2019年08月03日

『浜の記憶』東京公開終了

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映画『浜の記憶』は、7月27日(土)に東京・新宿ケイズシネマで封切りとなり、昨日、8月2日(金)で、つつがなく公開を終了しました。
暑い中ご来場くださった皆様、本当にありがとうございました。

……というわけで、今日は久々に自宅でのんびり。昨日も、おとといも、その前も……、初日から最終日まで、日替わりでイベントを行ったので、1週間連続、いや、厳密に言うと公開日前日の7月26日も、劇場に展示パネルやプレゼント用の貝殻などを納品しに行ったので、実に8日連続で新宿に通ったことになる。いやあ、毎日暑かった!

8時までには起床し、映画を観る時は10時20分くらいまでに、観ない時は11時10分くらいまでに劇場に行くという、まるで勤め人のような毎日。それが、公開が終わった今は、自宅でまったりとYouTubeで「世界忍者戦ジライヤ」などをながめている。何の余韻もない。昨日まで映画を公開していたのが嘘のようだ。加藤茂雄さんの言葉を借りるなら、「真夏の夜の夢」から醒めた後ということになるだろうか。

こういうのは毎度経験しているので今さら驚きはないが、私が作るような比較的小規模な映画の公開というのは本当に何年かに一度のお祭りのようなもので、公開中は日常と明らかに異なる「ハレ」の時間が流れる。
連日10時30分から、52分の映画(本編)の上映。引き続き、20〜30分程度の舞台挨拶やトークなどのイベントを行い、それが終わるとロビーで、来てくれたお客様との歓談のひととき。あわただしくいろいろな人が眼前に現れ、去っていく。初めてお会いする方もいれば、懐かしい顔もある。写真撮影や、時にはサインを求められることもあり、そして、数十分もすれば、ロビーは空になる。関係者一同ひと息つき、そのまま解散か、あるいは軽く昼食を取って解散。スマホを持っていない私は、あわただしく自宅に戻ってPC前で待機、助監督の内田裕実さんらが撮影したイベント写真の圧縮データを受け取ると、それを解凍し、画像を数点選んでリサイズ。しかるのち、ツイッターでその日のイベントの報告、および翌日のイベント告知を行い明日に備える。それを約1週間繰り返す。いやあ、われながらよくがんばりました。

では、あらためて、この7日間のイベントをさくさく振り返ってみると……

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7/27は初日舞台挨拶。加藤茂雄さん、宮崎勇希さん、渡辺梓さんと私。やはり初日は緊張しますね。女優さんお二人は封切りにふさわしい艶やかな出で立ちでした。宮崎さんの若々しいきらめきと渡辺さんの成熟した美貌、どちらも目に焼きついて、もう……。

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特撮好きの私としては、やはりマジマザーとご一緒できたという喜びが大きかったです。ロビーはさながら撮影会の賑わい。

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7/28はトークショー【東宝特撮の舞台裏】。「特撮秘宝」などで健筆をふるわれているフリー編集者・友井健人さんを聞き手に、加藤茂雄さんが出演した特撮作品の舞台裏や本多猪四郎監督のエピソードなどをうかがいました。会場には何と、ひし美ゆり子さんのお姿も!

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いやあ、マジマザーの次はアンヌですよ!! やっぱり長いこと生きてるとこういうこともあるんですねえ(わからない方のために書いておくと、マジマザーは『魔法戦隊マジレンジャー』に、アンヌは『ウルトラセブン』に登場します)。

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7/29は未公開映像特別上映。宮崎勇希さんと私の生コメンタリー付きでお届け。撮影前の読み合わせ風景、まぼろしの海水浴シーン、クライマックス&エンドロールの舞台裏、クランクアップ直後の主演2人のインタビュー、等々、DVD発売にでもならない限り、もう見ることのできないマル秘映像の数々でした。

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7/30はトークショー【黒澤明監督との40年】。『生きる』『七人の侍』から『まあだだよ』までの撮影現場を振り返りつつ、加藤茂雄さんに知られざる巨匠との関わりを語っていただきました。この日は、加藤さんの半生が7ページにわたって掲載された『女性自身』も発売に。(上の写真は7/28のものです)

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7/31はトークショー【新人女優は見た!】。宮崎勇希さんが、オーディションを受けたきっかけ、加藤さんの初対面の印象、撮影現場でのエピソード、私もうなずく名言「本番は3テイクまで」など、作品を通じて素直な思いを語ってくれました。宮崎さんはこの日も、お気に入りのライトブルーの衣裳で登壇。去年の撮影時よりずいぶん大人っぽくなりましたね。

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8/1はトークショー【94歳現役俳優が語る健康長寿の秘訣】。読んで字の如くのテーマですが、加藤茂雄さんは映画の話をされたかったようで、後半は『大地の子守歌』での原田美枝子さんとのエピソードも。ちなみに就寝や起床時間は適当で、昼寝もたっぷりするそうです。

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8/2は最終日舞台挨拶。加藤茂雄さん、宮崎勇希さんと私。初日からだいぶ回数をこなしたおかげで、一番まとまりがよかったように思います。エンドロール映像が、宮崎さんのインスピレーションから生まれた、という意外な事実も明らかに。この日のロビーも、サイン書きや写真撮影などで賑わいました。

以上ですべてのイベントが終了。

最終日は、もう翌日の心配がないので、お客様を送り出したあと、軽い打ち上げを兼ねて、関係者7人(加藤さんとお嬢さん、宮崎さん、内田さん、友井さん、鎌倉市中央図書館の平田恵美さん、私)で、伊勢丹のレストラン街までおそばを食べに行く。

ひとときの解放感。連日の猛暑の影響もあってか、動員数は目標に少し届かなかったものの、ご覧になったお客様の反応はおおむね好評だったようで、関係者の表情もなごやかだった。
主演の加藤さん、ヒロインの宮崎さん、そして作品をサポートしてくれたスタッフ、協力者諸氏、本当にお疲れ様でした。

現地解散ののち、劇場スタッフに最後の御挨拶をするためケイズシネマに戻ってみると、あら不思議、すでにロビーのポスターは明日から上映の作品に貼り替えられ、さっきまで置いてあったはずのチラシも消えている。これまでのことがすべて夢だったように感じられ、現実に引き戻される瞬間だが、この、一切余韻を引かないところが、劇場公開の潔さのような気もする。

ケイズシネマで映画を公開するのは、『影たちの祭り』(2013年)、『鎌倉アカデミア 青の時代』(2017年)に続き、この『浜の記憶』で3本目となるが、いつもこんな感じだった。終わってしまうと、実にあっけない。しかし、空虚な思いにとらわれているわけではない。支配人のSさん、副支配人のIさん、No.3のNさん、そして受付や映写担当の方に至るまで、このケイズシネマは人員の入れ替えがほとんどなく、内装はリニューアルしても、スタッフの顔ぶれは10年以上、ほとんど変わっていない。受付のAさんは、「20歳も30歳もここで迎えました」と笑う。だから、ここのスタッフ諸氏の大多数とはもう3回目のお付き合いということになる。

さらに言うなら、S支配人は、今から24年前、あの中野武蔵野ホールの番組担当者で、私の長編第1作『カナカナ』の上映を決めてくれた人である。そしてその『カナカナ』を一般客として中野で観たYさんが、現在もケイズの受付で働いているという。24年前といえば、宮崎勇希さんが生まれた年である。大変な歳月である。

それで何が言いたいかと言えば、作品ひとつひとつは終わっていくが、人のつながりはどこかで続いていくということだ。もちろん、先はどうなるかわからないが、映画の製作や公開を通して、人と人とがつながり得るという事実を、昔よりは意識するようになってきたと思う。以前は、一作品終わるごとに、故意にすべてをリセットしていたのだが、それだと自分が細るだけだと、いつのころからか感じるようになってきたのだ。まあ、それだけ自分も年を取ったということだろうか。

何だかまとまりのない文章ですが、公開終了翌日の所感でした。

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撮影:内田裕実 友井健人 宮崎勇希
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2019年04月30日

平成の終わりに

今日で平成も終わりである。節目の日でもあるので、この30年の映画製作の変遷を、個人の目線でざっくり振り返ってみたいと思う。

平成元年は1989年。今からちょうど30年前だ。当時の自分はまだ、映画製作は8mmフィルムで行っていたが、すでに8mmカメラは生産が終了しており、ハードとして過去のものになりつつあったため、そのころ台頭してきていたS-VHS-Cのビデオカメラを初めて購入したのがこの年だった。そのカメラで撮ったのが、『とおい渚』という40分の作品。鎌倉の海でロケを行った。この時もほぼノースタッフ。『浜の記憶』とあまり変わっていない。ただ、その当時のS-VHS-Cの画質はとうてい劇場で公開できるクオリティではなく、この作品も、S-VHSで完パケしたあと、ほとんど人に見せることもなく終わった。そのころ劇場で公開するには、最低でも16mmフィルムで撮影することが必要で、だから、1993年(平成5年)に撮った『カナカナ』も、1998年(平成10年)に撮った『火星のわが家』も、16mmで撮影している(『火星のわが家』は、スーパー16mmで撮影したあと35mmにブローアップ)。16mmフィルムカメラは専門性が高いので、自分がカメラを回すことは難しく、プロのカメラマンにお願いした。

ただ、この2作品のあいだ、1995年(平成7年)にソニーがDCR-VX1000というデジタルビデオカメラを発売し、これが、デジタルシネマの普及にひと役買ったように思う。自分も、1996年(平成8年)にこのカメラを購入(当時、16万円くらいだった)、同じ年に撮った作品は、ヨコシネディーアイエーでデジタルキネコ(ビデオ映像を16mmフィルムに変換すること)を行って、劇場公開の可能性を模索したりした。

2000年(平成12年)以降はもっぱらこのカメラで作品を撮り、劇場公開ではなくオリジナルビデオ作品として発表した。そのうち、世はデジタルシネマが本格化し、2007年(平成19年)の『凍える鏡』はパナソニックが開発したP2カード記録方式のハイビジョンカメラAG-HVX200で撮影している。仕上げもパソコンで行い、上映はHDカムで行った。このあたりから、フィルムで撮らない映画が増えてくる。

そして現在、映画用フィルムの国内生産は終了し、ほぼすべての映画はフィルムで撮られなくなった。自分が最近劇場で公開した『影たちの祭り』(2013・平成25年)、『鎌倉アカデミア 青の時代』(2017・平成29年)、この夏公開する『浜の記憶』は、いずれもハンディタイプのハイビジョンカメラで撮影したもので、カメラも軽く操作も簡単なため、カメラマンのお世話になることなく、すべて自分でこなしている。はるか昔、中学、高校、大学と8mmフィルムで作品を撮ったころに回帰している感じだ。

平成の30年は、映画がフィルムという記録媒体から完全に訣別した歳月だったといえると思う。メディアがフィルムからビデオへと変化したことで、パーソナル化が進み、手軽に映画作品が作れるようになったのはたしかだが、その反面、画面がどこか日常的になり、迫力や風格、虚構性が乏しくなってきた感は否めない。

明日から新しい元号が始まる。映画はこの先、どのようなメディアと混交し、いかなる変遷、発展をとげていくのだろう。

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2019年04月23日

追悼 川久保潔さん

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声優の川久保潔さんが16日に亡くなった。享年89。

川久保さんとの付き合いはとても長い。物心ついたころからであるから50年以上だろうか。鎌倉アカデミア演劇科の第2期生で、私の父・青江舜二郎の教え子。学校がなくなったあとも、数人の教え子たちが、年に何回かわが家に遊びに来ていて、それは青江が病気で倒れるまで続いたが、その中に川久保さんの顔もあった。川久保さんの低音の声はひときわよく通り、その笑い声が家じゅうに響きわたっていたのをよく覚えている。

当時はテレビが家庭での娯楽の王様。わが家でもゴールデンタイムはほとんどテレビ三昧だった。その時見ていたテレビのアニメや洋画の吹き替えなどで思いがけず川久保さんの声を聴くと、家族で「ああ、出た!」と、大いに盛り上がったものである。あまり特撮ものには出なかった川久保さんだが、「ロボット刑事」(1973)では敵組織・バドーの首領の声をやっている。そのころ家に遊びにきた時には、私のカセットテレコに、
「今週はスプリングマンと、ロッカーマンが出てくるよ」などと首領の声のトーンで語ってくれたこともある。

時は流れて1983年。青江が亡くなった時には通夜、葬儀ともに駆けつけ、焼き場から骨が戻った際は、
「あの青江先生が、こんなに小さくなってしまうんだからなあ…」
と、祭壇に向かってつぶやいていた姿も忘れられない。

それから10年後の1993年に私が『カナカナ』という最初の劇映画を撮った時は、ヒロインの父親役で、ノーギャラで出演してくれたり、さらに、2004年に録音した、青江の生誕100年記念のボイスドラマ『水のほとり』でも、日下武史さん、柳澤愼一さんと絶品の声の芝居を聴かせてくれた。

2015年の暮れには『鎌倉アカデミア 青の時代』にインタビュー出演という形で出ていただき、当時のエピソードを2時間以上お話ししてくださった。さらに、この映画が公開された一昨年の5月には、アフタートークのゲストとして、若林一郎さんとともにK's cinemaのステージにも登壇してくれている(上写真)。ステージでは元気を装っていらしたが、この時にはすでにお痩せになっており、終わったあと楽屋で、「実は、この間、肺がんのステージ4と宣告されてね…」と、声を落とされていた。いきなりの話でこちらも驚いたが、なんと声をかけてよいのかわからなかった。そばにいた若林さんは、「まあ、年寄りのがんは進行も遅いから…」と慰めていらしたのだが…。

令和の改元を待たずして、いろいろな人がいなくなっていく。実に淋しいものである。
謹んで、川久保潔さんのご冥福をお祈りいたします。
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2019年02月02日

三溪園を歩く

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先週末、横浜の三溪園にふらりと出かけてみました。神奈川県民なので、名前だけは以前から知っていましたが、訪ねたのはこれが初めて。近所でもまだまだ知らないところは多いもので…。
三溪園は、京都、和歌山、岐阜などから移築された建築物が広大な敷地に建ち並ぶ、テーマパークの元祖のような庭園。成り立ちや各建築物の説明を書くのはかなり手間がかかりそうなので、詳細は以下のサイトをご参照ください(手抜きですみません)。

□三溪園 公式サイト

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すでに梅がかなり咲いていました。

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こうして写真を並べてみると、京都かどこかに出かけた気分。関東にいながらにして、そこそこのトリップ感が味わえます。

若いころは、こういう庭園というものはまったく興味が沸かなかったのですが、年を重ねるうちに、じわじわ魅かれるようになるんですね。面白いものです。

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花の季節はさぞや艶やかで、目を楽しませる要素も多いのでしょうが、こういう冬枯れの景色も、建物を味わうには適しているような気がします。

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この三重塔は京都の廃寺から移築したもので、関東最古だとか。

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2月9日から3月3日までは、春の到来を告げる「観梅会」が開かれ、この期間は「初音茶屋」で麦湯がふるまわれるとのこと(この麦湯というのは麦茶と同じものでしょうか?)。

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お近くの方は出かけてみてはいかがでしょう。初めてだと、バス停で降りてから少し迷うかも知れませんが…。

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こちらは、帰りに見かけた亀の子石神社。

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案内板を読んでも今ひとつ由来が飲み込めません。しかしながら、昨年暮れにひどい風邪を引き、それ以来ずっと喉の調子が悪い私は、お賽銭を100円入れて、そばに置いてあった「亀の子たわし」で喉をこすってきました。どうか霊験あらたかでありますよう…。

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神社の成り立ちなどに関してはこちらをどうぞ。
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2019年01月21日

さらば竜宮城

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□「90年間、ありがとう」 片瀬江ノ島駅駅舎 1月に解体開始(神奈川新聞)

昨日、上の記事をネットで見つけてビックリ。あの慣れ親しんだ竜宮城型の駅舎が、今月中に解体されてしまうとは! あわててコンデジ片手に江ノ島まで出向き、間もなく姿を消す駅舎の姿をカメラに収めてきた。

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この駅舎ができたのは1929年(昭和4年)。世界恐慌の起きた年だ。日本はすでにその前々年に金融恐慌が起きており、当時はすさまじい不景気風が吹き荒れていたはず。そんな時代によくこのような、遊び心のある駅舎が作られたものだと感心する。

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竜宮城をイメージしたそうだが、もちろん実際にそれを見た者はいないので、設計者はいろいろな神社仏閣を参考にしたのだろう。

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壁に掲示されていた1971年(昭和46年)の写真。右側の建物も、駅舎を模した形状である。ちなみに1971年というのは、「仮面ライダー」の放送が始まった年で私は小学2年だった。

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1994年(平成6年)、「鉄道の日」制定を記念して選ばれた「関東の駅百選」にも名を連ねているという。

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多少の痛みは散見されるものの、早急に建て替えが必要とは思えない。

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90年の歴史を積み上げるには、当り前のことだが90年の歳月が必要だ。1年や2年では決してできない。しかし、90年の歴史を背負った建築物を壊すのは、それこそ一瞬だ。90年という時間が、一瞬で、無に帰する。これまで多くの人たちに愛され、親しまれ、その上、現状でもまだ充分に使えるものを、目先の利得のために、躊躇なくぶち壊す。どうにも納得の行かない話である。

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しかし、駅舎の建て替えはすでに規定路線なので、四の五の言っても始まらない。

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この張り紙や、駅係員の話によれば、1月25日(金)の初電から新しい改札口が稼動するとのことなので、それに合わせて現駅舎の解体が始まると思われる。

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左の白い建物が新しい改札口。

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というわけで、昭和初期に誕生した竜宮城の最後の姿を見ておきたい方は、どうぞお早めに。

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昨日の江ノ島。竜宮城が破壊されることを知った竜王が怒ったのか、海は大荒れ、まっすぐ歩けないほどの強風でした。
posted by taku at 14:21| 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年12月29日

著作権保護期間、70年に延長

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毎月送られてくる「文藝家協会ニュース」の中ほどのページに、上画像のような記事が。

なんと、これまでは作者の死後50年だった著作権保護期間が、TPP発効により、死後70年に延長されることになったという。それが実効となるのが、明日、12月30日から。

これって、結構大きな変更だと思うのだが、みなさん、知ってました?

ネット検索してみたところ、たしかにいくつかの記事がヒットしたが、マスコミや世論がこのことで大騒ぎした形跡はまったくなかった。今回の延長により、近々パブリックドメインになるはずだった村岡花子(2019年予定)、三島由紀夫(2021年予定)、志賀直哉(2022年予定)、川端康成(2023年予定)の著作権がそれぞれプラス20年存続ということになり、これらの作家の作品の二次使用(出版、映像化など)を狙っていた各方面には、少なからずの打撃となったはずなのだが……。

もはや確定事項なので、今さらことの是非を論じても始まらないが、ここで少しばかり個人的な心情を述べたい。
私の父は青江舜二郎という劇作家で、1983年、私が20歳の時に亡くなった。その時以来、私が著作権継承者となり、過去の著作が再刊されたり、脚本を書いた映画がDVD化されたり、という時には継承者として必要な事務手続きを出版社などと行ってきた。それから35年ほどが過ぎ、あと15年、つまり私が70歳になるであろう2033年で、そういった義務からすべて解放されると考えていたので、今回の延長は、思わぬ番狂わせであった。プラス20年となれば2053年、私が90歳(生きていればだが)の時まで、青江の著作権は存続することになる。それはあまりに長い。私としては、70歳で先代の残務処理はすべて終了し、それ以降、作品は公共の著作物として、誰にでも好き勝手に使われることを密かに望んでいたのだが……。

このあたりの心情は、当事者でないとなかなかわかってもらえないかも知れない。著作権管理はそれほど煩雑なものではないので、そういう事務手続きがわずらわしいということでは決してない。では何故かといえば、「作家の家族」というのは、目には見えないが、何ともいえず重たい宿命を背負わされているところがあり、それを誇らしく思う反面、早くその重圧から逃れ、自由になりたいと思っているものなのだ。著作権の消滅は、その絶好のきっかけと考えていたのだが、ずいぶん先に遠のいてしまった。
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2018年11月30日

FAXは過去の遺物か

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わけあって宅配のお弁当を頼むことになり、店舗に電話して、月替わりの献立表をFAXしてくれるよう、20代と思われる電話口の女性に頼んだのだが、40分以上経っても送られてこない。再度電話すると、まだ送っていないという。
「FAXくらいすぐ送れるでしょう?」と言うと、
「私、今日、臨時でこちらの事務所に来てまして、ここのことが何もわからないので……」とのこと。
「いや、わからないって言っても、FAXの送り方くらいわかりますよね」と聞くと、
「いえ、その……」と口ごもったまま。もう少ししたら店長が戻ってくるというので、じゃあ改めて電話します、と言い置いて電話を切ったのだが……。

「こんなことってあるの??」と首を傾げつつ、恐る恐るネットで
「若者 FAX 使えない」
と検索してみたところ……

結論。最近の若い人の多くはFAXが使えないそうです。メールやLINE世代には、もはや完全に過去の遺物だそうで。時代は変わるとしか言いようがない。先日は、最近の若者が電話で通話しなくなってきていることにかなりの衝撃を受けた私だが、またしても、頭をガツンとやられたようなショックに見舞われた。

「最近の若者は……」などというフレーズを多用するようになったら、老人に近づいた証拠と思って間違いないのだろうが、それにしても、ついこの間まで当たり前だったものが、若い世代にあっさり否定されてしまうのはかなりのダメージである。

しかしながら、今回の一件に話を戻せば、その宅配の弁当店は、献立表はメールではなくFAXで送るのがデフォルトというであり、であるならば、そこで働いている人間は、臨時とはいえ、FAXくらいは操作できないとまずいんじゃないの???

などと、いささか愚痴めいたことを綴ってしまいました。あまり楽しい話でなくて申し訳ありません。
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祝!「ナマハゲ」ユネスコ無形文化遺産登録

ナマハゲ「ウォー、登録されたどー」と雄たけび

秋田県男鹿市役所では29日、ユネスコの政府間委員会のインターネット中継動画を大型スクリーンに映し、集まった市民ら約100人が審議を見守った。「男鹿のナマハゲ」の無形文化遺産登録が決まると、拍手と歓声に包まれ、ナマハゲ姿の男性5人も「ウォー、登録されたどー」と雄たけびを上げて喜んだ。





というわけで、やりましたナマハゲさん。怪異な形相に出刃包丁という物騒な姿で、長きにわたって東北の幼児たちを恐怖のどん底に突き落としていたあの方々にスポットライトが。亡父・青江舜二郎の故郷の「まれびと」で、私なども幼少以来、正月の秋田物産展で何度となくお目にかかっていた異形の来訪神が、ついに国際的な存在として認知されたわけです。それを記念して、今から6年前にアップした動画を再度貼っておきます(男鹿真山伝承館で撮影したもの)。なお、この動画のナマハゲさんには角がありませんが、もともと彼らは「神」あるいは「神の使い」で鬼ではないため、本来角は生えていないそうです(角が生えた鬼の顔は、観光化にともなうアレンジだとか)。
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2018年11月27日

1台のガラケーを10年使った結果

今を去ることちょうど10年前の2008年11月27日、45歳の時に、5年ぶりで携帯を機種変更した。その少し前の9月12日のブログには、
「2Gから3Gへの移行のためか、一部メールの受信がうまくできなくなり、いささか不便なことになっている。5年をメドに、そろそろ買い替えを考えなくてはならないのか……」
などと書かれている。

そして新たに手に入れたのがこれ。

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SoftBank 821T(東芝製)

この年お目見えしたばかりの、ソフトバンク初のシニア向け端末。当時まだ40代なかばだったが、すでに老眼の兆しが見えていたため、文字の大きさに魅かれてこの機種を選んだのである。

それから、実に10年の歳月が流れ去り、その間に社会では、自民党が一度下野したり、東日本大震災が起きたり、東京オリンピックが決まったり、平成が終わることになったり、と実にいろいろなことがあった。
個人的には、この10年の間に、2度の引っ越しと実家の増改築があり、作品としては、『凍える鏡』のDVD化、秋田魁新報での「異端の劇作家 青江舜二郎 激動の二十世紀を生きる」の連載、その単行本化として評伝『龍の星霜』(春風社)の刊行、ドキュメンタリー映画『影たちの祭り』『鎌倉アカデミア 青の時代』の製作および公開、そして目下編集中の新作の撮影などがあった。
そして世間では、特に2010年以降、驚くほどの勢いですっかりスマホが普及&定着してしまったが、私の手元には、依然としてこの携帯だけが存在し、外部との貴重な連絡ツールとなっている。

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10年フルに使った割には、それほど痛んでいないと思うのだが…


【よくある(ありそうな)質問】

Q1 10年もバッテリーが持つのか?
A1 持ちます。あまり携帯を重用していないかと言えばそういうこともなく、ごく普通に通話やメールを行っているのですが、1回充電すれば3日くらいは持つし、何の問題もなく使えています。

Q2 スマホに乗り換えようとは思わないのか?
A2 あまり考えていません。最近老眼が進んできたため、タブレットの細かい文字を見るのは辛いものがあり、ネットはPCでと決めています。

Q3 LINEとか出来ないと不便なのでは?
A3 使ったことがないのでどう不便なのかわかりません。この間、久しぶりに劇映画を撮って、若い(20、30代の)人たちとやりとりした時、彼ら彼女らはLINEが主体で、あまり電話というものもしなくなってきていると知り、少なからずカルチャーショックを受けましたが…

Q4 さすがにガラケーがなくなったらスマホにするでしょ?
A4 日本では携帯電話がかなり特異な進化を遂げており(だからガラパゴスなどと呼ばれる)、その使い勝手のよさゆえに手放せずにいるユーザーが一定数いると思うので、いきなりなくなることはないと思うのですが。最近も、下のような報道がなされているようですし…

■携帯市場の中古ガラケー販売、2018年1〜10月で過去最高に

Q5 最近のスマホのカメラの進化はすごいぞ。4K動画も撮れるぞ! そういうのに魅力を感じないのか?
A5 あまり感じません。カメラはカメラとして必要に応じて調達すればすむと思うので。たしかにスマホは、今や電話機能にとどまらず、カメラ、ビデオカメラ、テレビ&ラジオチューナー、レコーダー、プレーヤー、PC、交通カード等々、生活で必要なあらゆるニーズに応えてくれるように見えますが、何でもかんでもひとつの機械でこなす、というのは便利な反面、危険でもあると思います。先日、江ノ電のある無人駅で、ベンチにひっそりと置き忘れてあるスマホを見つけ、駅員さんのいる駅まで届けましたが、あれを落とした人は、手元に戻るまで生きた心地もしなかったことでしょう。リスクの分散を考えるなら、一極集中はNGです。そういう意味でも、携帯電話はあくまで電話として使うべきで、メールが打てて、一応のカメラが付いていれば、もうそれ以上望む必要はないと、個人的な意見ですが、思います。

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10年前の携帯でも、このくらいの画像は撮れます。2年前の写真ですが、自宅の庭でなった柿です。

というようなわけで、今後も、おそらく壊れるまで、私はこの携帯を使い続けると思う。10年前のブログにも書いたが、携帯に限らず、機械、道具のたぐいは「壊れるまで使う」というのが個人的なデフォルトなので。それにしても、10年前に届いたメールがいまだにこの中に入っているというのはいささか切ないものである。中には(もろもろの事情で)もう連絡が取れなくなってしまった人もいるし……。でも、消せないんだよなあ……。
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2018年10月10日

夏は終わった

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まあ、実際には10月の半ばですし、とっくに終わっているんですが、私にとっては、一昨日(10/8)までは誰が何と言おうと夏でした。たとえ梨や柿やサンマがスーパーに並び、街がハロウィンの飾りで溢れ、来年のおせちの宣伝までが目に入るようになっても、私と、私の周囲の数人の心の中では、夏は静かに継続していたのです。

だが、その夏も、一昨日の夕方、ついに相模湾の彼方に、静かに姿を消していきました。これでようやく、人並みに秋を味わうことができます。

何か、よくわからない文章ですみません。端的に申しますと、夏という設定のある映像作品の撮影が、猛暑、酷暑、連続台風などの悪天候に翻弄され続けながら、ようやく終わったということです。

作品に関わってくださった皆様、本当にお疲れ様でした。
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