日、今週の金曜日までの上映です。まだご覧になっていない方は、だまされたと思って、是非ご覧になってみて下さい。今や誰にとっても他人事ではないテーマを、声高にならず、押しつけがましくもなく、ただ、真摯に、前向きに表現しています。

いや、こういったテーマ云々はひとまず置いて、純粋に1本の映画としても、大変見どころの多い作品です。私などは、川津祐介氏といえば「ワイルド7」における草波のハードボイルドなイメージが強かったので、氏がこれほど内面の繊細な演技に長けているとは予想外でした。愛する妻が、訪問介護の男を若い時の夫だと誤認して、次第になついていく様子を見つめる表情はあまりに切なく、私は何度も落涙を禁じ得ませんでした。そしてまた、かの「赤い疑惑」では三浦友和の母として、「赤い衝撃」では義理の姉として、山口百恵をいびりまくった名ヒール・原知佐子氏が、「可愛い?」を連呼する、実際可愛い認知症の老婦人を演じ(というより、その人生を生きている感じ)、生涯初めて(!)のヌードシーンを(2度も)披露。これだけでもびっくりですが、さらにそれが一瞬にして16歳の少女の裸身に変貌するという禁断のエロティシズム! まさに演出と編集の妙で、ここらあたりには谷口さんの隠れた変態性(?)がにじみ出ており見逃せません。とにかく、上映日はあと3日しか残っていませんので、どういう動機づけでも結構ですから、劇場にお越しいただければと思います。

映画監督というのは実に因果な仕事で、長い間苦労してやっと完成した作品をお客様に見ていただいて、ひとこと「よかった」「面白かった」というお言葉をいただく時以外、人生の喜びはないのです。かつての「教え子」が人生の時間の大半を捧げて作った第一回の劇場公開作品です。重ねてよろしくお願い申し上げます。

『彦とベガ』(2014年・64分)
7月22日(金)まで。連日13:00〜
劇場:新宿K's cinema

■映画『彦とベガ』公式サイト
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2016年04月07日

ダイヤモンド富士

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昨日(4/6)、鎌倉・材木座海岸で遭遇した、富士山頂に沈む夕日。少し右にずれていますし、また雲がかかっていたため太陽の形がはっきりわかりませんが、それでも、なかなか印象的な情景だと思います。通称「ダイヤモンド富士」というそうです。

富士山頂から太陽が昇る瞬間と夕日が沈む瞬間に、まるでダイヤモンドが輝くような光景が見られることがあり、この現象をダイヤモンド富士といいます。富士山と光輝く太陽が織りなす光景は、まさに自然の芸術といえます。
富士山が見える地域なら、どこからでもダイヤモンド富士が見られるというわけではありません。富士山が東か西の方向に見える場所で、気象条件がよければ、年に2回、ダイヤモンド富士が見ることが出来ます。

(国土交通省関東地方整備局ホームページ「ダイヤモンド富士」より)

上のサイトによると、茅ヶ崎海岸周辺=4月4日、鎌倉海浜公園稲村ヶ崎地区=4月4〜5日、逗子海岸=4月5〜6日が、春の観測可能日となっていて、まさに昨日は、湘南地区における数少ないシャッターチャンスの日だったというわけです。しかし、私はそういうことはまったく頭にありませんでした。ただ単に、久々に晴れ間がのぞいたので、「桜が散ってしまわないうちに、鎌倉アカデミアの最初の校舎である光明寺の春の風景を撮影しておこう」と鎌倉まで出かけただけです。

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こちらが光明寺の桜。すでに葉桜になりかけている木もありました。

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そしてその帰り、「せっかくだから、海に沈む夕日も撮っておこうか」と光明寺近くの海岸に出て、日没までビデオカメラを回し続けました。つまり、上の画像(動画をキャプチャしたもの)を撮影した時点では、私は「ダイヤモンド富士」なる言葉も、その意味するところもまったく知りませんでした。

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では、どこでそれを知ったのかというと、撮影を終え、光明寺前のバス停に向かったところ、時刻は18時16分少し前で、すでにバスの到着時刻になろうとしていましたが、一向に来る気配がありません。そこで、先に並んでいた初老の紳士に、
「16分のバスはもう行ってしまいましたか」
と聞くと、
「まだ来ていないと思いますよ。遅れているんじゃないかな」
との返事。会話は一旦そこで途切れましたが、彼は私が手にしていたビデオカメラに目を留め、
「これで撮影していたんですか? よく撮れましたか?」
と聞いてきました。続いて、自分は光明寺の上の展望台から狙っていたのだが、あまりよく撮れなかった、年に2回しかないチャンスなのに残念だった、などと語り始め、その話に耳を傾けるうち、昨日がこのエリアで「ダイヤモンド富士」をおがめる貴重な日だったと知ったわけです。その紳士とは、その後もバスの中で、写真の話にいろいろ花が咲き、鎌倉の駅で別れました。

そんないきさつですから、昨日の夕方「ダイヤモンド富士」と対面したのはまったくの偶然ですし、また、バス停で偶然この紳士に話しかけなければ、私は自分が撮影した映像を、今も「ダイヤモンド富士」とは知らないままでいたことでしょう。2つの奇妙な偶然によって、珍しいものに巡り合えた、53歳の誕生日でした。
posted by taku at 14:41| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする